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2010年06月 アーカイブ

2010年06月27日

冬を乗り切れば

100627plant.jpg
札幌に引っ越したときに買った観葉植物(名前忘れた)なので、もう4年になりますか。
当初15cmくらいだった草丈が60cmくらいになってます。こういう「育つ植物」ってわりと好きなのですが、去年の暑くなるころだったか、成長点が腐り、成長が止まってしまいました。
しばらく放っておいたものの、どうせそのままにしても葉っぱが落ちていって死んでしまうならと、友人のアドバイスに従って思い切って腐った茎の先端をハサミで切り落としました。
冬のあいだはその断面に樹液のようなものが溜まって白くなったままになっていました。それが暑くなってきたこのごろ、その脇から立て続けに3枚の葉がでてきて、日に日に伸びてきています。それも、そのうち2枚の葉の付け根のあたりを見ると茎にあるようなフシがついているので、うまくすればまた成長を始めてくれるのかもしれません。

(比喩的な意味ではなく)冬を乗り切ると、生きてさえいれば生物はふたたび生を営んでいけるのだなあという感を強くしています。裏返せば、冬というのはいかに危険な季節かという実感。
と同時に、茎の先端が腐ったとき、もう死ぬしかないと思われたこの植物の最期の日々を看取るべき自分自身というのを、思い出しています。
早晩、無に帰してしまうその存在を背にして毎朝出勤すると、なんとなく街の花屋で「次」を探している。「死にゆくもの」が「すでに死んだもの」へ向けて急激に接近していく。死にゆくものの一瞬一瞬を濃密に共有することから逃避する、目を背ける。こだわることのスイッチを切る。

さまざまなタイプの人たちを見かけるなかでも、事情が差し迫ればそれを打開するために他人に害をなし、仕方がなかったのだと自分を納得させ、夜には焼肉を食べて床に就ける人とはお近づきになりたくないと思い続けていた最近ですが、どうやら、おそらく、その嫌悪の一番典型的な対象は、実は自分だったのだろうと思っています。

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と、最近更新してなかったのでなんか書いとこうと思っただけの文章が、またメンドクサイものになりましたw

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まったくもって本読むペースが戻りません。
理由はかなり明白ですがそれはまた。

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生活そのものは結構順調に楽しくやってるんですけどねー。

2010年06月16日

雑記

いやあなんか余裕がない。

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クミンシードを熱するところから始める無印良品のインドカレーキット、脂っこくなくてとても好きだったのですが、今年前半かな、店頭から消えて、ああラインナップからなくなってしまったんだと悲しんでいました。
が、どうもリニューアルして再登場した様子。
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鶏とジャガイモとタマネギで作る。ハーブや野菜のたぐいはこんどは全部混ざってペースト状になってました。仕上げにフィッシュソースを混ぜて、うむ良い匂い。
別添のスパイスで辛さ調整ですが、どばっと全部入れたらお腹がしくしくするくらい辛かったので、今度は気をつけます。全然入れなくてもおいしい気がする。

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土曜日に東大の死生学GCOEが催した「生命の資源化の現在」というシンポジウムを見てきました。
生命の資源化といっても臓器移植や脳バンクなどは登場せず、生殖補助医療(代理母出産)のお話が大半だったように思います。勉強になりましたけど。面倒なので内容はここでは割愛。
しかし生命倫理系のイベント見てると、よく会う人って出てきますね。
あと、なんか学部時代以来10数年ぶりに見かけた人とか、いました。

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日、月は久しぶりに遠くで仕事でホテルとか泊まってウキウキでした。

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最近とみに、ちゃんと勉強しときゃよかったと思う。

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暑い・寒い・蒸し蒸しなど不快な気候だと、体が危険を感じて活性化するためか元気になる私。

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『パンセ』ってツイートっぽいが、パンセっぽいツイートはウザい。

2010年06月05日

現代思想の教科書

■石田英敬『現代思想の教科書―世界を考える知の地平15章』ちくま学芸文庫、2010年。

放送大学の教科書の文庫版。授業の復習としてならさくさく読めます。初学にはもうちょっと卑近な例をいろいろ挙げてあげると親切かもしれない。最近の教科書はどうなっているんだろうと手に取り、通勤電車で読んでました。

個人的にツボだったのは巻末の読書案内で、15ページほどの短いスペースに詰め込まれた一言つき参考文献は「次の一歩」を踏み出すのに必要十分なものと感じました。読んでおくべき原典(の訳)はこれ、ただしこの訳書は問題が多いのでお勧めしない、外国の理論を日本のフィールドで展開してる本はこれ、難しければこの入門書や解説書はどうかね、とサインポスティングしてくれているので助かります。

ときどき1冊まるまるブックガイド、みたいな本がありますが、文献1冊1ページ程度の要約ではやはり凝縮されすぎてて読んだことない人には伝わらないよね(読んだ人の「答え合わせ」には有用かもしれないけど、そんな使い方あんまりしないと思う)。やはり噛んで含んで内容を教えてあげるより、権威的に「これ読んどけ」と本を投げてよこすのが正しいブックガイドなんではないかと思う次第です。

2010年06月01日

明日をどこまで計算できるか?

■デイヴィッド・オレル『明日をどこまで計算できるか?―「予測する科学」の歴史と可能性』早川書房、2010年。
Orrell, D., Apollo's Arrow: The Science of Prediction and the Future of Everything, HarperCollins, 2007.

  いやしくも科学を標榜するなら、予測をしてみせて下さい。

学生のころ、連想ゲームみたいに言葉を接ぎながら文学や世界を読み解いてみせる人文・社会科学系の授業を受けつつ、そう心の中で毒づいていました。
そんなことだから、本屋でこの本をタイトル買いする羽目になったのも当然です。

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神殿で賜る神の言葉、ピュタゴラスの数学、天体の運行の計算。
そもそも人間はその最初期から明日のことを知りたいと思っていたはずです。作物のこと、運命のこと。

拠って立つ方法論はいろいろですが、その営みは景気循環を、感染爆発を、そして気候変動を知ろうとする今日までずっと続いています。つまり、それは今に至るまで成功していない。長期的な予測をしようと思っても、ゲタを投げるのと当たり外れは変わらなかった。

すべては自然の法則に従っているはずだから、それを見つければ未来を完全に記述できるはずでした。しかし、数学と観測を不断にブラッシュアップしても、モデルが不完全だったり観測が不完全だったりするせいで目的が達成できない。そのうち、未来を完全に記述することがそもそも不可能であることさえ判明してしまう。経済も遺伝子も天気も、機械ではなく不確定性をはらんだ複雑な存在=いきもの。挑戦と敗北の3000年史。

では科学は無駄なのでしょうか、希望はないのでしょうか。
歯切れの悪い回答ですが、完全な楽観も悲観もするべきではない。科学は現状を分析することができる。そして現実に模したある条件を設定して、結果を予測することはできる。さらにおそらく何が分かり、何が分からないかも知ることができる。武器はそれでいい。それを研ぎ澄ましながら不確定性に切り込んでいく、それが人間が人間としてできる営みであり、自由の淵源でもあるのでしょう。

(著者は1962年生まれ、オックスフォード大で数学の博士号取得。カナダ在住の数学者、サイエンスライター)

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