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2010年03月 アーカイブ

2010年03月28日

さくら(2)

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夜中の海中で光を差し向けると、プランクトンだのゴミだのが顕在化して、さくらの花びらのように見えるものです。

いや逆。靖國の夜桜はまるでマリンスノー。
今季一発目のお花見は体の芯から冷えるような寒さの中でした。

ヒューマンエラーは裁けるか

■シドニー・デッカー(芳賀繁監訳)『ヒューマンエラーは裁けるか』東京大学出版会、2009年。
(Dekker, Sidney. JUST CULTURE: Balancing Safety and Accountability, Ashgate Publishing, 2007.)

医療や航空といった、一歩間違えれば重大な事故につながる業界で働いている実務者たちがミスを犯した場合、それをどう扱ったらいいのか。

ヘタクソをとっつかまえて裁判にかければ、相応の報いを与えられ、真実が明らかになる。そう考えるのは浅薄にすぎる、ということを著者はまず指摘します。
裁判は「この人からはこう見える、しかし別の人から見るとこうだ」という複線的なストーリー、複数の真実を並立させることが少なく、不利な証言を拒めるためほんとうのことが語られるとも限らず、被告にされた人への罰が決定するだけで背後の構造的な問題が無視され今後の安全性向上も担保されない。では、どうすればいいのか。

とにかく、誠実に仕事に取り組んだ中で起きたエラーは、組織全体の視点から今後へのレッスンとして活かすことを最大の目標とする(たぶん被害者や家族も、自分の被害がシステムの改良につながることに意義を見出す)。そのためには司法を介入させず、エラーを起こした人を罰したり屈辱を感じさせたりしないことで、起きたことを隠さずに事故調査機関に話させること。調査は門外漢が後知恵で「こうするべきだった」とやるのではなく、エラーをした人の視点を追体験できる同じ分野の専門家が行うこと。収集した情報の報道や司法関係者による使用に注意すること。
また、こうしたシステムがきちんと働くために、専門家組織内の信頼感(正直に話したことがちゃんと活かされるという)、組織と司法の間の信頼感(犯罪や重大な懈怠によるケースなどはちゃんと組織からの通報があるという)の醸成が必要だということ。

一方で、情報の開示についてはもう少し知りたかった。
事故被害者側への情報提供は必要ではあっても、そこから報道や司法に流出する可能性は十分にあると思うのですが、それをどう止めるか(漏洩に対する刑事罰を科す?)。また事故調査報告書をまったく一般公表しないと事故調査への信頼感が生まれないと思うのですが、報告書をどう扱うか(裁判に使わないことをルール化する?個々の登場人物が特定されないバージョンを別途作成する?)。

とはいえ、エラーに対して「スケープゴートを見つけて刑事罰!」という対処の仕方には、被害者も加害者も第三者もなんかヘンだなーと思っているだろうと感じていたのですが(だから本屋でタイトル買いしました。また日本では医療事故調設置の動きものろのろですが進んでいますね)、それがどうヘンなのか解きほぐしてくれる本で、扱う事例にも重みがあり、ためになる読書でした(訳も読みやすかったです)。

2010年03月23日

さくら

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東京ではきのう、さくらの開花宣言が出されました。
けさの外務省の桜です。先週から既にぽつぽつとつぼみがほころんでいたのですが、連休が明けて重い体(太ったのではない)をひきずりながら霞ケ関を歩いていたら満開状態になっていました。

どこぞのラジオで「もう咲いてるさくらもまだまだのもあるのに、お役所に花のことを決められたくない」とかおっしゃっていましたが、気象庁は気候の把握手段の一つとして生物観測を利用しているので毎年同じ標準木で観測を行っているのであって(いたずらされると困るので、どの木かは公表されていません)、てまえさまのお花見スケジュールを調節することを第一義としているのではないのですね。
いや、それにしてもradikoはすばらしい(余談)。

それにしても、さくらを撮るのは難しいです。

2010年03月22日

利己的な遺伝子

■リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子〈増補新装版〉』紀伊國屋書店、2006年。

生物個体の中にひっそりと息づく自己複製子=遺伝子。生物進化の歴史の本当の主役はこの遺伝子たちで、個体はその乗り物にすぎない。遺伝子たちは仲間を増やし、時間を超えて生き続けるために個体に乗り込む。環境の影響を受けながらも環境を操作し、個体の寿命が近づけば配偶子のカプセルで脱出し、次の個体へと乗り継いでいくわけだ。

そこにはどんな慈愛も計画もない。自らを複製し、ときどき変異しながら生き残っていくこと、この作業を遺伝子は淡々とこなしていく。
親子の愛はその遺伝的近さから生じる。赤の他人に比べれば親子は50%という高率で自分自身なのだから大切にするのが合理的だ。
生殖は、かけるエネルギーをできるだけ小さくしながら最大限の効果を挙げようとする個体間の駆け引きだとみれば、男が子育てを一生懸命しないことを、男女の配偶子の大きさや運動性の差から説明することだってできる。
裏切り屋か、お人好しか、怒るときはちゃんと怒るのか。そんな戦略によって生き残りゲームの中で勝つ確率が変わる。どんな態度をとることが最善なのかもほとんど決まってくる。
さらにさらに、遺伝よりもずっと高速で伝播と発展を繰り返す人間の「知識」だって、生き残りゲームに参画する自己複製子と考えることができるだろう。

ここまで遺伝子のことを、生き残る「意志」とか「目的」を持った存在かのように表現したけれども、それはあくまで便宜的なもので、実際そこにあるのは「環境とのやりとりの中で、ある種の遺伝子が生き残った」という結果の集積でしかない。よく「菌が薬剤耐性を獲得する」となにか菌が目的をもってそうしたかのように表現されることがあるが、そこで起きているのはたとえば「薬を途中で飲まなくなる→菌の群れの中にたまたま発生した耐性菌が生き残って増える→投薬を再開しても薬が効く菌が死ぬだけ→耐性菌ばかりになる」という因果の連鎖にすぎないように。

*  *  *

著者はこの本を、サイエンス・フィクションのように読めばいい、と書いています。いろいろな生命現象の説明をつける本という読み方もできる一方、SFのように読み進めれば、そこに形作られるのは、「ぼく」「あなた」といった個体を区別する容器が溶け去り、無数の微小な自己複製子たちがひしめく茫漠とした世界のイメージかもしれません。そういう、世界の見え方を変える力があるという意味で、たしかにこの本は文芸作品でもあるのではないかという気がします。

(学校出て10年も経つのに、30年以上前に出たこの基本書を読んでなかった恥ずかしさもちょっと書き加えておきますw)

2010年03月21日

風の強い春分の日

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最近、毎週末は疲労困憊で迎えることが多いのですが、この金曜は特にへっとへとのどろっどろ。土曜はデトックス(早寝早起き、朝湯、自炊)でなんとか回復し、ごうごう鳴る風の音を聞きながら就寝しました。

明けて今日も特にどこに行くということもなくダラダラしていました。風も強いし、なんだか黄砂もきていたようで窓の外も靄がかかったようでしたが、午後になって晴れ空も気持ちよさげだったので、ちょっと海と飛行機を見に湾岸地域をバイクで走ってきました。

最高気温20度とかになった昨日今日ですが、日が落ちると寒いですね。
さて明日はどうしよう。

2010年03月14日

グルダ・プレイズ・ショパン


■フリードリヒ・グルダ/グルダ・プレイズ・ショパン(UCCG-1486/7)

メンデルスゾーンの無言歌の全集を買いに行ったものの、こっちを買ってしまいました。2月にリリースになったばかりの盤。amazonでは3500円してますが、きょう新宿のタワレコで見たら輸入盤ですが1990円でした。

1950年代、つまり20代なかばのグルダによるショパンの録音です。監修は愛息パウルさん。ライナーノートもお書きになっています。

疾走するピアノ協奏曲第1番(バラキレフ版)はロンドン・フィルとの息がよく合っていてうきうきします。バラキレフが管弦楽部の音を厚く、より聴き応えがするようにしてくれてあるせいか、とてもよくできた19世紀国民楽派系ポップス(つまり田舎くさい)というか、そんな感じになっています。

24の前奏曲はダラダラしておらず、集中が途切れず聴ききれます。バラードやノクターンもちょっと気取ったロマンティックさで、音の粒がパチンコ玉みたいにずっしり、きらきらしているのは当時からそうだったんだねー、楽器のせいだけじゃなかったんだねー。初めて聞く若いグルダはなかなかセクシーです。

2010年03月13日

ベーシック・インカム入門

■山森亮『ベーシック・インカム入門―無条件給付の基本所得を考える』光文社新書、2009年。

ベーシック・インカムとは、生活に必要な所得を、無条件で、すべての個人に給付する政策なのだそうです。生活保護や雇用保険といった現在広く行われている所得保障にかわるものとして構想されています。

ご多分にもれず、弊管理人も「はあ?」と思いました。まず、無条件ですべての人に給付されるなら、誰も生産を行わなくなるのではないか。そんなお金はどこから出てくるのか。著者も最初にこの考え方を聞いたときは同じく嫌悪感をもったと告白されています。与党が突然これを軸にした社会保障の再編を言い出せば、このところの政治の常套句「バラマキ政策」「財源はどうする」と野党から激しい批判を浴びせられることでしょう。

そんなことは百も承知で、著者は、実は古来さまざまな国でさまざまな論者からベーシック・インカムが提唱されてきたことを明らかにし、さらにそのポイントをひとつひとつ擁護していきます。
無条件給付は、審査つきの給付が非常にしばしば生み出す「給付の資格があるのに受けられない人」を作らない、それは審査を行う行政的な手間を省略でき、かつ行政の恣意を排除するからだということ。個人単位の給付は、家庭内での無賃労働(家事、子育て、介護…)への賃金としての意味付けにも、家族を単位としてきた税制や社会保障の再編にもなりうること、男女など個人間の区別をつけないこと。現物支給でなくお金でもらえることは、その中での個人のやりくりの自由を確保できること。などなど。

そして、誰も働かなくなるのではないかという論点に対しては、それに合わせた新しい税制を提案する経済学者を引き合いに出すだけでなく、ラッセルやフロムといった意外な顔ぶれまで登場させ、「そもそも現在の労働というのは、飢え死にへの恐怖によって人を劣悪な強制労働に駆り立てているのではないか?」「何もしなくていい時、本当に人は何もしないだろうか?」などと労働の意味や心理にまで立ち返って問いかけます。

それじゃあ、いったいいくら支給すればいいのか。そうはいってもやっぱりみんな断然今より働かなくなるんじゃないか。そんな疑問は残りますが、これはしかし、次の読書へのステップのような気もする。
そんなに困った環境で働いているわけではないですが、それにしても時々は逃げたい気持ちになり、しかし失業への恐怖だけで踏みとどまる、働くということをあれこれ考える、そんなこともあった弊管理人はわりと噛みしめながら読みました。

景色をチューニングする

一度かなり早い時期に登録したまま放置→アカウント削除したついったをふたたび始めてちょっと経ちます。

どこで聞いたか覚えていませんが、とりあえず100人フォローすると面白くなるというので、有名人とか、よく読む本の著者をフォローし、さらにその人たちがフォローしている人たちの中から面白そうな人たちをフォローして、50人くらいまでいったところでタイムラインがわりといつもゆっくり流れるくらいのスピードになったので、しばらく観察していました。

興味に近いところから芋づる式にフォローを拡げていったので、いきおい流れるつぶやきはその関係のイベントや外部ブログの書き込みへのリンクなどが多くなってきて、とても便利です。といってもお知らせばかりではなく、雑多な思いや衣食住の話、ネタ的ないろいろ、さらにちょっと興味関心外だった意外に面白い話なんかも入ってくるので、あまりがちっと情報の傾向が決まらないところもよい点だと思います。

反面、負の感情から書き込まれるつぶやきも多くて、他人事でもけっこう気分が沈むためフォローを外した人もいます。特に(もちろんフォローしている人たちの中でですが)わりと弊管理人の環境はtwitterで叩かれやすいところにあるので、自分の周辺にそれが及んでくるとさらに重い気分になります。
当初は見たくないものを全く見ないというのもなあ、というのと、叩いている人もときどき有益なことをつぶやいてくれるのでそのままにしていたのですが、毒の蓄積もあってかだんだん沈みっぱなしになってきたので、思い切って10人ほどフォローを外しました。

自分の場合は、つぶやきはここでやっていれば十分で、twitterではもっぱら他の人のつぶやきを見ているせいかもしれませんが、twitterは自分の好みの方向に穿たれた窓みたいなもののように感じています。外界の一部を切り取って、見たいものだけ見られるようにしてくれるという。
そして、これは自分の性格によるのかもしれませんが、だんだん窓から見えていない別方向の景色に考えが向かなくなって、窓の外に見える暴動やお祭りに異常な重みを感じてくる。ここでもよく書いているように、そういう視野狭窄は弊管理人の場合、精神衛生上とても悪い。(他の人のつぶやきのなかにも、自分のタイムラインの中で流行っていることが世の中で広く流行っていると思い込んでいる様子や、twitterをやってないとはけしからん的な考え方、ちょっとした言葉の行き違いに起因するうかつな激情の表出なんかも見られるので、弊管理人の感じ方はそう特殊でもないかなとも思うのですが)

そこでフォロー数とか相手の調整をしてみました。つまり、「見たいものが見られる度」を少し下げて、「見たくないものを見なくていい度」を少し上げる。また、「見たいとは思っていなかったが見ればおもしろいものが飛び込んでくる度」はできるだけ残しておく。そんな感じで、いくつかの変数をたてて景色をチューニングする。これでまたもう少し様子を見てみようと思います。

2010年03月10日

豚野郎

午前中は新宿・戸山で仕事、昼過ぎに終わったのでかねてから気になっていた御茶ノ水の豚丼のお店に。

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「豚野郎」。

JR御茶ノ水駅を降りて、お堀と反対側の線路と平行に伸びる通りへ。どちらの口から出ても、もう一つの口をめざして歩いていくと1階が博多天神のビルにたどり着けると思います。2階がハンバーグ屋、その上が当該お店です。
席がいっぱいで少し階段で待ちましたが、先に待っていた学生ふうの2人が、友達が受かったとかなんとかそんな話をしていました。そうだ、今日は近くにある東大(前期)の合格発表日なんですね。昨日なんて夜半まで雪が吹き付けていた東京ですが、今日はうってかわって春です。

さて、いわゆる十勝豚丼。厚切りの豚バラをたれにつけて炭火で焼いたものをのっけて食うやつです。
家では面倒でできないのはこの焦げです。ああこれ、久しぶり。
たれもいい感じですね。ネギの香りがよく効いていて好きです。
写真は中盛680円ですが、自分には十分。本場に比べてかなり安い設定だと思います。
よくできてます。また行くと思う。

2010年03月07日

けらら

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新宿御苑、カレーの「けらら」です。
前に一度連れて行ってもらったのですが、どうしてももう一度食べたくなって再訪しました。場所はけっこうわかりにくいです。靖国通りを新宿から四谷方面に歩き、厚生年金会館の先にあるオリジン弁当を過ぎて最初の路地を左に入ったところにあります。
辛いヒヨコ豆のカレーと、辛くないポークカレーをあいがけにしてもらい、これで880円。
しゃばしゃばしてません。スパイスが心地よく脳を刺激します。うまい!
トッピングの揚げ玉はタダです。あぶりチーズ(+150円)も今度試してみよう。

2010年03月06日

日本的未成熟をめぐって

(2010.3.7ちょこちょこ修正)

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冷たい雨の土曜日、大岡山の東工大で開かれた国際シンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」の2日目、「日本的未成熟をめぐって」を見てきました。
なんか文系のシンポは久しぶり。観客は思想に興味のある学生さんが多い感じ。黒縁セルフレームのメガネかけてニヤニヤしながら喉を使ったけっこう通る声で早口で小難しい言葉を使ってダベってる人がけっこういました(笑)

あ、さて、企画の意図は、会場で配られたパンフレットから引用させていただきます。

美術作家の村上隆、映画監督の黒沢清両氏を招き、日米の研究者が対話するシンポジウムです。 マンガ、アニメ、ゲーム、アイドルなど、現代日本文化の中心には「未成熟」、あるいは成熟拒否(去勢不安)のモチーフがしばしば現れます。現実の描写から乖離したファンタジー、「かわいい」女性キャラクター、怪獣やロボットなどのだつ人間的な立体造形、幼児的な暴力表現……。それらはしばしば国内では「子どもっぽい」ものとして忌避されてきましたが、他方でその特徴こそがいま世界的に欲望されています。このシンポジウムでは、そのような「日本的未成熟」のもつ文化的、社会的な意味を、グローバルな受容状況を鏡として考えたいと思います。

司会は東浩紀さん、登壇者は上記2者のほか宮台真司さん、ボストン大助教授のキース・ヴィンセントさん。

ヴィンセントさんは、日本の未成熟の原点を原爆と占領(「精神年齢は12歳」!)に設定してみせました。大江健三郎、江藤淳などその未成熟を批判的にとらえた戦後の作家に対して、村上、黒沢はそうした「未成熟・対・成熟」という二項対立に窮屈さを見出し、風刺などの別戦略で乗り越えているのではないかと分析しました。

続く村上さんはあるロリコンのアーティストをアート業界に認めさせ、経済的成功を得させる過程を紹介。それは、西洋のアート業界にまず受け入れられやすい方法で侵入してから、本当に描きたいもの=ロリコンを飛散させる方法といえそう。「クール・ジャパン(村上さんはそんな言い方やめろと言ってましたが)の可能性」実践編ともいえるお話でした。芸術(霊感)と経済(戦術)を両にらみすることの意義。

黒沢さんは、自身の作品のアクションやホラーのシーンが、意図する効果が海外の批評家たちに対してもたらせなかったと振り返りました。アニメや文学のように一つ一つのシーンや言葉に全て意図を込めて相手にメッセージを送り届けようとするのではなく、ある程度のところで観る側にもメッセージ伝達の作業を共有してもらおうという姿勢が「未成熟」といえるのではないかと指摘。

宮台さんは、「かわいい」が60年代以降の日本で果たした機能の変遷を解説。ビートたけしも「かわいい」、街のおっさんも「かわいい」と、自分の周りのさまざまな毒性を解除していき、それによって不安な「わたし」が社会に漕ぎ出していくことを可能にする機能は、ひょっとしたら今まさに複雑化、不透明化する社会を迎えた国で「かわいい」が受け入れられるカギになるのではというお話。

4者4様に「未成熟」と向かい合っていたという印象で、これに横串を刺す力は私にはありませんが、各人の発表のあとにあった討論もかなりいろいろな論点を含んでいて考えさせられました。

司会の東さんのつぶやきによると、書籍化したい(ほど本人的にもよかった)そうなので、本になったら手にとってみられるといいと思います。このエントリーの拙い要約を読むよりやはり通しで見たほうがいいと思います。村上さんが「かわいいとは死である」というかなり緊迫したテーゼを次回作に盛り込むという話とか、黒沢さんのアバター一刀両断(笑)とか、要約に盛り込むとちょっと枝が広がりすぎるので外した興味深い話なんかもありましたので。
終了時の会場の拍手はかなり熱気のこもったものだったように思います。

以下もちっと詳しい備忘録。↓こっち読むともうちょっと伝わるかも。
長いので折りたたんでおきます。

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