コーヒーが廻り 世界史が廻る
■臼井隆一郎『コーヒーが廻り 世界史が廻る』中公新書、1992年。
東アフリカを原産地とするコーヒーは、15世紀のアラビアで禁欲と厭世のスーフィズムに「夜の礼拝に眠気を払い、食欲などの欲望を払う」と受け入れられ、その旅を開始する。
イスラム世界の「コーヒーの家」を、商人や外交官がヨーロッパに持ち込んだ。17世紀後半のイギリスではコーヒーハウスが政治経済の情報センターとして、そしておしゃべりを通じて「市民」を形成する場として機能するものの、「旦那が下らないおしゃべりに興じているばかりかコーヒーのせいでセックスが弱くなった」とするカフェから疎外された女性らの反発に遭い、やがて紅茶にその旅路を阻まれることになる。
対照的にフランスでは革命に向けたアジテーションの震源地としてカフェが根を張り、同時に増大する需要に対応するため西インドでのプランテーション経営が始まる。カフェに胚胎した自由・平等・博愛の思想は原産地の黒人奴隷とまで絡まり合い、ハイチ独立にまで進展していく。
遅れてきたドイツがコーヒーの原産地・東アフリカに求めた植民地政策の失敗。「働かない黒人は人種的に遅れている」―人種主義の萌芽。管理の手法としての官僚制。その不幸な結婚が産み落としたファシズムもまたコーヒーの香りをまとっている。
モノカルチャーのブラジル。それを攪乱する乱高下するコーヒー市場。モノに操られる国家、そして国民。黒い血液は近代市民社会を循環する――。
秀逸なタイトルが示しているように、世界史の中をいつもコーヒーは廻っています。と同時に、コーヒーの視点から見ればまさにこの人間の欲望を改造する魔力を持った液体を軸に世界史が転回/展開しているともいえます。ヨーロッパ近代と植民地と世界戦争の500年を駆け抜ける筆致は軽やかだが計算し尽くされたもので、読む者を引き込み、ときどきシャレを言ってはマッハで流したりもしつつ、世界中を引きずり回します。
実は10年以上前に筆者のドイツ文学の授業を受けたことがあるんですが、確かにこんな文章を書きそうな(いい意味での)ヤなオヤジだったような印象があります(笑)。
歴史は物語、社会も物語。だったらその記述には芸が求められるんじゃない?
冬休みにオススメ。