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2000年04月 アーカイブ

2000年04月15日

新年度早々気が落ち着

新年度早々気が落ち着かない日々が続いている。将来に亘って自分を拘束するに足る職業を探して東京をかけずりまわる。電車で何10キロを移動しながら窓の外に目をやる。便利で快適な電車の旅、そこにあるのは死のイメージだ。
おそらく人間は自分が走れるより速く移動したり、自分が飛び上がれるより高く上ったり、自分が潜れるより深い水の中に入ると、死に易くなる。電車がカーヴにさしかかって車輪がレールの外に出ただけで、普段は気付かれないように・しかし常に寄り添っていた死がふりかかってくる。つい今まで隣に座っていた人間にそういう死がふりかかってきたとき、私もまた自らの脇でその発現を待つ死の存在に気付くだろう。そして自らと死を分かつものがいかに不安定なバランスの上に立っていたかを見とめることになるだろう。

しかしながら、それは自分の終わりが近いこととは違う。違いは「明日死ぬかもしれません」と「明日死にます」のように極めて明確である。前者の場合は「明日死なないかもしれない」が同時に言えるが、後者については言えない。確定しない死はつまり、普通に生きていることと何ら変わらないのであって、「私は死ぬかもしれない存在だ」ということを意識したり知ったりしている状態は、それを意識しなかったり知らなかったりしている状態とあまりかわっていない。無駄に終わるかもしれないことがわかっていても、明日に投資することには意義があるのだ。「明日生きているかどうかわからないのにどうして投資なんて」という気持ちになるとしたら「明日死なないかもしれないのにどうして投資をやめたりするのか」を問い返してみるといい。そしてさらに、おかしな表現だが、経験上、明日になって死んだ経験より、明日になっても生きていた経験がはるかに多いのだ。円滑な日常生活はそういう問いの忘却によって何とか成立しているのではないかと思う。

そこで投資をやめる。それはどんな時。「肉体の死」のあとの生を考えること?違う。その、「あとにくる生」もまたそれが生である限り死から逃げることはできないからだ。投資の意義が薄らいでいくとき、それはそのとき目前に迫っている死が最後の死である(と信じられている)ときだ。しかし、それは明日を満足に生きるための投資の意義を薄れさせたとしても、実際にその状況に直面したどんな人にも投資をやめさせるインセンティヴになりうるだろうか?ある人はそれでもなお意義のない投資を行うのではないだろうか?

(20000415)


[シュウカツ中に書いたみたいです。かなり疲れていた様子。―2006/6/29]

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