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2010年01月 アーカイブ

2010年01月31日

国語教科書の中の「日本」

■石原千秋『国語教科書の中の「日本」』ちくま新書、2009年。

91年の『読むための理論』以来のごぶさたでした。
コクゴ・テキストのテクスト分析。

なぜ動物ばかり、田舎の話ばかり、昔話ばかり、出てくるのか。なぜ平和教育ものは個人的な物語ばかりなのか。なぜ父親が絡んでこないのか……。教科書、教室、受験に至る国語教育が――教わる側(を)だけでなくひょっとしたら教える側さえ(を)も――知らないうちにある価値を内面化した人たちの共同体を作り出すための装置であることを、教科書に採録された数々の文章の横断的な分析を通して示唆してみる。そんな本だと思います。所々「そうかー?」と思うところもあるけれども、まあそこは新書、全体としてはサクサク楽しく読みました。

大学に入って初めて出会うテクスト論というのは、それまでに読んできたliteratureの種明かし的なところがあって面白いんだけど、高校までの「国語」という教科がliteratureとlanguage(と、ほかいろいろ)の複合体であることを考えると、もうちょっと早い時期からこういうことを教えてもいいんじゃないかなー、なんて無責任に思ったりします。

七蔵

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新橋駅前ビルの稲庭うどん「七蔵」。
おそばの国のヒトなのでうどんてあまり食わないのですが、これはうまかった。
つけだれが不思議な味ですが秀逸。特性鴨だしごまだれつゆだそうです。この日はふきのとうも入ってました。
どんぶりセットができるのですが、どのどんぶりも私の食えない海鮮ものだったのでパス(笑)
中サイズでも空腹は一応収まるくらいですかね。
時々食べたくなる味ですが、残念ながら職場が変わったのであんまり新橋に行かなくなってしまいました。予想通り土日休みですのでご注意。

2010年01月25日

社会思想史を学ぶ

■山脇直司『社会思想史を学ぶ』ちくま新書、2009年。

図書館で借りました。すみません。でも後悔してません。

非西欧への目配り。
非単線進化の史観。
いま立っているところから出発するしかない。
……それって新しい切り口か?(修辞疑問)

えと、もう個性だからということでいいと思うのですが、私がこれまで当たったこの先生の著書はすべて総花的だった。冷戦後くらいを語ろうとしてもやっぱりベーコンまで遡ってしまうのは、いろいろ知っていすぎることに起因する癖だと思う。というわけで提案ですが、本筋以外の話は思い切って註に入れてしまったらどうでしょう。

2010年01月24日

納豆チャーハン

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それはそうと、さいきん納豆チャーハンよく作ります。
(1)ごま油を熱する
(2)納豆炒める
(3)みじん切りのネギ、ごはん1膳、こしょう投入、炒める
(4)醤油一回し。ちょっと甘みも欲しければ納豆についてるタレも
(5)ごはんぱらぱらになってきたらできあがり

実家にいたときは土曜の昼飯とかによく出てきていたソウルフードですけど、とんとご無沙汰でした。
思い出し思い出しで何回か作ってみましたが、ようやく味がこなれてきた感じ。
納豆は炒めると臭みも糸もあんまり出ません。納豆食える人なら香ばしくて気に入ると思います。
クックパッドなんか見ると炒り卵を加える人もいるんですね。っていうかこの変わったチャーハンが意外に多くの人の食卓に上っていたのに驚く。誰が始めたんだろう?

命の認識

東京大学総合研究博物館でやっている「命の認識」という展示を見に行ってきました。
12月から始まってはいたのですが、今日は監修している遠藤先生による「遺体解剖見学会」というイベントがあるので、それに合わせて。

博物館の奥まった部屋におびただしい数の動物の骨が並べて置いてあります。
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それだけです。説明書きは何もありません(というのは建前で、何の骨かを書いたシートがひっそり一角に置かれた机の上にあります)。
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つまり、それを見て何を感じるか/考えるかは見る者に対してオープンになっている。
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しかし当たり前のことですが、企画が見る者に対して孤独な認識の作業を課すというのは非常に難しいことです。現に「命の認識」ホームページでは見る者に下駄を預けるための口上としては饒舌すぎるくらい監修者の意図が説明されていますし、たとえそれを読まずにたまたま訪れた人がこれを見たとしても、それを見て何かを感じるときにはやはりなにがしかの先行する人々の言葉に温かく助けられながら感じるしかない。
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とはいえ、それはまあ言いがかりなのかもしれません。監修者としてもそこまで「純粋に見る」ということにアプローチしようとは思っていないでしょう、このしつらえからして。自分は先日、仕事でいろいろお話をうかがった「内臓の重さを支えるものとしての4足歩行動物の肋骨」とか「草をすりつぶす歯とあごの構造」とか「脳の入っている穴」などいろんなものを思い出しながら「これかー」と楽しく拝見しました。そう、むしろ認識をする個人・個性というのは、こういう先行者の言葉の組み合わせのユニークさのことなんでしょう。
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それよりも、14時から(のはずが、ものすごく人が集まったのでちょっと早めに)始まった遺体解剖見学会。展示室では鶏の手羽先(スーパーのパックから取り出してやってましたw)、講義室では去年死んだハシビロコウと11年前に死んだコアラ(こちらは動物園提供のためとかで撮影禁止だった)の遺体を前に、体の構造や機能についてレクチャーがありました(展示とはうってかわって豊かな言葉で満たされていたが、普通に面白かった)。講義室に立ちこめる遺体の匂いは、ノンバーバルな情報としては最も鮮やかに脳に”来る”感じがしますね。死というネガからの反照として得られる、命の認識。

2010年01月16日

解ける問題 解けない問題

■野崎昭弘『解ける問題 解けない問題』講談社、2009年。

四六判でイラスト豊富な、ものすごくとっつきやすい感じの薄めの単行本と思って手に取ったら、実はネコの皮をかぶったブルーバックスで難しいというサプライズ(笑)

アルゴリズム入門。最終的には、ある問題を解く方法が「存在しない」ことを証明する、という、聞いただけで難しげなことを人間がやってのけるところまで見られます。面白いんだけど誰に勧めていいかまったくわからないのは、周りに数学の話なんかする人がいないからだろうよ。

2010年01月15日

7年目の夜更けに

このあいだの雨が降って寒い日、久しぶりにメシを食う約束をしていた年下の友人から、待ち合わせの1時間くらい前になって電話がきました。「雨だし寒いし、気が進まないんじゃないですか?」なんて切り出すものだから、いくら鈍い自分でもピンと来て「それは君がそうなんだろ」と聞き返すと、最初は「そんなことないですよ」などと言っていたものの、最後には観念して「そうでした」という。
それをきっかけに、これまた久しぶりにカッときて「自分がしたい土壇場キャンセルの責任を、姑息な言い回しでこっちに押しつけようとするな」と自分にしては激しい口調で説教を垂れ、相手はいちおう反省の様子になり、電話を切り、またしばらく彼とは没交渉としようなんて思っていました。

しかしそのしばらくが過ぎればまた何気なく電話がきて、メシでも食いますかなんて話をする気がします。許すのも許されるのも、許したり許されたり今はしていなくてもその可能性はあるというのも、すべて生きているから、続きがあるからです。

このところ、ある人が死ぬということは、その人にしてしまった嫌なことが清算されたということなのか、永遠に清算できなくなったということなのか問うことがありました。対極的な二つの可能性ですが、どちらをとっても成り立つように思えて、しかし本当はどちらが正しいのかしばらく考えてみたい気になっています。

7年前のこの時期、母親の遺体が火葬されるのを待つ間、父親と妹と、母親の姉と妹(つまり自分のおばさん2人)で焼き場の横にある畳敷きの待合室でとりとめもない話をしていました。
前の年の7月に癌の再発が見つかって、11月から容態が明らかに悪くなってから、7年前の今日に最期の日を迎えるまで、ほとんど在宅で面倒を見てきた父が明かすには、母が自力で起き上がれなくなってしばらくしたある日、おむつを嫌がった母が布団にもらしてしまい、「そらみろ」と厳しく叱ったところ、声を上げる体力のない母は顔をしかめ、手を合わせて拝むように謝ったそうです。
「病人を叱るもんじゃないなあ」と言い終わらないうちに、父がはじめて堰を切ったように泣きました。

そのとき、母が死んだということは父にとってその申し訳ない感じが清算されたのではなく、逆に永遠の後悔として固定するように現象したのではないかと思っています。しかしそうした死と清算の関係は、時間が経つにつれ変化するのかもしれません。何年か経つうちに、がらりと切り替わることはないにしても、あれは清算だったの「かもしれない」と思う瞬間が訪れるような気もします。

ここまで、ずるいことに父の体験を引いてつらつら書いてきましたが、自分こそ実はひとつやらかしています。それは今年の段階ではまだ書く気になれません。ちなみに最近死と清算の関係を問い始めたというのは、自分にとっては最近、あれが清算だったのかもしれないと思う瞬間が訪れたからです。
しかしまだその程度だともいえ、したがっていまだに近親者の死を経ても自分が生きつづけていることを称揚するような境地には達していない。この自分が経験している長いプロセスは、ずっと観察し続ける気になる非常に興味深いものではありますけれども、それは別の話、ですよね。

2010年01月11日

富津で温泉とラーメン

バイクもあんまりエンジンをかけないでいるとよくないというのと、このあいだ思わず買ってしまったGREEDYのジャケットの防寒効果をちょっと試そうということで、内房は富津にふらっとラーメン食べにいってきました。

3連休はうしろに行くほど天気がいいはずだったのに、今日は朝から曇りで肌寒い。
でもまああまり寒かったら帰ってくればいいかと出掛けました。

京葉道路から館山道に入ってずっと走ってるとやっぱり寒いです。
というわけで、富津竹岡で降りて、まずは金谷のフェリーターミナルのすぐ近くにある旅館、金泉館でお風呂(500円)。
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2×3メートルくらいの石造りのお風呂で、そんなに大きくありません。が、茶色いお湯はちょっとぬるっとした感じで、加温していますが熱すぎず、とてもよい!
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外見がこんななので全然期待してなかったのですが、これは泊まりがけで何回も入ってもいいなー。
じゃらんのページなんか見るとあまり一人旅歓迎な感じじゃないのが残念。

ちょっと戻って富津市竹岡のラーメン屋「梅の家」です。

大きな地図で見る
何年ぶりだろう。5年ぶりくらいか。
漁師が食べるラーメンで、全然気取ったところのない荒削りなラーメンです。麺は乾麺を使い、チャーシュー(写真、下に置いてある寸胴)を茹でたお湯でスープを割って出すというもの。
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おばちゃんらがいっぱい、ばたばた働いてます。

大ラーメン650円にヤクミ(生たまねぎのみじん切り)50円です。
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ほぼ醤油(!)という色のスープなみなみ。何もしなくても既にテーブルにこぼれ出てますw
ちなみにこれチャーシュー麺ではありません。にもかかわらず、分厚いというよりほぼブロック状態のチャーシューがどっかんどっかん入ってます。そこに山のようにタマネギがのっかってます。これこれー

うまいんだけどしょっぱいです。よほど腹が減ってなければ普通サイズでいいかも。
午後2時すぎでも常時10人以上が列を作ってます。こんなに混まなくてもなあ。
食べ物がおいしい条件は、そのものがおいしいということのほかに
(1)誰かと「おいしいね」と言いながら食べる
(2)ありつくのに苦労する
ということがあると思うのですが、このラーメンには明らかに(2)のスパイスがかかってます。

というわけで体も温まり、帰りは千葉市内まで下道でゆっくり帰ってきました。
結論。手持ちの装備で気温6度くらいでも全然問題なくツーリングできそうです。ただし日暮れまでに帰るってもんだな、冬は。

2010年01月07日

冬休みまとめ

12月30日、高速バスで新宿→飯田(中央道ガラガラ)、父宅泊
12月31日、父実家に寄って本家に移動(※婿養子につき)、泊
1月1日、高速バスで駒ケ根→新宿(中央道混んでなかった。2日はひどかったらしい)

坂を転がり落ちるようにばらばらにそれぞれ大変だった家族の10年が、なんとなく一区切りつきつつあるような感じがしました。といっても反転上昇することはもうなく、ちょっとした踊り場みたいなところでひと息つくのが許されたような感じですけど。

という謎めいた記述は自分メモなのでよいとして。

29―3日の年末年始休みのうち、29、30、31、2、3と在宅で仕事するハメになりましたw
小型ノートPCとVPNって超余計超便利!
お年玉(=呼び出し手当)計6000円ゲットです。

特に3日は、
・ちょっとお酒を飲みに出て深夜帰宅したところ家の鍵を紛失
・飲んでた店は電話しても出ず
・マンション入り口に掲示してある管理会社の携帯電話に電話するとなんか全然関係ない人が出て「番号間違えてませんか」w
・手掛かりを求め管理会社に出向いてみると「新年は7日から営業します」ww
・とりあえず4日未明、地元カプセルホテルに避難、軽い無宿者状態
・4日は仕事のアポイントを入れてあったので内心かなり焦る
・朝がた、メールしてあったお店の人から「落ちてたよ」と返信
・現地に出向き、受け渡し
・おかげさまで午前9時半には自宅侵入(?)に成功
・即、出勤w
で久しぶりに眠気でクラクラしながら夜まで仕事しました。

曜日配列の関係で世間的にも短い冬休みになったようですが、私も個人的にのんびり正月休みをとった感じがしませんでした。

2010年01月01日

生物と無生物のあいだ

サントリー学芸賞。へえと思いながら読んでなかった本が、実家に帰省したら本棚にあった。東京に戻る前に急いで読んだ。読めた。

■福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書、2007年。

・まず、筆者が押し出す「動的平衡」という概念について。
生物個体を構成する分子は絶えず入れ替わりながら(動的)、しかし個体であることを保ち続けている。そして致命的なものでなければ、欠損が生じたとしてもなんとかしてそれを埋め合わせる力を持っている(平衡)。アイディア自体はどこかで聞いたような気もしますけど。

GP2というたんぱく質の役割を調べるために、それを生まれつき体内で生成できないマウス(ノックアウトマウス)を作ってどんな不具合が出るか見てみたが、何も不具合がなかった。その欠損はおそらく「動的平衡」の作用によって発生の過程で埋め合わされていたのだろう、という驚きが描かれてます。

で、後日談。GP2の働きは先ごろ理化学研究所などが解明しましたね。このリリースはまったく福岡氏への言及なし。で、彼が噛んでいる機関発のこちらのリリースを見ると、彼がノックアウトマウスを作ることでいかにこの発見に寄与したかをアピールしまくってます。
俺が俺がというのは研究者としては自然なんでしょうが、それより、GP2は結局、腸管の免疫応答に関係があり、ノックアウトマウスではこれが働いていなかったとのこと(理研リリースより)。ということは、ノックアウトマウスにおけるGP2の欠損って、動的平衡で埋め合わされてなんかいなかったんじゃ……

・あとは、DNA研究の歴史。これが本書の中で結構な量を占めてます。知ってる人には退屈でしょうが、まあ新書読むのは素人でしょうから……

・それから、ところどころに筆者の自分史だのニューヨーク、ボストンの情景描写だの。どっちでもいいです、そんなの。

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