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2008年12月 アーカイブ

2008年12月28日

コーヒーが廻り 世界史が廻る

■臼井隆一郎『コーヒーが廻り 世界史が廻る』中公新書、1992年。

東アフリカを原産地とするコーヒーは、15世紀のアラビアで禁欲と厭世のスーフィズムに「夜の礼拝に眠気を払い、食欲などの欲望を払う」と受け入れられ、その旅を開始する。

イスラム世界の「コーヒーの家」を、商人や外交官がヨーロッパに持ち込んだ。17世紀後半のイギリスではコーヒーハウスが政治経済の情報センターとして、そしておしゃべりを通じて「市民」を形成する場として機能するものの、「旦那が下らないおしゃべりに興じているばかりかコーヒーのせいでセックスが弱くなった」とするカフェから疎外された女性らの反発に遭い、やがて紅茶にその旅路を阻まれることになる。

対照的にフランスでは革命に向けたアジテーションの震源地としてカフェが根を張り、同時に増大する需要に対応するため西インドでのプランテーション経営が始まる。カフェに胚胎した自由・平等・博愛の思想は原産地の黒人奴隷とまで絡まり合い、ハイチ独立にまで進展していく。

遅れてきたドイツがコーヒーの原産地・東アフリカに求めた植民地政策の失敗。「働かない黒人は人種的に遅れている」―人種主義の萌芽。管理の手法としての官僚制。その不幸な結婚が産み落としたファシズムもまたコーヒーの香りをまとっている。
モノカルチャーのブラジル。それを攪乱する乱高下するコーヒー市場。モノに操られる国家、そして国民。黒い血液は近代市民社会を循環する――。

秀逸なタイトルが示しているように、世界史の中をいつもコーヒーは廻っています。と同時に、コーヒーの視点から見ればまさにこの人間の欲望を改造する魔力を持った液体を軸に世界史が転回/展開しているともいえます。ヨーロッパ近代と植民地と世界戦争の500年を駆け抜ける筆致は軽やかだが計算し尽くされたもので、読む者を引き込み、ときどきシャレを言ってはマッハで流したりもしつつ、世界中を引きずり回します。
実は10年以上前に筆者のドイツ文学の授業を受けたことがあるんですが、確かにこんな文章を書きそうな(いい意味での)ヤなオヤジだったような印象があります(笑)。

歴史は物語、社会も物語。だったらその記述には芸が求められるんじゃない?
冬休みにオススメ。

2008年12月27日

冬の旅・函館

周囲より1日早く仕事納め(30日に宿直はありますけど)して、ひとり函館へ。
早朝・深夜の電車を使うと札幌―函館で往復12000円という切符を使いました。
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前の日まで道路に雪なんてなかったのに、朝7時の札幌は前も見えない猛吹雪。市内中心部でも車が雪だまりに突っ込んで立ち往生しているほど。電車も40分遅れて昼前に函館着。晴れてはいるけれど風が超冷たいです。
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函館駐在経験のある後輩にどんな観光をしたらいいか聞いたところ「函館はベタベタでいいですよ」とのこと。それではということで路面電車の一日券(600円)を買い、全力で観光しました。
「五稜郭」タワーは06年オープン、107m。この高さからでも五稜郭は28mmのレンズに収まらないのな。
「五島軒」は老舗の洋食屋。イギリスカレー800円、肉がおいしい!ルーも丁寧な作り!
「自由市場」は年末年始に向け活気がありました。
「坂」は何本もありますが、函館西高から見るのがいい。港とその向こうの山がきれいでした。
「ハリストス正教会」はロシア正教の教会。タマネギ頭もちゃんとついてます。

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べったべたな函館山からの夜景。16時半からの30分ほどで夜に沈潜していく街の様子が見られます。中国人すごく多い。そしてすっごく寒いので展望台はやめてガラス張りの建物内から眺めました。
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夕飯は函館駅近くの「星龍軒」。塩ラーメン480円はとても素直でいくらでも食える味、ていうかチャーシューが絶品、餃子420円は厚めの皮もタネもうまい!

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22時に寝て7時起き。函館は一転、吹雪なので、宿の近くの朝市をちょっと見たあと、出掛ける気がちょっとせず、宿併設のスポーツクラブでひとっ走り。
函館のご当地ファストフード「ラッキーピエロ」で昼飯。写真の残渣みたいに見えてるのが(!)バーガーです。具もうまいが、ゴマいっぱいのバンズが好きです。
路面電車の終点から15分歩いて「立待岬」へ。車は通行止めでしたが、柵の脇から雪道を歩きます。寒々しい。風に飛ばされた粉雪が嵐のように。
戻って、電車駅近くの「市営谷地頭温泉」420円。たたずまいもロッカー設備もなんか市営プールっていうテイですが、風呂場がめちゃくちゃ広い。星形の露天風呂もあります。湯は褐色。それにしても熱い!低温浴槽で43度、泡風呂42度。

17時。最大の目的だったハリストス正教会の晩祷を見学に行きました。入り口には「見学は中止しています」との看板が立っていましたが、事前に電話で見学できそうだという感触を得ていたのでちょっと中に入ってみると、ちょうど準備をしていたドミトリエフ司祭が招き入れてくれました。この方、今年115年ぶりに着任したロシア人司祭です。
お祈りは1時間半ほど。見学席には自分一人(クリスマス後の一発目だったためらしい)で、あちらは4人。奥の間を除いて10m四方ほどのお堂の中を、節回しをつけた念仏(?)を唱えたり鈴を鳴らしながらイコンを回り、福音書を読みます。1500年ほとんど変わらない作法だそう。自分はキリスト教徒ではなく、ほかの派のお祈りは見たことがないのでどこが独特なのかはわかりませんでしたが、印象深い時間でした。

夕飯はワゴンサービスのかにめしを食おうと思っていたら、遅い電車には積み込まれないということでホームでニシン弁当を求め食いました。行きで読み始めた本を読み終えつつ札幌へ。
去年の夏ごろ「一人旅はそろそろきついなあ」と思ってからしばらく一人でぶらぶらすることはなかったのですが、ちょっと時間を経てみると、気を遣わず好きに時間を配分し過ごせる一人旅の良さに改めて気づいた次第です。

2008年12月24日

哲学初歩

■田中美知太郎『哲学初歩』岩波現代文庫、2007年。

初版は1950年、この文庫の底本は1977年の改版。

哲学史をざーっとさらう本ではなく、「哲学とは何か」「その意味は何か」「それを学ぶことはできるのか」「何を探求するのか」といった哲学の最初の一歩について、プラトンとその周辺を中心にぐだぐだ(超失礼)と考える本です。とても平易な文章で書かれています。

諸科学を上から傘のように覆う「原理の学」としての哲学は、どうやら一から十までを教えることのできるものではなさそうで、せいぜいできるのは馬を水のあるところまで引っ張っていくようなこと。あとは人間にもともと備わった理性の力で各自が究めるものである。その先には究極の幸福があるはずだが、それはあくまで理想の世界に想定できるものであって、哲学はそれを目指した永遠の知識の追求なんでござんす。

みたいな話。

2008年12月22日

これアナフィラキシー?

嘔吐とかの内容なのでちょっと隠しまして。

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北浜界隈

先週に続いて北見出張、今回は網走にも用事を入れ、空き時間でちょっと足を伸ばしてみました。

オホーツク海に沿って走るJR釧網線、北浜駅。

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網走駅近くでホタテ入りのかまぼこ(230円)を買って食いながら1輌電車の旅。
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運転席の窓には冬のオホーツクが流れていく。
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北浜駅。帰りの電車までは1時間ちょっと。
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無人駅ですが、駅舎で喫茶「停車場」が営まれています。

ほんとうはここでお茶でもするのが目的だったのですが……なんか帰りの電車20分弱前に入ってケーキセットを頼んだところ「10分ほどパイを焼く」とのこと。5、6分あれば食べて電車に乗れるなあと思っていたら、ご丁寧にも15分以上かけてサーブしてくださり―しかも先に珈琲が出てくることもなく―ふた口ほど食べ珈琲に口をつけたところで電車入線しあたふたと乗車。まあ喫茶店が1分単位で仕事するわけねえだろと言われるのはわかってますが、かなり気分悪かった。もう二度と訪れたいと思うことはないでしょう。

駅から10分ちょっと歩いたところにある汽水湖・濤沸湖tohfutsu-ko。
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鳥どもがわらわらと。

もう少し天気がよければ知床半島の付け根あたりにある斜里岳が見えるはずでしたが、昨日から飛行機が遅れるほどの雪で残念。2-3月には駅から海を埋め尽くす流氷が見られる場所です。
それほど寒くはなかったものの、歩道に10センチほど積もったさらさらの新雪を踏みしめながら戻りました。

2008年12月18日

まなざしの地獄

■見田宗介『まなざしの地獄―尽きなく生きることの社会学』河出書房新社、2008年。

さまざまな論者がさまざまなところで参照してきた有名な論文が29年ぶりの単行本に。
「まなざしの地獄」(初出1973年)
「新しい望郷の歌」(同1965年)
の2本と、大澤真幸さんによる解説がついてます。

「まなざしの地獄」は、連続射殺犯N・Nの残した書き物と、当時の労働についてのいくつかの統計の解読。地方を捨て新しい自分を打ち立てようとする本人と、地方出身とか貧乏だとかいう属性の負荷をかれに帰属させつづける都会の視線との齟齬を指摘し、さらにそこから高度成長社会の構造的なきしみを剔抉してます。

その背景を語る「新しい望郷の歌」では、高度成長の日本で、人々にとっての物質・経済・情愛の根拠である「家郷home」というものが、そのルーツを過去に求めるべき田舎から、都市でこれから作り上げていくべきマイホーム・核家族へと大きな転回を遂げていることを描き出してます。

40年ほど前の論文が2008年に再び出版されるにあたって必要な作業―収録された2本を繋ぐことと、それを現在と繋ぐこと―は、最後の大澤解説が受け持ってます。
N・Nと、今年あった秋葉原連続殺傷のKを対照させ、かれらを産んだ社会を対照させること。
ポスト・マイホームのさらに新しい「家郷」のありかたについて言及すること。
そして、一人の極端な存在=犯罪者を踏切板として、社会について語ることができるのかどうか。

ものすごく個人的な感想をよっつ。

1 田舎出身の自分が見田の『時間の比較社会学』から読み取ったひとつのメッセージは「ルーツから切り離されることは解放であり喪失である」ということなんですが、その香りがこの本にも漂っていた気がしました。

2 大澤さん、解説の中で見田のことをずっと「見田先生」と呼んでます。1997年だったか、政治学の大森彌さんの授業で、ある学生が「丸山真男」と呼び捨てにしたとき、大森さんが「丸山先生も呼び捨てされる時代になったんですねぇ~」(丸山は95年没)と遠い目をしてらしたのを思い出しました。

3 大澤解説は『おまえが若者を語るな!』への一つの回答として読める気がした。もっとも大澤さんは『おまえが~』では批判も言及もされてませんけど。

4 やっぱり見田宗介の文章はいい。

2008年12月14日

塩やきそば

前回9月に出張したときは行き帰り鉄道で移動したものの、特急で札幌から4時間半、320キロ。
腰を痛くし。
風邪を引き。

今回は、
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初めての丘珠okadama―女満別memambetsu線、45分!!!

そんなわけで北見に出張、来週もたぶん。
ほんとにこの北見という街、楽しみ方がわかりません。

タクシーに乗って
 「名物は何ですか」
 「焼き肉かなあ」
独りだっちゅうの。

食べたけど。

で、朝はマイナス14度。

寒い。

お、温泉ないかな……
と観光案内所に行くと(仕事は一応片付いてから)、窓に「塩やきそば」のマップ。

特産のタマネギ、オホーツクのホタテなど海鮮を入れた、塩味の焼きそば。
広告代理店だかの出身の人が仕掛けたけど今ひとつメジャーになっていないというB級グルメ……

駅前の東急百貨店が撤退し、いくつかの商業テナントと市役所の分庁舎が入り、今度そこに本庁舎を移転しようぜ、と議会に提案した市長が議案を否決されたために郵政民営化よろしく解散して信を問うてしまい、このクソ寒い時期に選挙が始まってしまった、そんな政争の具にされたビルに入ってる食堂で(駅から近いから。歩こうにも寒いんだもの)、食べてきました。塩やきそば900円。漬け物とごはんとスープがついてくるんですけど、ごはんは何で食べればいいのかしら?
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うん。うまい。確かに。ホタテもちゃんと入ってるし。野菜もふんだんに。
でも食事じゃなくてスナックだな、これは。

誰か北見の楽しみ方、教えて下さい。

続 氷点

■三浦綾子『続 氷点(上・下)』角川文庫、2008年。
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北海道を飛び回る生活をしながらこの本を読んでいると、不思議な符合に見舞われることがあります。
昨夏、青函フェリーの中で氷点を読んでいたときはちょうど洞爺丸台風でフェリーが沈むシーン。
そして今日は、北見への出張の帰り、ふと時間が余って石北線の女満別駅(memambetsu, 旧女満別町、現在は合併して大空町)で電車を降り、歩いて1分の網走湖畔で写真を撮り、それから近くのホテルで温泉に浸かって、空港に行って待合所で本を読んでいると、ちょうど最後のシーンに網走湖畔が出てくるという偶然に。

そのほかにも、海に向かう小樽のメインストリート。いつも仕事で出入りしている北海道大学のクラーク会館、並木通り、図書館。それから、今年100周年を迎えた北大の美術部「黒百合会」。見知った場所と名前が、舞台となった戦後と現在をつないでくれます。

そういえば、三浦綾子の本を強烈に薦めた会社の先輩は「テーマは『人をゆるす』ですよ」と言ってこの作品を語っていましたが、うん、そのとおりだ。何度もこのフレーズが頭をよぎりました。

山と谷と、愛と死と、純粋さと意地悪、そして苦悩と―救済。そんなソリッドな構成が読み進める人に抜群の安心と見通しを与える、エンターテイメントのひとつの極致だなー、と思いました。

2008年12月10日

社会学

■長谷川公一ほか『社会学』有斐閣、2007年。

学部後半~院受験くらいのレベルらしい社会学の教科書。でも新書読めるくらいの人なら誰でも楽しめると思います。

もと同級生の社会学者にひょんなことから薦めてもらって10月初めくらいから寝る前に数~十数ページずつ読み進めてたんですけど(何回かは睡眠導入剤として使わせていただいたw)、いや、これホントによくできてますわ。

大学入学からもう干支が一回りしてしまったものの、その間に同時多発テロがあり、「格差社会」とか言われ始め、ユビキタスコンピューティングもだいぶそれっぽくなってきていて、そのへんのポンチ絵を示してくれる本て、なかなか出会えてなかったんですよね。

どうも入門書でもスペンサー、コント、デュルケーム。マルクス、ウェーバー、ジンメル。ミード、パーソンズ……あたりで嫌になっちゃった経験があるだけに、身の回りの出来事に引きつけて読める本であることはポイント高い。

いい本の条件とは優先順に:
(1)驚きがある
(2)知識が得られる
(3)次の読書に繋がる
(4)サクサク読める
だと思ってます。この本は(2)と(3)。拍手。
ぜひとも学部生が入れ替わる4年にいっぺんくらいは改訂してほしい(辛そうだな)。

美しさの一例

ひとの行為が美しいと思うことは時々あるのですが、それを言葉にすることはあまりありませんでした。
今日は久しぶりに暖かい日で、自転車で通勤したり出先を回ったりしながら、なんだかアタマのこわばりも少し緩んでいろいろと考え事をしていました(危ない)。

店で何かを買うとき、食堂で何かを食べるとき、営業を受けるとき、店員とか回ってきた人に横柄に接しないということが美しい、と自分が考えていることに気づきました。

今暮らしている社会は、力関係として買う人(選んであげる)>売る人(選んでもらう)であるケースが多いのではないかと思います。たぶん、チョイスがいろいろ生まれるほど物が豊かにあるからだと思うのです。が、そのほかにも、本当は買う人だって店から出入り禁止になれば買いたいものが買えないはずなのにそういう売る人の実力行使の選択肢がないことになっていたり、買う人が気に入らないことがあったからといって悪評を立てたとして大都市ではそんなに効果的に広まったりしないのにあえて売る人が折れてまでトラブルを回避しようとしたり―、そんな考えてみればちょっと変な諸条件が揃って買う人が強い力関係が現出しているように見えます。

ともあれ、そこで買う人の立場に立ったとき、つまり強い立場に立ったときでも、売る人をことさらに困らせたり乱暴な言葉遣いで命じたりしない、ということは、なぜ美しいのだろうか?

ひとつは、自分が横暴できるすべてのチャンスを貪り利用しなくてもやっていけるという余裕を感じさせる、ということかもしれない(なんか進化生物学っぽい)。

もうひとつは、自分が売る人であったかもしれない、売る人になる局面があるということが想像できるという聡さではないかと思います。つまりいつ起こるかもしれない(そして現に別の局面では起きている場合もある)買う人→売る人に立場が転換したとき、自分がどうしてほしいか考えることができるということとも言い直せるかもしれません。

これにはひとつ見えにくい前提があって、それは自分が何事かをすることと、他人が何事かをすることを同列に考えられるということが必要なのだと思います。
つまり、自分が売る人の時は他人から横柄に扱われるのは嫌だが、自分が買う人の時は横柄にするのに全く呵責がない、というようには考えず、自分がしてほしいように他人を扱う、という無根拠な信念を持っていることです。自分だけが特別だという考え方に立っていれば、上のように自分が売る人であったかもしれない、売る人になる局面があると想像できたとしても、それが自分の振る舞いを変えるきっかけにはなりえないからです。

「自分だけが特別」があまりに普及するとそもそもルールが立ち行かなくなるはずなので、好ましい立場は「自分がしてほしいように他人を扱う」ということになります。が、実際のところ「自分だけが特別」はあまり増えすぎなければ黙認されるので、こそっと「自分だけが特別」を選択して「自分がしてほしいように他人を扱う」の人たちにただ乗りすることもできるでしょう。
そんな「自分だけが特別」を選択しない人は、ただ乗りしない方向に情操教育を受けているわけで、そういう人とつきあったときに自分がただ乗りされないという安心感も、上記の聡さに加わるのだと思います。

そんなわけで、そうしたもろもろの正の評価が「美しい」に結実しているのではないかと思いました。

閑話。
最近どういうわけか(歳だからだ)学生~勤めたてくらいの若い人たち何人かと接する機会があって、しかしその中にも何でも人任せのクソガキと周囲に気を使える子がいて、この差はなんで出てくるんだろうなあ、なんて思ったことからこんなことを考え始めてしまいました。どうも人に選んでもらう経験の多寡ではないか(いわゆる学生気分というのは消費者気分なんではないか)と思ったのですが。まあ考えはだいぶ遠くまで行っちゃいましたけど。

閑話休題とともに終了。夜中に書いた文章はくどくて長いなあ。

2008年12月07日

アキハバラ発

■大澤真幸ほか『アキハバラ発〈00年代〉への問い』岩波書店、2008年。

秋葉原の無差別殺人についていろんな人が数ページずつ。

『おまえが若者を語るな!』じゃないですけど、あれだ、一つの具体例も示さず「マスコミは」「メディアは」とお書きになるのはちょっとねえ。まあ自分は『おまえが…』の著者よりは正義に燃えてないので、まあ所詮エッセイですしねとあまり目くじらは立てないのですけれど。

「若者」も「マスコミ」もそうですけど、代表(representativeの意味での)とかスポークスパーソンを持たず、しかも構成している個人とか会社の特徴に相当のバリエーションがある集団を”全体として”批判することの最大の危険性は、反論を受けない安全地帯に論者を置いてしまうことだと自分は思ってます。

ま、そういうエッセイが複数収録されてます。

2008年12月05日

サマサマとマイマイ

お好みで、くらいのテンションですが2店。

■サマサマ
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札幌市中央区、狸小路6と7の間の7の側で20mほど北に行ったところ(たぶん番地は南2西7)に「エムズスペース」という木造の怪しい建物があるのですが、その1階奥にある「サマサマ」というお店。焼き鳥の店だと認識しているものの実態はよくわかりません。
焼き鳥にも辛い味噌を乗せたもの、ハニーマスタードを乗せたもの、など何かと種類があり楽しいです。

■米々亭
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スパイスカレー米々亭(旭川市6条12丁目)。
キーマカレー950円。店の外にもカレーの匂いが漏れてます。
辛口を頼みましたが、最初は「?そんなに辛くないなあ」。しかし食べ進めるうちに結構きます。

2008年12月01日

コサリ

札幌・すすきのの南のほうにある朝鮮料理「コサリ」。
七輪で焼く焼き肉でも有名なお店のようですが、自分的にはここの出色は鍋です。
1日2食限定の鶏チゲ鍋3000円。
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3-4人で最初に何か一品(チャプチェなんかもうまい。サムギョプサルをつけると豪華な気分になりますね)、この鍋、最後にごはんを入れておじやにして食べるとこれでもう腹一杯。大食いがいる場合は鍋といっしょにチヂミを頼んでもいいかもしれない。生ものが食べられる人はレバ刺しがヤバい(若者語)らしいです。

鍋。辛いのですが、辛いだけではなく深い味のするスープはそのまま飲みたい気分になります。
ごはんを入れ、溶き卵を入れてかき回してできるおじやでスープはさらにコクを増す。
市内中心部でも粉雪の降る寒い夜でも、ぽかぽかで家路に就けます。

最近1週間で3回食ってしまった。あー

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