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若干追記/二風谷と

アイヌの文化ってどこまで遡れるのかというところからして全く知りませんでしたが、アイヌ文化振興・研究推進機構が作った冊子「アイヌの人たちとともに―その歴史と文化―」(2017年)を見ると、7~遅くとも13世紀には北海道での擦文文化が終わり、アイヌ文化に切り替わっていったということのようです。主には土器から鉄器への変遷ということでしょうか。

それと並行して、北海道北部~東部にあったオホーツク文化がアイヌ文化の形成に影響を与えた。つまり、熊の頭骨を住居に集めていたことから、熊に対する何らかの信仰があったらしい。

史料上で確認ができるのは15世紀ごろ。本州から渡ってきた「和人」との交易の記録が残っているのでしょう。蝦夷三品(昆布、干鮭、ニシン)と、北蝦夷地(樺太)経由の中国三品が移出され、本州からは鉄製品や漆器、酒などが移入されたとのこと。

和人の蠣崎氏との不和は現在の函館で起きたコシャマインの戦い(1456)以降、100年続きます。1550年に蠣崎氏が上ノ国と知内以北をアイヌの居住地、以南を和人の居住地にするという妥協策を出しています。

1599年に蠣崎氏は松前氏と改姓し、徳川幕藩体制のもとでは松前藩となります。米がとれず禄にならないので、家臣には地域限定の交易権(商場)を分配。商場をもらった藩士は知行主と呼ばれます。そのうち、商場を商人に貸し出す「場所請負制」が始まります。
海産物の需要が高まると、商人はアイヌを使役して漁業を自分でやるようになり、アイヌは生産者から労働者になりました。

1669年のシャクシャインの戦いでアイヌ全体が松前藩に敗れると、和人の優位が確立します。漁場労働や不公平な交易を強いられる中、1789年の国後・目梨(標津)での戦いが最後の抵抗となります。コシャマインの戦い以降、和人は「だまし討ち」で勝利を収めてきました。交易の民として儀礼を重んじたアイヌの性質が「欺されやすさ」に繋がってしまったよう。

こうした不和を背景に、南下を目指したロシアがアイヌを懐柔することを警戒して、幕府は1807年までに松前藩を今の福島に移し、直接統治に乗り出します。松前藩は1821年に復領運動の結果、蝦夷地に戻りますが、1855年の函館開港以降、幕府は渡島半島の南西部以外を再び直接統治します。このとき、アイヌとその居住地が日本に帰属することをロシアにアピールするため、アイヌの懐柔策を行います。が、耳飾りや入れ墨、熊の霊送りを禁止したことで反感を買うことになったそうです。

1869年に蝦夷地が北海道になり、アイヌは「平民」として戸籍が作成されたものの、「旧土人」との呼称で差別が続きます。開拓使による和風化政策、土地の国有化と払い下げ、サケ漁やシカ猟の禁止も進行。1875年の千島・樺太交換条約のあとは千島・樺太のアイヌを北海道や色丹島に強制移住させます。1899年には「北海道旧土人保護法」ができて、農業の下付・日本語・和人風習慣による同化政策が進められました。

第2次大戦後はアイヌの社会的地位の向上のため、北海道アイヌ協会(1961年にウタリ協会、2009年にアイヌ協会)を設立。1974年からは住居・就労・修学での個人対策を盛った「北海道ウタリ福祉対策」が始まります。1970年代からは文化の保存・継承のための活動も広がりました。1984年にウタリ協会が「アイヌ民族に関する法律案」を作成。国会議員も輩出し、1997年には旧土人保護法が廃止され、「アイヌ文化振興法」が制定されます。

* * *

それで平取町・二風谷のアイヌ文化博物館なんですけど、立体的な歴史を真上(現代)から2Dで見たような展示になっているので、「これはいつからこうなの?」とか「なんでこんなものが?」という疑問がいっぱい沸きました。
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なぜ漆器があるんだろうとか。
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なんで木の繊維でできた羽織と木綿のやつがあるのかとか。
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(上記冊子によると、樹皮で作ったやつが普段着で、木綿のは晴れ着だったっぽい)
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刺繍については「技術は一般的なものなので民族の特徴が現れているわけではなく、むしろ文様のほうにオリジナリティがある。しかし近年は、華やかだが文脈的に疑義のあるデザインが見られており、言語化が容易でない分野だけにどう伝承していくかが課題だ」といった説明がありました。
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一方、「食」のほうは意識的な保存が必要な分野のようです。一部は現代的な日常生活に浸透して残ることができるが、食材の採集法や調理法で消え去ってしまったものは復活が難しそうです。
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網目のように見える部分はサケの皮をかたどった模様。木彫りは刃物をうまく扱えることを示す男性のアピールだったが、今は男女ともやるとのことです。ただし「イナウ」(お祭りのときに使うわしゃわしゃしたやつ)は今でも男性しか作れないんだって。
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ちなみに↑これはサケの皮でできた靴。

Q&Aコーナーもありました。「アイヌは無文字社会と聞いた」というQに対して「確かに以前は文字を使っていなかったが、現在はカタカナのほかにローマ字を使った表記をし、小文字の『プ』『ク』『ラ』を使ったりと正書法が確立されつつあるといえる」と回答していました。

また、同じQ&Aコーナーで、「アイヌ語を話せる人がいなくなった」というのにも「言語学、民族学の研究対象に値するだけの話者が極端に少なくなったのかもしれないが、話せる人はいるし、聞けば分かる人はさらに多い。学習熱も高まっているので話者はむしろ増えるかもしれない。勝手にいなくなったことにしないで」という反論が掲示されていました。

現に存在しており、また今後も存続すべき文化だということ。政治的なバックラッシュもあり、ここは特出しして強調しておかないといけないのでしょう。
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ところで、この博物館は萱野茂さんの収集したものをベースにしてできているそうです。
周辺の地名の解説を読んでいたら、「幌去(ポロサル=大きい葭原)」からの直訳で「萱野」の姓ができたと書いてありました。へえ~

博物館周辺は冬期間を利用して改修中でした。
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芝生になるんですと。
それにしても、12年前に友達と一度来ているのですが、まったく中を覚えてない。弊日記にも書いてない。なんでだ?
あと2020年には白老に国立の博物館ができるそうで、それも期待ですね。

ついでに平取町の中心部からちょっと上がったところにある義経神社も見ていきました。
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なぜ義経?と思ったら「奥州平泉で自刃したとあるが、身代わり説があります。義経一行は陸奥から蝦夷地に渡り、ピラトリ(平取)に一時居住し、カムイと尊敬されました。その後、新しく部下に加わった若者や藤原氏残党とともに大陸へ向けて出発したといわれています。ジンギスカンと義経公を史実上の共通点の多さから同一人物とする伝えもあります」とのこと。
直接には1799年、近藤重蔵らが神像を寄進したのが始まりだそうです。アイヌを庇護し、慕われた義経というお話は当時の統治の論理から生まれたのでしょうかね。
ちなみに幟に書いてあるのは「愛馬息災、危難防除、先勝」。競走馬の産地と微妙に混ざっている。

せっかく来たので、新ひだか町(旧静内町)のシャクシャイン記念館も見ていこうではないかということでナビに打ち込むと、1時間かかると出た。北海道のでかさの勘が失われていたようで。
記念館自体は雑然とした展示がちょっとあるだけ。
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よく見る像がいた。
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シベチャリチャシ(チャシは砦)の跡から見た町内。
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静内って、小学校か中学校(たぶん小学校)の道徳の授業の教材で出てきた地名なんですよね。実は今回、人権資料・展示全国ネットワークの加盟団体を調べていて、二風谷の再訪をしてもいいかなと思ったのでした。

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2018年03月20日 10:27に投稿されたエントリーのページです。

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