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2005年12月 アーカイブ

2005年12月28日

悲しいの霧散

ふつうに生きててもいろいろ悲しいことはありますが、それを霧散させてしまうには視点をものすごくマクロにとってしまうのが手っ取り早いと思います。
自分と同じ悲しさを抱えていながら、もっと堪えられない気持ちの人が相当いるはずだという考え方もそうですし、人の死だって歴史上いくらでも起きてきた同じ出来事と何ら変わらない平凡なものと考えれば悲しむ理由がわからなくなる。人類の滅亡でさえ宇宙の片隅で一瞬ライトが点いて消えたくらいの出来事。
もちろん自分の身の上や周りに起こるいろいろなイベントによって、ミクロな一喜一憂に引き戻されることも自然。ほんとうはミクロとマクロとを意識的に往復できれば少しラクになれるのですよね。

というわけで多分今年最後の更新です。また来年。

2005年12月24日

『西洋音楽史』

岡田暁生『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』中公新書、2005年。

特に最終章が音楽版『近代化の理論』だなっと思ったのは富永本のすぐ後に読んだからかしら。
中世からバロック、古典、ロマンと通って、第二次大戦あたりまでの西洋音楽史を通観しとります。といっても、著者が意識しているように「誰が何年にどこで何を作曲しました」という史実の羅列ではなくて、そうした個別の史実を繋ぐ「時代性」みたいなものを描き出そうとしている本です。

宗教(中世)→貴族のカルチャー(バロック)→市民のカルチャー(古典)→「芸術」と「娯楽」への分裂(ロマン)→「実験」(12音技法など)と「名演」(ブーレーズの指揮転向など)と「大衆受け」(アングロサクソン系ポピュラー音楽)への分裂、(と、それらの統合例としてのモダン・ジャズ)

てな感じで、世俗化→広域化→専門分化というまさに「近代化」!のストーリーが非常に分かりやすく書かれてます。
で、本書に挙げられている名曲なり名演なりを実際にCDで聞くと楽しさ倍増というわけだ。パチパチ

2005年12月23日

今月、今週までのNAXOS

■Bolcom: Music for Two Pianos (8.559244)
アメリカの作曲家、ウイリアム・ボルコムの2台ピアノ作品。ミヨーの弟子なんですか、ほー。ペケポコ、パーン。

■Bolcom: Songs of Innocence and of Experience (8.559216-18)
CD3枚組!少年時代に書き始めて、完成・初演がオッサンになってからだそうだ。
ソロが13人にオーケストラ(ミシガン大オケ、うまいな…)つけるという物量豊富な構成だけど、1曲1曲は懐メロっぽくてなかなかよいよ。

■Brahms: Variations, Op.21 / Five Piano Studies (8.550509)
ブラームスの2つの変奏曲と5つの練習曲を収録。バッハから借りての練習曲はちょっとどうよ。他はよいね。難しそうだけど。
シャコンヌは最近はやりの左手レパートリーにどうぞ(誰に言っておるのか)。(12.23)

2005年12月21日

こんぷらいあんす

マンション問題で登場した「アネハ」(耐震強度を偽装した建築士)と「シノヅカ」(コストダウンの圧力をかけた建設屋)の二人は、本当のことを言っている気がします。

アネハ曰く「自分は『(法令の範囲内では)これ以上無理』と言ったのに『もっとやれ』と言われたので、法令違反をしろと言われたと思った

シノヅカ曰く「コストダウンしろとは言ったが、法令の範囲内でのつもりだった

つまり二人が実際に交わした言葉の上では「法令違反になるかどうか」は全く登場せず、二人とも自分に都合の良いようにそのポイントを勝手に解釈していたんでしょう。

★★

成田空港の電気設備工事をめぐる官製談合事件で、東京地検に競売入札妨害容疑で逮捕・起訴された現職部長2人と、逮捕はされなかったが入札前に業者の割り振りに加わっていた現職課長1人が懲戒解雇されました。

自分自身が業者から接待を受けるとかではなく、OBが天下りした企業だとか、新設した設備のメンテナンスなど先のことを考えてのことで、しかも代々の課長に受け継がれていたことだからやっちゃった、という。「いち歯車として前任者もその前もやっていた仕事を淡々と引き継いでいたら、運悪く摘発された」というパターン。

★★★

自分も会社員で、しかも仕事の内容が時々法律ギリギリだったりするので、なんかこの2つの事件を見て考えさせられることが多かった最近です。

安全飛行すると仕事の能率が上がらない、
しかしアクロバットはリスクを伴う。

で、リスクが顕在化したときに、会社は何というかというと「個人の問題であって、組織ぐるみではない」。「仕事の能率を上げるのは必要だが、それは法令遵守の範囲内でというのは当然だ(言うまでもない)」といったところか。

会社のためにリスクを犯すことのわりにあわなさ。

★★★★

大きい会社とか、古い会社みたいに、個人の多少のパフォーマンスの悪さが目立たない組織だったら、出世なんかどうでもいい、安全に生きようということもできるでしょうが、そうでなかったら。

法の限界を超えるかどうか、目の前の選択に生活がかかっていたら。

2005年12月19日

たまには日記を書く

寒い。

2005年12月08日

『近代化の理論』

■富永健一『近代化の理論 ―近代化における西洋と東洋』講談社学術文庫、2004年。
夏くらいに買ったような。たまに乗る電車の中などで少しずつ読み進めてやっと終わりました。もともと放送大学の社会学講座用テキストを再構成したもので、「わかる人だけ分かればいいよ」的な学術書と違って、非常にわかりやすく書いてあるので、ためになりました。
社会が総体としては複雑になり、広がる一方で、構成する単位はどんどん小さくなり、専門的に特化していく(近代化していく)過程を、「家族」「組織」「地域社会」「国家」といったいろいろなレベルで言葉の定義の確認とともに解説=体系化してます。
最後の「ポストモダン批判」と「高齢化社会展望」はまあ同時代を扱っているので版を重ねたらもう少しアップデートしてほしいと思います(つまりちょっと古めかしい)が、全体的には「読んで得する歴史教科書」ってところでどうでしょうかね。

2005年12月07日

さようなら、さようなら

ちょっと前から、去年9月以来やっていない遺書の改訂をしてます。
別に死ぬ気もないし死ぬとも思ってないけど、自分の歳だといざ死ぬときは周りの人にさようならを言う間もないケースだろうと思うので、
(1)情緒的なこと
(2)実務的なこと
の二つを書いておこうという気になったわけですね。

意図する/しないに関わらず故人に嫌な思いをさせてしまった人は、生き続ける限り謝罪や赦しを得る機会をなくしてしまうだけに、死ぬほうとしても人間関係の清算は案外責任重大だと思います。自分の美学としては、近しい人たちに向けては「ありがとう、色々あったけど思い返せば出会えてよかった」と言い残して逝きたい。まあなかなかそう思いがたい人もいるかもしれないけど、やっぱりここは頑張って「ありがとう」方向に気持ちを向けておくべきで。これが(1)のメインの内容ですね。
あとは特に書き漏らしがないように。「お世話になりました」系とか特にですねw
逆に密かに好きだった人に「好きでした」と言うかどうかは微妙なところだな。

(2)は残務整理の労を減らすためのもの。独り暮らしが長いと家族でさえも知らない自分の生活というのが随分大きくなるので、見てほしくないものとか、逆にもろもろの手続きに必要な書類がどこを見ると発見できるかとか、さらに自分が死んだことを誰に伝えてほしいとか、葬儀や埋葬は寺や関係者と軋轢を生まない程度に質素にしてくれとか(「散骨してくれ」とかイレギュラーなこと言うと案外遺族の手間が増える)いったことを書き残しておくわけ。

(a)自分が死んだあとの世界などどうなろうと関係ない
(b)そもそも自分が死んだあとに世界などない
という考え方もそれはそれでアリでしょうが、自分の場合はずいぶん世界からお世話になっていると思うので(a)とは思いにくいし、(b)はいざ自分が死んだあとにも世界が存続していた場合に手の打ちようがないので、生きているうちにできる用意はしておこうと思った次第です。

しかし実際始めてみると案外遺漏が多いような気がして、いつ終わるのかねこの作業、って感じになってきてしまいました。いつのまにか年賀状作りにかまけてしまいそうな気もします、が!

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