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2014年03月 アーカイブ

2014年03月31日

花見

今年も靖国神社の夜桜を見てきました。
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2013年3月31日2010年3月28日と同じ場所ですが、この写真は反対側を向いて撮ったものです。
朝から気温は高いのに嵐のような天気だったものの、午後には雨が上がって風もほぼ止み、この集まりでは初めて「暖かい中で」「満開の」桜を楽しむことができました。お酒を飲みながらぼーっと上を見ていました。
来年は桜が見られるだろうか?と根拠のない疑問がわいた今年でした。

* * *

■黒岩麻里『消えゆくY染色体と男たちの運命:オトコの生物学』学研メディカル秀潤社、2014年。

遺伝子と性ホルモンの作用によって男、女がどう作られていくのか、イクメンやらイケメンやらはどの程度生物学的に説明できるのかといったことをチラ見させてくれる本です。「男」をつくるY染色体は退化を続けていて、いずれ消滅してしまうといわれていますが、既に消滅しながら男が生まれ続けている動物種もあり、そこにどんな裏技があるのかについても紹介されています。

このあいだ読んだバトラー本を思い出しつつ読むと、「精子を作るのがオス、卵子を作るのがメス」とばっさり定義づけてさっさと話を始めるのが妙に印象に残ります。これを踏み台にすると、性染色体をXXで持っているのに、性決定遺伝子が乗ったY染色体の一部がX染色体にくっついているために体がオスになっている状態を「性分化疾患」と名付けることができる。「疾患」もまたもっともらしい定義ができるはずで、いずれにしても言葉によって現実にまとまりが与えられていく。そう指摘したところで「はあ。そうですね。それで?」という感じがしてしまうこちら(生物学)の世界。隔たった二つの世界というよりは、ぴったりくっついた二つのレイヤーのよう。

2014年03月25日

三つの対話

■バークリ(戸田剛文訳)『ハイラスとフィロナスの三つの対話』岩波書店、2008年。

UCBをカリフォルニア大バークレー校とか言うのに、なぜGeorge Berkeleyはバークリなのか。まあいいけど。
1713年の著書です。

目や皮膚や舌といった感覚器官を通して知覚される観念「赤さ」「丸さ」「甘酸っぱさ」の集合体こそが「リンゴ」の実在そのものであって、そこから離れたリンゴという物が存在するのではない、という非物質主義を採るバークリ=フィロナスが、リンゴの知覚の原因となる「何か」が外界に実在するという物質主義を採るハイラスをこてんぱんにする、哲学徒同士の対話篇。
  フィ「その何かっつうのは知覚できないの?」
  ハ「できるなら知覚の原因にはならんでしょう」
  フィ「じゃあその知覚もできない何かが存在するなんてどうして分かるんだコンチクショウ」
  ハ「ぎゃー」
みたいな論理(まとめすぎ)。フィロナスの非物質主義は懐疑論の誹りを受けますが、結局は「不可知なもの」を恣意的に置くハイラスの物質主義のほうにそのレッテルが突き返されるのです。デカルトやロックのように、粒子でできた物質が→身体に働きかけ→情報が神経を伝わって脳に至り→心の中に観念が生じるという「粒子仮説」に対する徹底反論。「ほほう、じゃあ物質っつうのは身体に働きかけるような能動性を持っとるんだな?」

では、各人が勝手に自分のスクリーンに映っただけの実在とおつきあいをしているのに、なぜ、あなたと私で「このリンゴ」をめぐって会話が成立するのか。それはすべての原因である「神」の知覚をわれわれが分け持っているからだ、と説明されてしまう。
それはちょっと、えー、って感じになりますが、本作はいろんな議論の萌芽を含んでいる気がします。

知覚から離れた「ほんとうのもの」を否定するのは、イデア論に対する批判に思える。
各個人の外側にある物質が何らかの性質を、確かに発しているのだと考えれば、それは「アフォーダンス」と呼べるかもしれない。
実在を構成する観念というのはすなわち「クオリア」でしょう。
そして、実在は観念の束だというが、「束ねる」というゴムバンドみたいな役割をしているのは多分、「理論」です。「観察の理論負荷性」の理論。
「環境=世界そのもの」と「私」の間に「疑似環境」というスクリーンが挟まっているという図式でメディアや世論を考えたリップマンも、バークリの議論をどこかで参考にしたのではないか。
ちくちくとうるさいフィロナスの存在もまた、ハイラスの心に現れる観念の束にすぎないと考えれば「独我論」に引き寄せられていく感じがする。
根源に「神」を置いて解決するのはズルい感じがしますが、しかしなかなか否定しがたい。ビレンケンの初期宇宙論は「無の中にぽっと宇宙の種が生まれた」と主張するが、逆に宗教者はそれを一笑に付すかもしれません。やはり究極の原因が何かあったという信念を人は求めてしまうのかもしれない。もっとも弊管理人は十数年前の留学中、うっかり同じ寮にいた敬虔なプロテスタントのおにいさんに「で、その神の原因は何なんですかね」と切り返してしまって激しい議論になったことがあるんですが。

ヘタクソな対話篇は、一方的に教えてあげる先生と、一方的に質問して教えてもらう生徒が出てきて、対話形式じゃなくてもいいような、解説的文章を細切れにしただけの会話を展開しますが、本作はそうなってなくて面白い。ハイラスが粘るいらつく狼狽する粘る困る蒸し返す諦める。フィロナスが呆れる諭す譲歩する追い詰める宥める。読者はいつも分が悪いハイラスに心情的に肩入れし、そしてフィロナスにひっくり返される、悔しい、でも痛快です。

* * *

早起きして、外で仕事して、うっかり夕方に職場に戻ったら仕事に巻き込まれた。疲れた。
今日、東京は桜の開花宣言がありました。暖かい。今年初めて、シャツ+ジャケットで出勤しました。

2014年03月23日

金魚坂

中国茶が飲めると教えていただいたお店、本郷の「金魚坂」。
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お腹がすいていたのでアップルパイも食いました。
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金魚屋さんなんだそうです。金魚は無表情なところがオブジェっぽいです。

* * *

北海道友人が来たので夕飯。
久しぶりに喋れてよかった。

2014年03月20日

ダクシン

八重洲、南インド料理「ダクシン」のランチミールズ。
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食べ方を確かめながらだったので多少そっちに気を取られましたが、それでも大変うまかったです。
ライスのおかわり自由だというので2杯食べてしまいました。結構な量でしたw
夜までお腹がすきませんでした。

2014年03月16日

バトラーなど

■サラ・サリー(竹村和子他訳)『ジュディス・バトラー』青土社、2005年。

↑この著者名読むと「さはさりながら」っていう言葉が浮かぶんですけど。

性役割のように社会的に構成されていると理解しやすいものから、性別という厳然とした事実に思われるものまで、アイデンティティは言葉によって不断に形づくられている。言葉によって名付け、名指し、定義づけ、理解し、その理解を使って新しい理解を生み出す。そうした運動には始まりも終わりもなく、それを主導する特定の人物というのもいない。
海面に、潮の流れの加減でできている渦を発見することがある。渦は不断の流れの中で、たまたまある時、それと分かる形を取っており、次の瞬間には形を変え、いつの間にか消える。その渦も渦の周囲も同じく水でできており、互いに影響しあっている。渦を発生させる原因はどの一つの水分子にも帰することができない。そんなイメージを思い浮かべながら読んだ。

アイデンティティは厳然としていて、不変で、首尾一貫した実在なのではなくて、海水=言葉が作用する「過程」であること、その言葉の位置づけは使われていくうちに変わりうること、ある言葉を発するという行為が及ぼす影響もいつも同じでないこと、言葉が指す対象さえも偶々揺らぐことがあると分かってくる。
それなら今度は、誰かを罵り、不本意なカテゴリーに閉じ込めるような言葉の使われ方に対して、何らかの力を意図的にかけたり、罵られる側がそれをハックしたりすることによって、そうした暴力性を固定していた鎖を外せる可能性があるのではないか。

  「(侮辱の意図をもって)おまえレズビアンか」
  「そうだ!(ドヤ顔)」
  「」

そんなやりとりを本の中では紹介しているが、もっと情報量が豊かでイメージをふくらませやすい一例は12年ちょっと前の「伝説のオカマ」東郷健の記事(それに続いて「『伝説のオカマ』は差別か」論争というのもあった)ではないかと思う。

言葉の意味、属性、主体といったものを流動化させ、そこに人を抑圧する仕組みの転覆や解体のきっかけを見出す。この戦略は、場面場面に適用するには少し研磨が必要なものの、十分に使えると思う(論じている人がどこまで実践的な意図を持っているかは知らないが)。
その上でいくつか、ほんとにざっと、思いつくままに。

(1)オカマとかレズとかの言葉が、解放目的にであっても使い込まれて本質っぽくならないような不断の注意が必要そう。また、ある言葉を「弱い側」が占有してよいのかどうか(「ノンケはオカマという言葉を使ってはいけない」という言葉狩りが許されるか)。同時に、「寝た子を起こす言葉」に化け、ある程度以上の解放が進まない(腫れ物として固定化する)という懸念。

(2)「強者」とされた側が同じ論法を利用する可能性。というよりこういう闘争は不可避よね。
     「(侮辱の意図をもって)いいご身分ですね」
     「おかげさまで!(ドヤ顔)」
     「」

(3)そもそも「(ドヤ顔)」が何らかの効力を持つような道徳的素養を持った人にしか、この戦術は通じない気もする(もっともこういう悩みも、ある程度豊かな集団の中でないと前面に出てきにくそうだなとも思う)。そういうレベル高めの人に届けばいいんだという考え方はあるかもしれないけど、それだとレベル高めの人=抑圧を主導する主体、という虚構の図式を作り出してしまいはしないかな。

(4)フロイトからいろいろ借りているっぽいですが、個人的には、「お前には分からないが、私には分かる。お前の心の中はこうなっているのである」みたいな検証不能の読解を押しつけてくる、内心をめぐるカルト、といっては言葉が悪いですが、あまりその辺に近づきたくない気分です。

(5)罵倒の言葉に対して「(ドヤ顔)」で切り返せるほどエネルギッシュではない人に、救いはないのだろうか。切り返すこともできないくらい弱い人を、切り返すパワーや発言力や立場のある「おしあわせな人」が代弁することが本当にできるのか。→と思うとだんだんスピヴァクに興味が向いていくのですが、すぐには手を付けないかもしれません。

* * *

■糸山浩司他『宇宙と素粒子のなりたち』京都大学学術出版会、2013年。

むずい。まじでこんな内容で市民講演会やったの?と思った。

* * *

サントリーホールで、京都市交響楽団(広上淳一指揮)の公演を聴いてきました。
ニコライ・ルガンスキーがピアノソロを務める、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。
1階席6列19番の席だと、こう見えます。かなり近い。
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いい席でした。いい席だったけど、手をちゃんと見たいと思うと、もう5~6列後ろがよかったかも。ピアノの演目の場合、12~15列17~19番あたりが至適かと思いました。
この切符を取ったあと、著作権切れ(確か2004年)より前に3900円も出して買ったまま放置していたブージー・アンド・ホークスの楽譜を使い、予習として、ゆっくりならなんとか一通り弾けるように練習していました。ので、もう今日は気分はルガンスキー(笑)。いつも聴いてるピアノ協奏曲全曲録音がルガンスキーのものだったので、いちど生で聴きたかったのです。技巧派というイメージはそのままでしたが、意外と演歌な歌い方をする方かなという発見も。あと、でかい。広上さんが小さいので余計に際立つのか。

そのあとはマーラーの「巨人」で広上さん相変わらずのぴょんぴょん熱演ぶりを堪能。
隣の知らないおじさんとともに頭の上で拍手しました。なんかコージーでいい演奏会だったっす。

* * *

コンサートに合わせたわけではないのですが、飲み友に勧められて、タマーシュ・ヴァーシャーリというピアニストがグラモフォンで録音したラフコン全曲のCDを中古で買いました。感想:いい。自由。

* * *

先週のお仕事は、あまりハッピーではないお話で忙しかった。
体の調子を戻すのに土日かけてしまいました。
昼飯はサブウェイのサンドイッチだったので、夜はがつんと新小岩「ウッチーズ」でハンバーグ250gと大ライスをぺろり。
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2014年03月09日

久々に休んだ感じ

9時間寝て起きて、客用布団を干して、洗濯して、いろいろこなしてだらだらしてたら夕方。
半月ぶりにスポーツクラブに行って、錦糸町のアキンボで夕飯にしました。

夜のメニューは前菜3種とカレーのセットです。
奥からツブ貝(だっけ?)、豆、ピクルス。
ピクルスはキンカンとパプリカです。キンカンは最初「プチトマト?」と思って口に入れると、甘酸っぱいので驚きます。店主氏、してやったりのお顔。
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カレーは定番のチキンとラムキーマと週替わりから選びます。
今夜は、週替わりのサバカレー(大盛)にしました。直感が囁きました、絶対おいしいはずだと。
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あーーーーーーーー、大げさでなく、魂が浄化されるーーーーーーー。
さらさらのチキンカレーと違ってちょっとどろどろ感があって、しかも結構存在感のある甘みがあったんだけど、あれはなんだろう。玉葱だけで出る味じゃないよね。果物のチャツネのような……
幸せな気分で、なおかつ一口ひとくちを惜しみながらいただきました。
弊管理人が最も敬愛してやまないお店です。

* * *

いとこの子が大学に受かったそうです。
けっこういい国立の文学部。「センター試験で(多少)しくった」とのことで、当初狙っていた大学から少しレベルを落として2次で受けようと思っている何校かをピックアップしたところで伯母(当該受験生から見るとおばあちゃん)から弊管理人に相談があり、最も暮らしやすそうな都市を選んで「ここがいいんじゃない」と言っておきました。まあ足切りにさえ遭わなければ第1志望を諦める必要はないだろうとは思いましたけどね。

そのアドバイスのせいばかりではないでしょうが、その都市の大学を受けて桜が咲いたもよう。
いーなー、これから大学生か。専攻にかかわらず外国語、しっかりやってね。とおっちゃんは思います。

* * *

■Sen, Amartya, A Wish a Day for a Week, Penguin, 2014.

今年1月のジャイプール・フェスティバル(Jaipur Literature Festival)での基調講演です。

講演で何を喋ろう、と悩んでいたセン。だが、インドがGSAT-14通信衛星の打ち上げに成功し、「世界のエリート・クラブ入りした」とのニュースに触れ、想像力が飛翔する。そして上空にて女神the Goddess of Medium Things (略してGMT!!)に出会い、7つのお願いをするのだ。

インドにおいて人文学の教育を再興してほしい。右派にしっかりしてほしい。左派にもしっかりしてほしい。メディアには最も貧しい人たちのことをもっと取り上げてほしい(電力に対する補助金もいいが、電力が届いていない人たちへのケアの何と少ないことか)。根強い貧困の克服のため、子供への教育や予防接種を施し、女性を男性と平等に扱い、トイレのある家を与え、質の良い高等教育と持続可能な環境を与えてほしい。最近出てしまった同性愛禁止という、個人の自由に干渉するような司法判断をひっくり返してほしい。議論好きの国民性を活かして、さまざまな社会問題に注意が向くようにしてほしい―。

センのお願いを聞いたGMTは「それって全部、インドが自分でできることじゃん」と言う。「どうすりゃいいんでしょう」センは聞き返す。「ソーシャルメディアを使いなさい。それから、とにかく本を読むことです。つうことでそろそろ時間です。ジャイプール・フェスティバルにいってらっしゃい!」とGMTに送り出されたセンが演壇に降り立つ。「そんなわけで皆さんようこそ!」基調講演が結ばれる。
GMT=the Goddess of Medium Things=本という媒体medium、中庸、中範囲、中くらいなるものの化身との対話形式を借りた真摯な風刺と、颯爽とした言葉運びで駆け抜ける素敵なスクリプト!

2014年03月08日

こうや

土曜は四谷、こうやで2人晩飯。
ワンタン麺がうまいというのでいただいてみました。
900円(に、玉子を足して1000円)。
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麺に関して特筆すべきことはないが、大粒のワンタンは本場っぽい臭みがあって好きです。
白いスープは一見あっさり目かなと思いましたが、実は結構こってりしています。
一杯でおなかいっぱい。
青菜と椎茸の炒め物も一緒に頼みました。干しエビやニンニクが効いていてうまいです。
多分3、4人で来て、いろんな料理をつまみながらお酒を飲み、最後にワンタン麺を頼んで取り分けるのが上手な到達方法ではないかと思います。

【日曜】

上記料理、口は喜んでいたのですが、電池切れ間近の体には「これ以上負荷かけんじゃねえ!」と拒絶されたようで、日曜朝には腹痛とともにいそいそと排出されました。
2月中旬に休みを潰して集中的に仕事を片付け、下旬の台湾旅行で遊びまくり、帰ってきてすぐまた甲府と京都への出張準備のため休みを潰し、3泊の出張に出掛け、金~土曜日には遠方からの友人が家に来るという具合の生活だったので、自分でも分かるくらい体が極度に疲れていました。運動不足に陥っていたのも疲労感の一因かと思います。
土曜の夜に友人と飯を食い、ちょっとお酒を飲んで別れて帰りの電車に乗ると、弊管理人の電池マークが点滅。帰宅後、シャワーも浴びずに都合9時間寝ました。

2014年03月06日

ポパイ丼

出張ついでに久しぶりの友人に連れられ、大阪市北区神山町、くりやん。

ポパイ丼とな!
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中央のマヨネーズが醸す世界観w

もともとラーメン屋さんだが、ラーメンよりまかないの丼ものに人気が出てしまったとのこと。
夕方6時半から朝6時までやってるらしい。ほほぉ~深夜にこのカロリーは危ないねえ~

* * *

で、なんか消耗した出張はとりあえず終わった。2カ所で3泊。
今日は会社に戻ったら「いいところへ!」と仕事が一つ。
ちゃっと済ませて帰りました。あからさまに疲れてます。

2014年03月04日

ラーメン2題

在台湾友人によると、ご家族が日本でラーメンを食べたが大変しょっぱかったと言っていたとのこと。
そうかもな。ちょっとこってりに走りすぎている感はある。
ラーメンばかりが犯人ではないが、外国でメシを食うと、日本人の塩分摂取量がかなり多いのも体感できる。
とかいいつつ、

■新宿御苑前、「小麦と肉 桃の木」
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麺も豚肉もスープもマル。
麺を食べ終わったらそば湯でスープを割ります。
小諸そばの「香味豚そば」を食べる前だったらもっと衝撃だったかもしれないが(笑)

■京都駅近く、「新福菜館」
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すっごい色してますが、実際そこまでしょっぱくもないです。
老舗ねっていう味。タイミングが悪いと結構な列をなしています。
次は同じく黒いチャーハンを試してみたい。

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