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2016年05月 アーカイブ

2016年05月29日

5月終盤あれこれ

わりと考えさせられたお台場での仕事を終えて、新宿駅の「ベルク」で16時に遅い昼食。
ホットドッグブランチ、ホットコーヒーをアイスに換えて+50で550円。
160529berg.jpg
特に期待していたことはないのだけど、じわっとおいしかった。

* * *

大学時代の同級生2人と「悲情城市」を見てきました。

* * *

眠れる時間が延びてきた。
なんでだろう。

* * *

■江守正多『異常気象と人類の選択』角川マガジンズ,2013年.

弊管理人が今後、仕事でこの分野にかかわることになったことを知った同僚が貸してくれた本。
エッセイ(随想+試論)だった。でも、いくつかの言葉を新しく知ることができた。

2016年05月24日

表現の自由

■Warburton, N., Free Speech: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2009.

『「表現の自由」入門』という訳書のほうを本屋で先に見たのですけど、アマゾンではその半分以下の値段で原書が買えたため、そっちを読むことにしました。

ヘイトスピーチの問題で、表現の自由になるべく手をつけずに攻撃される側の負担を軽減するには、内容と形式を分けて、形式(騒音レベルとか)のみに対して規制をするというのがいいんじゃないかなと個人的には思っています。が、まずは表現の自由って何よというあたりをささっと見たかった。

以下メモ。5章と終章はあまり興味が惹かれなかったので簡略に。

【第1章】

・「おたくの意見には反対だが、その意見を言う権利は死守する」というヴォルテールの言葉にあるように、表現の自由は非常に大切にされてきました。世界人権宣言の第19条や、アメリカ合衆国憲法修正第1条などにも明示されています。

・表現の自由は、公的な場での活動に伴うものです。フィクションかノンフィックションか、事実か意見か、文章かイラストか何らかのパフォーマンスかは問いません。検閲は、こうした表現を規制することもありますし(シン・フェイン党の党首のスピーチを放送する際に俳優の声をかぶせるなど)、表現者を隔離することで表現活動をやりにくく・貧困にしてしまうこともあります(政治犯の収容など)。

・バーリンの2分法でいくと、表現の自由は「消極的自由」といえそうです。表現の障害になるもの、つまり検閲、投獄、法規制、暴力、焚書、サーチエンジンのブロック等を取り除くことです。(もっとも、マルクーゼのように「権力者がメディアを支配している社会では、表現の自由は単に権力者に有利なだけだ」と言う意見もありますが……)

・表現の自由は、民主的な社会では特に重要だとされています。(1)政策形成をするためには、たとえ不快なものであったとしても、さまざまな意見や情報に触れることが必要だからだ、という帰結主義的な理由がありますし、(2)人の自律性や尊厳を保証するものだから、という擁護の仕方もあります。ドゥオーキンは、表現の自由を認めない政府には正統性がないとまで言っています。

・しかし、それが誰かを傷つける言葉、プライバシーの曝露、社会を危険に陥れる情報であったら?表現の自由に優先する別の価値があるようにも思えます。ティム・スキャンロンは、神経ガスを非常に簡単に作る方法を公開してよいか?と例を挙げ、「何でも自由ではない」と注意を促しています。

・一方で、表現規制は一度許すと歯止めがかからなくなる恐れもあります。もちろん、その社会が置かれた状況によって必ずしも表現規制が全体主義には直結しないかもしれませんが。それでも、どこかで制限は必要ではあるようです。では、どうやって制限するのがよいのでしょう?

【第2章】J.S.ミルの「表現の自由」

・表現の自由を語る際の古典といえる『自由論』のミソは危害原則。他人に害をなさなければ自由を制限されないということ。これにより、”言論の自由市場”でさまざまな意見が交換され/衝突することで、より正しいのは何か、間違いとして棄却されるべき部分はどこか、が分かってくるわけです。この路線でいくことが進歩をもたらすという帰結主義的な考え方といえそうです。

・その際、独断を排除するべきだといいます。人は誰でも間違うものですし、一部あっていて一部間違っているということもあり得ます。しかし、自分は無謬と思い込んだり検閲を導入したりすることで、自身の誤りを訂正する機会を逸してしまいますし、自分が正しかったとしても、その証拠を得られなくなってしまうでしょう。

・もちろん、危害原則に従って、誰かに物理的な危害が及ぶような煽動は制限されなければなりません。それでも、心理的、経済的な危害は制限の対象から除かれています。これは今日のヘイトスピーチなどの状況を思い浮かべると、違和感のあるところです。

・そう、ミルの主張は全面的に受け入れ可能なわけではなさそうです。一つの批判は、想定しているのがアカデミックな論争のようにマナーを守って行われるようなものだが、実際はそんな行儀のよい状況ばかりではないということ。また、今日論争になるような問題は、事実関係やその解釈ではなく、特定の宗教に対するからかいなど、他人の尊重を欠いたような表現をめぐるものや、ポルノ表現だったりします。これはミルの想定した思想の自由市場で交換されるべき「真/偽を持った」表現とはちょっと違ったものなのではないでしょうか。

・また、ミルの主張に従うと、反対意見を持った人に積極的に発言の場を与えなければならないということにもなりそうです。しかし、「同じ土俵に乗ることによって、相手の意見が聞くに値するものだと一般に印象づけてしまう」という理由から、差別主義者やホロコースト否定論者、若い地球創造論者(Young Earth Creationist)との討論を拒否するNo Platform Argumentという立場もあります。これはミル的な帰結主義から導ける立場でもあります。
・ただ、これは検閲(言論弾圧)とは別ものだと考えてよいでしょう。極端な人にまで積極的に発言の場を与える義務はないし、ネット時代には自由に意見を発表することが可能ですし、「寛容な人にしか表現の自由を認めない」という検閲の一種にもあてはまるとはいえません。

【第3章】不快表現について

・人を不快にさせるような表現をする場合は、「表現の自由」を笠に着てはならないとの意見があります。しかし、共感できる表現だけに表現の自由を認めるというのは、そもそも表現の自由とはいえません。ミルの立場からも、制限が許されるのは煽動だけであって、単に不快だからというだけでは許されません。たとえばイスラム教国でムスリムでない人が豚肉を食べても、それは私的な行為なので国家が介入すべきではないし、豚肉食に肯定的な文章を新聞で発表したとしても、それは直接的な危害とはいえないので制限されるべきではありません。(しかし、反発する人たちが暴れるのを収めるのにコストがかかることを理由にして表現規制heckler's vetoが行われてしまうことがある)

・宗教に対する不敬を罰する法がある国もあります(1977年、英国でGay Newsにキリストに性的な侮辱を与えるような詩が載ったケースでは有罪まで出た)。前時代の遺物だとする見方もあれば、宗教は人生の基底的なものであって特別な保護に値するとの考えもあります。では、一神教信者が多神教信者を不快だと思うような、宗教同士の問題だったらどうなるでしょう?不敬を禁じようとすると、あちらが立てばこちらが立たずの状況が必然的に招かれます。

・「きつい言い方だけ規制すればいいのでは?」というのはどの宗教も平等に守れそうでいいですが、しかしマイルドに言っても逆鱗に触れるケースもありますし、何がマイルドな言い方かというのも難しいです(モンティ・パイソンのパロディを想起のこと)。そして、表現の自由は、おやさしい表現で行われた議論だけで達成されてきたものでもないはずです。挑発的な表現によって問題の所在に目が向くこともあります。

・おそらく、最も正当化ができそうな規制は「人を不快にさせること自体が目的の表現」かもしれません。これによって誠実な批判のほか、うっかりや無知によって不快表現をした場合を除外することが可能になります。ただ、作品の目的がクリアで、誰でも同じように解釈できるケースばかりではないというのが難点です(イスラムの女性の扱いを告発しようとした映画を作ったことで監督が殺された例など)。

・人種や宗教、性別に基づいて人を貶める「ヘイトスピーチ」に対する規制はどうでしょうか。これは中傷相手に届いてこそ効果があるものですし、時にはその輪を広げることも目的とするので、まず私的な活動とは言えません。標的になった人の生活を著しく損ねる表現活動を「表現の自由の鬼子」としつつ許容するのかどうかが問われることになります。

・表現の自由に基づいてヘイトスピーチを許容する根拠は2つあります。
(1)ヘイトスピーチと戦う最良の方法はカウンタースピーチである。規制は地下に潜らせるだけ
(2)表現規制が他にも波及する橋頭堡になってしまう
・英国やオーストリア、ドイツなど、民族的差別を禁じる法律で対応できる国もあります。
・哲学者のJennifer Hornsbyのように、ヘイトスピーチを自由主義的な視点から許容すると、結局、別に守られる必要の小さな人たちばかりの自由が守られることになるとして、反対する意見もあります。

【第4章】ポルノ

・ポルノグラフィは、性的な行為の明示によって、見る人に性的な興奮を与えるイメージです。が、視覚的な表現とは限りません。音や文字を使ったものも含みます。ポルノは多くの場合、(1)特にあけすけな「ハードコア」と(2)描写がややマイルドな「ソフトコア」を分けて考えます。

・ハードポルノはそもそも、表現だといえるのでしょうか。そもそも表現の自由とは関係のない案件なのかもしれません。ポルノの目的はメッセージを伝えることというよりも、性的興奮とマスターベーションの道具だといえます。製作の過程で誰にも危害がなければ、こうした作品を大人が求めるのに国が何も介入する理由はないという議論もあります。Frederick Schauerは「ポルノはバイブと一緒だ」としています。セックスの代替物だというわけです。

・Catherine MacKinnonとAndrea Dwokinもポルノは女性の従属であって、表現の自由案件ではないといいます。これに対して、ポルノ画像や映画がアイディアの伝達に使われる「こともある」、それゆえに言論市場に入ることもありうるという見方もあります。また、フェミニストの中でもWendy McElroyはポルノ賛成の論陣を張ります。理由は、ポルノが(1)性の可能性を概観させてくれる(2)セックスの代替物を安全に供給している(3)教科書には書いてないような情報を与えてくれる―という女性にとってのメリットがあり、それへのアクセスは保障されるべきだというもの。

・しかし、ポルノが身体的、精神的、社会的な危害につながるという指摘もあります。第一のポイントは、女優らは彼女らは社会的に弱い属性を持って業界に参入し、身体的な強制や感染症の危険を受けているという。精神的苦痛についても、ミルは考慮に入れないとしていますが、150年経った今では話は別です。

・もう一つのポイントは、ポルノ鑑賞によって性犯罪が喚起されるというもの。しかしこれまでの研究では、決定的な根拠は出ていません。MacKinnonは性犯罪に至るメカニズムを推定していますが、仮説に過ぎません。そもそも多くの人がポルノを見ているのに、性犯罪をしていない。しかし、ポルノと犯罪につながりがある可能性が大きいなら、何らかの規制は必要のように思えます。

・ヘテロセクシャルなポルノでは女性が性の対象として扱われているとして、フェミニストらが反対しています。胸が大きいなど、特定の体型を登場させることで、誤った期待を形成させるとか、性犯罪的な行為を喜んで受けているように描くことで、女性を貶めている、全ての女性がそうなのだと思わせるとの反対意見もあります。ただ、Ronald Dworkinのようなリベラリストは、製作の中で直接的な危害が及んだり、子どもが使われたりしていなければ、検閲はすべきでないと主張します。ポルノを見ることの帰結がさまざまあるとしても、誰かの危害に直結するわけでないなら、国家は中立的でいなければならないと。理由はやはり、検閲を始めると歯止めがきかなくなる恐れがあるからです。

・法は社会の道徳観を反映すべきものなので、ポルノが伝統的な家族の在り方や道徳に反するなら、法規制は正当化される、という立場もあります。社会のための規制、パターナリズム的なアプローチといえそうです。ただし、これには「政府は特定の道徳観に肩入れすべきではない」との批判があります。

・表現の自由を守ろうという人は、規制には単なる「むかつく」という以上の理由が必要だという前提を持っています。一方で、それでもどこかで線引きをする必要はあると多くの人が考えているのですが、どうやって線を引くかについてはなかなか一致のしにくいところです。児童ポルノはだめだとして、では、実在しない子どものCGだったら?児童ポルノの消費は実際の児童虐待に結びつくのか?……

・「アートだ」という主張がされた場合はどうでしょう。検閲を免れるべきでしょうか。「チャタレイ夫人の恋人」など、芸術としての価値は、検閲の適否を考える際に考慮すべきものなのか、そして、なぜ?一つの回答は、それが思想を伝えるからというもの。ただし、そうした理由を隠れ蓑に使われる可能性もある点が要注意です。もう一つの理由は、文化という社会の中で役割を果たしているものに対する制限には慎重であるべきだというもの。しかし、なぜ文化だけにそういう特別な価値が認められるのか、という不公平は指摘されうるでしょう。

【第5章】ネット

・コピーライト、レッシグ、引用、ゾーニングとか

【終章】

・検閲には理由がいるよとかそういう話
・華氏451は紙が燃える温度なんだって

2016年05月15日

5月前半あれこれ

連休最後の日、午前中に新しい冷蔵庫が届いてご機嫌です。
広い。静か。

午後からは、久しぶりの友人と川崎の「ラクスパ」に行って岩盤浴。
ものすごく汗をかいたあと数日間、鼻の頭が乾いたのだけど、なんだろう。

「芝浦食堂」に連れていっていただき、ホルモン食って帰ってきました。
案の定、翌日は体調がすこぶる良好でした。

* * *

某誕生日は断続的に雨が降る福島に出張でした。
すぐには形にならないけど、とても興味深い話がいっぱい聞けた1泊2日でした。
いわき湯本温泉のお湯がよかったです。

* * *

5時間~5時間半寝るとぱっちり目が覚めてしまう現象は続いており、
しかし午前1時までに寝れば日中特に眠くなることもなく、
じゃあもうこれでいいかと思った次第です。
今年特に気付いた変化は
・夢を見る頻度が激減した
・二度寝できなくなった

連休最終日から掛け布団をやめて、毛布一枚で寝ています。
去年も同時期にそうしましたが、一度、寒くて掛け布団を再び出した記憶があります。

* * *

代々木公園のタイフェスティバルに今年も行きました。
ゲウチャイのガパオ、
ジャスミンタイのパッタイ、
どちらも美味でした。
っていうか知ってるお店でしか食べなかった。

ついでに今年も「白一」でソフトクリーム。
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今回は甘い珈琲に浸かってるやつにしました。
合う合う。シャリシャリ。あっさり。好き。

帰路、同行の友人から、そのまた友人(この人は直接知らない)の早世と、共通の知人の不治の病について教えられ、どすんと落ちて帰りました。なんかそういうのがぽつぽつ出る年代に入ったということなのかね。予測不可能なところに人生の面白さがあるというのは分かるが、思うに任せない無念というのもあるものです。

そういえば福島出張では5年ぶりの人に会いましたが、白髪がすごく増えていました。
本当に人の一生は短い。それが感じられるようになってくるのは、だいたい30年という年月の長さがどれくらいかを実体験したころだったかと思います。これまで生きてきた期間をもう1回繰り返すくらいで働く生活が終わる。40になると、生まれてここまでをもう一回で大体さようなら。ひょっとすると残りはそれより全然短いかもしれない。
といって、これを若い人に話してもその人は実感しないだろうし、老いた人に話しても何に活かせるわけでもない。思いの外バラエティに富んだ人の生は、それぞれ中から見れば反復のないサンプル数1のトライアル(つまり統計的にものが言えない)であって、特に子供や弟子のいない弊管理人のような人は伝えるべき相手もない。そう考えると、かえって深刻な気持ちから脱して軽やかになれる気がしてくるような気がしてきます。

* * *

土日とも、風が涼しくてからっと晴れて、最高に気持ちよい日でした。

* * *

実は今日のやつが弊日記の1000個目のエントリーです。
なんてことなく過ぎてしまいますけど。

2016年05月10日

代議制民主主義

■待鳥聡史『代議制民主主義』中央公論新社,2015年.

議会が首相や首長の暴走に対する歯止めになっていない。ある時には、逆に決定の邪魔ばかりしている。というか、よく分からない調整ばかりしていて有権者のための政治をやっていない気がする。もう議会なんていらないんじゃね?

――いや待って。そもそもその議会って何よ。
そこをよく考える本。

代議制民主主義は、有権者→政治家(専業の政策担当者)→官僚(専門知識を持った実施部隊)への「委任」と、逆方向に流れる「説明責任」という関係性をベースにした決定のシステムだといえる。具体的な姿を決めているのは、政治家や官僚の分担関係を決める「執政制度」と、政治家をどうやって選ぶかという「選挙制度」だ。
結果としてできる政治制度の特徴は、有権者の委任先となるエリートが一定の裁量を持って、有権者の短期的な関心を超えた決定をしたり、エリート間の競争と相互抑制によって極端に走る事態を避けたりする「自由主義」と、有権者の多様な意思をできるだけ政策決定に反映させることを目指す「民主主義」のブレンドとして表現することもできる。

つまり代議制民主主義には、さまざまなバリエーションができる。大統領制か議院内閣制か、投票の結果が議席配分に反映されやすい(比例度の高い)選挙制度か否か。それぞれの選択肢には利点と欠点があって、どう組み合わせても無条件にベストのシステムはできないようではある。そこがたえず懐疑の目にさらされる要因かもしれない。でも、その社会の来歴と、これから何を目指すかによって、組み合わせを変え、微調整を施していくこともできる。そこには直接民主主義など他の選択肢にはない、「しなやかさ」という利点があるのではないか?

初めはとっつきにくい文章だなと思ったのですが、メモを作りながら読んでみると、要所要所でおさらいをしながら先に進む親切さが見えてきました。

----以下、メモ。

【序章】

・背景としての議会不信(ヤジ、阿久根市、号泣……)

○代替構想としての熟議民主主義:一般人の討論を通じた決定
・課題の複雑さに専業の政策担当者や専門家が過剰な影響力を行使しているという問題の克服を図る
・討論しないで政策決定すると「多数派の専制」に陥るから

○直接投票による意思表明
・住民投票(小平市の道路問題、憲法95条→大阪都構想)
・国民投票(日本国憲法改正。デンマークでは国際機関への主権移譲について国民投票を義務づけ)

○一般意志2.0
・一般意志=集合知→データベース=行動と欲望の履歴とみる
・ルソーの空想をネットが具体化したもの
・熟議の限界を無意識(一般意志)が補う&一般意志の専制を熟議が抑制する

○代議制民主主義とは
・民主主義(社会を構成する全成人が決定過程に関与する方式)を具体化する方式の一つ
★委任と責任の連鎖関係が必要条件
  有権者―(政策決定の委任)→政治家―(政策実施の委任)→官僚
  有権者←(説明責任か落選か)―政治家←(説明責任か左遷か)―官僚
・↑この前提に「治者と被治者の同質性=委任するほうもされるほうも仲間」があったはず
・だが、議会批判は「治者と被治者に質的な違いがある」との思いに立っているのでは?
→同質であるべき?同質でないことは正当化できる?……

【第1章】議会と民主主義の歴史

・「ポリス時代に比べて社会が大きくなったから代議制が必要になった」?
→議会の発展は近代民主主義より古い。議会と民主主義は独立に発展してきた点に注意
・19世紀まで、議会は「自由主義」のための空間だった
★自由主義=利害代表者(エリート)間の競争と、過剰な権力行使の相互抑制
★民主主義=民意の政策決定への反映を第一に追求する
→議会と民主主義には緊張関係があり、代議制民主主義と直接民主主義には質的な違いがある

○古代→近代の民主主義
・古代ギリシャの民主主義
  自由人のみで、女性は参加不可の点が現代との相違点
  直接民主主義である点も相違点(小規模な政治体だからできた)
  しかし、血統や財産にかかわらず政策決定に関与できる点で「民主政」と言われる

○議会と民主主義の関係はもっと複雑
・議会の直接的な起源は、中世以降ヨーロッパでの「君主の諮問を受ける身分制議会」であろう
  ↑君主の権力が弱く、課税などには領主の同意が不可欠だった
・絶対王政期(16-17c)には衰退したが、近代立憲主義(制度的な権力者抑制)に道を開いたといえる
  イングランドは身分制議会→二院制の近代議会へ
  フランスは三部会の再開要求→王政打倒、共和制へ
  アメリカでは植民地議会が総督と対峙→独立革命へ
・しかし、まだ制限選挙。議会と民主主義の関係は明瞭ではなかった
★むしろ議会は、貴族やブルジョワジーが君主から財産を守るための拠点だった(ロック的自由主義)

○共和主義と民主主義
・18c啓蒙主義→共和主義。君主や貴族は、血統だけで地位を得ていていいのか?との疑問
★共和主義=市民的徳性(倫理的な卓越性、判断力)が持つ政治的意義の重視
  ※ただし、君主否定には直結しない点に注意。cf.マキャベリの「有徳な君主」
★共和主義は「ただそこに生まれただけで政策決定に関与できる」という民主主義とも対立しうる

○アメリカ―大統領制
・13邦(ステイト)が外交上の必要で作った同盟「連合規約」(1781)
・ワシントンら建国の父祖は多くが共和主義者だった
  →邦レベルの大衆政治と、邦同士の対立
→国民から直接負託を受けた「連邦政府」を位置付けた合衆国憲法(1787)へ
・有徳でない議員による政治も、君主制も避けるには?→権力分立を導入
  ・有権者が選出→下院議員(直接選挙)
  ・州議会が選出→上院議員(間接選挙)
  ・州ごとの選挙人団が選出→大統領(間接選挙)
  の間で権力を分割
→しかし、党派間競争を招き、政策決定の永続性は損なわれてしまった
→★エリートが自由に競争しつつ、全体としては妥当なところに落ち着く「多元主義」へ
  これにより、共和主義に代わって、民主主義による「多数者の専制」を抑止する

まとめると:近代自由主義の二つの系譜
・ロック的自由主義=社会契約によって君主から財産権を守る
・マディソン的自由主義=権力分立(多元主義)により「多数者の専制」に対抗する
  →ここで権力者の制度的抑制という「近代立憲主義」が「自由主義」と結びつく

・民主化:ジャクソニアン・デモクラシー下での男子普通選挙
→自由主義と民主主義の共存へ
・ポピュリズム(労働者の利害表出)vs革新主義(政治と行政の分離)
・民主主義+多元主義=アメリカン・デモクラシー

○イギリス等―議院内閣制
・国王の執政(官僚の指揮監督)を補佐するものとしての内閣(18世紀)
・下院多数派の選任した首相が内閣を組織、首相の辞任は内閣総辞職(19世紀)
・こうした移行の背景:
  (1)有権者資格の拡大
  (2)国家の役割の増大。財源調達や軍事で国民への依存が強まった

○代議制民主主義の拡大
・19世紀前半までは資産家が自費で行う「名望家政党」が中心
・19世紀末からは労働運動や農民運動を基盤とした「近代組織政党」「大衆政党」
・大衆政党は党員数の多さ、主張の一貫性、組織の堅固さが特徴
→20世紀、社会経済エリート(右派)vs大衆(左派)、の基本構図が成立
→国民ほとんどが代表者を持つ
=★政党システムの「凍結」(リプセットとロッカン)

○後発近代化諸国―立憲君主制
・君主の権限が憲法の範囲内に制限される→自由主義に行きやすい
・独、伊、露。非ヨーロッパでは日
・有権者資格の拡大により民主主義と議会が結合し、代議制民主主義へ

○全体主義の挑戦
・共産主義。自由主義はエリートの利害調整ではないか?
→プロレタリアートの利害追求に代議制は邪魔なのでは?
→露:共産党一党独裁が望ましいのではないか?
・ファシズム。代議制民主主義は「金持ち」だからできるのではないか?
→日独伊:英米覇権への反発、権力集中による社会・経済の運営
・共産主義、ファシズムともに「マス」を重視している
・第二次大戦後→ファシズム国家に代議制民主主義を植えることで占領政策が終了

○戦後和解体制
・労使協調、政府もそれを後押しする体制
・これにより、生産性の向上、共産主義イデオロギーの浸透防止ができる
・代議制民主主義も、保守政党vs社会民主主義政党の構図で安定

○行政国家化
・政策課題の複雑化→専門的な官僚による行政。省令など「委任立法」拡大
→議会の政策関与の余地が相対的に縮小
・補助金、社会保障は一度設定すると切れなくなる→利益集団自由主義へ
→1960年代、ベビーブーマーによる異議申し立てに直面
→代議制民主主義における民主主義的要素の強化が裏テーマと見ることができる
・政治参加の拡大→民意の多様化:NIMBY、ガヴァナビリティの危機

○凍結や戦後和解体制の消滅―1980年代
・経済的関心→文化的豊かさへ
・成長の終焉
→無党派層の拡大、政治不信
=既製の回路では有権者の民意が十分に表出できない

【第2章】
○1989年
・「反共」という共通前提の消失
・グローバル化→政党間の「違い」が打ち出せなくなる
・対処
(1)小選挙区制→政策決定の迅速化と小回り、大衆的でない決定も可能に:日伊
(2)比例代表制→弱者、少数者の意見を反映:NZ、EU
・右派政党の新自由主義、左派政党の「第三の道」
・トップリーダーを直接選出したいとの希望→「大統領制化」(ブレア、小泉)
  ・ただし、米では大統領と議会多数派の不一致が通例に
  →議院内閣制と大統領制の差が縮んだだけとみるべきか
・冷戦後、新たに代議制民主主義を採用する国相次ぐ「民主化の第3の波」

・代議制民主主義=自由主義と民主主義のブレンド
・どんなバリエーションがあるか?それが何に帰結するか?代議制の可能性は?

【第3章】構造と類型

○委任と責任の連鎖―なぜ生じるのか?
・有権者が政治家に委任をする動機
  全員参加ではできないタイムリーな決定を、一定の知識水準を持った人に適切にやってもらう
  →専業の政治家を要請。有権者は生業に時間を割ける
・政治家が官僚に委任をする動機
  個別の政策実施までやっていては次の政策決定ができない
・官僚や政治家が責任を負う動機
  そこから生活の糧を得ている。委任先の変更をされると生活が立ちゆかなくなる
  ※ちゃんと仕事をしているかのチェック機構として、選挙のほか監査、マニフェストなどが必要

○委任と責任の連鎖の制度的表現には、いろいろある
・二つの基幹的政治制度:執政制度と選挙制度
  →この組み合わせが代議制民主主義のバリエーションを生む
・執政制度は自由主義のルール化、選挙制度は民主主義のルール化ともいえる

○執政制度の分類―執政長官(首相や大統領)をどう選ぶか、任期打ち切りは可能か
・議院内閣制
  =議会が首相を選任。議会は解任もできる
  =議会多数派が首相を支えている。権力集中。議会―首相―官僚の関係が単線的
・自立内閣制
  =議会が首相を選任。議会は解任ができない(カナダの一部州など限定的)
・首相公選制
  =有権者が首相を選任。議会は解任できる

・大統領制
  =有権者が大統領を選任。議会は解任ができない
  =政府運営の権限を大統領と議会が分有。権力分立。自由主義的要素が最も強い
  ・省庁人事に議会の承認がいる米国のように、議会も行政に関与することも多い

・半大統領制=大統領と首相が両方ともいて、責任を分担している。権力共有
    大統領―議院内閣制型=大統領も議会も、首相を解任できる(ロシア)
    首相―大統領制型=議会は首相を解任できるが、大統領は首相を解任できない(フランス)

○選挙制度の分類
・多数代表制=候補者単位で上位者に議席を与える。比例制が低い
  定数1の「小選挙区制」
  定数2以上の「大選挙区制」(定数2~7は「中選挙区制」とも)

・比例代表制=政党単位で票を集計し、議席を割り振る。比例制が高い
  候補者リストの誰に投票するか決められる「非拘束名簿(オープンリスト)方式」
  決められない「拘束名簿(クローズドリスト)方式」

○基幹的政治制度は、政党にどんな影響を及ぼすか
・豊かになった1970-80年代、支持者の経済状況によって政党を特徴付けられなくなった
  →無党派の増大。結果として執政制度、選挙制度の影響が見えやすくなった
・二つの視点:政党システム=政党間関係、と、政党組織=政党内関係
・デュヴェルジェの法則:小選挙区制は二大政党制をもたらす
  →M+1ルールに発展:比例制の高い選挙制度の下では正答の数が増える
・政党の一体性:自発的な「凝集性」と、「規律」による一体性

・比例制が低い選挙制度(例えば小選挙区制)
  政党数が減る
  →少数の大規模政党が、多様な考え方の議員を抱える
  →幹部がヒラを押さえ込みやすくなる
  →規律が作用しやすくなる
  →有権者は意思を反映させにくくなる
  
・自由主義的要素が弱い制度(例えば議院内閣制)
  与党は内閣を基本的に支える
  →規律による一体性が形成されやすい(次回選挙での公認などを餌に)
  →野党も一致団結のインセンティブが強まる

○代議制民主主義の4類型
(1)ウェストミンスターモデル、あるいは多数主義型(イギリス、カナダなど)
  ・小選挙区制+議院内閣制
  ・雑居的な性格を持った(しかし規律が強く働く)大政党中心の政治になる
  ・有権者の意思から離れた決定もできることで、民主主義が強まりすぎないようにできる
  ・野党は立場を示すために討論するだけで、法案修正に結びつかない(アリーナ型政治)
  ・公約の実現がしやすいが、不適切な決定に対する抑制が働きにくい

(2)コンセンサスモデル、あるいは交渉型(ベルギー、スイス、ラテンアメリカ諸国など)
  ・比例代表制+大統領制
  ・国内の社会文化的な亀裂が深刻で、少数派が切り捨てられない場合に採用される
  ・有権者の意思の反映が、権力分立によって妨げられやすい
  ・中長期的に望ましいが、一部の人に不利益が行くような決定がやりにくい
  ・運用の難しい形態で、政治の不安定化も(軍事クーデタを招く例など)

(3)中間型1(アメリカ、台湾など)
  ・小選挙区制+大統領制
  ・議会の多数派形成が流動化
  ・政治勢力間の競争と相互抑制による自由主義を狙う
  ・多様な利害関心を政策決定に反映させることを重視した形態
  ・ただし、妥協的な決定や、大統領と議会多数派がぶつかる「決められない政治」に陥る可能性も

(4)中間型2(大陸ヨーロッパ諸国など)
  ・比例代表制+議院内閣制
  ・選挙で示された有権者の意向を極力そのまま政策決定につなげうる
  ・連立政権になりやすい
  ・議案の修正が頻繁に起こる
  ・少数派への配慮と、政策決定の行き詰まり回避を狙う
  ・ただしバランスは難しい。社会集団間に深刻な対立があるとデッドロック(2007、ベルギー)

○国政と地方政治で類型が違うこともよくある
・政党のあり方に影響を及ぼす
  政党内部の一体性が地方で相対的に低くなるなど
  大選挙区の地方政治で革新政党が多数になっても、国政では全然、という日本の例も
  国政と地方で政党のイメージが違ったり
  地方議員と国会議員の対立→中央と地方の協調が必要な政策が難しくなる
・日本の分析はp.184-

【第4章、終章】
・各国での改革←代議制民主主義への不満←委任・責任関係への不満
○議会の存在意義
・決められない政治:ねじれ+障害としての国会
・決めすぎる政治:官邸主導+無駄なものとしての国会
・地方政治(二元代表制=大統領制の一種)でも同様の問題
  権力分立なので悪いことではないが……
○「民意」との乖離
・自由主義的要素=裁量をどの程度認めるか?という問題
・説明責任が果たされないときに顕在化する
・例:中選挙区制は「気骨ある一言居士」を生みやすい
  (個人的な思いで設定した公約を果たせていないのに、制裁されないだけ)
 →独自公約はだいたい果たせない。しかし説明責任も果たされない
・解決:委任・責任関係の明確化をすること。精神論では解決しない

○大統領の現代化
・もともと大統領は、議会の多数派専制や怠慢を抑止する立場(米)
・しかし課題が複雑化した現代、大統領が官僚を使って政策を作り、議会をリード
  ※日本の地方政治の二元代表制もこの形態
○議院内閣制の大統領制化
・首相は議会多数派との関係を重視してきた
・が、近年はテレビ、ネットなどで有権者からの支持を資源にし始めている
・イスラエルでは首相公選制(1996-2001)も
  →しかし有権者と議会の両方から支持を調達すべき難しい仕組みだった

→執政制度は有権者支持・権力集中型に向かって収斂しつつあるように見える
→執政長官の強力化、そして議会の不評へ?
・迅速・的確な意思決定のための専門スタッフ増加、政治任用の多用
  →テクノクラート専制の恐れも
  (熟議→プロフェッショナルの専制、という恐れも)

○しかし、「無条件に優れた執政制度」は多分存在しない
・各地域の安定/不安定にはさまざまな要因がある
・各類型にもさまざまなバリエーションがある
  
○改革の方向性
・小選挙区制改革:裁量の一部制限。オーストラリア下院の選択投票制など
・マニフェストの普及:評価をしやすくする
・比例代表制改革:
  ・多数派形成をしやすくする。多数派プレミアム方式など
  ・有権者の選択範囲を拡大。非拘束名簿方式など
・混合制(小選挙区比例代表並立制など)
  ・ただし「汚染効果」が出現しうることに注意
・日本では参議院や地方政治の改革に遅れが見られるか

○その社会の現状と目標によって、採るべき道は変わってくるだろう
例えば
・深刻な亀裂がある社会→民主主義による包摂の重点化を
・同質性が高いが、既得権益を持った集団がいる→自由主義的リーダーシップを

・代議制民主主義は、自由主義と民主主義の接合によって成り立っている。大統領制と議院内閣制、小選挙区制や大選挙区制、比例代表制などのパーツ選択と組み合わせによって効率性/公平性などのチューンナップが可能。これは代議制民主主義の大きな利点と思われる

2016年05月05日

連休中盤

中盤です。6日(金)は出勤しますが、ちょっと職場の様子を見に行く、くらいのつもりです。
といっても、休みの間にもやることを思いつくたびカレンダーに書き込んでいたら結構な数になったので、それなりに忙しくしそうな気がします。来客も1件あります。

* * *

学生時代から使っていた冷蔵庫をとうとう買い換えることにしました。
今は亡きSANYOの86リットル。いや、まだ動くんですが、さすがに自炊してると小さいのと、動作音が結構気になってきたためです。
新しいのは、AQUAというブランドの157リットルのやつです。中国の企業に買われたSANYOの人たちが作っているそう。国内メーカー(といっても作ってるのは東南アジアだけど)も含め、同じくらいのクラスでいろいろ検討しましたが、設置スペースと容量と値段でいずれも秀でていたため、これにしました。スペースに関しては奥行きをあまり取りたくなかったので。

ところで、4人家族とかで使う400リットル級のやつって、ちっちゃい冷蔵庫の半分くらいの電気代で済むようです。へえ。

7日の搬入を控えて、慌てて冷蔵庫の中のものを処分してます。
古い冷凍エビ
古い冷凍ほうれん草
古い玉葱
古いチーズ
古いバター
古いソーセージ
古い小麦粉
古いパン粉
と、かろうじて賞味期限内の牛乳
を使ってグラタンを作りました。
160505gratin.jpg
なんとか腹痛を起こさずに消費できたもようです。勝った。
あと、グラタンは作り慣れてきて、味が落ち着いた。

* * *

伊東で父が大量に買い込んで持たせてくれた干物も、食べ続けてます。
アジ、カマス、サバみりん。ほくほくしててうまい。

* * *

だらだら練習していた幻想ポロネーズが次第に指についてきてうれしい。

* * *

あまりに天気がよかったので、小田急線向ヶ丘遊園駅からちょっと歩いたところの生田緑地に行ってきました。目当ては「岡本太郎美術館」です。
というか、ミュージアムカフェで出してる「太陽のパルフェ」。
160505taiyo.jpg
ふざけてます?
味は普通だった。つってもあまり革新性は期待できないか……

展示は、意外と面白かったです。これは唯一撮影可能だったエリア。
160505taro.jpg
ピアノをむちゃくちゃに弾いて「芸術は、爆発だ!」と叫ぶマクセルのテープのコマーシャルを確かリアルタイムで見たのと、渋谷駅にあるでっかい「明日の神話」と、あとは断片的なエピソードくらいしか知りませんでした。まとまった数の作品を見たのは初めて。絵は筆運びがよく分かるもので、書道みたいだった。

生前受けたインタビューの映像を延々流しているコーナーがあって、見入ってしまいました。
自然そのままも、抽象も、だめだと思う。その間を行く、「何だこれは!」(キーワードな)と見る人に抱かせ、格闘させる、イベントを喚起する、そういう作品が芸術だと思う。そういう一節が印象的でした。今も生きていたら、たぶん、商売上手なあの有名画家とか、変人や変人に憧れただけの学生みたいなあれとかこれとかは否定しただろう。
「個性的なものが普遍性を持つのだ」とか、キャッチーで的確だよ、いちいち。なんだろうと思ったら、フランスで民族学を勉強した人なのだという。本をいっぱい読んでいたようだし、音楽にも親しんでいたらしい。モーツァルトがいいというのだけは分かり合えないけど、他はすとんと落ちた。

今やってる企画展は、岡本太郎と沖縄がテーマでした。
木や、御嶽の特に何もない空間が持つ聖性にインスピレーションを得たこと、久高島で「イザイホー」という今は途絶えてしまった12年に1度の儀礼をレポートしたこと、一方で風葬にされた遺体の写真を撮影し、東京で週刊誌にそれを発表したことで大いに批判されたことも紹介されていました。

今後の旅行先の選定のため、イザベラ・バードを読もうかなと思っていたところでしたが、もうちょっと最近のところで、岡本の紀行文に当たったほうが面白いかもしれないと考え直しました。うまくしたら6月に2泊で沖縄に行くつもりでいるので、その予習も兼ねて。

都心は27度になったようですが、生田緑地、なんか涼しくて素敵な森でした。
160505ikuta.jpg
バラ苑が12日からだったのが残念。企画展が入れ替わったころ、また来てもいいかなー

2016年05月03日

連休前半

■4/29

父・妹と、昨年末も行った、伊豆にある会社の保養所に行くことにしました。
関東組の弊管理人と妹は中央線特急で、父は中央高速で大月集合です。
で、山中湖方面に向かう途中に見えたこのお姿が、今回のベスト富士でした(早い)。
160503fuji1.jpg
この写真で、富士山の左側は雲がかかっていますが、まさにその辺に当たる須走~伊豆・箱根あたりは眺望がよくなかったので、なぜか「黒たまご」というキーワードに食い付いた父の発案で仙石原方面に逸れて黒たまごを食べに行きました。
160503kurotama1.jpg
立ち入り規制がかかっている大涌谷で作ったやつを持ってきて売る形式で、ちょうど前日から販売再開したとのこと。執念だな。
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熱海に降りて、海沿いの道を伊東まで走って到着。
風呂に入ってメシ食って寝ました。

■4/30

伊豆半島一周してみようということで、9時ごろ出発しました。
弊管理人が強く提案した「大室山」(580m)。
160503oomuro.jpg
伊豆に入ったころから、こんもりした緑プリンが目に入ってきます。「何これ」って思って行ってみたくなるでしょう。
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往復500円のリフトに乗って6分。粘度の低いマグマでできた「スコリア丘」だそうで、外輪に立つと周りに高いものがないので見晴らしがすごくいいです。
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火口ではなぜかアーチェリーができるとのこと。噴火は約4000年前って、結構最近のように思えます。
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このあたりの地形がそれでできたというので、意外に重要な山なのでは。
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いや実際すごく満足度高かったです。
仕事上、独特の地形をもった地域を認定する「ジオパーク」というのがあるというのは前々から知っていて、しかし悪いけどあまり気にも留めていなかったのですが、ジオパークをテーマに旅行に行くのもありかなって思い直しました。
逆に街歩きがそーでもなかった今回、古本で買った「ことりっぷ」はあまり役立ちませんでした。
道の駅で配っていた東西南北版に分かれたドライブマップは、展望地や気安い食堂、お土産などが絞り込んだ形で載っていて、結構参考になりました。

海もきれい。
160503hama.jpg
下田のあたりにある「ごん太」で「いけんだ煮味噌」定食、1000円。
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漁師料理だそうです。結構お腹にたまりました。
父は金目鯛定食1200円の金目鯛が「小さな切り身だった」と不満げでしたが、一匹の煮付けって数千円しますしねえ。
下田は楽しみどころがよく分からず、さっさと退散。
160503peri.jpg
ペリーもこんな辺鄙なところじゃなくて、もうちょっと都会がいいと思ったであろう。
160503irozaki.jpg
最南端の石廊崎は船に乗って海から眺めました。

西側はわりと駆け抜ける感じで、西伊豆スカイラインも割愛してしまいました。
残念でしたが、次のお楽しみということで。

■5/1

どこを通って帰るかは悩ましいところでしたが、富士山見えるかも、ということで年末にも通った伊豆スカイラインと芦ノ湖スカイラインに再チャレンジしました。
160503skyline.jpg
見えた!けど薄い!(笑)肉眼ではもうちょっと見えた気がします。
でもまあ、もう十分というくらい見たので満足しました。

忍野八海も見ましたが、しょぼめ。
しょぼいということが分かったのが収穫と素直に思います。

大月に戻って帰ろうとすると、父なぜか信玄餅の桔梗屋本社工場の見学を提案。
160503shingen.jpg
信玄餅の味の本質を「黒蜜」と「きなこ」と捉え、プリンやソフトクリームなどさまざまな商品に応用していますが、いずれも意外といけました。というか「餅」じゃなくていいのだな。
160503shingen2.jpg
女工さんが6秒に1個のペースで包んでいるというのは意外であった。日産10万個だって。ひー

実家に帰って近所でソースカツ丼食って寝ました。

■5/2

母方、父方の実家を訪ねる日。

母方は父がもう行かないことにしているらしいので、弊管理人独りで電車に乗って行きました。
160503komagane.jpg
伯母(73)がご馳走を用意してくれていた。
祖母(95)はちょっと寝ている時間が長くなったかな。
食欲は相変わらずよくあるよう。
昨年秋に転んだか何かで左手を骨折したそうですが、わりときれいにくっついたそうです。

父方は祖父の他界後、祖母はどうしているかなあと思っていましたが、見たところまだ大丈夫そう。
跡取りの叔父(うちの父は養子に出ているので跡取りではない。伯父は跡取りしない宣言済)が時々訪ねてくるようですが、腰の曲がった祖母が山間の一軒家に住んでいるのは何かと不便そうでした。

* * *

いろいろ少しずつ古びて、老病死のさまざまなケースを考えないといけない時期に入ったようです。
弊管理人が直接関わるべき課題は父、ですが、まだもう少し頑張っていただきたいと。
あと、母方の祖母がいなくなったあとの家の処分は部分的に被さってくるかもしれない。
他は基本、それぞれによろしくという感じかなあ。

連休後半はあまり予定を詰めてません。
意外と疲れを感じながら目覚めたので、今日3日はちょっとゆっくりしよう……

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