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2018年08月 アーカイブ

2018年08月31日

ウズベキスタン(7終)

【8/30】

サマルカンドからタシケントに移動し、夜に帰国の途につきます。
未体験ゾーン、モーニングコールが4:30。
お弁当(パン、ジュース、ヨーグルト、水。リンゴは食べきれないまま持って帰ってまだうちの台所にあります)を受け取ってバスに乗り込み、サマルカンドの鉄道駅に行きました。
鉄道駅も荷物のセキュリティチェックがある。そういう国。
駅舎は素敵なステンドグラスがある重厚長大なソ連様式。
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駅での写真撮影が許可されたのも、つい今年からだそうです。
プラットフォームは広い。
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ブハラ発タシケント行きの新幹線的なやつ、アフラシャブ号に乗りますよ。
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どこ製かな?中国?ロシア?とみんなで推測しましたが分からず。
だいたい時速160kmくらい、最高で210kmちょっと出ていたと思います。
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ちなみに画面左のお兄さんが笑っているのは、弊管理人の頭上にあるモニターでやってるコメディを見ているためと思われます。
右のちょっと寝てる女性が、この旅じゅうずっと日本語でウズベキスタンを紹介しまくってくれた超優秀&豪腕ガイドさんです。最終日、朝から咳が出て具合悪そうでした。東部の山の中の出身で、タシケントの国立東洋学大(うろ覚え。確かそう)を出て埼玉の国際交流基金に来て論文を書いたそう。
車内ではお茶とパンが配られます。飛行機みたい。
スタッフを撮影しようとしたら制止されましたが、まあ撮るよね。
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ティムールが戦争に行くときに集合場所にしていた峠「ティムール・ゲート」を通り過ぎ、「8:15ごろ通ります」と言われていたシルダリア川を定刻通り通過(つまりかなり正確に運行しているのだ。えらい)すると、タシケントの街に入ります。名前は13世紀ごろついて、「石の街」という意味。
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午後10時のフライトまでがっつり観光。

まずは日本人墓地のある墓地。
これはまだ日本人墓地ではありません。現地の方々のやつ。
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故人の顔が墓石に彫ってあるのはソ連式なんだって。月のマークがついてるムスリムの方々のも一部そうなってました。ガイドさん(イスラム教徒)に「イスラム教では墓地に幽霊は出るんですか?」と聞いたが分からなかった。逆に「なんで日本では出るの?」と聞かれてそういえばなんでかなと。
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こちらが日本人墓地。抑留者の遺体を埋葬した初代墓守から数えて今はお孫さん=3代目。とてもきれいにされてます。
実は弊管理人の祖父(1912-2003)もシベリア抑留者なのですが、シベリアからウズベキスタンに移送されていたことを旅行直前に家族から聞かされました。
当然というか、シベリアに比べればマイルドな気候で、劇場建設などの労働現場では周辺住民からの差し入れもあったりして、死亡率はシベリアより低かったとのこと。

モスクのトイレをお借りしました。お清め部屋もきれいね。
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タシケントの街には白人が格段に多いと感じます。
スムを使い切るため、コルズィンカ(かご)というスーパーに立ち寄りました。
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これは菓子パン職人のおにいさん。
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結局なんだかんだ合わせて、この旅では7000円くらいしか使わなかった。
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こちらは歴史博物館。
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中に入るとカリモフより一言。
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土地と個人を結びつける分かりやすい国民統合のメッセージ。多文化・多民族が存在する現実と、国家の安定の折り合いをつけようとすると多分こうなる。
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古代風の柱と、美しい国。絵はちょっとアンズの花の季節の長野っぽかったりする。
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当然ながら石器時代から始まって近現代に至るわけですけど、これだけくるくると民族も人種も違う支配者が入れ替わってきたウズベキスタンの歴史って一体何?どこから始まるの?と台湾の故宮博物院を見たときのようなことを思いました。

『60章』のコラムを見ると、「ウズベキスタンではウズベク人が人口の80%を占めている。しかしながら、ウズベキスタンにはその昔「ウズベク」と呼ばれる人々は住んでいなかったのである」と書かれていて何何何?となります。その答えは次のようなこと。

人間集団の名前としての「ウズベク」は14世紀後半のことを書いたティムール朝の史書に出てきて、それは現在のカザフスタン西部にいた遊牧集団のことだったそう。彼らはチンギス・ハンの長子ジョチを君主(ハン)に戴いてカザフ草原に勢力を拡大。1500年にはティムール朝の首都サマルカンドを征服し、もう一つの中心都市ヘラートも攻略してティムール朝を滅亡させる。このときの遊牧ウズベクの移住者は推定24~36万人。その後も流入は継続します。

ちょっと時代を遡ると、もともとこの辺りには8世紀にイスラム勢力が入ってからペルシア語が使われていましたが、そのあとカラハン朝(10世紀)の時代にテュルク族が流入。支配者の言葉だったテュルク語も普及していました。このあとモンゴル侵入を経て、ティムール朝の時代にもペルシア語とテュルク語が併存。テュルク語系の遊牧ウズベクの移住はさらなるテュルク語化が進む要因となったということです。つまり、テュルク語を喋る人たちは遊牧ウズベク以前にもいた。

さて、ロシア革命後の1924年に民族・共和国境界画定によって、「そこにいたテュルク語を母語とする人たち」が「ウズベク民族」とされ、ウズベク民族が多数派の地域がウズベク共和国になった。そしてそこで使われている言葉が「ウズベク語」になった。(ペルシア語の地域はタジク共和国になり、言葉は「タジク語」になった。ガイドさんはタジク語を聞いても「なんとなく分かる」そうです)(pp.77-79)

つまり、「ウズベク民族」は少なくとも、昔からいたテュルク語話者と、ティムール朝時代の最後に入ってきたテュルク語話者の遊牧ウズベクが混ざっていて、しかも現代になって創出されたものだと。遊牧ウズベクに滅ぼされたティムール朝の始祖が英雄になっちゃって主要都市に銅像が建っているのものもわけがわからないが、むしろ「ぐちゃぐちゃだから何をシンボルにしてもいい」のかもしれません。
ティムール朝の人気も、滅亡後だいぶたった18世紀の経済衰退期に始まったが、ソヴィエト政権下では民衆重視・為政者否定の中でティムールの地位は低下し、ソ連崩壊後にやっと復権する、という浮き沈みがあったとのことです。

テレビの発明もウズベキスタンですからね、という展示。
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あと、スターリン時代のことはやはり相当恨んでいる印象。
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1920年代のソヴィエト政権はイスラムの「後進性」を廃して一夫多妻をやめさせ、女性のヴェールを脱がせ、イマームを逮捕し、ラテン文字を使わせ、民族知識人を抑圧。スターリン体制ではコルホーズ導入、富農の追放、棉モノカルチャーと「赤い植民地」化、大テロルによるウズベク共産党や知識人の大量粛清による文化の継続性喪失、戦時中の朝鮮系ロシア人の沿海州からの大量移送など、いろいろひどかったらしい。

しかし「ウズベク人がソヴィエト政権を支持し受益者となったり、時には同胞の抑圧に手を貸す加害者の立場にもあったという問題に触れることは、ペレストロイカ期と比べてむしろ困難になっている」(『60章』pp.100-105)。『イェルサレムのアイヒマン』を思い出します。

うちのじいちゃんも建設作業させられたらしい、ナヴォイ劇場。
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周りはドングリの木がいっぱい。実を少し拾って帰ってきました。

そういえばここまで、たびたび名物と聞いていたプロフ(ピラフ)食べてないなーと思っていたら、お昼がそれでした。
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ものっすごい大皿で出てきて4人くらいで取り分けます。上に載ってるのは牛肉、丸いのは馬。よく知ってる人に言わせると「かなり上品なプロフで、もっと悪いやつは油でギットギト」とのことです。
おいしかったのでかなり頑張って食べましたが、それでも半分以上残った。
みんなそこはかなり呵責を感じるところで、しかし「残飯は牛のエサになるから食品のゴミというものは出ない(ついでに、それゆえ駅のゴミ箱などに紙ゴミと残飯を一緒に入れると怒られる。気をつけろ)」というガイドさんの説明を信じて忘れることにしました。
あと、こちらはラグマンといううどん。沖縄そばみたいな麺です。
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朝が早かったこともあって、このあと弊管理人は日本庭園を夢うつつで歩き、バスの中で意識喪失します。
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花が咲いてますね、くらいしか覚えてない。

しかしおかげで、チョルスー・バザールを見る頃には復活して元気になりました。
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文房具(新学期を前にしてかなり賑わっていた)、スパイス、雑貨、乳製品など細かく区画が分かれていましたが、やはり肉が壮観です。温まった生ラムのような匂いが充満してます。
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では地下鉄に乗りましょう。青いトークンを改札口に投入してホームに入ります。
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説明が丁寧。
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無骨な車両です。
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中は東京の地下鉄より広い感じ。日本人は乗るとまだまだ異物感を醸す。
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人が来るとすぐにシートが譲られます。
地下鉄駅ごとにコンセプトが違う装飾がされていて、それらがとてもきれい。
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ティムール朝の政治家・詩人ナヴァーイーのレリーフとったらセキュリティ機器も入っちゃったい。まあいいか。
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しかもこれも今年になって撮影解禁になったというのがまた。
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さて、この駅を出ると最後の観光地です。
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大統領府のある広場、かつてレーニン像があったラスボス感のある場所には子どもを抱く母親の像があります。第二次大戦中に疎開してきたロシアの子たちを受け入れたウズベキスタンの象徴。上にある地球儀にはウズベキスタンだけが彫られているとか。
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マックもスタバもない、しかし各所の撮影規制を緩めたミルジヨーエフ(←外務省表記を調べたらこうだった)新大統領のウズベキスタンはこれから観光に対して開かれていき、変貌していくのでしょうか。あるいは、やはり国をある程度閉じておくことにメリットを感じていて、少なくとも経済は引き続き中で完結しようとするのか。

空港に向かう前、最後の晩餐。
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いや、それにしても今回、パック旅行でよかった。そして楽。プロが全部やってくれるというのは楽。金額だけ見れば決して安くないけど、自分でアレンジしたとしても、同じ内容でこれより安くできない気はする。

パック旅行の客層も面白かった。

会社で結構いいところまでいってリタイアした風の亭主関白系ご夫婦3組(うち2組はビジネスクラス)、パックで世界を回っているらしい値切り魔のおばさん、「イタリアやフランスみたいに沢山の箇所を自分で回りたい時は自分で組むか、専門の旅行者でコースを作ってもらう」という旅慣れたおかーさん(添乗員さんも持ってなかった爪切りをお借りしました。こういうものを旅に持ってくるのも旅慣れてる感じ)、写真とりまくり一人旅おじさま、イスラムに詳しい知識階級っぽい謎のおじさま、東欧駐在経験があり40年とかのスパンで仕事で何回か訪れたウズベキスタンの最近の様子を見に来ようと思ったが、妻に先立たれ、友達を誘ったけど来てくれなかったため一人旅になってしまった元国際協力系?おじさま。
あと、厚かましいお嬢さんがそのまま年を取った感じの暗いところでフラッシュ撮影しまくる痛いおばさんは集団の不安定化リスクとみていたが、結果そこまで顕在化しなかった。誰だか忘れましたが「パックに慣れると抜けられなくなる」との金言もいただきました。

旦那も娘も婿殿もついてきてくれないマダムなどはピンでこういうのに参加しているうちに同じ境遇の仲間を見つけて、次の旅には連れ立って出掛けるらしい。

タシケント22時発、寝たり起きたりしているうちに7時間ちょっとで成田に着きました。
タジキスタンから同じ便で来て、右も左も分からないのにクルーズのため横浜港に行きたい(しかもドクターというわりに英語もほとんどできない!!!)という無謀なおばさん2人に捕まり、いろいろ書いて教えたりリムジンバスに乗っけたりしているうちに、旅の間ずっとメモをとっていたメモ帳をどこかでなくしました。
29日分まではPCに打ち込んであったので、失われたのはこのエントリー分だけで助かった。カメラのSDカードが一瞬不穏だったこともあり、バックアップ大事大事。

いやあ楽しかった。誰か連れていけばよかった。おしまい。

(9月8日記)

2018年08月29日

ウズベキスタン(6)

【8/29】

サマルカンドを歩いて観光する日。
そういえばホテルの机にお祈りの方向が示してありました。
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ホテルの朝食。
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ショルダナクという杏の種、ドライフルーツ、お粥あたりが名物みたい。

昼間のレギスタン広場を見ます。
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メドレセのミナレット、曲がってます。よく見るといろんな建物が曲がってる。
一見きれいな焼き物の彩色も粗っぽかったりして、ここは全体的に、大きさとか派手さに注意が向きがちで、クラフツマンシップの意外な質の悪さに気付きにくいところだと思う。
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「レギスタン」の名前は、もともと湖だったところが干上がってレギ(砂)スタン(場所)になったのが由来。バザールがあり、ビビハニムモスクまで続いていた。巨大メドレセとモスクは、ここでも革命軍による大規模破壊を経て修復されました。
3つある建物の最初に作られたのはウルグベク・メドレセ。ATM完備。
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ウルグベクは天文学者だったので星の模様。先生は住み込み。1960年代に修復。中にはモスクもあり。イラン、トルコ、イタリアからも学生が来ていた。1941年に第二次大戦が始まったあと、ロシアから疎開してきた子どもが一時収容されていたという。
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2つめはバハギル・メドレセ。金で作ったモスク。テラ(金で)コール(飾った)メドレセ。模様は長生きを示すアーモンド。唐辛子はゾロアスター教の意匠、バジルはイスラム教と混ざった形。内部の天井は、円の中心に向かって葉っぱが小さく描かれているため、ドームになっていないのにドームに見えます。
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3つめはコシュ(向かい合わせ)メドレセ。太陽と、トラに見えるがライオンをかたどった模様。シカを狩っている。40教室あったそう。

タイル職人の店で湯飲みを購入しました。
入ると笑顔で商品をアピりまくるわりに、値段交渉になるとすごいシビア。ま、もとが1個3ドルなんですけど。真顔の客あしらいに田舎を感じます(嫌いとは言ってない)。

行こうと思っていたチャイハナが清掃中というので、時間つぶしに入ったブティックと工房。
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しかし弊管理人は買い物に興味がないので、一行が見ている間、外の公園のベンチに座っていました。同じベンチの老人と全く言葉が通じないのに会話になりました。なぜか年金手帳のようなものを見せてもらいました。

お茶休憩。
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お茶とお菓子で一休みするだけなんですけど、この画面左にある、絨毯を敷いたベッドフレームみたいなやつに上って足を伸ばすとすごく休まります。日陰は風が涼しく、できればお茶をポットで頼んで一日ぐったりしていたい。

ビビハニムモスク。ティムールの長女のモスクだそう。マグネット購入。
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昔はこれもんで壊れていたらしい。
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一人で写真を撮っていたら、仲良し3人組から一緒に写真を撮ってと頼まれました。
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弊管理人と彼らが一緒に、彼らの携帯で写真をとったあと、3人を撮らせてもらいました。
日本人と写真、よくあることらしいです。むしろ3人を撮ったら「自分は入らないの!?」と言われました。一緒に撮ればよかったね(笑)
わきゃわきゃしていたので学生だと思ってましたが、写真見ると結構歳いってそうな。

お隣のバザールに寄ります。
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賑やか。ヨーグルト玉、スパイス、ナンなどいろいろあり。
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同行のご夫婦がスパイスを猛然と値切っていて、そこまでする?と若干引きましたが、最後は商談成立していたので儲けは出るのでしょう。換算すれば何百円の話なんだけどな。
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ノンを売っていたのはおばちゃんたちで、ここでも女性のほうが勢いがすごかった。
弊管理人は干したアンズとイチジクをちょっと買いました。

シャヒズィンダ廟。12世紀の聖人の墓などいっぱい集積したところ。
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コーランを読めない人のために、いい声で読み聞かせるお兄さん。
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このときは健康に関する一節だったそう。ありがたい言葉を両手で受けて、それを顔に浴びせる仕草。周りの人たちも一緒にやります。

いったんホテルに戻ってうとうとしてから散歩。
おととし亡くなったカリモフ前大統領の像を見に行きます。
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1938年サマルカンド生まれ、貧しい家庭から工科大、経済大を出て博士号取得。経済官僚としてキャリアを積みます。そのあとソ連構成共和国時代から27年も指導者を務めました。大統領に権限が集中する体制を築き、強い国家統制を残して漸進的な改革を行うことで、ソ連崩壊後のショックを緩和し、世界の金融危機の影響も受けにくかった。反面、外資の導入や経済の多角化が抑制されます。歴史やイスラムを象徴的・選択的に利用した公定ナショナリズムを利用した統治を行い、共助団体を通じた市民監視も強めました。フェルガナ盆地でのイスラム運動に対しては強面の弾圧を行い、過激化を招いたこともあります。(『60章』pp.284-289)

そして彼の死後、空港に名前がつき、命日は休日になってました。
「イスラム・カリモフの「神話化」とも言うべきプロセスが進行している。[...]抑圧的なソ連体制からの解放と独立の達成、独立後の数多くの困難の克服、独立国としての基盤づくりと優れたイニシアティヴ、民主主義的祖国の安定と発展、それを脅かす勢力との正義の闘い―これらが様々な場面で繰り返し語られるモティーフである。そしてその中でカリモフは、建国の「父」、ウズベク民族の偉大なる「父」なのであり、父が築いたものを父亡き後に残された「子供たち」が受け継いでいくのだというイメージがいくつもの手段や経路で美しく演出され、拡散されている」(同、p.292)

そこからバザールまで歩いて、午前中とは反対側の出口から出ると、場外にもかなりのお店が広がっていました。
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喧噪と排気ガスの臭いを抜け、路地に迷い込み。
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ホテルに帰りました。

(9月8日記)

2018年08月28日

ウズベキスタン(5)

【8/28】

ティムールの生地、シャフリサブスを経由してサマルカンドに向かう日です。めちゃんこ早起きで出発です。今日はバス移動がほとんど。
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シャフリサブスまで300km。ブハラ~シャフリサブスは羊が多いところだそうです。
街と街の間には検問があります。相変わらず担当官を撮影してはダメ。

綿花の畑が広がっています。蜂蜜もとれるそうです。花は4から9月がシーズンで、11月には木を周囲の民家のおじさんが取りにきて、屋根の上に乗せておき、冬の薪にするのだとか。
昔はコルホーズだったが、今は国営になっていて、手伝うとお給金がもらえます。ちなみにコルホーズは団地ごとに運営、ソフホーズはそういうまとまりがない農場、というのが違い。

車はフェルガナ、アサカ市で作っているシボレーがほとんど。コンパクトカーくらいの小さな車が多いです。一方で旧ソ連時代の製造と思われる「ラーダ」もかなり走っています。安いのでよく売れたとか。違う日の写真ですが、ラーダってこういうのです↓
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ブハラは石油が出るそうです。ムバラクという「天然ガスの街」ではガスのプラントも見えました。荒野、住宅街を問わず、ガス管は黄色、水色は水道管だそう。
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ガスが安くてガソリンが高いので、車はガス車が多いんだって。そう言われてみれば、「メタン」や「プロパン」と表示されたガススタンドがあちこちにあった!

車内ではウズベキスタンの歴史をざっとおさらい。
 1-4世紀 クシャン朝
 9-12世紀 サマニド朝
 13世紀 ホレズム・ハン国、ここにモンゴルが襲来しいろいろ破壊した
 15世紀 遊牧ウズベク人が進入
 16世紀 シャイバニ朝
 17世紀 ヒヴァ、ブハラ、コーカンドの3ハン国
 1850 帝政ロシア
 1919 ソヴィエト革命軍の統治、いろいろ破壊
 1960年代 ソヴィエトが「ごめんね」で壊したものを修復する時代
 1991 独立
つまり、どこを見てもだいたいモンゴルとソヴィエトが壊してる。

国歌、紋章、国歌についても勉強しました。

国歌はブルハーノフが作曲、アリポフが作詞。「ウズベキスタンは太陽の国ですよって歌ってます」。野菜、果物、学者など自慢を並べて「きれいにして残そうね」という歌だそう。あとで歌詞を見たらちょっと違うけど大体そんなんだった(笑)。毎朝7時にラジオで流れ、公共の場などで聞くときは右手を胸に当てて聞くそうです。

紋章。これでーすっつって、ガイドさんが。修学旅行っぽい。
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紋章は綿花と小麦が両脇、ホーマ(フマ)という空想の鳥が中央に配置されてます。あとはアム川とシル川、それらの源流であるパミール高原。

国旗は上から青、白、緑のトリコロール。

青は空+ティムール朝の国旗+タイル、白は川の水+「思いやりがある明るい人」を意味するのだとか。緑は植物でしょうな。3色を隔てる赤い線は第二次大戦の戦死者の血。左上にイスラムを示す三日月と、12の地方を示す12個の星。国旗・国歌への崇敬を刷り込み、内外国民の監視を行うのは、多民族を抱えて突然生まれた若い国家ならではでしょうか。
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というかもう車窓が全くもって国旗の色。この写真では白は山ですけど。でもすごく写実的な国旗だなと思いました。ボロディンの交響詩に「中央アジアの草原にて」というのがあって、どこをイメージして作ったかは知らないけど、結構草原あるんだなと。
ちなみに最高峰はスルハンダリア地方にあるハズレット・スルタン山、4643m。
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途中、トイレ休憩のガソリンスタンドで売っていた、この手前の黄色いものは「氷砂糖」。
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近影こちら。腹痛は紅茶にこれを溶かして飲むと治るんですと。1000スム、だいたい14円。2本買いました。
(と、これを書きながら台所に行ってタキ・バザールで買ったハーブティーを淹れ、氷砂糖をなめてます)

お昼前くらいにシャフリサブスに着きました。
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モスクではチノールという1370年にティムールが植えた巨木が3本。木は長生きだということで、遠征に行った先々で木を植えていたそうです。
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この時計は1日5回の礼拝の時間。
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あと、ティムールの墓。ただし本人はいない。
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ティムールの孫、ウルグベクが作ったウルグベク・モスク。
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アラビア語の下に星がいっぱい描いてあるのは、ウルグベクが天文学者だったから。
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内部は耐震工事中。アーチに渡してある棒も耐震のため。
それにしてもドームの印象的な水色はどうやって出しているのか。聞いてみると、昔はコバルトやトルコ石、今はペンキなので毎年補修するそうです。

アクサライ宮殿を見に行きます。
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ティムール像が見ている方向はアフガニスタン。墓を開けて行った調査により、骨格から顔つきが復元された。右足が悪かったことも分かった。
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補修がされていない珍しい史跡だそうですけど、むちゃくちゃでかい。
天井と地下に奥さん用のプールがあったんだと。
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当初はタイル張りだったが、16世紀には破壊が進んでしまいました。これはモンゴルとかは関係なく、遠くから見ると輝いて見えるようにタイルに砂金が含まれていたため、砂金を目当てにタイルが剥がされていったのだとか。

お昼は家庭料理。
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この後出てきたロールキャベツもうまかったです。
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葡萄棚のある素敵なお家。ちょっと休ませていただきました。

さて、サマルカンドへ、さらに3時間バスの旅です。
ウズベキスタンに関するレクチャー、続きます。

教育について。ウズベキスタンは4-5-2制。教育は無料。教師の給料は160~170万スム。5月下旬から9月初めまで長い夏休みがあります。カザフ語やタジク語で教える学校もあるが少数。今は1年生から英語を教えます(確かに話した現地の人の中では若い人によく英語が通じた)。数学にもかなり注力していて、ヨーロッパのカリキュラムより進んでいるとか。
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これはガイドさんの息子さんのノート、確か3年生ですが、すごいしっかりした字を書きます。
生徒は鉛筆ではなく青いボールペンで書き、教師が赤ペンで直しを入れます。間違いを消させないことで記憶を促すという趣旨の「ソ連方式」。子どもが多いので、学校は2部制になることもあり、その場合は朝8時からと11時から。
授業は午後2時くらいには終わりますが、音楽、舞踊、スポーツなどの私立学校があって、そちらは有料。

「青空トイレ」=立ちションの時間も取られましたが、意外に人目があってバスを降りたもののできず。

途中の山岳地帯は、子どもを乗せたロバがとことこ歩いているようなところ。日本にまったくない風景で、ちょっとでもいいから止まって写真を撮りたかったです。
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あとで同行のおじさまと話したんですが、「道の駅」ほしいよねと。運営ノウハウを輸出したら絶対受けるでしょ、と盛り上がりました。

サマルカンドに到着してさっそく観光。グリ・アミール廟。
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ティムールはシャフリサブスに自分の墓を作ったが、そこに入ることはできませんでした。この廟はもともとメドレセ。ティムールの息子や孫のウルグベクも埋葬されています。ぱないわ。
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でもやっぱりドーム、ミナレットとも革命軍に破壊されたんですと。
ほんとに最近修復したものばかり見ているのですね。われわれ。

夕飯はケバブ!!
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牛、羊、トマトを、玉ねぎやソースとともにクレープで巻いて食べる。うまい!

一度、ホテル「アジア・サマルカンド」にチェックインしてから、レギスタン広場にライトアップを見に行きました。これもまたみんなから歓声が上がるでかさ。
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ところで、シャッターを押してあげたのをきっかけに、東部から撮影の仕事で来ているという23歳(確か)と話し込みました。
カメラマンをやっていて1日中サマルカンドを歩き回って疲れた。ウズベキスタンはまだ知られていないので、将来は旅行会社をやって発信したい云々。確かにここに来る前に「なんでウズベキスタン?」とよく聞かれました。灼熱だと思っていたが、気温が高くても日陰に入れば涼しいし、日中歩いていてほとんど汗をかかない。夜は肌寒いくらい。日本から来れば避暑になってしまうのが意外。そんなことからして知られてない。いい着眼点だと思います。ツーリズムで成功してね。

(9月7日記)

2018年08月27日

ウズベキスタン(4)

【8/27】

ホテル「グランドブハラ」の部屋は11階です。見晴らしとてもよし。朝焼けきれい。
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ただしベランダは胸下くらいの高さの柵しかなく下を見るとちょうおっかない。よく反体制ジャーナリストとかが投げ落とされるのはこういうところだろうなとか(失礼)
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日が昇るとこんな街並み。官庁街なのもあって無機質な東っぽさが増幅しています。
目の前にあるのは「戦勝記念広場」で、戦没者名簿に加えて、帰らない息子を待つ母親の像というのがでーんと鎮座しています。この像には最後にタシケントで再会するので、所感はそのときに。

8時発でイスマイル・サマニ廟に向かいます。
向かうんですけど、途中の公園に遊園地がありまして。
この国に妙に多いと感じたもの1、観覧車。
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その2、こういうやつ。
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もちろん○ッキーさんもいました。

こちら、イスマイル・サマニという王様が作ったお墓。
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9世紀に国内だけでなくイラン、トルコからも職人を集め、もともとは父親のために作ったお墓。日干しレンガの成分は今も全貌が分かっていません。ラクダのミルクや卵も使われていたらしい。
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アーチの上の三角形の意匠はゾロアスター教の数「3」(いいことする/考える/伝える)にちなむ。一方、屋根にはミナレット4つ+ドームの5でイスラムの「5」(5行6信の5でしょう)。
チンギス・ハンが攻めてきたとき、地元住民はこの廟を砂で埋めて丘のように見せて隠しおおせた。しかしその後、国は滅ぼされて、次に掘り出されたのは14世紀。
反時計回りに3回回って願い事をすると叶うそうです。やらなかったけど。なんかそういう願掛け系も多いなと思いました。
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中にはさまざまなモチーフがあって、上の写真でアーチの端っこに挟まったようになってる「はさみ」は「悪いものを切り捨てる」という意味。オスのヘビの顔が右上にあります。メスのヘビも反対側に。
お墓にはイスマイル王に手紙を書いて投函する穴もありました。

公園をぶらぶらします。
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おばちゃん観光客が、土産物売り場のもじゃもじゃのカツラをかぶって騒いでいて、店の人がすごい嫌な顔をしていました。おばちゃんの勢いには普遍性があるな。
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彫金の先生のお店。
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ハディースを収集したムハンマド・アル=ブハーリーを記念したコーラン博物館。
ていうか名前を聞けば納得するが、この人ブハラ出身かあ。すごいね、ウズベキスタン。

公園を出て、ガタガタした道を歩きながらアルク城に向かいますよ。
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それにしても、バス観光だと綺麗なところしか見ないなって思う。

途中で立ち寄った、17世紀に建てられたというバラ・ハウズ・モスク。
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これ、観光コースには入っていなかったのですけど、とにかくでかい木造のテラスが独特。
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柱は20本。ソヴィエト革命軍の事務所として使われたりして、モスクとして復活したのはウズベキスタン独立後だったそうです。

アルク城は外から見物。特に感想はありませんでした。

ミナレット、モスク、メドレセが1カ所に集まった広場。こちらもとにかくすべてがでかい。
これがカラーン・モスク。
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モスクは1121年築。ただしもとは木のモスクで、チンギス・ハンが馬で入るという無礼を犯したら落馬した。今あるのはティムール時代に建てられたもの。12000人収容可能。帝政下では外まで使ってお祈りをしていたそうです。描かれている黄色い模様はアーモンドの花。

カラン・ミナレットは1127年築。
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46m、階段は105段。ゾロアスター教の模様14種類とコーランの発句が刻まれています。1920年に革命軍が大砲を撃って大穴を空けたが、のちに謝罪して修復されました。その部分は今でもちょっと白っぽくなっていて、見た目で分かります。同行のおじさまから「ソ連はホント碌なことしねーなー」との声あり。
12世紀にチンギス・ハンがこのあたりを破壊したときも、見上げたときに鉄の帽子を落としてしまうほど見とれて破壊を免れたとのことです。

16世紀のメドレセ「ミル・アラブ」。
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アラビアから先生を招いてアラビア語を教えていました。「JICAみたいなもの」とガイドさん。よくご存知ですな。先生は結局故国に帰らずメドレセ内に埋葬。ソヴィエト時代は立ち入り禁止だったが、独立後はまた学校になりました。ウズベキスタンで現役のメドレセはタシケントとここなんだって。

首が疲れる。近くの見晴らしのよいチャイハナ(喫茶店)でお茶します。
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わりとね、一昨年のモロッコを思い出します。同じ高さ・同じ色の屋根が海原のように繋がっていて、そこに普通の人の生活があるのだと思うけど、パック旅行だとそこに入っていく機会はなかなかないですね。
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といいつつ、聞くところによるとこのあたりは表玄関のモスクやメドレセでお土産を売っている関係者の人たちの家か宿屋だというので、普通の人の生活があるかどうかは大いに怪しいのであった。というか何が普通かっていうね。

タキ・バザールに行きましょう。屋根付きの十字路みたいな形です。
ガイドさんが馴染みのお店に案内します。そこで買わなくても別にいいんだけど、みんななんとなくそこで物色しますね。
名物はシルク。洗って色落ちするやつは安い、しないやつは高い、など職人さんが次々広げて紹介していきます。誰かが買ったかは知らない。というか買った気配がない。ちょい高いせいかね。
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それからコウノトリをかたどったはさみ。
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たぶん結構若い刃物店の店主が覚えた日本語で「オス(のはさみ)ー、メスー」などと説明する。ツアーのみなさん次々とお買い求めでした。
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1本22ドルを、10本まとめ買いしたおねえさんが1本20ドルまでは負けてもらっていました。
ウズベキスタンの平均月収が220ドルだというので、これでもう1ヶ月分の収入になる。そりゃ日本語も覚えるわけだ。そしてこういう客を連れてくると、バザールをはじめとした各地でガイドさんの影響力も上がるというわけかな。
そういや中国人観光客の集団を旅の間一度も見ませんでした。まだ到達していないのか。

そんでハーブティ。試飲したら結構おいしかったので1袋買いました。
8ドルを6ドル。スムで払うと言ったら50000スムだと言われましたが、6ドルよりたけーだろ。これは。ドルが欲しいのかね。
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大麻っぽい匂いがするけど、まあ日本税関は通れるでしょう(通れた)。
あと、ここはおじさん、おばさん問わず前歯に金歯入りまくってる人が多い。
ファッションでそうなのかと思ったが、単に甘い食べ物が多いから虫歯が多いだけだとガイドさん。

だいぶ疲れつつバザール近くのメドレセを見ます。
一つはティムールの孫、ウルグベクが作ったメドレセ。無料で教えてくれたらしい。
その向かいにあるのが私立のメドレセ。こちらは有料。外側は立派だが中は未完成。
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女性たちがシャツやシルクの風呂敷みたいのを持って執拗に売り込んできます。しつこいんだけどあっぱれな商売魂。大体どこに行っても女性の物売りがすごくアグレッシブで、男はぼーっと座って客が来るのを待つ感じ。

お昼はイタリアン。うまい!けどサラダ、バゲット、ピザ、ラザニア、ケーキとすごい量。
実はこのお昼が行程中で最も食費が高かったそうです。
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この先ずっと思うけど、これ自分でアレンジするのはまず無理だわ。
パック旅行でよかった。
あと、全体的に食べきれない量のごはんが出てきます。「それがおもてなしなので、構わず残せ」と言われるが、同行のおじさまたちは「もったいない……」と後ろめたさばかり。

観光続行ですよ。

ラビハウス・コンプレックス。これを見ないとブハラに来たことにならないというメドレセ。
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初めはキャラバンサライ(隊商宿)として作られたため、学生寮としては部屋が広いそう。偶像禁止への挑戦として、ここの模様は男の顔と空想の鳥、豚のような動物まで描かれています。さらにバジルの花、アーモンド、まわりにコーランとめちゃくちゃ。

その近くのマゴキ(地下)・アトリ(ノンジャンルのバザール)。
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ゾロアスター教の寺院が、のちにモスクになった建物。1930年代に研究され、内部に火を燃やした跡があったということでそう確定したという。8世紀まではドームがなかったんですと。

いったん宿に戻ったついでに、医学者イブン・シーナーの銅像に拝謁。
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ほんとビッグネーム輩出してるね。
像はちょっとした広場にぽんと置かれていて、説明書きも何もなし。

夜はラビハウスで踊りやファッションショーを見ながらご飯をいただきました。
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お疲れの参加者がちらほら出始めました。

(9月6日記)

2018年08月26日

ウズベキスタン(3)

【8/26】

ヒヴァの観光をする日です。
ヒヴァの城内に西門(オタ(聖人)・ダルバザ門)から入場。聖人のお墓が近くにあるからそういう名前。税関があったため、昔から西がメインゲートで、商人が列を作っていた。
ゲートを入るとお土産屋さんが並んでいます。

ムハンマド・アミンハーン・メドレセ。今は「メドレセホテル」になってます。
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19世紀に寄付によって設立されたメドレセ。そのときの王様がムハンマド・アミンハーン。1階は10~15人収容の教室、2階は寮。ドアにはパンジャラという通風口がついています。これのおかげで涼しいのですね。
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柱の模様(画面右上の青白の)は「マジョリカ」といって、1枚のタイルの上に模様を書いてあります。「モザイク」はタイル1枚に1色で、それを組み合わせて模様を作るもの。

模様は羽。「山羊が山を素早く登れるのは羽があるからだ」との考えから、なんと山羊を象徴しています。イスラムで禁じられた動物の偶像ではないかと問い詰められた際には「アーモンドです」で逃げたそうです。

木はグジュンという、この辺にしかない木。意味は「陰を作る」。花は白く、茶色くなると落ちるそう。

井戸があるが、水はしょっぱいそうです。4世紀にはここは海だったが、干上がって陸になったせいでしょうと。井戸水を飲んだ人は「ああ生き返った」という意味で「ヘイ・ワー」と言うが、これが転じて街の名前(ヒ・ヴァ)になった。ほんと?そうなの?

扉の高さが低いのは、おじぎをして入るようになっている。
おじぎをして2階に上って中庭を見るとこんな感じ。
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ホテルになったのは1980年からで、それまでは刑務所だったこともあります。ここを作った王様はトルクメニスタンとの戦争で戦死。外にあるカルタ・ミナル(短いミナル)も短いまま建設が終わってしまいました。ちなみにミナルの意味は「塔」ではなく「火の燃える場所」。旅人に街のありかを知らせる機能があった、つまり灯台みたいなもんですかね。もちろんアザーン(お祈りの呼びかけ)をやる場所でもあります。
ふもとはお土産屋さんいっぱい。奥に見えるのが西門です。
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次はクフナ・アルク(アルク城)。17~19世紀に使われたハーンの宮殿です。
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それにしてもすごい空の色ですね。ずっとサングラスしてたのでだいぶ印象違う。
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こちら応接間。訪ねてきた大使などと王様が会うところです。天井は中国風の柄。こうした柄は東側のフェルガナ、コーカンドにも多いそうです。
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壁の模様は唐辛子、バジルの花。ステージと正対する位置には丸いスペースがあって、ここには冬、ゲルを置いてこたつを作って会議をしたとのこと。
夏/冬のモスクは、それぞれ涼しい/暖かい構造になっています。
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これは宮殿の一室にある博物館みたいなところで焼き物の柄の解説をするガイドさん。羽がついてるとかそういうことだったと思います。
ところで22人の参加者の中でメモとってるのは弊管理人含め3,4人で、その中でも弊管理人は一番がしがしとっていたようで、あとあと「こういうのが専門の学生さんかと思った」と言われました。えっとまず40代です。そこから、ええ。

ところで、街中にこういう模様の入った建物がいっぱいあります。
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ゾロアスター教のマークで、火を燃やす器具(上が燃えるところ=善、下が燃えかすの溜まるところ=悪、という二元論的な意味があるらしい)で「アトルバーン」というのだとガイドさんに教えてもらいましたが、検索しても出てこないな。そして英語で調べても綴りが今ひとつ分からず行き当たらない。聞き違えたかな。

次は「ジュマ・モスク」。ジュマ=ジャメ=金曜の意味だそう。10世紀に建設され、18世紀末には今の形になったそうです。クルミやニレを中心に213本の柱が立っていて、これは10~19世紀の聖人の数と一緒。中には1000年ものが7本あるのだとか。
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これ↓インドから持ってきた木で作った柱で、仏像が彫ってあるそうです。
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モスクですよね?いいの?
ちなみに、寺院内に開口部があったり、柱の下にラクダの毛を敷いているのは湿気対策とのこと。
「8」の字が掘ってある柱は依然として研究がされているもの。死後にあるのが8つの門、それと秤、鬼、天使などが彫られています。

どんどんいきますよ。タシュ・ハウリ宮殿。
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タシュは石、ハウリは庭。ここも応接間、客間、それとハーレムが揃ってます。
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宮殿のお土産屋さんに「ホジャおじさん人形」が並んでいました。
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トルコの一休さんというか、小話やとんち話の面白いおじさんとして民話に登場するのだそうです。いろんなところの土産屋で見ましたが、ここのが一番クオリティ高かったような。

お昼はサラダ、チキンスープ、揚げ餃子、水餃子、チョコケーキ。スープは具が違うだけでいつもだいたい同じ印象。サラダは香草が多く、ニンニクも入ってます。
それにしても、一人旅だったらこういう飯にはありつけないな。パックでよかった。
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レストランの外には三角形のお守りや唐辛子を吊してあります。これもゾロアスター式。

午後の観光がんばりましょ。
マフムード廟は昨日の日記に出てきたので外観割愛。中はすごいっす。
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すっごいごちゃごちゃしているので、普段ない大きさで。
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なんかもう、いちいち綺麗じゃないですか。お墓なんですけど。
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しつこいですか。でもここの天井が一番好きだった。

ヒヴァに限らず、観光地を歩いていると結構新婚さんによく会いました。
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聞けば今は結婚シーズンなんだって。理由を聞き忘れた。晴天が多いからか、夏休みだからか。

イスラム・ホジャ・メドレセの横にあるミナレットは51m、118段。
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希望者のみ登るということでした。登ったのは10人くらいかな。すごい急だった。
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考えてみれば当然ですが、そんな大人数で登ることを想定した建物ではないので、一番上は足の踏み場もなく。
降りてきたら皆さんの膝が笑ってました。

夕飯は、キブラという城外の夏用宮殿で。
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「独り旅では迷い込まない食事処」の最たるものですな。
歴史ものの映画の撮影地としても使われているそうです。
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メニューはサラダ、マスタクというおかゆスープ。キーマ・ザラフシャンは肉をクレープで巻いたもの、マッシュポテトとご飯がついていた。あとは果物、ケーキ。
食べ物はやや単調、というか伝統料理的なもののバラエティが少ないのかもしれない。
一方、来る前は「植物はオリーブとオレンジくらいしかないのでは」という砂漠イメージだったのですが、どっこいフルーツ王国ですね。果物全般おいしかったです。
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建築は二重窓などロシアンテイストが効いてる。

夕飯のあと、ウルゲンチ空港へ。国内線に乗って40分、ブハラに着きました。
とたんに都会っぽくなりました。着いたら深夜だったのですぐ寝ました。

(9月3日記)

2018年08月25日

ウズベキスタン(2)

【8/25】

朝は6時台に起きて朝飯前に散歩してみます。ひんやり涼しい。高原の朝のさらにからっとしたやつ。

ヒヴァは中心部の古い街(イチャン・カラ)が城壁で囲まれていて、東西南北に門があります。ホテルはむかしのメインゲートだった西門のすぐ前にありますので、まずは城壁の外側を南門まで回って、そこから中に入ります。外はこんな感じ。
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中は世界遺産で、お店やモスク(お寺)、メドレセ(神学校)、博物館などがありますが、住んでいる人も結構います。何かの税金が免除されているそうで、住んでいる人は既得権としてずっと住み続ける傾向があるとのこと。
外に置いたベッドでお休みの方もいました。外のほうが気持ちいいよね。わかる。
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朝が早くてほとんど誰も歩いていないので、写真を撮りながら自由に歩けました。
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3日目に観光するはずだったシンボル的な建物の一つ、カルタ・ミナル(「短い塔」、26m)もうっかり見てしまいました。朝のほうが埃が少ないし、光線の関係できれいに見える気がする。
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西門から出てホテルに戻ります。

朝食はビュッフェ。揚げ物が多いです。カラスムギのおかゆにカリンやプラムのジャムを入れて食べるのがおいしかった。これはヒヴァの名物らしい。
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スイカとメロンの季節だそう。外側が黄色くて果肉が白いメロンが甘いです。ガイドさんによると「スイカを食べて水をたくさん飲むとおなかを壊す」というのが昔からの教えらしく、紅茶を飲めとアドバイスを受けました。確かに水分の多いスイカと冷たい水はだめでしょう。しかしそれ以上に、脂っこいものとスイカ、メロンの食い合わせが悪いためではないかと思います。豚の代わりにジャガイモが入った餃子、牛のハム、チーズなどどれもおいしいんですけど。
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旅全般にいえますが、食べ終わったお皿を下げるのがすごく速いです。なんならちょっと途中のやつも持っていこうとする。ホテルの人は「オイシカッタ?」といって皿を持っていきますが、これはおいしかったかを聞いているのではなく、たぶんFinish?というのの訳として誰かが教えたのでは。

さて、きょうはバスで1時間余り、ウズベキスタンの中にある自治共和国、カラカルパクスタンに入ります。
どこよ?と思いますが、ここだ。西部にあって、ほとんどがキジルクム(「赤い土」)砂漠。

このあたりはBC500年からAD500年くらいまで農業が盛んに行われていて、もともと遊牧や漁業をやっていたカラカルパク(カラカルパク語で「黒い帽子」)の人たちも16世紀の文献には出てくるそう。ソ連が民族自決の理念に基づいて「民族」とその地理的境界を画定したときに「カラカルパク族」が創出され、自治領域になり→カラカルパク自治共和国(1932)→ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国管轄下のカラカルパク・ソヴィエト自治社会主義共和国(1936)→カラカルパクスタン共和国(1992)になった。
首都はヌクスで、憲法や国旗もありますが、外交はやってないそうです。
憲法にも「カラカルパクスタン国民は同時にウズベキスタン国民である」とされています。(『60章』p.31)

とりあえずヒヴァに戻りましょう。

バスの車窓からは綿の畑が見えます。
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ソ連時代は綿花の一大供給地で、かなりモノカルチャー化も進んだようです。しかしガイドさんによると、綿花の生産は減っていて、代わりに果物が増えているとのこと。道路沿いの家の前にも畑があり、それぞれの家で消費する作物を作っています。油をとるためにひまわりを植えている家もあります。10人前後の大家族が多いので家も大きい。部屋も大きいんだって。
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1991年の独立以来、25年も大統領を務めて2016年9月に死去したイスラム・カリモフ政権下では毎年政策スローガンを決めており、2009年が「田舎をきれいに」だったそうです。国の主導で住宅建設が進められ、同じ形の新しい家が道沿いに並んでます。
ガイドさんは「地方を重視してくれたおかげで田舎が発展した」などずいぶんカリモフ氏を持ち上げていましたが、反対派の弾圧、反体制ジャーナリストの投獄など、国際的には批判もあった人物です。国家認定のガイドなので宣伝を担っているのか、国内と国外の視点がかなり違うということなのか、よくわかりませんでした。
ちなみに、ガイドは日本人添乗員ではなく現地人がやること、という決まりがいくつかの国であるようです。観光客にテキトーなことを吹き込むな、という政策でしょうか。
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道ばたにはスイカやメロンを売る人たちがそこここに。

ウズベキスタンに生えている植物の2割は固有種。「ジダ」というナツメのような実をつけるものが目につきます。この実は生活習慣病に効くとのこと。
ちなみに、こちらで多いのは糖尿病。甘いもの好きが多く、お茶まで甘いせいではないかと。
さらに心臓病。これは綿花の油を使ったり牛肉をたくさん食べたりするせいか。さらに高血圧も。出生時平均余命は2010年代でも70歳超くらい。日本は2017年で84歳(孫引きですが『60章』p.204)。医療、衛生の水準はもう一つのよう。
がんは少ないという。これは人口が若いせいでしょうね。
(余談ですが、最終日にタシケントで乗った地下鉄のエスカレーターもめっちゃ速い。若い国はエスカレーターが速いという弊管理人理論の傍証)
牛肉をよく食べるそうで、1キロ35000スム(500円)くらい。次に安いのが羊で45000スム(650円くらい)。魚は川魚、高い。65000スム(900円以上)。

ガイドさんのウズベク紹介は続きます。

ヒヴァはむかしホレズム王国と呼ばれていた地域。ゾロアスター教発祥の地でもあるとのこと。イランがそうだと思っている人も多いが、ゾロアスターがイランに行ったのは40歳になってからで、聖典アヴェスターに出てくる地名の7割は今のウズベキスタンに存在する。

ちなみにゾロアスターは「ザラ(金。金で飾ったラクダやひもを使っていた)トゥシュ(古ウズベク語で火)トラ」。
アヴェスターは「100以上の法令」の意味。ロシア語でも100はストウで符合します。アヴェスター30巻のうち現存は4巻のみ。
アフラマズダはアフラ(神)マズ(知恵)ダ(創造者)。今でもクルミの実のことをマズという。脳に似ているからかな。

アヴェスターによると、ゾロアスター教の目的は3つ。
 1)よいことを伝える
 2)よいことをする(助けあう)
 3)よいことを考える

宗教はもう残っていないが、文化は残っています。しかも、8世紀以降、本格的にイスラーム化した後も、それと気づかれないまま人々が実践していることが多いという。例えば、

・家には右足から入る。これは今、モスクでもそう教えられる
・扉の上に唐辛子をぶら下げる。これは唐辛子=火(←拝火教だからね)、魔除けとして
・動物を善悪にグルーピングする考え方も残っている。善いのはハリネズミ(軍隊を連想させるらしい)、山羊や羊(角を魔除けにする)、蛇(頭がいいらしい。ゆりかごの中、赤ちゃんの寝るクッションの下に蛇の皮を挟んでお守りにすることもある)。逆に悪は「犬」。意外ですが、危ない野犬を敵視したのではないかと

ちなみに鳥葬は、イスラームが入ってくる前の7世紀末まで行われていたそうです。
「赤」い肉に罪が集積していると考え、鳥に食べて取り除いてもらった。骨の「白」だけになると完了、骨は骨壺みたいな入れ物に入れて、通常はもとの住居の近くに埋葬された。農民は農具、女性は手鏡などゆかりの品といっしょに。
平等主義なので、生前、悪人であっても鳥葬はしてもらえるんですと。今はイスラームなので土葬だが、ホレズムは地下に埋めると水が豊富なのでお墓に水が入り、流れてしまうため、地上にかまぼこみたいなお墓を作り、しかも団地みたいに積み重ねていく。
こちらはヒヴァの城内にあるお墓「パフラヴァン・マフムド廟」の写真です。
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13世紀のめっちゃ強いレスラーのお墓が一番でかいやつで、それに憧れて「俺も一緒に眠りたい」と廟を建てた19世紀?の王様を含め、いろんな人があやかってお墓を作ったらこうなった。

話、戻ります。
ドップ(ドッピ?、模様の入った黒い四角い帽子)にもゾロアスター教の意匠が残っています。
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唐辛子に見える絵が描かれていますが、実は鳥の羽。動物と人間の偶像を禁止したイスラムに対して「いや、これは植物です」と言い逃れをするため。

こんな調子でバスの中ではずっとお話が続きます。カラカルパクスタンとの境界にある検問が見えてきました。撮影だめなのでちょっと手前から。
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難なく通り抜けてカラカルパクスタン自治共和国に入りました。
6月から乾期で、10月くらいまで続くそうです。
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アムダリヤ(アム川)を超えます。
アム川はパミール高原から1415km続き、昔はアラル海に注いでいたが今はそうではないそう。ウズベキスタンのもう一つの主要な川はシルダリヤ(シル川=白い川)。

砂漠に多いのはタマリスクという紫色の草です。
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18歳から徴兵制があるが、行軍のときにタマリスクのお茶を飲ませることが多いんだって。

ちなみに「スタン」はペルシア語で「場所」。紀元前6世紀までサク人、サゲット人がいたが、アケメネス朝に攻められて混ざった。その頃からある言葉。(※この文の内容は「ガイドさんがそう言った」以上の証拠が見つかっていません)

隣はタジキスタンで、いまはビザがいらないのでいっぱい入ってくるそうです。ガイドさんの息子の空手の試合にも結構見かけたそう。トルクメニスタンはガスが無料の国として有名。「地獄の門」というガスクレーターが観光名所になっています。

さあて、やっと着きました。最初の観光スポット、トプラク・カラ。
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1938年、トルストフが発掘し「トプラク(粘土)・カラ(城)」と命名。ホレズム王国にあった1~5世紀(※ネットには前1~後6世紀という記述もあり)の城塞都市です。
高さ10m前後の三重の城壁に囲まれており、7000人以上が居住していました。
いま形が残っているのはほぼ王様、学者などハイステータスの人たちの居住区。
発掘当初は小さな像や鳥葬のお墓がたくさん出土しました。
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壁に穴が穿ってあるが、これは仏像を置いたのではなく火をたいたあと。拝火教だからですね。たくさんある小さな穴は後年できた鳥の巣。壁画はすでに切り取って保存済みです。
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周囲は砂漠で、白く見えるのは塩。むかし海だったから。乾燥化はすでにアヴェスターにも言及があるくらい古くから始まっていたが、深刻化したのは1960-70年代ということ。灌漑が主因ですが「ソヴィエトが核研究施設を作って水をたくさん使ったからだ」との話もあるそう。そうなん?まじで?

共和国の北西にはアラル海がありますが、いまはほとんど干上がって、錆びた船が砂漠に点在して観光名所化しました。しかし「船の墓場」と呼ばれるのを地元の人はとても嫌がっているそう。墓場になんか住んでいない、「水は隠れているだけ」と。

2カ所目、アヤズ・カラ。こちらは紀元前4世紀。「アヤズ(寒い)・カラ(城)」という意味。周辺のキジルコム(砂漠)は「赤い砂」という意味。丘の上に造られた円形の練兵場だったとのこと。
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今日のメインの観光地であるわりに掲載した写真が少ないですが、絵柄に変化がないからというだけで、弊管理人はすっごい楽しんでいっぱい写真とってます。だいたい1日300枚ペース。
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この先の旅程はモスクとメドレセが多かったので、これが見られたのは変化がついて大変よかったです。

昼食はアヤズ・カラの麓のゲルで、かまど料理。
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ラクダは凶暴なので、あまり近づかないで下さいとのアナウンスあり。

薪は綿の木で、11月くらいから集めて暖房や煮炊きに使うそう。メニューはクッキーやドライフルーツと、玉ねぎやトマトのサラダ。今はナスのシーズンだが食べ過ぎるとお腹を壊すそうです。嫁に食わすなのあれですか。
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スープに入っているのは干した牛肉で、各家庭で自作するのでスーパーにはないもの。
メインは「デュムラマ」という遊牧民料理。日本料理で近いのは「肉じゃが」。ただし具は夏だとジャガイモ、秋はキャベツが入り、冬はカボチャになります。
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今日のはジャガイモとキャベツ。塩だけでこんなに味わいが出るのかな、と思うくらいおいしくて、たくさん食べてしまいました。干した牛肉がいい出汁を作っているのかも。ここでもメロンとスイカがデザート。

なお、水が貴重なので皿は取り替えないで、サラダからデザートまで全部1枚で食べる(スープのボウルは別)そうです。
日向はたぶん35度以上ですが、乾いているので汗でべとべとしません。日陰に入ると風が吹き抜けてむしろ涼しいくらい。ちなみに夜はたぶん17度とかで、長袖羽織ってもいい。

バスで戻って、夕飯はヒヴァの城内で、ナン、サラダ、餃子、豆のスープ、そして「シュビト・オシュ」というハーブを練り込んだ緑色のパスタ。名古屋「マウンテン」のアレ的なインパクトある見た目ですけど。ヨモギっぽい風味の麺です。脇についてるのはヨーグルト。味を見ながら混ぜて食べます。
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デザートにまたスイカとメロン。
とにかく油が多いです。同行の人たちと話題にしたくてできませんでしたが、ホテルでンコすると、便器の水に油の膜みたいのが浮くんですよね。

夕方、ナン(発音は「ノン」)を焼くかまどに薪をくべるマダム。
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展望台に上って夕景や日没と月の出を見ました。
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ホテルに戻る前に、同行のマダムたちと近所のスーパーに行ってワイン購入。ガイドさんからサマルカンドの「バギザガン」を激押しされ、白を買いました。13000スム。だいたい200円。めちゃ安い。ちなみにレストランでジュースを頼むと15000スム。水はレストランでは無料、スーパーだと500mlのペットボトルで1000スム、14円。
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そういえばイスラム教国じゃなかったっけ。
ま、コーラン的には酔っ払わなければOKだったと思うけど。

部屋に戻って、PCで今日のメモを打って、写真も保存。
一部写真がバグって消えた。数枚だけどおっかない。PCとカメラを使ってSDカードをクリーンアップするなど多少の作業が生じました。PC持ってきてよかった~

(9月2日記)

2018年08月24日

ウズベキスタン(1)

(※9/2 目下書きながらリバイス中です。9月中旬くらいにかけて本とかネットとかと照らし合わせつつ内容がちょいちょい更新されるかもしれません)

ウズベキスタンに行ってみたいと思ったのは、大阪の国立民族学博物館で見た中央~西アジアの陶器、特に青い色がすごくきれいだったというのがきっかけだったと思います。
長らく日本からの観光であってもビザが必要で、特に弊管理人は職業的にビザが取りにくいという話を聞いていた(仕事を偽って入った例も聞いた)ので、縁遠い国でありました。

ところが急転直下、今年の2月にビザ免除になり、それじゃあということで今回、初めてパッケージツアーに参加する形で行ってきました。いつものように独りの旅行も考えたのですが、さすがにウズベク語かロシア語ができないと厳しいとなると、ちょっときついかなと。

今回のお供は、ちょうどよく今年出たこちらの本。

■帯谷知可(編著)『ウズベキスタンを知るための60章』明石書店、2018年。
風土、歴史から現代の社会まで概観できるありがたい本。いろんな人が書いているので各章少しずつ内容がオーバーラップしていて、おさらいしつつ先に進めるのもよかったです。

■アントニー・スミス『ナショナリズムとは何か』筑摩書房、2018年。
7月の初めに手を付けたもので、特に旅行用に買ったわけではないですが、15世紀に遡る「遊牧ウズベク人」(エトニ)とソ連による「ウズベク民族」(ネイション)の創出がまさに本書の議論と重なって、それだけで白飯3杯いけました(?)

* * *

【8/24】

台風、雨、ムシムシ。前日いっぱいいっぱいまで仕事をして、6時起きで成田に向かったので、機内ですぐ寝てしまいました。

添乗員さんから航空券を受領。そういえば航空券持たずに空港に来るっていうのも初めてで何か落ち着かないですね。

ANAが地上業務をやっていたのでマイルが積めるかな?と思いましたが、聞いてみたら「どこのアライアンスにも入っていない」というウズベキスタン航空。火曜と金曜に飛んでいて、成田―タシケントで9時間半かかります。帰りは8時間弱。行きは偏西風にもろに逆らって飛ぶからかな。
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タシケントでの入国審査で何を聞かれるか若干不安でしたが、あっさりパス。税関申告もなくなっており、するっと国内に入れました。
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(↑本当は撮ってはいけないらしい空港の建物)

国内線に乗り換えて、タシケント―ヌクス(カラカルパクスタン自治共和国の首都)―ウルゲンチ。飛行機で隣になったヒヴァ在住らしい(言葉がわかんないけどガイドブックとか見ながら随分喋った)おばちゃんから、直径3センチくらいの球状の白いものをもらいました。食べてみると、六花亭の苺が中に入ったホワイトチョコみたいな見た目に反してものすごくしょっぱいチーズという感じ。ナイナイしてしまいたい衝動にかられましたが、おばちゃんの手前、水で流し込みました。
旅の後半、訪れたバザールで判明したのですが、これはラクダか牛のミルクから作ったヨーグルトを丸めて乾燥させた食べ物で、現地の人がよく作るらしい。これ。
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ウルゲンチからバスでヒヴァ。成田を昼前に出て、ホテル「マリカ・ヒヴァ」に入ったのが15時間後くらいだったか。ホテルはこんな感じ。ウズベキスタンのホテルはそれなりのクラスであってもお湯が出なかったり灯りがつかなかったりすることがあるので、部屋に入ったら点検して下さいと言われましたが、ぬるいながらもちゃんとお湯が出てシャワーが浴びられました。満足。
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時差は4時間で日本は翌日未明。当然すぐ寝ました。

(9月2日記)

2018年08月20日

三鷹とmitaka

よく行く飲み屋で知り合った若者が三鷹在住で、「インスタレーションとかやってます」などというので「三鷹といえば天命反転住宅ではないか」と水を向けたが行ったことがないと。
ちょうど見学会に空きがあったので友人と3人で行ってきました。
荒川修作+マドリン・ギンズの正式名称「三鷹天命反転住宅 イン メモリー オブ ヘレン・ケラー」。見学会の最後にもらえるパンフレットによると

この住宅は、ヘレン・ケラーが身体を使い、自然と環境・人間の関係を知ったように、あなたの身体のもつ大いなる希望を見つけ、生命の無限の力を体験できる、まったく新しい住宅であり、命の器なのです。

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ウェブサイトから申し込んだときに、代金2700円を「お釣りのないように」払うようにとの注意書きがきて、カードも使えず丁度払いを要求するとはと憤り、嫌がらせのため全部100円玉で持っていったのですが、受付で聞いたところでは一応のお願い程度だったとのこと。係の人が硬貨を取り落としたりしながら数えているうちに後ろには列ができてしまいました。ゴメンネ(てへ)

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・2005年築。現在、一般にアクセスできる荒川+ギンズの建築は岐阜の養老天命反転地(2012年に行った)と岡山の奈義町現代美術館内の作品ですが、ここの特徴は「住む」ことができる点
・9世帯あって、5部屋が住まい用。ショートステイ用の部屋もあり
・床は凹凸のあるざらざらしたコンクリート造り。「最も安全なのは裸足です」とのこと。人は自然と凸部が土踏まずに当たるように歩くようになる。床が人間に使い方を教えている
・床と天井には傾斜がついていて、どこに立つかによって空間の感じ方が変わる。高いところに立って話していると、なんとなく「上から目線」な感じがする。中央の台所は一段低くなっておりアンフィシアターのよう。説明の方はそこに立って話すのが好きだと言っていた
・収納らしい収納は畳の間の下にある抽斗だけ。あとは天井に取り付けられたリングにS字フックをつり下げるなどして荷物をかける。こうしているうちに「空間の使用感」が発生する
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・色について。14色使っており、色の専門家の見学も多いが、補色を隣り合わせに使うなど、彼らのセオリーのようには配色されていないのだという
・荒川に色使いのコンセプトを尋ねたところ「どこから見ても6色以上見えるように」という明快な答えが返ってきた。多色がいっぺんに目に入ると、人は色数を数えずに「カラフル」ととらえるようになる
・その意味は2つで、色ひとつひとつに(「ビタミンカラー」など)意味を持たせないこと。また、自然がまさに多色でできているカラフルなもので、それに近いということ
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でもそういう身体性みたいな話って、いま現在から考えるとちょっと時代を感じるというか、2005年時点でもそれ最先端だったのでしょうか……などと考えてしまいました。素人としては部屋のいろんな仕掛けはとても面白いですし、説明の方もお上手だったので十分ですけどね。

説明の方が「建物の前にuglyなアパートができて、外から全景が見られなくなった」とお嘆きでした。確かにつまんない建物と電柱に遮られてます。

見学者の中には、養老に行ったことのある人がちらほら。奈義町の経験者もいて、今度はそこに行かなきゃなと思いました。あと、荒川に触れたきっかけは『意味のメカニズム』だというマニアがいて、それ読んでみようとアマゾンを検索しましたが、中古15000円で断念。

* * *

上記が昼ちょっと過ぎくらいまでの見学会で、近くのマックで飯を食ってから、今度は国立天文台に足を伸ばしました。徒歩10分くらい。
14時くらいまで太陽観測やってる日だと思って行ったら、7~8月は正午までなんだって。うへえ
ということで若干残念な気分で構内を彷徨っていると、ちょうど4D2Uシアターの空きが3人分あったので、どんなもんかなと思いながら入ることにしました。

3D眼鏡をかけて、観測的事実と科学的推定に基づいて再現された宇宙の中をぐるんぐるん動き回る「旅するプラネタリウム」みたいな感じです。無料なのにすごいクオリティ。説明のおじさんは継続雇用の方でしょうか、ちゃんと最新の情報まで話していて勉強になりました。同行者は「ちょっと速くて難しかった」ということで、すこーしアドバンスかな。

* * *

ちなみに出掛けた土曜の気温は確か29度で、最高に過ごしやすい夏の日でした。これ37度とかだったら見学は辛かったろうし、天文台まで歩こうという気にもならなかったかもしれない。
いろいろと偶然に助けられて満足度の高い週末の1日になりました。

2018年08月17日

夏休み2018

この夏は長野県西部2泊3日と実家1泊です。12~15日。
妹と新宿から出て、父と松本駅で落ち合って、信州大学の近くの「メーヤウ」でカレー。グッド。
番所の滝を見て、1泊目は乗鞍の「グーテベーレ」。洋食の夕飯と朝飯、おいしかった。
窓を開けて寝ると寒いくらい涼しかったです。夜半に結構本格的な雨が降りましたが、朝には止んでいました。

上高地。
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天気予報があまりよくなかったわりに、7割くらいの出来か。
明神池の近くの嘉門次小屋で、岩魚の塩焼きを食べるのが父親のコースだそうです。
生け簀の死すべき人たち。
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地獄絵図。
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頭から尻尾まで全部いただきました。

明神池は見るだけ300円。しっかりしてんな。
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水面には靄がかかっていました。

こちらは木道で寛ぐ猿の皆さん。無料。
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気温はたぶん22度くらい。避暑に成功しました。
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2泊目の宿は白骨温泉のゑびすや。こちらもご飯がおいしく、あととにかく熱すぎない白濁の湯が気持ちよかったです。部屋は3人で10畳だとちょっと狭いかなと思いましたが、縁側でもう2畳くらいあり、広々でした。

3日目は高山市に出て、ちょっとだけ街歩きして飛騨牛食って、御嶽山と木曽を抜けて帰ってきました。空が夏(の終わり)っぽかった。
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帰る日は、父方の本家を回ったあと、母方の本家でいつもの伯母さんごはん。
「おばちゃんのキーマカレーは評判がいいのよ」とのこと。
40年余で初めて食べた気がする。
いとことその次男坊と、何年かぶりに顔を合わせました。
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・ばあちゃん(97)は相変わらず歩行器を使いながら家の中を歩いてました
・レビー小体型認知症を10年近く患っていた義理の叔父が入院で、こちらは雲行きが怪しいらしい(それにしてもDLBでこんなに経過が長いのか?と誤診を疑っている弊管理人)
・何を思ったか、弊管理人と同じ職業にこの春就いたいとこの長女が睡眠、食事も満足にとれず大変だという話を聞きました。だよねーと思いました。働き方改革しにくい業界の日常
・伯母(76)は「終活を始める」と言っていましたが、うーんまだいいんじゃないかな

・父は資格の勉強中。「化学物質の名前が覚えられない。MCIだ」と言っていましたが、まあ60代半ば&おまじないみたいな物質名の羅列ならそんなもんではないか
・妹は去年より若干調子いいかなという印象。どう見ても本人が主張する精神疾患ではなく「単に暗い人」です。言ってもしょうがないので言わないけど

* * *

16日は早出シフト明けに、古いバイク友達のおにいさまと久しぶりにごはん。どれくらい久しぶりだっけと思うと、札幌から東京に転勤してきたときに遊んで以来だと思うので、9年ぶりです。ひゃあ。SNSでつながってるのでそんな感じがしないんだけど。

13年くらい前に一緒に走りに行ったとき(→日記あった、すごいな弊日記)、まだ36とかだったおにいさまはもうすぐ50だそうです。全然変わらなすぎてて笑った。当時ツーリングしていたメンバーの消息もぽつぽつ聞きましたが、それもあまり変わってない。「55の役職定年も近いのにすんごい働いてる」との近況を聞き、サラリーマン生活も意外と短いことにあらためて気付かされます。
三ノ輪の「興」で焼き鳥。
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焼き鳥ももちろんうまかったですが、山わさびごはんが秀逸でした。

普段あまり縁のない上野、おにいさまの行きつけの飲み屋さんに連れていってもらいました。もともと厚かったおにいさまの人望はこの10年余でますます厚みを増している様子。夜更けにあちらの終電でバイバイ。

2018年08月11日

金魚、鰻、そしてピアノ

平塚市美術館でやっている深堀隆介展を見に行ってきました。
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ラウンドアバウト、あるいは連休の新座料金所感。
樹脂の上にアクリルで絵を描き、その上にまた樹脂を重ねて立体感を出した作品が多いです。
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きれいなんですけど、3Dプリンタで作った金魚が埋まってるような勝手なイメージを持っていったもので、実際は樹脂上の平面にリアルな金魚を書いているのを見て「意外と平面的……」と思ってしまいました。これ、最もきれいに見えるのは写真に撮ったときではないだろうか。
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あと、作品は桶とか枡とか抽斗とか、いろんなところに水たまりを作って金魚を泳がせるというものから、普通のドローイングなどいろいろ。とてもデザインぽかった。
非常に狭い枠の中で、桶なら円形の動きをし、金魚すくいのように四角い場所なら角に寄るなど、枠に合わせた生き方をしているように描かれている。それが愛玩のしやすさでもあり、窮屈でもあり。

* * *

平塚まで来たので「川万」で鰻重を食べました。
ほんと、食うとうまいけど、ちょっと食えばいいな、鰻って。
絶滅危惧種、おいちかったです。

* * *

午前2時までの夜勤明け、9時に起きて昼過ぎには平塚の用事が終了したので、その足でルーテル市ヶ谷へアマチュアのピアノ愛好家たちによる演奏会を見に行きました。
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20年ほど前に入っていた大学のピアノサークルの人たちが何人か、今も演奏会に参加しています。技量がだいぶ衰えている人が少しと、相変わらずあまり知られていない作曲家を発掘してくるマニアックな人が少し。弊管理人を覚えている人はいないと踏んで、さっと入ってさっと出てきました。

* * *

最近おいしかったもの、新宿御苑前「will」のハンバーグ。
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値段が手頃だと思う。プリフィクスのコースにするといろいろ考えなくていい。

* * *

お呼びがかかって、若者と東中野の「大盛亭」という、まあそのまんまな食堂でがっつりご飯食べてきました。これもおいしかった。
予定外に充実した盆休み1日目でした。

2018年08月05日

逗子の海

お友達たくさんと逗子の海に行ってきました。
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台風が近づいているので幾分、波が高かったです。
ものすごい暑さの今年。気温31度、水温30度。水の外のほうが涼しく感じるくらい。
初めて、夕暮れまでいました。
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タコライスとスイカ食って、酒飲んで、泳ぎました。
花火。20年ぶりくらいかもしれない。
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すっごい楽しかった。
鉄壁の日焼け止めが奏功し、ヒリヒリしてません。

* * *

1日付でジュニアおじさん発令されました。シフトは朝7時~夕方4時(だが当然のように残業する)の「早出」と、夕方4時~午前2時の「夜勤」(こっちは残業ないが4時より前に出勤すること多し)がまぜこぜにやってくるので、気をつけて寝る時間を調整しないと体調ガタガタになるなと思いました。

現場を離れるとすごい勢いで現場感覚が衰えるような予感がします。ということでだいぶ縮小しつつも現場仕事をスケジュールに入れています。

* * *

高円寺、豆くじら。
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キーマは「アキンボ」を思わせる。ちょっと量が少ないな。

* * *

■久世濃子『オランウータン 森の哲人は子育ての達人』東京大学出版会、2018年。

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