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京都DE花見(1)

昨年参加した京都の花見に今年も寄せていただくことができました。
土曜は新幹線を京都で降りて、京都駅の東側に出てみました。
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ちょうどお昼の時間帯だったので、崇仁地区の木村食堂で「すじうどん」460円。
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牛すじ肉がいっぱい入っていて、おつゆもしっかりした味でした。地元のお客さん?がいっぱい。鍋焼きうどんがよく出てたかな。

道路を渡ったところにあるのが「柳原銀行記念資料館」。柳原銀行は、同和地区の中に地元の人たちの手によって設立された銀行です。
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1871年に身分制が廃止されると、雪駄製造などの地場産業の勢いまで失われてしまい、さらに松方デフレが追い打ちをかける形で貧困が広がっていた。そこで町内産業の育成を図るため、ここにあった柳原町の町長を務めた明石民蔵や町内の資産家が同和地区内にこの銀行を設立したのが1899年。
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1910年代には預金額が現在の貨幣価値で50億円くらいまで拡大したものの、大口の焦げ付き、町内商工業の不振もあって停滞期に入ってしまいます。そこで、被差別部落の地位向上を図る「融和運動」のつてをたどって融資先を町外にも広げることを決め、柳原銀行は増資をして1920年に「山城銀行」として再出発します。
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しかし関東大震災とその後の不況、さらに昭和恐慌のあおりで1927年に破産となりました。
建物はその後、商店や借家として使われていましたが、1986年、国道の拡幅工事の計画が持ち上がったのをきっかけに保存運動が起き、1997年に資料館となりました。
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柳原尋常小学校の校歌が展示されています。
2番は「土地生産の名高さは 皮革ベルト 花緒向掛 下駄表 雪駄雪沓 靴鞄 軍用輸出 その額は 幾十万に 上るなり」。雪駄?と思ったのですが、竹の皮の草履の裏に革を張ったものが雪駄なんですね。なるほど。
柳原小学校は1873年に創立されました。「自主的改善運動」の機運の中で、町を盛り立てるには教育で旧習を洗い流し、人物を輩出することが必要だと考えられたとのこと。しかし当初の就学率は3割ほど。20世紀初頭になっても約1000人いた学齢期の子どものうち、学校に行っていたのは半分、卒業となるとその4分の1と状況は厳しかった。それでも校舎建設には頼母子講で出た利益を拠出するなど、教育は町全体の関心事だったようです。
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全く知らなかったものの言われてみればなるほどと思ったのは、身分解放令が出ても、被差別階級だった人たちが各地の祭礼への参加や神輿を担ぐことを拒否され、騒擾や訴訟が頻発していたこと。京都でも、弊管理人の出身の長野でもそういうことがあったと説明されていました。
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元禄14年(1701)の地図。橋の下手に「穢多村」という文字が見えます。死んだ牛馬の処理場があったらしい。
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都市のスラムを描いた55分の自主制作映画「東九条」(1969)も見ることができます。「パッチギ!」も同時代・同地区が舞台なんですね(そういえば在日コリアンの話は祟仁ではあまりフィーチャーされてないように思った)。「東九条」のほうは音声トラックが長らく失われていたのが、最近になって発見されたんだって。状態が悪く聴けるようにはなっていませんでしたが、うまく復刻されるのを期待します。

資料館のパンフに出ていた「祟仁歴史マップ」を見ながら町を歩いてみましたが、多くがフェンスに囲まれた空き地になっていて、古い家屋がぽつぽつと建っている状態でした。東七条中部水平社創立場所、全国水平社の仮本部跡などは見つけられず。「国民研究会」の設立会場というのもあり、これ何?と思ったら富裕層が組織した反水平社の団体だったみたい。
あと京都の米騒動発祥の地である交番というのもマップに載っています。米騒動とどんな関係が?と思っていたら「米騒動は、部落大衆の部落民的自覚と階級的覚醒をおおきくうみだしていったことはあきらかでした」という記述に行き当たりました。
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このあたりは2020年から2023年にかけて京都市立芸術大学が移転してくるということで、昼飯をいただいた市営住宅がごっそりなくなり、柳原銀行の周囲も資料館を残してほとんどが大学施設に置き換わってしまうようです。
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屋台村のような「コミュニティスペース」というのがあって、ちょうどプロレスをやっていたようでした。
「崇仁発信実行委員会」という団体が出している冊子もいただいてきました。
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部落差別を織り込みながら街の魅力を発信するというのは独特なんじゃないかな。他の地区では既にどこがどうだったかは見えなくなっていると思うのですが。と、いうことを中心にして、分からないことがどんどん増えていく散歩でした。しかし付箋はついた。これからさまざまな文章に目がとまるようになるでしょう。

で、京都から大阪行きのJRに乗りまして、山崎駅で降ります。
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山の中腹にあるアサヒビール大山崎山荘美術館。大正〜昭和期の実業家、加賀正太郎の別荘だったそう。まあ特に面白い展示があるわけではないが(でも何も知らないで行ったら「睡蓮」が何点かあってびっくりした)、さっきまで見ていたものとの格差にくらくらします。
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大衆の暮らしを睥睨しながら食べるケーキセットは950円。
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なんか安藤忠雄の建物が繋がっちゃってて何が何やら。
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ついでにサントリー山崎工場も覗いてきました。
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原酒。すっごい香り。

阪急に乗り換えて梅田へ。
グランフロントの「カンテグランデ」で海老カレーを食べましたが、なんてことなかったので写真はなし。
南森町の「弄堂」で焼き小龍包をテイクアウトしてホテルで食べました。
これは結構うまかった。
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ちょっとだけ飲酒して23時過ぎに就寝。
日曜に続きます。

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2018年04月09日 00:26に投稿されたエントリーのページです。

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