最近読書づいてまして。
■橋本努『自由に生きるとはどういうことか―戦後日本社会論』ちくま新書、2007年。
「自由に生きるとはどういうことか」と掲げつつ、この本が述べているのは、終戦直後から00年代までの日本社会がどういう行動に価値を置いてきたのか(何がそれぞれの時代の「神様」だったのか)ということだったように思う。
終戦直後に流行したのはそれまで抑圧されてきたエロス、それがぱっと咲いて散ったあとには高度成長の時代、「連合国側を勝利に導いた英国のパブリック・スクール式規律訓練が日本には必要なんだ」というスポ根と「市場経済の中で戦っていける自立した個人になるべきだ」という勤労の倫理。
闘争の季節には「既存の社会・制度をぶっ壊すための運動に身を投じて真っ白に燃え尽きろ」というあしたのジョー的物語。しかしそれも季節が過ぎれば企業社会に絡め取られていく。
80年代の尾崎豊は学校に代表されるような管理社会に薬物や消費で対抗するが、たどり着くのは胎内回帰のような愛だった。
90年代にはそんな退行(内向)と社会不安が結びつき、オウムやエヴァンゲリオンなど「世界リセット→救済もの(?)」が登場する。けれども、これもいつかは裏切られる夢。
00年代進行しているのは「消費」から「創造」へのシフトで、アメリカでは既に「創造階級」や「ボボズBourgeois Bohemians」といった文化的(芸術やソフトウエアの)創造を行う集団が台頭している。
この本の中では「自由であるとはどういうことか(自由の中身)」については何も語っていない。自分はそれについてこの本のひとつの裏メッセージだと思うのだけれど、ここそこで匂わされているように、自由というのはかっちりと「こういうもの」と定義できるものではなくて、そこに向かって行動が動機づけられるようなあいまいなユートピアだ、ってことなんだろう。(個人的には、自由というのは「○○よりは自由」という個別の比較において感じられる構造のことだと思うんだけど、それはまあまだよくまとまって考えてないのでこれ以上は書けません)
で、具体的にどう変わってきたのか、という日本社会分析の部分は、90年代までについてはこの本より9年も前に同じ新書で出ている大澤真幸の『虚構の時代の果て』のほうがスマートにまとまっている印象。でも「創造階級」の紹介の部分は「へえ」って思った。そしてそのクリエイティヴであることの価値と収入という金銭的価値を結びつけないで考えることが「格差社会」に蔓延する怨念を中和する鍵なんですよ、という示唆もなるほどという感想。ただその大事な部分がさらっと書かれすぎじゃないかとは思った。
というわけで並行して読み始めた『帝国の条件』に期待期待。