このあいだの雨が降って寒い日、久しぶりにメシを食う約束をしていた年下の友人から、待ち合わせの1時間くらい前になって電話がきました。「雨だし寒いし、気が進まないんじゃないですか?」なんて切り出すものだから、いくら鈍い自分でもピンと来て「それは君がそうなんだろ」と聞き返すと、最初は「そんなことないですよ」などと言っていたものの、最後には観念して「そうでした」という。
それをきっかけに、これまた久しぶりにカッときて「自分がしたい土壇場キャンセルの責任を、姑息な言い回しでこっちに押しつけようとするな」と自分にしては激しい口調で説教を垂れ、相手はいちおう反省の様子になり、電話を切り、またしばらく彼とは没交渉としようなんて思っていました。
しかしそのしばらくが過ぎればまた何気なく電話がきて、メシでも食いますかなんて話をする気がします。許すのも許されるのも、許したり許されたり今はしていなくてもその可能性はあるというのも、すべて生きているから、続きがあるからです。
このところ、ある人が死ぬということは、その人にしてしまった嫌なことが清算されたということなのか、永遠に清算できなくなったということなのか問うことがありました。対極的な二つの可能性ですが、どちらをとっても成り立つように思えて、しかし本当はどちらが正しいのかしばらく考えてみたい気になっています。
7年前のこの時期、母親の遺体が火葬されるのを待つ間、父親と妹と、母親の姉と妹(つまり自分のおばさん2人)で焼き場の横にある畳敷きの待合室でとりとめもない話をしていました。
前の年の7月に癌の再発が見つかって、11月から容態が明らかに悪くなってから、7年前の今日に最期の日を迎えるまで、ほとんど在宅で面倒を見てきた父が明かすには、母が自力で起き上がれなくなってしばらくしたある日、おむつを嫌がった母が布団にもらしてしまい、「そらみろ」と厳しく叱ったところ、声を上げる体力のない母は顔をしかめ、手を合わせて拝むように謝ったそうです。
「病人を叱るもんじゃないなあ」と言い終わらないうちに、父がはじめて堰を切ったように泣きました。
そのとき、母が死んだということは父にとってその申し訳ない感じが清算されたのではなく、逆に永遠の後悔として固定するように現象したのではないかと思っています。しかしそうした死と清算の関係は、時間が経つにつれ変化するのかもしれません。何年か経つうちに、がらりと切り替わることはないにしても、あれは清算だったの「かもしれない」と思う瞬間が訪れるような気もします。
ここまで、ずるいことに父の体験を引いてつらつら書いてきましたが、自分こそ実はひとつやらかしています。それは今年の段階ではまだ書く気になれません。ちなみに最近死と清算の関係を問い始めたというのは、自分にとっては最近、あれが清算だったのかもしれないと思う瞬間が訪れたからです。
しかしまだその程度だともいえ、したがっていまだに近親者の死を経ても自分が生きつづけていることを称揚するような境地には達していない。この自分が経験している長いプロセスは、ずっと観察し続ける気になる非常に興味深いものではありますけれども、それは別の話、ですよね。