2025年11月09日

おどろきの

連休明けで平日が1日少なかったせいか、瞬きしている間に過ぎてしまった感。
日曜は雨で10度ちょっと。杉並のなんちゃらフェスに行きました。
前日、飲み屋で会ったおにいさんが「クレープ焼いてるんで来てくださいよ」と言っていて「息ますよ-」と勢いで言ってしまったため。
荻窪から20分くらい歩いた桃園とかいうところ。
251109sugi.JPG
焼きそば800円、まじ?なんというか物価上がったね。
クレープ700円買って、おにいさんに挨拶してミッション終了。
251109crepe.JPG

* * *

金曜の夜くらいから右目がおかしい。痛いとかぼやけるとかではなく、しみる感じ。
肩とか背中の筋肉痛から伝播してるのか。先日着けてみた使い捨てコンタクトで傷ついたり感染してたりしたら嫌だが、それにしては時間がたってるし。網膜であれば見えなくなるかな?まぶた周辺のトラブルのような気もする。

* * *

春くらいだったか、妹が誰かと付き合い始めたと聞いてたんだけど、金曜夜にLINEの家族グループで入籍を報告してきてびっくりした。
驚く弊管理人と父。
251109nyuseki.png
とはいえもういい歳だし、これくらいの距離感でよいな。
ここへきて家族の戸籍が動いたということに「ほお~」とは思った。
記念のメシ代を投げ銭しておいた。お幸せに。

* * *

地球の裏で起きてる案件で、弊管理人後任の対応を巡って部内がざわついており、立腹し呆れる同僚、現地からのメールに狼狽し憤激する上司、「前々からそういう人だったですやん」と苦笑する弊管理人、などすごいいろんな感情が職場に渦巻く木曜金曜でした。しかし今後2週間続くんだよ、この案件。大丈夫か。

* * *

◆伊勢田哲治『倫理思考トレーニング』筑摩書房、2025年。

こんなに長い本である必要あるかなと思いながらひいこら終盤にたどり着くと、「ソーシャルメディア時代の対話の倫理」になって面白かった。

・マイケル・トマセロ『道徳の自然誌』(p.52)
・反社会性パーソナリティ障害(サイコパス/ソシオパス):善悪の区別はつくのに行動につながらない(p.97)
・価値主張を評価するためのものさし:結果(帰結主義)/ルール(義務論)/性格(徳倫理学)/関係(ケアの倫理、専門職倫理=判断対象と周囲の関係)
・討論はわら人形論法から始まる、くらいの心構えでちょうど良い(p.355)
・会話を成立させるための問いかけ「どういう証拠が出てきたらあなたは意見を変えますか」。マッキンタイア『エビデンスを嫌う人たち』、ボゴジアン&リンゼイ『話が通じない相手と話しをする方法』<ポパーの反証主義(p.362)
・理解と同意は違う。が、ディープストーリーを語ってもらうことで、なぜ同意できないかが説明できるようになる(p.380)

2025年11月04日

牛深、天草そして熊本

水俣の茂道を見たあと、袋の港を抜けて国道3号に出たら、天草に渡るべく一路、蔵之元港を目指します。
海から上がったらすぐ山、みたいな水俣を抜けると、鹿児島県出水市。途端に平地が広がって「国が違う感じ」になる。
昼飯を逃したので、黒之瀬戸の道の駅「だんだん市場」で空腹を抑える。
251104dandan1.JPG
ツキヒガイ。あと売ってたアジがすごいおいしそうだった。
251104tsukihi.JPG
みかんうまかった。
251104mikan.JPG
裏手の山をちょっと登ったところに大伴旅人の歌碑がある。「梅花の歌三十二首」の序文で、令和の元ネタらしい。といっても当地で詠んだわけではなく、旅人が黒之瀬戸の潮流を見て奈良の吉野の滝を思い出して詠んだ歌が万葉集に入っているということ。万葉集収録の歌の南限だとか。
令和元年5月と刻まれてます。ゆかりとしては若干遠いが、乗っかっておこうずということで発表されて急いで作った感じ。
251104tabito.JPG
確かにきれいなところではある。橋は1974年開通。高度成長の最盛期から終わりにかけて、環不知火海世界(地中海みたいだな)が橋でつながれていくわけだ。
251104kuronoseto.JPG
蔵之元港からカーフェリーに乗ります。人は500円、車は運転者込み3000円。安いんじゃない?まあ生活の足だし補助金が出てるのでしょう。便数も多いです。
251104kuranomoto.JPG
30分で牛深に着きます。ご自慢のハイヤ大橋。関空とかポンピドゥ・センターを手がけたレンゾ・ピアノ設計だそう。なんでここで??と思うが1997年竣工であればまだ日本に余裕があったころ頼んだのかなあ。
251104usi.JPG
日が暮れて大半の店が閉まって薄暗くなり、ハイヤ踊りだけが響く港の観光施設で漁師のまかない丼。弊管理人は「おいしい生ものがなんとか食べられるようになった」北海道赴任時代から15年以上かけて「ときどき海鮮丼が食べたくなる」程度に味覚が変わった。251104kaisen.JPG
牛深の宿は、じゃらんに載っておらずGoogleMapsで見つけた民宿とみかわ。布団にシーツがかかっておらずパッドがくくりつけられているという点以外は民宿としてはかなりきれいで設備のよい宿でした。朝飯が素晴らしかった。商用・工事の人が泊まるようなところかと思ったが、釣り人も多いらしい。早い人は4:30に出るんだって。
251104tomikawa.JPG

というわけで牛深の街を見ることもなく(ちょっと回ればよかったな)崎津へ行きます。
251104sakitsu.JPG
崎津、大江の教会は潜伏キリシタンが世界遺産になる前に来たので軽く。
そこから以前来たときのように海沿いを苓北のほうに抜けず、山の中を通って天草市中心部を目指すことになります。

途中、福連木という地区で「子守歌祭り」をやっていて何?と思っていたら助手席の友人が調べてくれた。共有林が幕府の山(官山)になってしまい、困窮した農家では娘が口減らしを兼ねて八代や人吉に子守り奉公に出たとのこと。子守歌は奉公に出た子が望郷とつらさを歌った哀愁いっぱいの歌詞が特徴らしい。ここにも出てくる環不知火海世界の人の移動……。

旧本渡、天草市の天草キリシタン館。陣中旗の実物が展示されていた。
251104kirishitan.JPG
小さいころになんとなく学習まんがで読んだ気がする天草・島原の乱、圧政と宗教的熱狂がスパイラルを作ったというストーリーはいいとして、展示を見ても「なんで子どもに大将やらせたんだ?」という疑問は解消しなかった。スキゾ的な気質でもあったのだろうか。姿形に関してはほとんど記録がないが、前髪を垂らしていたというのはその通りのよう。落ち延びた人の証言で毎日「死んだら天国」的な引き締めメッセージを出していたという記述もあった。浪人がコンサルに入っていたらしく、反乱軍の組織論は面白そう。
251104shiro.JPG
原城に立てこもってからは矢文で「女子どもや老人は助けて」と交渉を重ね、幕府側は四郎の妹ら家族を呼んで投降を説得してもいたようで、それも捜査1課特殊班て感じで昔も今もそうだよねえという。結局皆殺しになるのだが、まあそうなるよね。蜂起した信仰共同体というのはさぞ気味悪かったことだろう。

熊本に戻る途中、天草四郎記念館にも寄ろうかという話になっていたが、国道が混んできたためすっ飛ばすことにした。島とか半島で1本しかない幹線道路は日曜午後に混み始めるんだよね。こうなるかなと思って前夜に買ってあったジャムパンを車内で食べながら運転運転。

同行者が熱望していた(多分)熊本市のくまモンスクエア。弊管理人独りであれば来なかったところです。しかし、くまモンとバーチャルでポーズをとって撮影できるコーナーで一緒に踊ったりしていた。独りで。
251104kumamon.JPG
アクリルスタンドという語彙を得た。なんとなくメモスタンド的な機能を想像したが、本当にただアクリルに貼り付けられた平面のくまモンとスタンドがセットになっているだけだった。不思議すぎるグッズ、ガチャ500円。
251104akuriru.JPG
ほんでガソリン入れて見込み通りの17時にレンタカー返却。(あまりの時間管理の完璧さに酔ってしまい、ETCカードを抜き忘れ、着払いで送ってもらう事態になった)

最近リニューアルした熊本空港は保安検査場を抜けたところに極めて充実した物販・飲食店街があって大変いい設計だと思った。搭乗橋には水俣で推してたSUPくまモンがいてうまく締まった。それにしてもくまモンを導入した蒲島前知事って優秀だな。経歴もすごい面白い。
251104sup.JPG
帰りのバスで寝落ちしつつ終了。普通の観光では行かない熊本であった。

2025年11月03日

水俣

石牟礼道子の『苦海浄土』を読んで旅心を誘われたのが2021年夏。しかし疫病下・渡米まで2カ月の時点で旅行をしている余裕もなく自分が苦海に旅立ってしまった。今年2月に帰ってきて飯を食いながら、同級生女子(公害は専門外の社会科学系学者)に「水俣行かない?」と軽い気持ちで水を向けたら、食い気味に「行く」と言われたので行ってきた次第です。現地を見てみたいというのがメインの目的で、学者の巡検も見てみたいというのがサブ。結果、めっちゃゴリゴリいろんなところを回りました。

以下は主に水俣病歴史考証館(・、上の写真)と水俣市立水俣病資料館(○)を中心に見聞きしてとったメモを印象が強いうちに速報重視で(ここ重要)まとめたものです。厳密な検証はしていません。論点の網羅も目指してません。▽はその下にある写真のキャプション。

* * *

▽空港降りたら至るところでくまモンとワンピース推し
251103airport_kumamon.JPG

▽これが考証館。空港から車すっ飛ばして1時間半
251103koshokan1.JPG

【チッソ以前の水俣】
・天草・島原の乱で天草の人口が激減し、幕府の直轄地になったあとに他から移住を促して人口がまた増えた。反乱の再発を防ぐため、農民と漁民を分けて統治しており、漁民は農民より地位が低かった。天草の生活は厳しく、身売りの文化もあったよう。牛深には「ハイヤ踊り」があるが、これは売春宿の「はいんや(入れ)」という呼び込みから来ているとの説もある
・明治にかけて天草の漁民が水俣に移住した。そこでも漁民は零細で、自給自足に近い漁業をやっていた。水俣病の発症者にも天草出身の人が多かったといわれている

・それまでの水俣の一等地はお城の周辺の城下町。水俣には居住地に応じた序列、差別意識があった。土着の上流層やチッソ高級社員が住んだのが城下の陣内。川を下った浜町は商人町、さらに下った船津や、水俣川を越えた猿郷は最下層。半農半漁の湯堂や、漁村の茂道は町からすると「外部」。農民は漁民を蔑視、定住民(地五郎、じごろ)は漂泊民(流れ、なぐれ)を蔑視した
251103minamata_map.png

・海側には1667年から続く塩田があり、農閑期の副業として塩を作っていたが、日露戦争の戦費が嵩んだのを機に、国が効率の良い(大規模な)塩田で専売を開始した。水俣の塩田は質が良かったものの規模は大きくなかったためにやっていけなくなった

▽城跡から見た市街地。城山公園には西南戦争の薩軍慰霊碑、日露戦争から大東亜戦争までの戦没者慰霊碑、遺族会があった
251103joyama.JPG

・そこにチッソが誘致されてきたのが1908年。2年前に野口遵が現在の鹿児島県伊佐市に曽木電気を設立し、近隣の金鉱山に水力発電の電気を供給。余った電気の活用のため、日本カーバイド商会を設立し、水俣村に工場を作ることになった。1908年に両者が合併して日本窒素肥料株式会社になり、化学肥料を製造した

▽チッソ本社脇の看板。2011年から事業会社のJNCと、患者補償のチッソに分かれている
251103chisso1.JPG

【チッソ進出】
・地主は工場に小作人を取られるとしてチッソの立地に反対したが、結局は開業した。工場勤務の環境はよくなかったが小作人をやっているよりはましで、賃労働者を多く生み出した。工場としても安い労働力が得られた。学校へ行かせるより工場、という親も。工場勤務は「会社行きさん」と呼ばれ、優秀な人が入った

○チッソが水俣に進出してまもなく街の中心部には電灯がつき、1926年には国鉄肥薩海岸線が開通した
○1930年代には日本の代表的な化学工業企業に成長。ピーク時には水俣市の税収の半分がチッソ、市街地の4分の1がチッソ関連用地ということがあった

▽往時を偲ぶ?パブ・スナック「PART II」と書いてある
251103pubsnack.JPG

・市議の半数がチッソ関係者だった時期もある。人口は今は2万人だが、最も多かった時は5万人。映画館が4つもあった
・チッソは憲兵と一緒に朝鮮に進出し、日本人工員以上に植民地の労働者を酷使した。植民地マインドの幹部からすれば、水俣の漁民も同じように見えたのかもしれない

【操業拡大と汚染拡大】
○チッソは1932年、プラスチックの可塑剤(材料を柔らかくする薬品)原料のアセトアルデヒド製造を開始。当初から排水による汚染で漁協との補償交渉が起きている。工場排水で水俣湾に流れ込んだ水銀は70−150tといわれ、汚泥の厚さは4mに及んだところもある。工場は50年ごろには空襲から回復し、アセトアルデヒドの生産は50年代に急増し、60年にピーク

○1949−50年度にはタコやスズキなどが浮き、手で拾えるようになったほか、百間の工場排水口付近に舟をつなぐとカキが付着しないことが知られていた。51−52年度には湯堂、出月、月浦などでカラスが落下したり、アメドリを水竿で叩いて捕まえられたとの記録がある(水俣病研究会「水俣病に対する企業の責任」)

▽ヘドロを埋め立てたエコパークから見た恋路島
251103koiji.JPG

・ちなみに百間排水口はもともと、塩田の水を調整していた塘(とも。堤防)。今は埋め立てられた排水口前は馬刀潟(まてがた)という干潟があり、貝や蟹がとられていた

○市漁協が実態調査を県水産課に要望し、1952年には県がチッソ水俣工場に報告を求めた。8月には県水産係長が現地調査。排水と百間港に堆積した残渣によって漁獲が減少したと結論づけ、排水の分析と成分の明確化が望ましいと指摘している。酢酸工程の原材料として「水銀」も明記されていた。しかし報告書はその後埋没

▽百間排水口。振り向くと地蔵がいる。「水俣病巡礼八十八カ所 一番札所」と書いてあるが一番しかないらしい
251103hyakken_suimon.JPG

○1954年6月以降、茂道では猫がほとんど死んでしまい、ネズミの急増に困った漁民が市の衛生課に駆除を申し込んだとの新聞記事が出ている。だが市はネズミの駆除剤を配っただけで、原因究明には動かなかった

・「チッソあっての水俣」と言われる中で、水俣病の被害を訴えるのは大変だった。立場の弱い漁民に蔓延した病気は当初「腐った魚を食べたのでは」「不衛生だから」「ハンセン病」「近親相姦では」などと受け止められた。街の住民に発症していたら、もっと問題化していたはず
・魚は回遊するため、被害は不知火海沿岸の一帯に広がった。北は八代でも患者が認定されている。毛髪の水銀濃度は最大で920ppm、これは御所浦島の人。平均的な日本人は2ppm

▽1954年、猫が全滅したと報じられた茂道
251103modo.JPG

【患者の公式認定】
○1956年5月1日、水俣病の公式確認。この日は水俣港が貿易港として開港し、石炭を積んだ最初の船が外国から入国した日でもあった。開港を祝って始まった「みなまた港まつり」は今でも名前を変えて存続している

▽月岡漁港から続く坪谷地区。家の前まで船でいけるよう
251103tsubodan.JPG

▽船が出入りしていました
251103tsubodan2.JPG

○1956年5月28日、市と地元医師会、県水俣保健所、チッソ附属病院、市立病院が「水俣市奇病対策委員会」を組織市、実態把握と患者対策を開始。一定期間に多数の患者が発生したことから感染症の可能性も疑われ、消毒や殺虫剤散布も行われた。主要症状や発生時期のデータが集められ、熊本大の研究の支えになっていく。8月には県が厚生省に水俣病の発生を報告

○患者家族は医療費がかさみ困窮。水俣市は「疑似日本脳炎」として入院費を公費負担。熊本大は患者を「学用患者(研究対象)」と扱って医療費負担がかからないようにした

【原因究明が始まる】
○1956年8月、熊本大「医学部水俣奇病研究班」が組織。11月には感染症の疑いがほぼ消え、重金属(この段階では特にマンガン)中毒が疑われることや、人への侵入経路として魚介類が疑われること、汚染原因としてチッソの排水が考えられることが報告されている。水銀は分析途中で加熱した際に気化して散逸していたため当初は検討対象に上らなかったが、他の有機水銀中毒患者の症状と一致することから、58年以降には有機水銀に研究の的が絞られている

○57年からは熊本大の要請で、県が水俣湾の魚介類を猫に与える実験を開始。チッソ内部でも細川一医師が工場排水をかけた餌を猫に食べさせる実験をし、59年に「400号」の猫の発症を確認した。しかし報告を受けた工場側は結果を公表せず、実験を中止させた。チッソ内部の実験が明らかになったのは、70年に水俣病第1次訴訟で細川氏が証言したため

▽百間のヘドロ。汚染がひどいときは、フジツボやフナクイムシが船につくと、百間に船を浮かべていれば取れると言われた
251103hedoro.JPG

・チッソ内部の実験では、猫に汚泥を混ぜた餌を食べさせて発症を確認していた。猫が漁村にいっぱいいたのはネズミの駆除のため。しかし猫をたくさん捕まえるのは大変なため、猫を附属病院に持っていくと500円もらえるということがあったそう

▽・下のは考証館にある、チッソで実験使用された猫の飼育小屋。チッソにあったものを、退職者から寄贈してもらった。おそらく猫の実験のあとは物入れのような別の目的で使われていたため残っていたのだろう
251103nekokoya.JPG

【漁協は排水停止を求める】
○1956年は経済企画庁の経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」が流行語になった年

○1957年には市漁協が排水停止と浄化をチッソに要求したが対策は取られなかった。59年11月にはデモ隊の一部が工場に押し入る。同月、排水停止がチッソの操業や経営に悪影響を及ぼすとの懸念から、チッソの生協である水光社が知事あてに「工場排水停止への寛大な配慮」などを求める決議文を出している

▽チッソの生協、水光社。Since 1920っていろんなところに書いてあった。別棟で外商部もあった。企業城下町
251103suikosha.JPG

▽水光社の脇にあった江口寿史のマンホール。水俣出身らしい
251103eguchi1.JPG

○1958年9月、チッソは排水を「八幡プール」経由で水俣川河口に放流するよう変更したが、河口付近の漁民に新たな患者が出た。行政の指示もあり11月に停止し百間に戻した。この変更に関してチッソ社長と工場長が業務上過失致死の有罪判決を受けている

▽これは考証館の外に立てかけてあった排水口の樋門。youはどうやってここに?
251103hyakken_himon.JPG

【チッソは見舞金を支払う】
○1957年8月、患者家族が「水俣奇病罹災者互助会」(→水俣病患者家庭互助会)を結成
○1959年には熊本大研究班が、水俣病が魚介類を介した神経系疾患で、汚染毒物は有機水銀だとの結論を正式発表した

○1959年11月、互助会がチッソに被害補償を要求し、工場前での座り込みを開始。12月に知事を委員長とする紛争調停委員会が介入、互助会内で意見が分かれたが、最終的に契約締結

・チッソからの「見舞金」支給は、「工場が原因と決まっても新たな補償はしない」との条件付きだったが、経済的に苦しかった患者は飲まざるを得なかった。のちにこの契約は裁判で「公序良俗に反する」として無効になった

○チッソの工場排水による汚染と、漁民との紛争は1920年代から起きており「永久に苦情を申し立てない」という条件でチッソから漁協に見舞金が支払われた証書が残っている

【支援が入ってきた】
○1959年のサイクレーター設置(浄化措置。水銀除去機能はない)や見舞金契約で水俣病問題が終息したとのイメージが広がり、患者や家族が孤立化

○1967年、新潟水俣病第1次訴訟が提起されたのをきっかけに、原告が水俣訪問を打診。水俣病の原因究明や患者・家族支援が必要との認識が広がる。1968年、被害者支援の「水俣病対策市民会議」が発足。患者がチッソとの裁判に入る1969年には「水俣病を告発する会」が結成。東京などにも支援が拡大した

・相思社は1974年に形成。初期メンバーには「労働党」(新左翼政党)の人もいた。1988年に水俣病歴史考証館が開館

▽相思社
251103soshisha1.JPG

・相思社ももともと患者支援をやっていた。患者は裁判に勝って補償をもらったが、裁判以降の生活にも支援が必要だということで。70−90年代の未認定患者運動の支援もやった。魚介類の水銀分析を要求したりとかも

▽小高いところにあった
251103soshisha2.JPG

・水俣の運動は学生運動の時代。「三里塚か水俣か」。セクトがあまり入らない運動だったのが水俣の特徴。労働運動からの流れで参加した人、実践学校(のち生活学校、1年間のコース)で入ってきて、そのまま残った人もいる
・90年代にもまだ若い人が入ってきていた

【胎児性患者が確認される】
○1961年には死亡した2歳女児を熊本大が解剖し、胎児性患者を確認。50年代から脳性麻痺に似たような症状の子どもが多発し、水俣病との関連が疑われていたが、それまで胎盤は毒物を通さず、子どもを守るものだと考えられていた。経胎盤での中毒発見は水俣病が世界初

【行政をチッソを止められない】
・市はほとんど何もしていない。そのためか熊本県や国は裁判で責任を問われたが、市が問われたことがない。一方、浮池市長(70年代)は「世論を敵に回してもチッソは守る」と発言したこともある。90年代になって吉井市長が初めて公式に謝罪している。現在はまたチッソ寄りの市長の2期目

▽チッソ正門。夕方だったので帰宅する社員?の車がばらばらと出て行った
251103chisso_seimon_yoru.JPG

・チッソは総資産で日本の6位か7位まで行き、塩ビ原料のシェア80%を占めたこともある。公害が出たからといって、国はチッソを止めることはできなかった。公害認定は68年だが、これも水銀を使う生産方法から石油を使う方法に切り替えができたから

・水俣病の広がりを止めるタイミングは何度もあった。猫の実験で内部では原因が極めて早期に推定されていた。だが原因物質が特定できていないという理由で汚水の放出を止められなかった

【研究者や報道が水銀説を相対化する】
・旧軍が沈めた爆薬が原因などとチッソから視点をずらすような説を唱える科学者、それを大々的に取り上げる新聞など、学者やマスコミも見当違いの見解を広めた。熊本大は当初頑張って有機水銀説を出したりしたが、全面擁護の姿勢だったとは言いにくい

○1959年8月、水俣市を訪れた東工大の清浦雷作教授が「水銀説の公表は慎重にすべき」と発表。9月には日本化学工業協会の理事が「原因は終戦時に捨てられた旧海軍の爆薬」と発表。60年には協会の懇談会で「有毒アミン説」が発表された。それぞれ報道され、「有機水銀説は絶対ではない」とのイメージが広がった

【原因特定と公害認定】
○62年、熊本大の入鹿山教授が工場の水銀かすと水俣湾のアサリから原因物質と考えられる塩化メチル水銀の抽出に成功。63年に熊本大研究班での発表が報道され注目された。この後の国会質問に厚生省が「必要な措置を検討する」と答えたが、具体的な行動には至らなかった

▽なおこれは「南里」の貝汁・炊き込みご飯セット。アサリ汁うまかったです
251103nanri.JPG

○1968年9月、園田直厚生相が、水俣病についてチッソ水俣工場のアセトアルデヒド・酢酸製造工程中の副産物であるメチル水銀化合物が原因との公式見解を発表

【裁判闘争】
・68年の公害認定以降、やっと外から支援が入ってくる。チッソでも労組が分裂し、一部が被害者側についた(※第1労組、第2労組、といった言葉を市中でも聞いた)
251103bibu.JPG

・チッソとの交渉方針によって3派に分かれる
 (1)一任派。低額の補償条件であっても国に任せる。争いを避ける保守的な解決だが多数はここ
 (2)訴訟派
 (3)自主交渉派。新認定患者の補償額が決まっていなかったことから、川本らが東京本社前で座り込み。1971年10月に直接交渉開始、73年3月には第1次訴訟に勝訴した患者や家族が合流し、東京交渉団を結成。現在も補償の基礎となる「補償協定」が締結された

○1969年、チッソに補償を求める患者による「熊本水俣病第1次訴訟」。被害や差別などへの思いを込めた「怨」の旗(怨旗=おんばた)が支援の中で使われ始め、闘争のシンボルとなっていく
251103onbata.JPG

・1973年3月、患者側が勝訴。8月に環境庁で補償協定が結ばれ、3派がまとめて救済される。ただ一任派に対しては「戦ってないのに」との悪口も聞かれた

○補償を受けるためには法律に基づく認定が必要となるが、認められない人たちが続出。国や県の責任を問う声も上がり、1980年5月に「熊本水俣病第3次訴訟」が提起。95年の政府解決策につながっていく

【未認定患者問題】
・○患者の高齢化が進む中、村山政権下で解決への動きが活発化。1995年9月には与党による最終解決案が提示され、12月までに合意成立。熊本、鹿児島で計約10000人が救済を受け、大半の裁判や認定申請が取り下げられた

○1995年の政府解決策を拒否して唯一続いた裁判が、八代海沿岸から関西に移り住んだ人たちの「関西訴訟」。2004年最高裁判決で国や県の責任が認められ、新たに多くの認定申請が起き、裁判による補償要求も起きた。早期救済のため、2009年に水俣病被害者救済特措法が成立。政府の責任を認め、「水俣病被害者」を初めて明記。四肢末梢優位の感覚障害がある人らにチッソが一時金を支払うことや、水俣病被害者手帳を交付して国、県が医療費と療養手当を支給するとした。熊本、鹿児島で計約53000人が救済

○未認定患者遺族による認定請求裁判で2013年、最高裁が患者と認める判決。蒲島知事が謝罪。判決では、一定の症状の組み合わせを認定の根拠とする「52年判断条件」は合理的としながら、その組み合わせがない場合も「総合的検討」が求められるとした。環境省が2014年に「総合的検討」を具体化した通知を発出、それ以降の基礎になった。一方で、「52年判断条件」そのものの見直しを求める声も被害者・関係団体から出ている

【「水俣病」名称問題】
○1957年、学術誌で「水俣病」が仮称として使用され、翌年には新聞各社が呼称を拡散。当時から市議会では「観光などの面で悪影響があるのでは」と懸念があった。その後、市のイメージ低下、就職・結婚差別から1973年には市内で大々的な病名変更運動が展開された。病名変更署名は有権者の72%を集めた。市長が環境庁などに変更陳情したが、見直しには至らなかった

▽チッソの横くらいにこういうのが立っていた
251103byomei_kanban.JPG

・1970年代の市のアンケートでは90%が「変えたい」と答えたこともある。言う人の立場はいろいろ
○1999年のアンケートでは「変えてほしい」は38%、「変えてほしいとは思わない」が41%
・ただ名前を背負ってきた患者からすると、水俣病という名前の消滅は存在の否定だという人もいる

【もやい直し】
・90年代「もやい直し」が始まる。90年に埋立地が完成、吉井市長が謝罪と共に打ち出した考え方。元は患者から出てきた言葉だが、多分に精神的な意味であったのを、行政がエコパーク整備など、まちづくりの標語とした面がある。そして予算減とともに停滞。患者には「補償も認定もない中でもやいと言われても」という反応もある

▽リサイクル産業などが集積するエコタウン。洗濯機が山積み。水俣ではごみが23種類に分別されているとのこと
251103ecotown.jpg

・今も「利権」「患者のように見せるために訓練している」という人もいる
・50−60年代の劇症患者が認定される一方で、手足の感覚障害など軽症の人は手帳を取っても家族にも言わない人もいる。手帳をもらった人の中にも劇症患者を差別した側の人が混ざっていて「手帳は持っているが自分は水俣病ではない」という人、「いじめた側が手帳取ってるぞ」という劇症患者も

▽もやい館。スローフードのイベントが開かれていた
251103moyaikan.JPG

・学校教育では、語り部の話を聞いたりという機会はあるが飽きる子どもも出てきている。同じ教室にチッソ社員の子どもがいる中で、どこまで企業責任の話ができるかという難しさもあり「差別はいけません」で終わることも。(別の人の話では、そういう学習をやる年長世代の先生の集まりもあるが、水俣病のことをもう扱うべきでないという参政党の市議が誕生したりもしている)

【仕切り網、甘夏】
○県は1957年から水俣湾で獲れた魚介類の食用自粛指導。市漁協には湾内の漁獲自粛を行政指導。漁協は57年8月から湾内での漁獲を自主規制、60年に規制範囲拡大。64年に規制解除したが、熊本大研究班が「まだ危険」と発表したのを受けて、改めて規制区域を設定した
251103ami.JPG

○1973年の熊本大研究班発表で水俣湾と周辺の魚介類の危険性が指摘されると、八代海の魚の値段が暴落。沈静化のため、県が1974年に水俣湾口に仕切り網を設置し、汚染魚の封じ込めを図った。漁価は急速に回復した。すべての魚種の水銀レベルが規制値を下回って安全宣言が出たのは1997年7月。網は10月に全面撤去された。チッソの漁業補償も終了

・水俣湾の汚染によって漁業ができなくなった漁民は柑橘の栽培を開始。現在は代替わりしながら続いている

▽段々畑
251103dandanbatake.JPG

▽甘夏?の木々の間から袋の港が見える
251103fukuro.JPG

【感想】
・不知火海沿岸の八代、水俣、天草諸島は内海につながれた一体の地域(環不知火)であった

・著名な公害病で、外の人たちから70年にわたって散々眼差された後を見に行ったせいか
 (1)患者―近隣―市民・チッソ―外部、の各領域をまたぐ差別/支援の構造
 (2)社会、法律、感情、科学の領域
といった複雑なものが既にきれいに整理され、大体のものになめらかな説明がついていた
・「水」を通じた「食物」の「汚染」で多数の人が「死亡」した公害の歴史化にあたって、「SUP」や「無農薬」の甘夏、「いのち」、「エコ」が対置されているのもいかにも図式的だと思った

・市民社会側(考証館)と自治体側(資料館)の歴史認識にあまり大きな違いがない印象だった(表現の婉曲ぶりや、江戸期からの住区と階層への言及の有無、認定患者―未認定尾・手帳取得者の間のわだかまりなどへの言及の有無といった差はある)のも、時間による熟成を感じさせた

・弊管理人がちょっと知ってる三里塚(闘争と和解としこりの流れとか、出来事が歴史になる・なりきれていないタイムスパン)と、福島原発事故(依存しているものが加害者になること、加害者側の子がいる教室)と比べながら見た

・ほとんど意識したことがなかった「歴代市長」が局面を画しつつ、一方で責任主体としての
市の存在感が、県や国と比べてほとんどないことがかなり不思議

・水俣病展が来年、東京であるらしいので見に行くぜ

水俣~天草、天草~熊本の日記に続く。

2025年10月25日

金婚式

母が生きていれば今日が両親の金婚式です。
とはいえ、父は「人は死ねばゴミ」と言いつつ今でも箪笥の上の小さい仏壇に小盛りのご飯をそなえているので、まあ事実上の金婚式といってよかろう。おめでと。

2025年10月19日

秋あるじゃん

二季化の議論などもある中、日中22度とかでなかなか快適、夜はしっかり涼しい日が続いており「秋あるじゃん」と思った週。天気はあまりよくなかったが眩しいのは嫌いなのでOK。

客人が甘いものを持って訪れ、3泊していった。
うち1日は中野の「高しな」で一緒に昼飯。おなかいっぱい。

週半ばに二度寝して計9時間半寝て寝不足回復運転みたいなことをした。
週末にかけても7時間くらい寝るようになってきた。日が短くなってきたせいだと思う。
寝具はじめ結構洗濯して冬の寝床を準備。

近所友2人と中野坂上の平田屋。マイルドに飲めば嗅覚はわりと大丈夫らしい。
毎朝、コーヒー豆を入れてある瓶のふたを開けては一喜一憂しています。

フロスを通したら歯の詰め物が取れたので歯医者。
ついでに11月に予約していた分のクリーニングをしてもらった。2000円。アメリカだと3万円です。助かる。
「フロスは勧めません。歯間ブラシだけ。フロスはいろいろ問題を起こす。もう古い」

* * *

金曜夜、地元駅を出たら野党の元厚労大臣がビラ配ってたので、そのままタウンミーティングに行ってみました。

区民会館の一室で、参加者ざっと30人。同じ党の区議と都議がちょっと挨拶して本人が国政報告。結構たっぷり質疑の時間をとって1時間半でフィニッシュです。
参加者は弊管理人が最若手くらい、つまり年配。マスク勢多し。左っぽいがそこまででもない感じ。「企業・団体献金問題は政治家のやりくりの問題ではない。規制や産業が歪んで皆さんの生活に直結する」という訴求はうまいと思った。そこから年金、病院の経営や医師の偏在など参加者の関心に話を持って行くわけですね。

しかし一方、「医療ベンチャーの育成が足りないんじゃないの」みたいな質問に肯定的に応えて「標準治療の偏重も、新しい医療技術によって既得権益を侵される企業・業界団体の頭の固さによるものである」みたいなちょっと陰謀論ぽい話に滑り落ちそうになった場面もあった。これが行き過ぎると、環境弁護士として出発し、企業と化学物質を敵として戦った末にああなっちゃった彼の国の厚生長官のようになるのかもしれない。

ともあれ「議員定数はもっと減らしてほしい」という投げかけに対しては「私は定数が減っても勝つ自信はあるし、地位に恋々とするものではないが、ほんとに減らすのがいいのか。他の先進国に比べて人口当たりの国会議員数は日本は実は少ない方」などと議論を投げ返すこともあり、わりと対話になっていた。野党代議士が地元とどうやってコミュニケーションとるのか、仕事抜きで時間かけて見たのは初めてかも。面白かったです。

* * *

今週あまり頑張らなかったがご褒美にシュークリーム。
251019chou.JPG
前にモンブランの基底部が融解していた店だが、シュークリームは普通においしかった。
あと最近ずっと気になってることだが、この大きさのものを載せるのにいい、直径12センチくらいの皿がうちにはない。次の旅行の目的にする。

そういえば、家に近いほうのバタークリームを売りにしているケーキ屋が閉店するとの告示があった。

そして金曜、土曜は遊ばず家にいた。土曜夜はうっかり仕事をした。うっかり。

うわあ来週は3回もシフトがある。自分で作ってるんだが。

2025年10月11日

豊作

このところ食べたもの。

東麻布、魚亀。
241011uo.JPG
DC時代の元上司、出身部では珍しくかなり出世したOB、弊管理人、という世代や職掌がばらばらの3人と共通の仕事先の計4人で行きました。
いろんなものがお高そうな地域にある居酒屋さんなのでめっちゃ高いんだろうと思ったら、魚づくしのコースで4000円ちょっと(飲み物別)だった。すご。

左がかった人の多い会社なのですが、弊管理人が「わたし結構保守だと思いますけど」と言ったらOBの顔が引きつった。いやあの、グローバルな価値も再分配も重要という考えなのですが、一方でコミュニティ大事だというのと、人間の予見・設計能力には根本的な疑念を持っている点で保守的だと思います。特に社会とか気候みたいな複雑なシステムについて、非常に大きな不確実性のある未来予測を本当かのように語っちゃだめでしょ、などと説明をする間もなくなんか議論がヒートアップした。

* * *

東中野、キャトルエピスハンバーグカレー。
地元民に教えてもらったお店です。平日休みの友人とともに訪問。
241011quatre.JPG
カレーもハンバーグもめしもぬるかった。熱いものは熱いまま食べたいだろう普通。
生姜のきいたスープはうまかった。

* * *

過ぎたる土曜、国立天文台に独りでプラネタリウム見に行った帰りに調布、頑。のどぐろがどうのみたいなつけ麺。
251011gan.JPG
おいしかった。

* * *

このところ初めましての人に会うことが多く、研究職の人と北千住で飲み食いしながら5時間コースとか、人望爆発系の人をハブとした数十人の立食で喋りまくりとか、いろいろと楽しかったです。声かけて応じてくれるのも、声かけてもらえるのも僥倖。

* * *

嗅覚、今週やっと全快に近くなった感があった。
しかし金曜夜に飲み過ぎたら土曜はコーヒー豆に鼻をつけても何も匂わないくらい元に戻った。
どうもポリープがあってもともと鼻の状態がよくないところに、酒で血管がどうにかなると完全に機能が失われるようです。風呂に入ったら少し匂いが戻ってきた。機能喪失が可逆的なのはまだ助かるが、お酒とご飯を一緒に楽しめないのは大変不便なので、ちかぢかまた耳鼻科に行って相談してみよう。

* * *

今週前半は職場が大商いでした。
打って響く人は、専門外のことでも響く。
普段からアウトプットの少ない人は、鉄火場でもとろい。
頭のよさそうな人に頭がいいとできそうな仕事をアサインしたら正確に期待通りのものが送られてきた。
文字にしてみるとどれも当たり前だな。

量が質に転化するなら若いうちからむやみに手数を打たないとだめなんだけど、ワークライフバランスとハラスメントを盾(に見せかけた矛)としてゆるゆる生きてると、できる人とできない人の格差ばかり広がりつつ全体のレベルが落ちる。他部では50絡みのおじさん・おばさんウォリアーズががっつがつ仕事しているが、どうせこの人たちの引退と業界の終焉はだいたい一緒に来るだろうから、別に「後のことは知らん」でいいのかもしれない。

* * *

Xのコミュニティノートを仕事で扱ったのを機に、協力者登録してみた。
まだ公表されないコミュニティノートをレビューする仕事だが、多くは「匿名で自分は攻撃されずに相手をクサしたい」くらいなもので、片っ端から「不要」ボタンを押していたら弊管理人の評価が一向に上がらない。あと「注意が必要です」という定型句がうるさい。

2025年10月01日

20年たちました

2005年10月にこの日記を始めて、20年がたちました。ほんとは9月からちょっと書き始めてますが、ソフト・オープンのつもりだったので、10月が正式な開始と考えています。

「すべりどめblog」という変な名前について、そういえば今まで説明したことがなかったので、前史から書いておきます。

通っていた国立大附属中学の担任がやたら文章を書かせる人で、日記の提出が毎日の課題でありました。
これで変に癖がついてしまい、高校でもノートに日記を書き続けました。多くは学校や模試の成績、むかついたこととかの日常、あとイラストを付けたり。

大学に入って(1996)インターネットに初めて触れて、ウェブサイトを作る授業なんかを受けているうちにオンラインで日記を公開するようになりました。一部は弊日記の最古層に再掲しています。大学のサーバ、続いて契約していたプロバイダのサーバへ引っ越しながら卒業まで。
就活で今の会社に面接に行ったとき「へー、ホームページやってんの?」とちょっと食いつかれたことを覚えています。後から知ったことですが、当時社長がネットにはまっていたらしく、社報に「社長のホームページ」というコラムを持っていた。やっとwwwがおじさん界に知られ始めたころで、仕事での活用はまだまだです。今なら「へー、生成AIでコード書いてるの?」くらいか。

閑話休題、働き始めてからも場所を移してやっていたウェブ日記が弊日記の直接の前身です。

まず、既存のウェブサービスを使うと突然終了することがあるので、できるだけ安いサーバーを借りようとした。それで契約するときにドメイン名を付けないといけないことが分かり、前身日記のタイトルがswingby(宇宙機が天体の重力を使って軌道や速度を調節すること。「他人の力を借りて自分の方向を転換する」くらいの意味を込めていた気がする)だったことから、安直にそれの「B面」という意味で「sbb」にした。flop.jpというのはサーバー側が勝手に割り当てたものです。

しかし日記に名前をつける段になって、B面というのもちょっとあれだし、sbbというドメイン名はつけちゃったので、それに合うタイトルはないか……と考え始めたものの、結局はすぐに面倒になって「SuBeridome Blogとか?」なんていって適当に決めました。

昔はサブタイトルもあり、「記憶がすべり落ちる前に」とかなんとかしていたはず。要は備忘録だという意味ですが、これも当然タイトルから無理矢理ひねっただけです。

背景の画像は知床半島・ウトロの町です。海へ滑り落ちていくような地形かなとか、そんなあれ。これは始めてから数年たって追加したものです。始めたときはまだ北海道との縁がなかったので。

始めたときが28歳。いま48歳。よもや2025年が来るとは思わなかった。
弊日記は既に分厚いライフログ=備忘録になり、体の具合が悪くなると「前は何日間でどういう経過をたどったっけ」と調べ、友達に旅先やご飯屋を勧めようとすると「あれなんだっけ」と辿る。つれづれに、2000年代後半の変に自意識強そうな文章、2010年代半ばの、なんでこんな塞いでるんだろうと思うような文章を見返すことがある。まさにアウトソーシングされた脳です。第一には自分のために書いてるけど、少数の知り合いがヲチしていて近況報告にもなっているようです。

弊日記からは弊管理人の生活の50%くらいを占める重要な側面をほぼ省いてあります。あとは30%くらいを占める仕事のことも具体的には極力書かないようにしています(時々破る程度のゆるいルール)。その意味でも本当に事務的な備忘録・兼・近況報告。人が見て面白いかどうかは知らないが、自分にとっては役立ちます。いろんなところに記憶の釣り針が仕掛けてあって、そこにさしかかると「書いてない側面」のほうの記憶が海中から引き上げられるので。

先日、サーバの契約をもう3年延長しました。3年で4000円ちょっとだっけ。安い。引き続き書くと思います。では、子どももおらず、何を受け渡す相手もおらず、自分のためだけに生きている弊管理人は、死期が分かったとしても書くのかどうか。そこはこれからのこととして関心のあるポイントです。

2025年09月28日

政治的なものの概念

◆カール・シュミット(中山元訳)『政治的なものの概念』光文社、2025年

学生時代に授業で読んだ時、なんとなく分かるんだけど何か遠い感じがしたまま通り過ぎ、シュミットの話をよくしていた同級生は自殺し、授業をやってた先生も夭逝し、しかしそのときの本は薄くて大きくもないので持ったまま引っ越しのたびに目にして「そのうちまた読もうかな」と思っているうちに新訳が出たのでした。

内容。

・「友」と「敵」の区別こそが政治の本質である。「あるものが政治的な行動であり、政治的な動機であるかどうかを判断するための特殊な政治的な区別は、友と敵の区別である」(p.27)
・友敵は善悪(道徳的なもの)、美醜(美的なもの)、利害(経済的なもの)とは独立のものである。(敵だから醜い、というわけではない)
・ただし、宗教的、道徳的、経済的対立などに十分な人間集団の凝集力があれば、友敵関係が発生することがある(eg. 宗教戦争、階級闘争)。「…このような闘争集団が結成された場合には、その対立の決定的な部分はもはや純粋に宗教的でも、純粋に道徳的でも、純粋に経済的でもなく、すでに政治的な対立になっているのである」(p.45)
 →つまり政治=国家(近代国民国家)、ではない。国家のサブシステムでも政治は発生する。また階級闘争は国際的にも発生する
 →一方で、典型的には政治は国家において現れる。「ここで問題にしているのは、…この区別の存在の現実性と、現実的な可能性なのである。…理性的に考える限り、諸国民がこの友と敵の対立によって結集していることは否定できない」(p.32)。国家は内戦を抑圧し、他国に宣戦を布告する。世界が一つの国家になることはない
・敵とは公的な性格のもの(ホスティス、ポレミオス)である。個人的な仇(イニミクス、エクトロス)だとかそういうことではない
・敵とは現実的な可能性において、自分たちと抗争している人間たちのことである。存在の否定を暗黙のうちに含む。物理的殺戮と関係する(cf. ホッブズの「自然状態」。つまり性悪説を前提にすべきである)

中山がニーチェを引きながら解説するところによれば、私たちの日常生活において使われている根本的な用語は、そもそも定義するということが非常に困難である(p.328)。シュミットは、政治的なもの=日常的に言及される「政治」の本質を示そうとする中で、根底的な――つまり別の概念によって説明されない――判断基準を考えた。それが友敵の区別である。これは無根拠・主観的なドイツ・ロマン派に失望し、裏付けのある「決断」を見いだす試みでもあったらしい(p.365-)。

しかし、だから何なのか。この疑問は今回の本に収録された1932年・1963年版と、1933年ナチス版で実質2回読みしてもよくわからなかった。それには解説が一定答えたように思う。

敵の概念をさらに検討した『パルティザンの理論』で、敵は3種類に分かれている(p.337-)。
・「伝統的な敵」 近代国民国家成立以前の戦争にみられた敵。1648年以降、勢力均衡と戦争抑止の流れの中でヨーロッパは戦争の相手の有罪化を断念し、他国の殲滅を禁止し、絶対的な敵を否定し、正しい戦争を戦うことにした(ヨーロッパ公法体制)
・「絶対的な敵」 フランス革命やマルクス・レーニン以降、ナショナリズムや階級闘争により他国の殲滅をいとわなくなった時代の敵。「人道の敵」という敵概念であっても結局は同じことで、存在の否定や他者の犯罪化を志向する
・「現実の敵」 これが『政治的なものの概念』の敵概念に近い。現実の場面における敵。イデオロギー駆動ではなく、戦うべき時において戦う相手。適切な方法を考え出し、戦う。ヨーロッパ公法が失われて戻らない現代において、「絶対的な敵」を想定した殲滅戦にいってしまわないよう、この「現実の敵」概念によって戦争を枠づけ、制限し、相対化する必要があると考えた

この解説を受けて、弊管理人のふわふわ理解を書いておく。
シュミットの敵概念は、根本的な対立のイメージやナチとの関連から一見「絶対的な敵」であるように思え、その帰結は殲滅戦であるような印象を持ってしまうが、そうではない。イデオロギーからも利害からも、他のすべてからも隔絶された純粋な敵、現代風にいうと「ゲームにおける敵」なのではないか。とにかく今ここで「あちらが敵」と設定されているので敵。そうすると戦争も、始まりと終わりとルールのある戦いになる。カイヨワを連想しながらそう考えると、確かに本性として人はついゲームを始めてしまうし、それは、ある時ある場面における孤立した営みにしかならない。確かにシュミットがいうように、友敵の区別は実存とは関係なく、どこかで発生し、与えられるものである。全面・全力・殲滅に突き進む戦争の危なさへのアンチとして、確かに面白い議論だと思う。シュミットってそんなまともな人なん?という疑問はよぎるが。

すると次に、後半の国家論批判は何の利益のためにやっているのか、という疑問が浮かぶ。特に自由主義批判をやりながら終わっていくが、取り残され感はある。これも「性善説に基づいた自由主義にとらわれていると、決定的な瞬間に国家が敵認定をすることができず危ない」という警告らしいが、解説を読むまで分からなかった。本文を読めてなかっただけなのかもだが。

「何を言っているか」「何を論駁したかったか」は分かるとして、やはり「何を実現したかったのか」についてはもうちょっとすとんと落ちる体験がほしかった。シュミットの作品では次に『政治神学』にいこうかなと思っていたが、同じ人の他の作品よりは、応用を見せてくれる別の人のところに行くべきかもなと思った。といいながらちょっと暫くシュミットはいいわ。消化を待ちつつ、とりあえず別んとこ行こ。

2025年09月26日

突然秋

あきらめない35度、みたいな日を境に、9月22日と23日は急に涼しくなりました。うっかり今年最高に過ごしやすい日だったかもしれない。

先週の後半にまた鼻が詰まって嗅覚も消えかかったので、土曜夜勤をちょっと抜けて会社の地下の内科を受診。4日分の薬をもらって飲み始めました。

でもって飛び石連休などしつつ火曜は早くに眠くなり、水曜に起きてみると喉が痛くて微熱(37.1度)があった。ピンポイントで左の扁桃腺、およびその周辺。てきめんに怠い。食欲もなく昼シリアル、夜やっと残り物。コロナ陰性。インフルにしては発熱が緩い。
さすがに職場に臨時休業を宣言し、1日中寝たり起きたりしてました。夜はちょっととばっちりで仕事したけど。

こんな寝られる?というくらい寝て木曜は早くも回復基調。
しかし喉はまだちょっと痛い。熱はない。ので外仕事に行きました。
この週末は名古屋に遊びに行く予定でしたが、大事を取ってやめました。予約していたご飯屋さんはキャンセル。
夜また37度ちょっといったのですが、眠くならなかったので確実に快方に向かっていると思いました。寝られる時というのは本当に具合が悪い時。

金曜、喉は「どこかに違和感」くらいまで収まり、完全平熱(36.4度)です。嗅覚は前よりよくなって、コーヒー豆は鼻がつくくらいまで近づけないと匂いがしなかったのが、手元に置いてるくらいで匂うようになりました。部屋とか台所とかの雰囲気の匂いも分かるようになった。これもまた死と再生(あるいは「風邪の効用」)。
このところ周囲でも体調崩してる人が多いです。夏の棚卸しでしょうな。

【追記】で、そろり~っとジムに行ったら好調だった。休養大事。
限界近くまで遊ぶ→疲れる→2、3日伏せる→快調、との流れは昔から繰り返しており、「伏せる」を回避するよりはもうこれを通常のサイクルとして受け入れるべきであるな。


* * *

上記関連でいろいろググっていたら、副鼻腔の構造が分かった。
これにより、鼻水が流れ出やすいように頭を前傾(どちらをかむかで左右にも傾ける)して鼻をかむとよくクリアできることが分かった。かんでも出てこなければ上を向いて鼻をすすり、口腔に排出してから吐き出すとよい。この技術の発見に半世紀近くかかってしまった。構造から考えるの大事。

* * *

体調悪くて寝てる間に、北海道旅行に行く家族を駅で見送って、自分は病室に戻るという夢を見た。亡母は元気な姿。駅といっても札幌かどこか、道内の大きめの駅のよう。病室というよりホテルの一室で療養している感じだった。「自分も行っときゃよかったかな」と思った覚えがある。
20日にあった祖母(=母の母)の四十九日をシフトを理由に父に任せたのと、具合が悪かったのが複合したと思われる比較的読み解きやすい夢だった。

* * *

高田馬場、11区担々麺。
250926tantan.JPG
おいしい。確かにおいしい。しかしメンドコロ天鳳ほどかな。
家からのアクセス込みで天鳳に軍配。

* * *

他人に責任を転嫁するようなグループチャットでの言い逃れに対して、転嫁された側(した側より後輩)に事実確認した上で「違うじゃん(大意)」とレスしておいた。なんなんだろうな。

* * *

ちょっと前の日記にも書いた、給与部長を電話でネチネチ詰めた二重徴収の問題は9月給与で精算されました。クレームしなかったら知らんぷりしてただろうおまえ、というくらい「取るのには熱心、払うのに後ろ向き」体質であった。「それは別の話です」じゃねえよ。

2025年09月21日

実力も運のうち

◆マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『実力も運のうち 能力主義は正義か?』早川書房、2023年。

文庫化される前から知ってたけど、ちょっと前に日本でポピュラーになった哲学者が書いた時事的なエッセイかなと思ってほってあった本書。読んだら面白かった。アメリカの2024年大統領選を現地で見たからこそ「わかる」って思えたというのも多分ある。2024年は2016年とほとんど変わることはなかったんだろうなという思いは強くした。

能力主義が生むのは「勝者の驕り」と「敗者の屈辱と怒り」であり、失われたのは連帯である。敗者が侮辱を感じるのは、彼らもまた能力主義イデオロギーは共有しているからこそだ。問題の核心は失われた尊厳なので、「敗者には教育を与えればいい」という出世主義・エリート主義を温存したままの解決や、再分配という「金目」の解決を図って成功するわけがない。科学信奉もまた道を誤るもとで、問題を理解不足やアーキテクチャの問題に読み替え、価値に関する議論をスキップしてしまう。

いかにもコミュニタリアンな診断だが相当程度正しいと思う。トランプはオバマが生んだし、負け組を語った点でトランプとサンダースは近いという図式も納得感がある。アメリカン・ドリームの国だと信じられているのに、意外と階層移動がしにくい社会であることがデータとともに紹介されていて興味深かった。

「機会の平等」という、誰もが同意しそうなイデオロギーをどう批判するか。弊管理人の印象では、批判には成功した。解決にあたっては「運」と「敬意」を導入するという理念までは示した。だが実行を考えるにはもう手遅れなのかもしれない。いや別の本を探してみるか。

大統領選前の2024年夏、カリフォルニアで修士終わったばかりだという若い環境活動家と話したとき、「反対側との対話が足りてないんじゃないの」と弊管理人が水を向けたら「彼らも勉強すれば分かると思うよ」と返されたのを思い出した。またアメリカという国ってみんながI deserveって叫んでるような国だなと思いながら3年半過ごしたことを反芻しつつ本書を味わった次第です。

以下メモ。

-------

ポピュリスト的反発を招いたグローバリゼーションのプロジェクトの2側面(pp.40-51)

(1)テクノクラート的な公益の構想
   市場メカニズムは公益を実現する主要な手段という信念
   「右/左」ではなく「開放的/閉鎖的」
   道徳の問題を経済効率・専門性(技術的問題)へ解消する
     ←80sのレーガン、サッチャー、その後のブレア、シュレーダー、クリントン
   →不平等の拡大と、勝者から敗者への軽蔑のまなざし
   ↓敗者に対する「教育の提供」という解決法

(2)能力主義的な勝者/敗者の定義。レーガン、ブッシュ、ルビオ、クリントン、オバマ
   ←→実はアメリカの社会的流動性は低い。アイビーリーグの階層固定化
   →「機会の平等」が解決か?
    →能力主義が生む「勝者の驕り」と「敗者の屈辱と怒り」
      =メリトクラシー(マイケル・ヤング、1958)の帰結
     恩寵、幸運という感覚の排除により、連帯の可能性が損なわれる
   *不平等、勝ち組/負け組を語る点でトランプとサンダースは似ている

・学位の有無と投票行動の関連
 勝者の票を集めたヒラリー、敗者の票を集めたトランプ
・有能者による統治
 ジェファーソンの美徳と才能を基盤とする「自然な貴族制」(p.56)
・テクノクラートは市民的プロジェクトの幅も狭めることになった
 連帯よりGDP。グローバリゼーションの問題は分配の問題にすぎない
 どこかで誰かが決めている政治
 知的職業階級の威信を強化し、大半の労働者の地位と評価を損なう(pp.58-59)

メリトクラシーの歴史(pp.66-)
 ・聖書
  (1)人間の主体性の強調:報償や罰は人の成果によって神が与える
    悪の存在は人間の選択の結果だと理解する(ペラギウス)
    ←→神の全能性の否定だとの批判(アウグスティヌス)
      ≒ルターの反能力主義、カルヴァンの予定説、労働=禁欲
      →現世の活動で恩寵を受けた、という理解のスリップ
       →プロ倫が能力主義につながる(p.77)。
        人は自分に値するものを手に入れる、という摂理主義(p.80)
        →世俗的成功と道徳的資格の一致(p.82)
  (2)不運な人への厳しさ:不運な人は罪を犯したはずだ。傲慢と懲罰
    カトリーナ「天罰」論、9.11、3.11と石原慎太郎(pp.84-85)
    オバマケア反対論
 ・リベラルの摂理的側面(歴史的事実と道徳の癒合)
   ・「偉大=善」アイゼンハワー~ヒラリー
   ・「歴史の正しい側」=リベラル民主主義、自由市場。クリントン、オバマ
     ←★冷戦後の独りよがりの勝利主義(p.103)、機会の不平等の改善
     ←→不平等の拡大

出世のレトリック
 ・自立と自己形成の理想
 ・市場が公正に運営されていれば、自分に値するものが得られる
  →市場の結果は能力と一致する
 ・「値する」、上昇志向、リスクと責任の個人化
 ・「自らに落ち度がないにもかかわらず」→救うべき/でない貧困者
   クリントンの1996福祉改革(p.122)
 ・「才能の許す限り」のアメリカン・ドリーム
   オバマの大学教育称揚(p.126)
 ・「あなたは値する」(p.127)1970s~2008、レーガン、メイ
 ・運の平等論(1980-1990s)困窮者の中で、誰が不運の犠牲者に過ぎないか
 ←エリザベス・アンダーソン「救貧法的思考」(p.267)
 ←底辺を嘲笑する能力主義エリートに対する、ポピュリストからの嫌悪
 ★トランプ支持者も能力主義を受容したからこそ、侮辱を感受した
  アメリカは努力とやる気による出世への信頼が高い
  実は社会的流動性は多くの国より低い。世代を超えて貧困を脱しにくい(p。136-)

学歴偏重主義
 ★グローバル化と労働者の賃金・雇用問題の解決としての学歴向上
  (不平等=制度の失敗、の否定)
  →大学へ行かなかった人たちへの社会的敬意を毀損(p.163)
 ・ケネディ、オバマ政権の高学歴びいき←→実践知や共通善とは無関係
  投資銀行の専門性に対する反射的敬意と、ウォール街救済という判断ミス
 ・「smart」の流行。モノにも使われる。スマートカーetc.
 ・人種差別や性差別が嫌われる時代に、学歴主義は容認されている最後の偏見(p.175)
 ・議会の高学歴化=代表性の低下(米、英、独)。能力の高さを意味しない
 ・学歴による分断の招来。トランプ/ヒラリー投票層(p.185)
 ・★公的言説のテクノクラート的転回(p.191)
   意見衝突の問題を情報提供、インセンティブ、科学に解消する(オバマ)
   →市民の力をそぎ、説得することを放棄するという欠点
  政治(意見、信念)に先立って事実に合意すべきだというのはうぬぼれ(p.201)
   →逆に、意見が認識を導く(モイニハン)

成功の倫理学
 ・マイケル・ヤング The Rise of Meritocracy (1958)
 ・完全な機会の平等=不平等の正当化。しかし正当化できるか?
   成功=才能×努力
   才能の限り―才能があることは運ではないか?
   たまたま持っている才能を評価する社会にいることは運ではないか?
 能力主義を代替する①自由市場リベラリズム
  ・ハイエク:市場の結果と、道徳的にそれに値するかは無関係。再分配は拒否
   ←→
    ・個人の市場価値に従った配分は道徳的に受けるに値する、という結論に滑っていく
    ・市場価値は社会的貢献と一致するとは限らない
 能力主義を代替する②福祉国家(平等主義)リベラリズム
  ・ロールズ:才能の道徳的恣意性→格差原理。才能を共通資産として再分配を擁護
   ←→だからといって成功に対する能力主義的おごりは緩和・排除はされない
 運の平等主義・公的支援を受けるべき/でない人の選別
       ・支援を受けるべき人を「無力な犠牲者」として名誉を毀損する
       ・努力と選択から生じる不平等を擁護する点で自由市場リベラリズムと一致

選別装置としての高等教育
 ジェームズ・コナントのSAT導入=ハーバードの能力主義化
  機会の平等と社会的流動性に基づく選抜
   →出自ではなく能力に由来する不平等の肯定と、英才の称揚・凡人への侮辱
  SATの得点と家庭の豊かさは比例する。世襲エリートが能力主義エリートになっただけ
  名門大学が階層移動を駆動していない(一部公立大ではしている)
  レガシー(卒業生の子ども)の優遇、寄付者の優遇
 そもそも選別装置の役割を大学が引き受けるべきでない理由二つ
  (1)選に漏れた人の苛立ち。社会的評価との結びつきが断てない
  (2)選ばれる人も負うストレス。地元大から高難度大志向へ、合格率低下
     入学後も学生団体への入会選抜、成績への執着
  →いずれも自己責任に根ざす。連帯と相互義務を芽生えにくくする
 対策:くじ引き、職業訓練への補助金増、市民教育の拡充

労働の承認
 アメリカ人男性の収入停滞、絶望死(が高い地域でのトランプ善戦)、
 「白人特権」の剥奪、アメリカン・ドリームへの「割り込み」
 収入=社会への貢献度、という考え方の解体
 グローバル化に伴う不平等、GDP主義で生産から消費重視に、
  アウトソーシング、移民、金融化が労働の尊厳に与える悪影響
  ←リベラルの失敗:労働者・中流に対する分配的正義の提案
   ←→必要だったのは労働に対する社会的承認と評価(cf.ホネット、p.371)
     社会統合・承認・共通善としての分業(デュルケム)
     オーレン・キャスの賃金補助、税負担を労働から消費と投機に向ける
 →社会の絆の回復

管理人

40代、未婚、子なし、男、文系学士、30万都市出身。新卒で入った会社でずっと働いています。中学の教育方針のせいで日記を書く癖が抜けなくなりました。

アーカイブ