◆カール・シュミット(中山元訳)『政治的なものの概念』光文社、2025年
学生時代に授業で読んだ時、なんとなく分かるんだけど何か遠い感じがしたまま通り過ぎ、シュミットの話をよくしていた同級生は自殺し、授業をやってた先生も夭逝し、しかしそのときの本は薄くて大きくもないので持ったまま引っ越しのたびに目にして「そのうちまた読もうかな」と思っているうちに新訳が出たのでした。
内容。
・「友」と「敵」の区別こそが政治の本質である。「あるものが政治的な行動であり、政治的な動機であるかどうかを判断するための特殊な政治的な区別は、友と敵の区別である」(p.27)
・友敵は善悪(道徳的なもの)、美醜(美的なもの)、利害(経済的なもの)とは独立のものである。(敵だから醜い、というわけではない)
・ただし、宗教的、道徳的、経済的対立などに十分な人間集団の凝集力があれば、友敵関係が発生することがある(eg. 宗教戦争、階級闘争)。「…このような闘争集団が結成された場合には、その対立の決定的な部分はもはや純粋に宗教的でも、純粋に道徳的でも、純粋に経済的でもなく、すでに政治的な対立になっているのである」(p.45)
→つまり政治=国家(近代国民国家)、ではない。国家のサブシステムでも政治は発生する。また階級闘争は国際的にも発生する
→一方で、典型的には政治は国家において現れる。「ここで問題にしているのは、…この区別の存在の現実性と、現実的な可能性なのである。…理性的に考える限り、諸国民がこの友と敵の対立によって結集していることは否定できない」(p.32)。国家は内戦を抑圧し、他国に宣戦を布告する。世界が一つの国家になることはない
・敵とは公的な性格のもの(ホスティス、ポレミオス)である。個人的な仇(イニミクス、エクトロス)だとかそういうことではない
・敵とは現実的な可能性において、自分たちと抗争している人間たちのことである。存在の否定を暗黙のうちに含む。物理的殺戮と関係する(cf. ホッブズの「自然状態」。つまり性悪説を前提にすべきである)
中山がニーチェを引きながら解説するところによれば、私たちの日常生活において使われている根本的な用語は、そもそも定義するということが非常に困難である(p.328)。シュミットは、政治的なもの=日常的に言及される「政治」の本質を示そうとする中で、根底的な――つまり別の概念によって説明されない――判断基準を考えた。それが友敵の区別である。これは無根拠・主観的なドイツ・ロマン派に失望し、裏付けのある「決断」を見いだす試みでもあったらしい(p.365-)。
しかし、だから何なのか。この疑問は今回の本に収録された1932年・1963年版と、1933年ナチス版で実質2回読みしてもよくわからなかった。それには解説が一定答えたように思う。
敵の概念をさらに検討した『パルティザンの理論』で、敵は3種類に分かれている(p.337-)。
・「伝統的な敵」 近代国民国家成立以前の戦争にみられた敵。1648年以降、勢力均衡と戦争抑止の流れの中でヨーロッパは戦争の相手の有罪化を断念し、他国の殲滅を禁止し、絶対的な敵を否定し、正しい戦争を戦うことにした(ヨーロッパ公法体制)
・「絶対的な敵」 フランス革命やマルクス・レーニン以降、ナショナリズムや階級闘争により他国の殲滅をいとわなくなった時代の敵。「人道の敵」という敵概念であっても結局は同じことで、存在の否定や他者の犯罪化を志向する
・「現実の敵」 これが『政治的なものの概念』の敵概念に近い。現実の場面における敵。イデオロギー駆動ではなく、戦うべき時において戦う相手。適切な方法を考え出し、戦う。ヨーロッパ公法が失われて戻らない現代において、「絶対的な敵」を想定した殲滅戦にいってしまわないよう、この「現実の敵」概念によって戦争を枠づけ、制限し、相対化する必要があると考えた
この解説を受けて、弊管理人のふわふわ理解を書いておく。
シュミットの敵概念は、根本的な対立のイメージやナチとの関連から一見「絶対的な敵」であるように思え、その帰結は殲滅戦であるような印象を持ってしまうが、そうではない。イデオロギーからも利害からも、他のすべてからも隔絶された純粋な敵、現代風にいうと「ゲームにおける敵」なのではないか。とにかく今ここで「あちらが敵」と設定されているので敵。そうすると戦争も、始まりと終わりとルールのある戦いになる。カイヨワを連想しながらそう考えると、確かに本性として人はついゲームを始めてしまうし、それは、ある時ある場面における孤立した営みにしかならない。確かにシュミットがいうように、友敵の区別は実存とは関係なく、どこかで発生し、与えられるものである。全面・全力・殲滅に突き進む戦争の危なさへのアンチとして、確かに面白い議論だと思う。シュミットってそんなまともな人なん?という疑問はよぎるが。
すると次に、後半の国家論批判は何の利益のためにやっているのか、という疑問が浮かぶ。特に自由主義批判をやりながら終わっていくが、取り残され感はある。これも「性善説に基づいた自由主義にとらわれていると、決定的な瞬間に国家が敵認定をすることができず危ない」という警告らしいが、解説を読むまで分からなかった。本文を読めてなかっただけなのかもだが。
「何を言っているか」「何を論駁したかったか」は分かるとして、やはり「何を実現したかったのか」についてはもうちょっとすとんと落ちる体験がほしかった。シュミットの作品では次に『政治神学』にいこうかなと思っていたが、同じ人の他の作品よりは、応用を見せてくれる別の人のところに行くべきかもなと思った。といいながらちょっと暫くシュミットはいいわ。消化を待ちつつ、とりあえず別んとこ行こ。