用水路を行く
疫病がやっばいのですが、弊管理人には気分転換が必要なので滋賀。
大阪駅から新快速に乗ったら湖西線に入るやつで、大津京駅で下車。「なんか近江大津宮って日本史で習ったけどここ!?」と思ったら意外とその信憑性を巡ってもめた形跡があった(wikipedia)。
大津市役所前のとんかつ屋に入ってみました。「棹」。「さお」?と思ったら「たく」だそうです。
左からロース、牡蠣、ヒレの3種盛り。
3組くらい待ってたしおいしいのかな、と思ったらマジウマ。これは近所にあったら月2で来る。
今日の目的は「びわ湖疏水船」です。
琵琶湖疏水は明治期に琵琶湖から京都の蹴上まで引かれた7.8kmの水路。東京に首都が移ったあと、寂れちゃった京都を復活させたいということで第3代京都府知事の北垣国道が計画、工部大学校出身の田辺朔郎が23歳で責任者となって28歳の時(1890年)に完成させたものだそう。
行程は55分。4つのトンネルを通ります。これは三井寺の下を通る2キロのトンネル出口。今日は紅葉を見るにしてもちょっと遅かったですが、土手の補強のためもあって桜が植えられており、こりゃ春はさぞきれいでしょう。ちなみにソメイヨシノはまだ東京でできたばかりの時期なので、ここはヤマザクラだそうです。
京都の「にしんそば」の歴史は150年。疏水ができてから、にしんは北前船で敦賀→琵琶湖、そしてここを運ばれたとか。水運は戦後すぐ廃れましたが、飲用水、発電用水としては今も使われているそうです。ここは第1疏水で、これと並行して蹴上までずっと地下を流れている第2疏水が上水用。そういや神戸市民も琵琶湖の水を飲んでるんだって。
同乗のガイドさんはだいたいこの辺のアオサギと知り合いみたい。
建設当時の京都府の年間予算が60万円、事業費は125万円。ちなみに工事に伴う殉職は17人で、コレラの流行などもあり、疫病での死者を含めるともっといくそう。税金投入には反発もあったものの、結果、井戸水頼りだった京都に水を届け、水力発電によって島津製作所、村田製作所、オムロン、京セラ、ワコールなどさまざまな会社ができる素地ができたのだと。
当初は水車用にと考えられていましたが、留学先のボストンで水力発電の勃興を見た田辺が発電用疏水にと強く推し、それが当たった。
この疏水、流速を歩く速さ程度にするため、高低差はなんとたった4mしかないそうです。
小さな船で12人が背中合わせに座ったままなので、写真大好きっ子が乗り合わせるとこうやってフレームインしてしまいます。でもこちらは自分が撮るとすぐカメラを収めてくれるマナーのいい人でした。顔が見えているのは船長さん。
ところで、もらったパンフに挨拶文を寄せた誰かがシールを貼って隠されている。
そーっとめくったら、もういない大津市長でした。こういうのめくっちゃうよね。
蹴上に着くとまたポンプ小屋の説明や周辺の見所を教えてくれて解散です。
次は誰かと春か。8000円て結構だけどな。
んで田辺の銅像脇から京都の市内がちょっと見えます。平安神宮の鳥居が目立ちますね。かなり高いところにあるんだな。ここから水をまず御所に送って防火用水にしたんだって。
当てもなく歩いていると南禅寺の水路閣に出ます。映え写真撮ってる人多数。
南禅寺から三条駅まで歩いたけど、どこもむちゃくちゃ人いたぞ。
もう人が遊びに行くのは行き先を閉めない限り止められないな。
「直珈琲」のパプアニューギニアで一服。
香りをかぐと「よしよしまだ感覚神経はやられてないな」と思っちゃう。
「GABOR」でプリンアラモード。
なんかずっと硬めのプリン食べたかったので満足です。
京阪で帰りました。京阪安いね……
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三連休前の金曜から泊まり、明け、休み、泊まり、明けで夜まで、その後も連日22時過ぎ、という無理目な勤務が続いており、いろんなところに噛みついたり声が大きくなったりしていました。
これほんとよくないなと思うのは、目を三角にして仕事を捌いて一日終わる生活が続くとインプットができないこと。いま、わりと特殊技能を提供するポジションなのですが、東京時代の貯金を使っているだけで、この数ヶ月、何かを勉強したかというとほとんどしてない。申し込んだだけで、結局仕事が込んじゃって見られないシンポジウムや講演会、進まない非仕事読書などが視界の端にちらつくたび「あかん」と思います。
関西はいいとこだし、東京の出身部署はどよーんとしてそうなので戻りたいかと言われると戻りたくないんだけど、とにかく大阪の職場からは早くおさらばしたい。職場としても、「これをやれ」と言ったら「それ、いらなくないすか?」じゃなくて「ハイッ」とかいってやってくれる人がいいだろうしね。