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水俣

石牟礼道子の『苦海浄土』を読んで旅心を誘われたのが2021年夏。しかし疫病下・渡米まで2カ月の時点で旅行をしている余裕もなく自分が苦海に旅立ってしまった。今年2月に帰ってきて飯を食いながら、同級生女子(公害は専門外の社会科学系学者)に「水俣行かない?」と軽い気持ちで水を向けたら、食い気味に「行く」と言われたので行ってきた次第です。現地を見てみたいというのがメインの目的で、学者の巡検も見てみたいというのがサブ。結果、めっちゃゴリゴリいろんなところを回りました。

以下は主に水俣病歴史考証館(・、上の写真)と水俣市立水俣病資料館(○)を中心に見聞きしてとったメモを印象が強いうちに速報重視で(ここ重要)まとめたものです。厳密な検証はしていません。論点の網羅も目指してません。▽はその下にある写真のキャプション。

* * *

▽空港降りたら至るところでくまモンとワンピース推し
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▽これが考証館。空港から車すっ飛ばして1時間半
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【チッソ以前の水俣】
・天草・島原の乱で天草の人口が激減し、幕府の直轄地になったあとに他から移住を促して人口がまた増えた。反乱の再発を防ぐため、農民と漁民を分けて統治しており、漁民は農民より地位が低かった。天草の生活は厳しく、身売りの文化もあったよう。牛深には「ハイヤ踊り」があるが、これは売春宿の「はいんや(入れ)」という呼び込みから来ているとの説もある
・明治にかけて天草の漁民が水俣に移住した。そこでも漁民は零細で、自給自足に近い漁業をやっていた。水俣病の発症者にも天草出身の人が多かったといわれている

・それまでの水俣の一等地はお城の周辺の城下町。水俣には居住地に応じた序列、差別意識があった。土着の上流層やチッソ高級社員が住んだのが城下の陣内。川を下った浜町は商人町、さらに下った船津や、水俣川を越えた猿郷は最下層。半農半漁の湯堂や、漁村の茂道は町からすると「外部」。農民は漁民を蔑視、定住民(地五郎、じごろ)は漂泊民(流れ、なぐれ)を蔑視した
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・海側には1667年から続く塩田があり、農閑期の副業として塩を作っていたが、日露戦争の戦費が嵩んだのを機に、国が効率の良い(大規模な)塩田で専売を開始した。水俣の塩田は質が良かったものの規模は大きくなかったためにやっていけなくなった

▽城跡から見た市街地。城山公園には西南戦争の薩軍慰霊碑、日露戦争から大東亜戦争までの戦没者慰霊碑、遺族会があった
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・そこにチッソが誘致されてきたのが1908年。2年前に野口遵が現在の鹿児島県伊佐市に曽木電気を設立し、近隣の金鉱山に水力発電の電気を供給。余った電気の活用のため、日本カーバイド商会を設立し、水俣村に工場を作ることになった。1908年に両者が合併して日本窒素肥料株式会社になり、化学肥料を製造した

▽チッソ本社脇の看板。2011年から事業会社のJNCと、患者補償のチッソに分かれている
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【チッソ進出】
・地主は工場に小作人を取られるとしてチッソの立地に反対したが、結局は開業した。工場勤務の環境はよくなかったが小作人をやっているよりはましで、賃労働者を多く生み出した。工場としても安い労働力が得られた。学校へ行かせるより工場、という親も。工場勤務は「会社行きさん」と呼ばれ、優秀な人が入った

○チッソが水俣に進出してまもなく街の中心部には電灯がつき、1926年には国鉄肥薩海岸線が開通した
○1930年代には日本の代表的な化学工業企業に成長。ピーク時には水俣市の税収の半分がチッソ、市街地の4分の1がチッソ関連用地ということがあった

▽往時を偲ぶ?パブ・スナック「PART II」と書いてある
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・市議の半数がチッソ関係者だった時期もある。人口は今は2万人だが、最も多かった時は5万人。映画館が4つもあった
・チッソは憲兵と一緒に朝鮮に進出し、日本人工員以上に植民地の労働者を酷使した。植民地マインドの幹部からすれば、水俣の漁民も同じように見えたのかもしれない

【操業拡大と汚染拡大】
○チッソは1932年、プラスチックの可塑剤(材料を柔らかくする薬品)原料のアセトアルデヒド製造を開始。当初から排水による汚染で漁協との補償交渉が起きている。工場排水で水俣湾に流れ込んだ水銀は70−150tといわれ、汚泥の厚さは4mに及んだところもある。工場は50年ごろには空襲から回復し、アセトアルデヒドの生産は50年代に急増し、60年にピーク

○1949−50年度にはタコやスズキなどが浮き、手で拾えるようになったほか、百間の工場排水口付近に舟をつなぐとカキが付着しないことが知られていた。51−52年度には湯堂、出月、月浦などでカラスが落下したり、アメドリを水竿で叩いて捕まえられたとの記録がある(水俣病研究会「水俣病に対する企業の責任」)

▽ヘドロを埋め立てたエコパークから見た恋路島
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・ちなみに百間排水口はもともと、塩田の水を調整していた塘(とも。堤防)。今は埋め立てられた排水口前は馬刀潟(まてがた)という干潟があり、貝や蟹がとられていた

○市漁協が実態調査を県水産課に要望し、1952年には県がチッソ水俣工場に報告を求めた。8月には県水産係長が現地調査。排水と百間港に堆積した残渣によって漁獲が減少したと結論づけ、排水の分析と成分の明確化が望ましいと指摘している。酢酸工程の原材料として「水銀」も明記されていた。しかし報告書はその後埋没

▽百間排水口。振り向くと地蔵がいる。「水俣病巡礼八十八カ所 一番札所」と書いてあるが一番しかないらしい
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○1954年6月以降、茂道では猫がほとんど死んでしまい、ネズミの急増に困った漁民が市の衛生課に駆除を申し込んだとの新聞記事が出ている。だが市はネズミの駆除剤を配っただけで、原因究明には動かなかった

・「チッソあっての水俣」と言われる中で、水俣病の被害を訴えるのは大変だった。立場の弱い漁民に蔓延した病気は当初「腐った魚を食べたのでは」「不衛生だから」「ハンセン病」「近親相姦では」などと受け止められた。街の住民に発症していたら、もっと問題化していたはず
・魚は回遊するため、被害は不知火海沿岸の一帯に広がった。北は八代でも患者が認定されている。毛髪の水銀濃度は最大で920ppm、これは御所浦島の人。平均的な日本人は2ppm

▽1954年、猫が全滅したと報じられた茂道
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【患者の公式認定】
○1956年5月1日、水俣病の公式確認。この日は水俣港が貿易港として開港し、石炭を積んだ最初の船が外国から入国した日でもあった。開港を祝って始まった「みなまた港まつり」は今でも名前を変えて存続している

▽月岡漁港から続く坪谷地区。家の前まで船でいけるよう
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▽船が出入りしていました
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○1956年5月28日、市と地元医師会、県水俣保健所、チッソ附属病院、市立病院が「水俣市奇病対策委員会」を組織市、実態把握と患者対策を開始。一定期間に多数の患者が発生したことから感染症の可能性も疑われ、消毒や殺虫剤散布も行われた。主要症状や発生時期のデータが集められ、熊本大の研究の支えになっていく。8月には県が厚生省に水俣病の発生を報告

○患者家族は医療費がかさみ困窮。水俣市は「疑似日本脳炎」として入院費を公費負担。熊本大は患者を「学用患者(研究対象)」と扱って医療費負担がかからないようにした

【原因究明が始まる】
○1956年8月、熊本大「医学部水俣奇病研究班」が組織。11月には感染症の疑いがほぼ消え、重金属(この段階では特にマンガン)中毒が疑われることや、人への侵入経路として魚介類が疑われること、汚染原因としてチッソの排水が考えられることが報告されている。水銀は分析途中で加熱した際に気化して散逸していたため当初は検討対象に上らなかったが、他の有機水銀中毒患者の症状と一致することから、58年以降には有機水銀に研究の的が絞られている

○57年からは熊本大の要請で、県が水俣湾の魚介類を猫に与える実験を開始。チッソ内部でも細川一医師が工場排水をかけた餌を猫に食べさせる実験をし、59年に「400号」の猫の発症を確認した。しかし報告を受けた工場側は結果を公表せず、実験を中止させた。チッソ内部の実験が明らかになったのは、70年に水俣病第1次訴訟で細川氏が証言したため

▽百間のヘドロ。汚染がひどいときは、フジツボやフナクイムシが船につくと、百間に船を浮かべていれば取れると言われた
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・チッソ内部の実験では、猫に汚泥を混ぜた餌を食べさせて発症を確認していた。猫が漁村にいっぱいいたのはネズミの駆除のため。しかし猫をたくさん捕まえるのは大変なため、猫を附属病院に持っていくと500円もらえるということがあったそう

▽・下のは考証館にある、チッソで実験使用された猫の飼育小屋。チッソにあったものを、退職者から寄贈してもらった。おそらく猫の実験のあとは物入れのような別の目的で使われていたため残っていたのだろう
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【漁協は排水停止を求める】
○1956年は経済企画庁の経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」が流行語になった年

○1957年には市漁協が排水停止と浄化をチッソに要求したが対策は取られなかった。59年11月にはデモ隊の一部が工場に押し入る。同月、排水停止がチッソの操業や経営に悪影響を及ぼすとの懸念から、チッソの生協である水光社が知事あてに「工場排水停止への寛大な配慮」などを求める決議文を出している

▽チッソの生協、水光社。Since 1920っていろんなところに書いてあった。別棟で外商部もあった。企業城下町
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▽水光社の脇にあった江口寿史のマンホール。水俣出身らしい
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○1958年9月、チッソは排水を「八幡プール」経由で水俣川河口に放流するよう変更したが、河口付近の漁民に新たな患者が出た。行政の指示もあり11月に停止し百間に戻した。この変更に関してチッソ社長と工場長が業務上過失致死の有罪判決を受けている

▽これは考証館の外に立てかけてあった排水口の樋門。youはどうやってここに?
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【チッソは見舞金を支払う】
○1957年8月、患者家族が「水俣奇病罹災者互助会」(→水俣病患者家庭互助会)を結成
○1959年には熊本大研究班が、水俣病が魚介類を介した神経系疾患で、汚染毒物は有機水銀だとの結論を正式発表した

○1959年11月、互助会がチッソに被害補償を要求し、工場前での座り込みを開始。12月に知事を委員長とする紛争調停委員会が介入、互助会内で意見が分かれたが、最終的に契約締結

・チッソからの「見舞金」支給は、「工場が原因と決まっても新たな補償はしない」との条件付きだったが、経済的に苦しかった患者は飲まざるを得なかった。のちにこの契約は裁判で「公序良俗に反する」として無効になった

○チッソの工場排水による汚染と、漁民との紛争は1920年代から起きており「永久に苦情を申し立てない」という条件でチッソから漁協に見舞金が支払われた証書が残っている

【支援が入ってきた】
○1959年のサイクレーター設置(浄化措置。水銀除去機能はない)や見舞金契約で水俣病問題が終息したとのイメージが広がり、患者や家族が孤立化

○1967年、新潟水俣病第1次訴訟が提起されたのをきっかけに、原告が水俣訪問を打診。水俣病の原因究明や患者・家族支援が必要との認識が広がる。1968年、被害者支援の「水俣病対策市民会議」が発足。患者がチッソとの裁判に入る1969年には「水俣病を告発する会」が結成。東京などにも支援が拡大した

・相思社は1974年に形成。初期メンバーには「労働党」(新左翼政党)の人もいた。1988年に水俣病歴史考証館が開館

▽相思社
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・相思社ももともと患者支援をやっていた。患者は裁判に勝って補償をもらったが、裁判以降の生活にも支援が必要だということで。70−90年代の未認定患者運動の支援もやった。魚介類の水銀分析を要求したりとかも

▽小高いところにあった
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・水俣の運動は学生運動の時代。「三里塚か水俣か」。セクトがあまり入らない運動だったのが水俣の特徴。労働運動からの流れで参加した人、実践学校(のち生活学校、1年間のコース)で入ってきて、そのまま残った人もいる
・90年代にもまだ若い人が入ってきていた

【胎児性患者が確認される】
○1961年には死亡した2歳女児を熊本大が解剖し、胎児性患者を確認。50年代から脳性麻痺に似たような症状の子どもが多発し、水俣病との関連が疑われていたが、それまで胎盤は毒物を通さず、子どもを守るものだと考えられていた。経胎盤での中毒発見は水俣病が世界初

【行政をチッソを止められない】
・市はほとんど何もしていない。そのためか熊本県や国は裁判で責任を問われたが、市が問われたことがない。一方、浮池市長(70年代)は「世論を敵に回してもチッソは守る」と発言したこともある。90年代になって吉井市長が初めて公式に謝罪している。現在はまたチッソ寄りの市長の2期目

▽チッソ正門。夕方だったので帰宅する社員?の車がばらばらと出て行った
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・チッソは総資産で日本の6位か7位まで行き、塩ビ原料のシェア80%を占めたこともある。公害が出たからといって、国はチッソを止めることはできなかった。公害認定は68年だが、これも水銀を使う生産方法から石油を使う方法に切り替えができたから

・水俣病の広がりを止めるタイミングは何度もあった。猫の実験で内部では原因が極めて早期に推定されていた。だが原因物質が特定できていないという理由で汚水の放出を止められなかった

【研究者や報道が水銀説を相対化する】
・旧軍が沈めた爆薬が原因などとチッソから視点をずらすような説を唱える科学者、それを大々的に取り上げる新聞など、学者やマスコミも見当違いの見解を広めた。熊本大は当初頑張って有機水銀説を出したりしたが、全面擁護の姿勢だったとは言いにくい

○1959年8月、水俣市を訪れた東工大の清浦雷作教授が「水銀説の公表は慎重にすべき」と発表。9月には日本化学工業協会の理事が「原因は終戦時に捨てられた旧海軍の爆薬」と発表。60年には協会の懇談会で「有毒アミン説」が発表された。それぞれ報道され、「有機水銀説は絶対ではない」とのイメージが広がった

【原因特定と公害認定】
○62年、熊本大の入鹿山教授が工場の水銀かすと水俣湾のアサリから原因物質と考えられる塩化メチル水銀の抽出に成功。63年に熊本大研究班での発表が報道され注目された。この後の国会質問に厚生省が「必要な措置を検討する」と答えたが、具体的な行動には至らなかった

▽なおこれは「南里」の貝汁・炊き込みご飯セット。アサリ汁うまかったです
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○1968年9月、園田直厚生相が、水俣病についてチッソ水俣工場のアセトアルデヒド・酢酸製造工程中の副産物であるメチル水銀化合物が原因との公式見解を発表

【裁判闘争】
・68年の公害認定以降、やっと外から支援が入ってくる。チッソでも労組が分裂し、一部が被害者側についた(※第1労組、第2労組、といった言葉を市中でも聞いた)
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・チッソとの交渉方針によって3派に分かれる
 (1)一任派。低額の補償条件であっても国に任せる。争いを避ける保守的な解決だが多数はここ
 (2)訴訟派
 (3)自主交渉派。新認定患者の補償額が決まっていなかったことから、川本らが東京本社前で座り込み。1971年10月に直接交渉開始、73年3月には第1次訴訟に勝訴した患者や家族が合流し、東京交渉団を結成。現在も補償の基礎となる「補償協定」が締結された

○1969年、チッソに補償を求める患者による「熊本水俣病第1次訴訟」。被害や差別などへの思いを込めた「怨」の旗(怨旗=おんばた)が支援の中で使われ始め、闘争のシンボルとなっていく
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・1973年3月、患者側が勝訴。8月に環境庁で補償協定が結ばれ、3派がまとめて救済される。ただ一任派に対しては「戦ってないのに」との悪口も聞かれた

○補償を受けるためには法律に基づく認定が必要となるが、認められない人たちが続出。国や県の責任を問う声も上がり、1980年5月に「熊本水俣病第3次訴訟」が提起。95年の政府解決策につながっていく

【未認定患者問題】
・○患者の高齢化が進む中、村山政権下で解決への動きが活発化。1995年9月には与党による最終解決案が提示され、12月までに合意成立。熊本、鹿児島で計約10000人が救済を受け、大半の裁判や認定申請が取り下げられた

○1995年の政府解決策を拒否して唯一続いた裁判が、八代海沿岸から関西に移り住んだ人たちの「関西訴訟」。2004年最高裁判決で国や県の責任が認められ、新たに多くの認定申請が起き、裁判による補償要求も起きた。早期救済のため、2009年に水俣病被害者救済特措法が成立。政府の責任を認め、「水俣病被害者」を初めて明記。四肢末梢優位の感覚障害がある人らにチッソが一時金を支払うことや、水俣病被害者手帳を交付して国、県が医療費と療養手当を支給するとした。熊本、鹿児島で計約53000人が救済

○未認定患者遺族による認定請求裁判で2013年、最高裁が患者と認める判決。蒲島知事が謝罪。判決では、一定の症状の組み合わせを認定の根拠とする「52年判断条件」は合理的としながら、その組み合わせがない場合も「総合的検討」が求められるとした。環境省が2014年に「総合的検討」を具体化した通知を発出、それ以降の基礎になった。一方で、「52年判断条件」そのものの見直しを求める声も被害者・関係団体から出ている

【「水俣病」名称問題】
○1957年、学術誌で「水俣病」が仮称として使用され、翌年には新聞各社が呼称を拡散。当時から市議会では「観光などの面で悪影響があるのでは」と懸念があった。その後、市のイメージ低下、就職・結婚差別から1973年には市内で大々的な病名変更運動が展開された。病名変更署名は有権者の72%を集めた。市長が環境庁などに変更陳情したが、見直しには至らなかった

▽チッソの横くらいにこういうのが立っていた
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・1970年代の市のアンケートでは90%が「変えたい」と答えたこともある。言う人の立場はいろいろ
○1999年のアンケートでは「変えてほしい」は38%、「変えてほしいとは思わない」が41%
・ただ名前を背負ってきた患者からすると、水俣病という名前の消滅は存在の否定だという人もいる

【もやい直し】
・90年代「もやい直し」が始まる。90年に埋立地が完成、吉井市長が謝罪と共に打ち出した考え方。元は患者から出てきた言葉だが、多分に精神的な意味であったのを、行政がエコパーク整備など、まちづくりの標語とした面がある。そして予算減とともに停滞。患者には「補償も認定もない中でもやいと言われても」という反応もある

▽リサイクル産業などが集積するエコタウン。洗濯機が山積み。水俣ではごみが23種類に分別されているとのこと
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・今も「利権」「患者のように見せるために訓練している」という人もいる
・50−60年代の劇症患者が認定される一方で、手足の感覚障害など軽症の人は手帳を取っても家族にも言わない人もいる。手帳をもらった人の中にも劇症患者を差別した側の人が混ざっていて「手帳は持っているが自分は水俣病ではない」という人、「いじめた側が手帳取ってるぞ」という劇症患者も

▽もやい館。スローフードのイベントが開かれていた
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・学校教育では、語り部の話を聞いたりという機会はあるが飽きる子どもも出てきている。同じ教室にチッソ社員の子どもがいる中で、どこまで企業責任の話ができるかという難しさもあり「差別はいけません」で終わることも。(別の人の話では、そういう学習をやる年長世代の先生の集まりもあるが、水俣病のことをもう扱うべきでないという参政党の市議が誕生したりもしている)

【仕切り網、甘夏】
○県は1957年から水俣湾で獲れた魚介類の食用自粛指導。市漁協には湾内の漁獲自粛を行政指導。漁協は57年8月から湾内での漁獲を自主規制、60年に規制範囲拡大。64年に規制解除したが、熊本大研究班が「まだ危険」と発表したのを受けて、改めて規制区域を設定した
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○1973年の熊本大研究班発表で水俣湾と周辺の魚介類の危険性が指摘されると、八代海の魚の値段が暴落。沈静化のため、県が1974年に水俣湾口に仕切り網を設置し、汚染魚の封じ込めを図った。漁価は急速に回復した。すべての魚種の水銀レベルが規制値を下回って安全宣言が出たのは1997年7月。網は10月に全面撤去された。チッソの漁業補償も終了

・水俣湾の汚染によって漁業ができなくなった漁民は柑橘の栽培を開始。現在は代替わりしながら続いている

▽段々畑
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▽甘夏?の木々の間から袋の港が見える
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【感想】
・不知火海沿岸の八代、水俣、天草諸島は内海につながれた一体の地域(環不知火)であった

・著名な公害病で、外の人たちから70年にわたって散々眼差された後を見に行ったせいか
 (1)患者―近隣―市民・チッソ―外部、の各領域をまたぐ差別/支援の構造
 (2)社会、法律、感情、科学の領域
といった複雑なものが既にきれいに整理され、大体のものになめらかな説明がついていた
・「水」を通じた「食物」の「汚染」で多数の人が「死亡」した公害の歴史化にあたって、「SUP」や「無農薬」の甘夏、「いのち」、「エコ」が対置されているのもいかにも図式的だと思った

・市民社会側(考証館)と自治体側(資料館)の歴史認識にあまり大きな違いがない印象だった(表現の婉曲ぶりや、江戸期からの住区と階層への言及の有無、認定患者―未認定尾・手帳取得者の間のわだかまりなどへの言及の有無といった差はある)のも、時間による熟成を感じさせた

・弊管理人がちょっと知ってる三里塚(闘争と和解としこりの流れとか、出来事が歴史になる・なりきれていないタイムスパン)と、福島原発事故(依存しているものが加害者になること、加害者側の子がいる教室)と比べながら見た

・ほとんど意識したことがなかった「歴代市長」が局面を画しつつ、一方で責任主体としての
市の存在感が、県や国と比べてほとんどないことがかなり不思議

・水俣病展が来年、東京であるらしいので見に行くぜ

水俣~天草、天草~熊本の日記に続く。

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2025年11月03日 11:50に投稿されたエントリーのページです。

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