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2015年04月 アーカイブ

2015年04月30日

パンコントマテと箱根山

昭和の日。
ようやくシーズンも来たことだし、早起きして鍋割山に行こうじゃないかと思っていたところ、
まあ予想通りというか、いつもの深酒欣二、そして寝坊。

午前中はコーヒー飲みながら本を読んで過ごして、昼過ぎに連絡をくれた近所の知人と昼飯を食いに行きました。
大久保・パンコントマテのカルボナーラ。(友人はグラタン)
150430tomate.jpg
多分2mmくらいの太い生麺、ソースはニンニクたっぷりで大変食べ応えがありました。
うまかった。そして夜に至ってもおなかがすきませんでした。

「山に行く予定だったんですけど、起きたら10時前で」
「じゃあ箱根山でも行く?」

ということでそのままバイクで連れていっていただきました、新宿戸山の築山、箱根山(44.6m)。
150430hakoneyama.jpg
登頂。なんか図らずも今日のタスクが達成された。のかな。
山手線内の最高峰だそうです。この場所は尾張徳川家の屋敷→陸軍戸山学校→戸山公園とのこと。
隣接の団地で育った友人はこのあたりが遊び場で、高校生の時には友達と飲酒しては頂上から転げ落ちていたそうです。
新緑が色濃く、早くも夏の到来を予感させる一日でした。

そのあと高田馬場の西友で買い物をし、友人宅にお邪魔して「ベイマックス」見ていたら日暮れ。
ベイマックス、3D眼鏡かけて見たけど、すっごいきれいでした。

2015年04月29日

現代政治理論(4終)

■川崎修,杉田敦編『現代政治理論[新版]』有斐閣,2012年.

(3)の続き。
うひー、やっと終わった。でもすごい勉強になった。
おめーは30代も終盤になってまだ入門書を読んどるのかという考えもありましょうが、時々散らかってたものを整理する機会がいるんです、独りで本を読んでいるとね。

このところ、歳のせいか20代の時と違って「そうはいっても世界は進歩してる(少しずつだが以前の失敗を取り込んでる)っぽい」と思うようになり、しかし「どの問題を見ても一度は以前に考えられたことがあるっぽい」とも依然として思っています。そうすると、進展中の事態について何か考えないといけない時にとりあえず立つべきスタート地点と、そこに刻まれた失敗と修正の概要をいっぱい知っておくことが大切になる。専門性を持たない弊管理人はそんなわけで時々こういう本を読みたいと思います。

あとメモ作りながら読むってやっぱり有益。本にもよるけど。

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第10章 環境と政治
〈政治課題としての環境問題〉
・R.カーソン『沈黙の春』(1962)→アメリカの農薬規制のきっかけに。利便性・効率性追求の危険を周知
・D.メドウズら『成長の限界』(1972)→経済発展には終わりがあることを指摘。資源管理という地球規模課題が浮上
・自然環境の道具的理解:人間にとって望ましい状態を維持するものとしての、生態系の浄化機能の重要性=人間中心主義
・J.ドライゼク:人間の生命維持基盤としての「環境」=エコロジー
・A.ネス:人間の利害に関係なく、自然が有する内在的価値がある=ディープ・エコロジー(1989)
 ただし、そういう価値を見出すのも、あくまで人間だが……
・環境問題と公平・正義
 (1)環境変化の悪影響は弱者のもとで特に顕在化する
 (2)将来世代にツケが回る
 (3)自然の尊重をどう法的・政治的に具体化するか。自然をどう人間が代弁するか
・リベラル・デモクラシーとの兼ね合い:選択の自由と利益の最大化。コモンズの悲劇。国家による資源管理と環境保護は自由に抵触

〈緑の政治〉
・1960年代:開発に伴う環境破壊、産業由来の環境汚染=「環境問題」→各国で環境担当官庁の創設
・1970年代:都市への人口集中、生活に伴う汚染=「生活型公害」→加害者、被害者の切り分けが困難に
・1972:スウェーデン提唱で初の国際会合→越境汚染の問題=「地球環境問題」へ
・1987:国連ブルントラン委員会報告『われら共通の未来』の「持続可能な発展」→「成長の限界」からの転換
・1992:国連地球サミット『アジェンダ21』
  環境問題に取り組む資金捻出のため、経済成長を促す
  先進国の責任、予防原則の重要性、国際条約の成立に道筋
・ラディカル環境主義者:既存の政治経済システムはエコロジー的価値と正義の実現に寄与していない
  特にドイツ「緑の党」は脱原発を含む政策転換に成功。市場不信と個人の自己決定重視(左翼リバタリアン) 
・1970年代西欧の脱・物質主義的価値観(R.イングルハート)→エコ、反核、平和、第三世界との連帯:R.ダルトン「新しい政治」
  近代批判、官僚制化批判。しかし自由、平等、デモクラシーにはコミット→リベラル・デモクラシーとの新たな関係
・エコロジー的近代化:1980年代前半、ドイツから。経済と環境の相互補強。その基盤としての技術革新
  ただし政府、企業、市民の協調が必要なため、コーポラティズムの国で成功する傾向か
  副作用としての、ラディカル集団の穏健化、現実主義。途上国へのしわ寄せを見えにくくする?
・環境と経済の両立:世界を席巻したアイディアだが、単に産業社会に「緑の化粧」をしただけでは?

〈エコロジーの政治構想〉
・A.ドブソン『緑の政治思想』:ディープ・エコロジー政治思想。道具主義・改良主義は「表層的」と批判
 →環境問題の根本解決につながる「エコロジズム」の提唱
  経済的インセンティブではなくエコロジー的な動機付けに基づく市民として振る舞うこと
 ←でも、個人の陶冶だけでいいのか?
・環境問題は複雑。領域横断的な討議が必要=「エコロジー的合理性」(ドライゼク)
・討議デモクラシーへの期待。将来世代の声や自然の代弁を討議に組み込んでいく可能性

第11章 国境をこえる政治の理論
〈境界線の動揺と政治学〉
・自律的で時速的な意思決定の最高単位:古典古代はポリス、近代以後は主権国家、フランス革命以降は国民国家
・ウェストファリア・システム:国内政治と国際政治の厳密な区分け

〈ウェストファリア的秩序〉
・ウェストファリア条約(1648):
  領域国家:領域内では暴力を独占。国際政治では正統な主体となる
  宗教対立を争点としない
・国内=集権的、紛争解決の手続きがある、分業と相互依存がある
・国際=分権的、上位権力がない、対立の最終形態は戦争、階層性や分業関係はない
  →国際関係はいつも、潜在的な紛争状態にある
・H.ブル:国際政治の伝統3類型
  (1)ホッブズ的(現実主義的):潜在的戦争状態。秩序はあったとしても脆い
  (2)カント的(コスモポリタン的):国家だけでなく個人、社会的主体の協調も存在。人類的共同体に向かう
  (3)グロティウス的(国際主義的):ルールに則った紛争(外交、国際法、勢力均衡)。主体はあくまで国家
 これらはいつも併存してきたとする。
・ブルは(3)を支持。ただしそれでうまくいくのは激しい対立がない場合か
  →19世紀以降、福祉国家・ナショナリズムによる国家的動員→国内矛盾の解決を対外関係に転嫁
  →国家間の妥協が困難になった(E.H.カー)
・ナショナリズムの高揚で、国内で制御されている人間の支配欲が対外的に拡張主義として噴出(H.J.モーゲンソー)
  →米ソの「一国中心的普遍主義」同士の対立→激化。ホッブズ的状態に近くなる

〈国際政治の分権制をどう克服するか〉
・第1次対戦:動員装置としてのナショナリズム→総力戦、秘密外交→戦後の国際政治学成立につながる
・国家、戦争の暴力性をどう克服するか
  (1)国際法や国際機構の強化による、国家主権への制約
  (2)軍縮を通じた物理的制約
  (3)外交政策の民主的統制
  (4)自由貿易を通じた各国の相互依存深化(経済的リベラリズム、N.エンジェル)
・D.ミトラニーの「機能主義」(1933)。国家が持つ主権を多様な機能の束と見る
  機能ごとに専門の国際行政機構を設けて、国家の機能を少しずつそこに移す
  →こうすれば世界政府を作る必要はない
・「新機能主義」:地域的な機構に多様な権限を委譲する。初めは経済から、そして政治へ
  →各国エリートも地域機構への忠誠心を持ち始めるだろう
・自由貿易、機能主義、新機能主義は、国家権力の制約を志向する点で広義のリベラリズム
  ←でも、現実には国家は協調枠組みを破壊するくらいの力を手放さないだろう(現実主義からの懐疑)
  *米ソ対立は現実主義に説得力を与えた
  *ただ、先進資本主義国の関係はリベラリズム的状況に近い

〈グローバル化〉
・冷戦と南北問題で分裂の様相が支配的だった国際社会の中でも、1960年代末~70年代にかけて「地球的な問題群」があるとの認識が広がった→「宇宙船地球号」の流行。地球環境問題、第三世界の貧困、南北間の経済格差、開発、人権、国連人間環境会議(1972、ストックホルム)
・背景:大量生産・大量消費の経済成長がもたらす環境負荷、通信衛星などによる国際的コミュニケーションの拡大、「成長の限界」、宇宙空間から撮影した地球の映像→地球は有限な共同空間
・国際政治学の視座の転換:
  (1)国境横断的関係:国際政治の主体は国家だけではない
   多国籍企業、研究者の国際組織、国際的な業界団体、宗教組織の国境を越えた活動に注目
  (2)国家間の相互依存:国家間の相互依存進展による軍事力の有効性の相対的低下
・1970年代末以降のグローバル化の原動力=市場、金融自由化で開放された力。ネオリベ的グローバル化
  →小さな国家。国家の空洞化とデモクラシーの空洞化
・ワシントン・コンセンサス=自由貿易、資本市場の自由化、変動相場制、利子率の市場による決定、市場での規制緩和、民営化、緊縮財政、税制の累進制緩和、所有権と知財の絶対的保護。小さな政府のイデオロギーは依然としてエリートに支持されている

〈国境を越えるデモクラシーの理論〉
・ウェストファリア・システムから考える:
  (1)国内政治のデモクラシー
  (2)国際関係の民主化
・しかし「国際関係の民主化」の意味するところは?NGOや新しい社会運動が国際政治過程に参画すること?
・国内政治のデモクラシー(代表制デモクラシー)は国際関係の民主化の基礎になるのか?
・D.ヘルドの「コスモポリタンなデモクラシー」。現在の国内/国際デモクラシーには5つの乖離
  (1)法。個人の権利や義務に関する問題が国家を媒介せずに問われるようになった
  (2)政治体。世銀やIMF、EUが国家を拘束する意思決定をしている
  (3)安全保障。現実には覇権国家に各国が依存・従属している
  (4)アイデンティティ。グローバル化したメディアが先進資本主義国の文化的支配をもたらした
  (5)経済。市場に対する各国の管理能力が損なわれた
 →権力構造が国、地域、国際関係全般、に分散しているが、デモクラシーは国ごとにしかない
 なんのためのデモクラシー?→市民個々人の自律性向上
  (1)権力の恣意的な行使からの保護(古典的リベラリズム)
  (2)市民による意思決定への参加
  (3)意思決定に参加するための能力を確保できる環境整備
  (4)個人による資源入手の可能性を最大化
 →地理的、機能的に多層的な民主的コントロールが必要
 どうやる?
 →国、地域、国際の各レベルで、多層的なパブリック・ローの制定と執行
 →紛争解決の法も整備されていくはず
 *ただし、ヘルドはそれにむけて関係者をどう動員するかまでは触れていない
・個人は多様な「運命共同体」に委ねられている←国境の内側の共同体だけではない

〈新しい世界をつくる社会運動と政治理論〉
・2008年金融危機、それにもかかわらず温存されたネオリベ的イデオロギーや力の構造
・イラク戦争や対テロ戦争における国際社会の亀裂の深まり
→対抗するアンチ/カウンター/オルタナティブ・グローバリズム、NGO、トランスナショナルな/グローバルな市民社会
→対人地雷、国際刑事裁判所、クラスター爆弾禁止などの実績
・平等な市民の間の連帯を志向、「社会フォーラム」
・分配的正義:ロールズ『正義論』の発展→国際社会への敷衍(ベイツ、T.ポッゲら)
 議論は多様。ただし大きく分けて二つの立場
  (1)グロティウス的:国内/国際の区別を保持しつつ、貧困などの対策を各国に委ねる(現実はこちら)
  (2)カント的:貧困対策の責任・義務が国境を越えて成立すると考える(一貫性はこちら)
・人道的介入、正義の戦争:コソボ、アフガン内戦、ルワンダ、コンゴ
  介入と主権に関する国際委員会「保護する責任」論:国内政府が責任を果たさない場合に、国際社会が代行
  →人道支援から武力介入まで、2003イラク戦争はこれを採用せず。ただし2011NATOのリビア介入はこれ
  *ただし先進国による「人道帝国主義」に転化する危険を認識せよ

2015年04月26日

現代政治理論(3)

(2)の続き。
実は読んでるのはもう最終の第11章ですが、ノート化が追いつかなくて。
それにしても、とてもうまく構成されたこの本をもってしても、弊管理人は「共和制」と「公共性」の概念とその重要性がいまいちぴんと来ません。

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第8章 フェミニズムと政治理論

〈政治において「人間」とは誰のことか〉
・人権や政治の主体でなかった女性→O.グージュ『女性および女性市民の権利宣言』(1791)=「人権宣言」(1789)の女性版=で平等理念の訴え
・女性の権利否定の根拠
 (1)妊娠・出産等の肉体的性差=母性の強調
 (2)女性は政治活動に向かない=特性論
 (3)女性は家庭を守るべき=役割分業論

〈フェミニズムの展開〉
・第1波(19世紀後半~20世紀前半):女性が男性と同等の法的地位を持つこと。参政権と財産権。
 公/私の区別に立った「公的世界」での、地位・資格という「形式」の平等
 特性論と役割分業論に切り込めていなかった
・第2波(1960年代~):社会的・経済的女性差別の問題化
 B.フリーダン『新しい女性の創造』=定型化された女性像、女性への期待役割による心理的抑圧
 重要概念:「家父長制」「ジェンダー」
・家父長制(=patriarchy. 文化人類学のpatriarchalismとは別の概念)
 男性が女性を支配・抑圧する社会構造
 「個人的なことは政治的である」=★公/私の二分論に対する根本的挑戦
 (1)ラディカル・フェミニズム(K.ミレットら)=家庭(私)の抑圧構造が社会(公)的差別の根源
 →「本能」「個人のこと」「不運」から「権力関係」への読み直し
 (2)マルクス主義フェミニズム(M.D.コスタ、C.V.ヴェールホーフら)
 →家事・育児という「再生産」活動の無償労働化と労働市場での不平等を問題化。家父長制と資本主義の共犯関係
・ジェンダー=社会的・文化的な性別。「育ち」が作る性→つまり変更可能である!
 論点(1)性差のどこまでが生物学的に決まるか←上野「決着つかない」
 論点(2)「社会的・文化的な性差がある」ということをどう展開させていくか
   方向(a)男から押しつけられたアイデンティティに対抗するアイデンティティを主張する。本質主義
   =C.ギリガン『もうひとつの声』。抽象的な正しさより具体的な状況での配慮=独自の倫理観「ケアの倫理」
   方向(b)「女性の特徴」があるという発想の否定。構築主義。「一枚岩ではない」
   ←しかし、これが敷衍されるとマイノリティや社会的弱者が「集合的主体」を立ち上げることができなくならないか?

〈政治理論への寄与〉
(1)資本主義の「外部」を発見した。伝統的家族が担ってきた「再生産」というインフラに光が当たった
(2)私的領域というミクロな権力を主題化し、社会分析に応用した。公/私の区分を揺るがせた。
→以下の3点に留意
(a)用語をずらした
  従来の社会科学:公的=政治/私的=市場・市民社会
  フェミニズム:公的=政治・市場・市民社会/私的=家族
(b)私的領域も権力から自由でない
(c)公/私の区分を否定しているのではない。何が公的イシューになるのかに関して、再考を迫っている
・新しく定義された(市場ではない)私的領域=「親密圏」
 プライバシーの単位は家族ではなく、個人
 「家族」も婚姻家族だけではない。事実婚、同性愛……
 伝統的に家族が担ってきた育児・介護などをどう社会が担っていくか。役割分担の再考
 DV=「家族」内で放置されてきた暴力。公共圏と親密圏には違うルールが適用されるべきか?
・正義論へのインパクト
 (1)ケアの倫理→「関係性」を考えに入れる形での再編
 (2)公/私の線引き批判→リベラルな正義論の持つ中立性・普遍性批判
・「男並み」か「女性の特殊性」か、という2択から「多様性」(J.バトラー)へ


第9章 公共性と市民社会
〈「公共性」publicnessとは何か〉
限定しようという方向性:ネオリベ。自己責任。ゲーテッドコミュニテイ
強化しようという方向性:愛国心。ナショナリズム。治安向上のための「公共心」。反・市場原理主義
・公共性=国家か?開放されたものと見るか?

〈公的/私的〉
・アリストテレスの「政治的共同体」「ポリス的動物」。公=平等な自由人の領域。その反対はオイコス=経済、家族の領域
・でも、市場って公共的じゃないの?
  A.スミス:分業を通じた協力と依存のネットワークは公共性を阻害しない。国家はそれを教育や公共財の分配で補完すればよい
  J.=J.ルソー:市場は不平等のもと。公共性は市場を廃した自給自足的な小共和国でこそ実現される
  →G.W.F.ヘーゲルによる止揚:私益と公益をつなぐ「中間団体」=代表制&政党政治
    ただしマルクスにとって国家は支配のための装置

〈アレントとハーバーマス〉
アレント:ポリスとオイコスの区別は維持。私的―社会的―公的、に領域を分ける
 その上で公共的領域は、共通の関心事についての「活動」=言葉を通じた相互行為=の場とする
 公的領域は私的、社会的領域とは切断されている
 →市場や国家に公共性を見る議論に対する根本的な批判に
ハーバーマス『公共性の構造転換』:公共圏とは、われわれの社会生活の一領域で、公共的な意見が形成される
 市民的公共性=平等な「私的個人」の間に成立する関係。家族(親密圏)と市場。私を公につなぐ契機を与える
   ←制度的には、市民的公共性は選挙による議会制として現れる。非公式には、メディアやコーヒーハウスでの世論形成

〈政治的公共圏と討議デモクラシー〉
ハーバーマス『事実性と妥当性』
・討議を通じて作られた法規範は国家の強制力行使を制約/正統化する
  背景(1)特定の宗教、哲学によって(トップダウン的に)世界を意味づけることがもうできない=ポスト形而上学
  背景(2)高度に複雑化した現代=産業社会
 こうした討議が行われる開かれた空間=公共圏。さまざまな人と制度を貫通するコミュニケーション
 →公共的意見=世論の形成。このプロセスが「討議デモクラシー」と呼ばれる
・討議デモクラシーは、「言語によるコミュニケーションで形成される」点で経済や行政のシステムと違い、「最初から統合された共同体を要求しない」点で共和主義とも違う
・2つのやり方
  (1)制度化された公式な討議=立法議会での議論など
  (2)非公式な「政治的公共圏」での討議→議決を行うなどの制約がない→新しい問題(DVなど)の発掘→(1)に持ち込まれることも
・公共性を国家や民族に独占させない

〈現代の市民社会論〉
・1980-90年代の東欧民主化:党や国家の支配から自由な団体=教会、自主管理労働組合、自発的な市民組織=による
・西側でのケインズ型福祉国家の問題(肥大した官僚制国家と市場経済の剥き出しの力、という2つの問題)に、代表制デモクラシーがうまく対処できなかった
 →新しい政治の担い手:環境保護、平和、人権など金銭的利益に結びつかない社会運動、途上国や紛争地域支援の団体
・M.リーデル:市民社会=政治性、権力性を持たない私人間の関係としての社会
・M.ウォルツァー:市民社会=国家(強制力)とも市場(利益)とも区別される中間団体が構成するネットワーク
・第3の領域、としての市民社会。国家や企業に異議申し立てする「対抗性」と、NGO―政府協力などに見られる「補完性」の微妙なバランス

2015年04月19日

現代政治理論(2)

■川崎修,杉田敦編『現代政治理論[新版]』有斐閣,2012年.

前に書いた第1章~第4章の続き。
かなりいい教科書の予感……!!

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第5章 平等
〈『正義論』とアメリカのリベラリズム〉
・L.ハーツ「自然的リベラリズム」。欧州と違い、世俗権力と教会の結びつきや、身分制秩序、強力な社会主義勢力が不在→一般市民の政治権力からの自由という、古典的リベラリズムの自然な共有
・19世紀後半からの産業化→格差、不平等をどう考えるか?
(1)保守主義=正当。結果つまり現状の倫理的追認。政府の介入を認めない。
(2)★リベラリズム=政治による社会改革を求める。福祉国家的政策。イギリスの「ニューリベラリズム」との共通性。独占禁止、移民の社会統合、都市環境の改善。ニューディール政策。L.ジョンソンの「偉大な社会」計画、奴隷解放。
→~1960年代、リベラリズムの絶頂→そして批判(経済効率性を損ない福祉依存を招く、国家や社会の統一性を損なう)→80年代以降、影響力の減退

・J.ロールズ『正義論』の登場(1971)。リベラリズムの基本原理の探究。ヨーロッパ式平等論=功利主義に対する評価
・「社会的基本財」(人間の価値実現に必要な財)=権利や自由、機会や権力、富や所得、自尊心。その適切な配分について
(1)正義の第1原理=平等な自由原理。ある人の基本的自由(最低限の市民的・政治的自由。選挙権、公職に就く権利、適正な刑事手続きを要求する権利、言論・集会の自由、私有財産権)の制約は、他者の基本的自由を擁護する場合にのみ可能である
→リベラルな社会形成のための最低限の条件
(2)正義の第2原理=社会・経済的資源配分。どういう時に不平等が許されるか
  (2-1)資源の獲得に有利な地位、職業に就く可能性が全員に開かれている(公正な機会均等原理)
  (2-2)不平等が、社会内の最も恵まれない人に最大限利益になる(格差原理)
→結果の平等論志向
・上の原理を導く道筋。原初状態において無知のヴェールをかぶせ、原理を選択させれば、各人はマキシミンルールを採用するであろう

〈『正義論』への批判〉
(1)リバタリアニズムからの批判
・R.ノージックの「最小国家論」=ロールズの福祉国家批判。ロックらが想定した「自然状態」で、人は権利侵害に対抗する私的段階「保護協会」を形成する。その後、保護協会間の紛争を通じて「支配的保護協会」が誕生する。協会に加入しない独立人(潜在的な挑戦者)が残るが、彼らにも権利保護サービスを無料提供して取り込む。→警察・国防と賠償機能を独占する「最小国家」の完成。
・「権原理論」。権原=資源保有の正当性。(1)誰にも保有されていないものを占有する「獲得」(2)同意の上で譲渡される「移転」(3)不正な取引の被害者に本来の財産を返す「匡正」。ロールズの拡張国家が行う再分配は、いずれにもあてはまらない不当なものだと批判する
*ただし、個人の自由な意思を尊重する点ではロールズと共通

(2)コミュニタリアニズムからの批判
・M.サンデル、M.ウォルツァー、A.マッキンタイア、C.テイラーら。ロールズの「原初状態」は共同体に埋め込まれた自我の在り方と反するし、原初状態における道徳的判断は独善になる危険がある
・サンデル:リベラリズムは、その改革主義的な政治に不可欠な政治権力や国家の所在を正当化できない。★政治的連帯の可能性も追求できない

〈ドゥオーキンと資源主義〉
・R.ドゥオーキン=平等論の課題を2つに整理
(1)資源主義=社会内における重要な資源配分の平等性に限定する
(2)福利主義=資源を使って実現する「望ましい状態」(福利)の平等
・ドゥオーキンとロールズは資源主義。資源主義は、例えば障害者への資源の傾斜配分が正当化できないという問題点がある。しかし、福利主義には、例えば贅沢をしたい人の欲求充足を、質素な生活で満足する人に優先させてしまうという問題点がある
・資源主義は、生じた不平等にどう対処をするか?
(1)当人の選択の結果として生じる不平等は自己責任。ただし「保険に入る」というオプションを用意する
(2)当人の選択によらない不平等(身体的障害など)は公的に救済する

〈福利主義の展開〉
・A.セン。貧困が蔓延する途上国では、医療体制や栄養、教育の不足により、資源配分を平等にされてもそれを活かせない→与えられた資源を活かす能力(ケイパビリティ)の平等、選択可能な生き方の多様性が必要→福利の平等を保障すべき
・ただし、この平等は「生物的・社会的生存における最低限のライン」に限定されるべき(贅沢したい人の欲求充足が優先されてしまうという問題を再燃させないため)←「何の平等か?」と考える(ある問題に最もよく合った平等論を選択する)ことの重要性
*最低限の保障までは福利主義、その先の冒険は資源主義で、といった棲み分けが可能?
*いまそこにある不平等に焦点を絞ることで実現した、平等論の再興→W.キムリッカの少数派先住民族に関する平等論などへと展開


第6章 デモクラシー
〈デモクラシー論の展開〉
・「多数の人が集まって一つの結論を出す」デモクラシー論の軸
(1)意見の複数性という出発点と、一元性というゴールのどちらを重視するか
(2)代表制は可能か不可能か
*両者は理論的には別ものだが、複数制と代表制、一元性と直接性を結びつける人が結構いた
・ヘロドトスの3類型(支配者の数による):君主制、寡頭制=貴族政、デモクラシー。
・プラトンの警戒心「無知な大衆による非合理な政治」。アリストテレスの懸念「社会の多数である貧民の利害だけが突出するのではないか」
  ・多数への授権→衆愚政治→アナーキー状態→僭主政、という最悪の政体に行き着くという経験則(例:ナチス)
  ・J.マディソンはデモクラシー<共和制を主張。アメリカ連邦憲法では大統領制(デモクラシー)をとりつつ、司法審査制度などストッパー的制度も併設
・ルソー→T.ジェファーソンらの直接デモクラシー論へ接続
・A.トクヴィルのアメリカ診断:デモクラシーは多数派の専制を招くと思っていたが、アメリカを見るとそうでもない。自発的に多数の結社ができて意見を述べている。意見表明の多元性が確保できればリベラルなデモクラシーは可能ではないか?
・事実としては19世紀を通じて選挙権が拡大→デモクラシーは実現へ。産業化で大量発生した労働者の多数意見を無視できなくなっていった

〈大衆デモクラシーの成立〉
・G.ウォーラスの警告「非合理な判断を政治に持ち込むだけ」……だが、それを自覚できれば機能するはず
・W.リップマンの悲観「人は先入観=他人の意見=ステレオタイプを通してものを見る」……しょうがない。プロに任せろ
・A.シュンペーターの割り切り「普通の人が政策を決められると思うな。政策を決める人を決めるのが投票である」=デモクラシーとエリート主義は両立可能
・C.シュミット、ナチスの経験→デモクラシーと議会は停止させてはダメ

〈現代デモクラシーの諸相〉
・アメリカのデモクラシーは代表制を前提
・アメリカ型(競争型):R.ダールの多元主義。自発的結社たちによる不断の競争(「選挙の時だけ競争」だったシュンペーターを拡張)。デモクラシー<リベラリズム、の上で両者の統合を図る
・ヨーロッパ型(調整型):A.レイプハルトの多極共存型デモクラシー。P.シュミッターらの「ネオ・コーポラティズム」。北欧などでの長期連合政権、利益団体と政府とのネゴを通じた安定
・1960~70年代「政治の季節」が過ぎて……政治参加の低下。リベラリズムで調整するほどの水圧がなくなっちゃった。利害の複雑化で、代表制により人々の意見を反映できなくなった?直接制を求めている?
・多数者の専制:少数意見の排除=女性、非西洋……→W.コノリー「アゴーンのデモクラシー」による再定義。他者と接し、自分が変容することにデモクラシーの目的がある→ラディカル・デモクラシー

〈討議デモクラシーとラディカル・デモクラシー〉
・討議デモクラシー=討議を通じた合意形成を重視
  (1)一般市民による討議。人の話を聞いて自己反省する=選好の変容がありうるような討議
  (2)ルールを守った理性的な討議(これには「理性的」という枠づけの権力性を見る批判もある)
  (3)代表制を否定しない、討議を通じた意見の深化によって代表制を補完する
・ラディカル・デモクラシー=意見対立の表出を重視する
  (1)古典的な直接デモクラシーに近い。下からの権力創出(S.ウォーリン)(代表制も否定しない)
  (2)抵抗=既存の支配権力に対する「異議申し立て」
・2本立てのデモクラシー。多元的・直接的なデモクラシーは市民社会の非公式な次元で受け持ち、公式の政治的決定では代表制を尊重する。そこで討議と決定の関係をどう考えるか

〈ネーションとデモクラシー〉
・同質的なネーションによる統治機構=ネーションステート(国民国家)という前提。その上に実現する主権は国内外ともに絶対的
→近年、この同質性の擬制性が際立ってきた。マイノリティ、差異の重視
・デモクラシー=全員による決定。しかしその「全員」とは誰のことか?


第7章 ネーションとエスニシティ
〈ネーションとナショナリズム〉
・ネーションの2つの意味
 (1)言語・宗教・文化・エスニシティなどを共有する同質的な集団←こっちが古い。中世大学で使われた「同郷者natio」
 (2)国家(state)が管轄する人々の全体←フランス革命から(1)と合流。主権者=人民の均質性
・ナショナリズム=(1)(2)を一致させようという運動。ただしネーション間の差異が「優劣」に読み替えられる現象も→排他、差別
・同質性としてのネーションの功:連帯、再分配の根拠。罪:内部の差異の否定、選択的な歴史の忘却、伝統の発明、動員の根拠
・J.G.フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』:同質性としてのネーション。ただし言語と文化の共通性に根拠を見たもので、血と土(ナチ)とは別物と見ておいてあげたい
・E.ルナン『国民とは何か』:ネーションに自然的・実体的基礎はない。個々人の自由意思で「一つでありたい」という選択が日々なされている。明るく自由なネーションのイメージ。共和国フランス(ただし実態は結構違う。入退会が自由だったこともない)
*フィヒテとルナンの違いは、国民国家をまだ実現していなかったドイツと、既に実現していたフランスの違いを反映か
・E.ゲルナー:ナショナリズムの経済的起源。工業やサービス業の勃興→新技術を理解するための読み書きの必要性→学校、標準語、統一した歴史観→帰属意識
*でもなぜ、産業化が一応収束した段階でもネーションの観念は残り、強化さえされているのか?
・A.スミス:ネーションはゲルナーほど人為的ではない。ネーション成立の「タネ」となる同質性がそれ以前にあったはず
・B.アンダーソン:ネーションの観念の成立における、印刷媒体の役割。ルターのドイツ語聖書+活版印刷技術→「ドイツ民族」の創出

〈多文化主義〉
・政治の主役「われわれ」とは誰か?どんな範囲か?
・多文化主義=国民国家内に存在する複数のエスニックグループに対する平等な政治的処遇を求める運動。1971年カナダの多文化主義採用、1980年代アメリカでの教育カリキュラム修正……
・多元主義批判としての多文化主義:少数派エスニックグループはいくら多元主義の下で自由競争しても多数になれることはない。永続的な抑圧状態を何ともできない
 →それぞれのアイデンティティが承認されるかどうか。承認をめぐる政治
・承認をめぐる政治が出てくる要因
 (1)身分制秩序の崩壊→アイデンティティは選び取るものに
 (2)選び取ったアイデンティティの承認を社会に対して自分から積極的に求める必要
・承認に向けた2つのアプローチ
 (1)普遍主義の政治:全市民に対する諸権利の平等。奴隷解放から公民権運動までのアメリカなど
  公的な場における同化政策/私的な場における固有文化の尊重
 (2)差異の政治:独自性を保障するような処遇
  エスニックグループの存続と独自性維持の権利=キムリッカの「集団別権利」。自治権や文化権、議会に枠を確保する特別代表権など
*ただし個人はエスニシティだけでなく、ジェンダー、年齢、障害といった諸アイデンティティを重層的に持っていて、これが衝突する可能性も
*アイデンティティ闘争の場は国家だけでない。言語の覇権をめぐる国際競争など

2015年04月18日

ぎょうざやさんなど

柏にカブリIPMUの講演会聞きにいったら希望者多くて入れなかった。クソめ滅びろ。

という気分になったところでテイクアウト専門の「ぎょうざやさん」で餃子10個350円、チャーハン小盛り450円を注文。
「お待たせしましたー」と袋を渡されて受け取る。

   ずしり。

なんか嫌な予感がしながら2時間かけて帰宅しました。
どっかの公園で食べようと思ったのですが、公園というものがなくてね。
開披、チャーハン小盛り。
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餃子はわりと普通。どちらも味は普通(冷めたせいか)。
話の種だな。

* * *

今日、たぶん一年のうちで一番いい気候です。

* * *

今週前半、ちょっと必要があり、ものすごく急いで本を3冊読んだ。

■伊賀忍者研究会編『忍者の教科書 新萬川集海』笠間書院,2014年.
■伊賀忍者研究会編『忍者の教科書2 新萬川集海』笠間書院, 2015年.
■傳田光洋『皮膚感覚と人間のこころ』新潮社,2013年.

* * *

徒歩での移動中は、相変わらず放送大学を聞いてます。
まだ始まったばかりですが、新しい授業では「貧困と社会」「ロシアの政治と外交」が面白いですね。

* * *

前々から行ってみたいと思っていた銀座のLAZYでパングラタンを食いました。とってもうまかった。
あと、ポルチーニ茸とフォアグラのリゾットで昇天。
いろいろ食って、ワイン2本空けて3人で18000円。場所考えると全然悪くないんじゃないかな。
仕事の懇談だったので写真は撮れず。近いうちに今度は友達連れて再訪したい!!

* * *

前々回の日記に出てきた友人は肺転移したがんについて「治らない。薬でコントロールするしかない」と言われたそう。
ちょうどパーティの日で、ホストとして盛り上げていた彼は、すみっこにいた弊管理人のところに来てそれを伝え、一瞬泣き、騒々しい中へ戻っていった。結局その一瞬ではどんな言葉も発せられなかった。別れ際にした握手を介して、その時の感情がいくばくか伝わっていたらと願うけれども……

2015年04月13日

銚子かぞくりょこう

実家の父が車を買い換え、弊管理人のところに遊びに来るというので、折角だから妹ともども一泊旅行にでも行こうかねという話になりました。
大型連休、盆、正月には帰省して一緒になるのですが、どこかへ出掛けるというのはほんとに久しぶりかもしれない。多分、母の手術後にいろんなところにがしがし旅行に行った15年ほど前が最後じゃないかな。

「寝坊したいからゆっくり来て」と言っていたにもかかわらず、土曜の朝8時、3時間睡眠の弊管理人宅に父到着。
本人の希望で、両国の江戸東京博物館に行くことにしました。
東側に住んでた時、いつも西に向かう総武線の車窓から見ていたけれど全く行く気にならなかった建物。
なんか3月下旬にリニューアルしたらしいのですが、どこが新しくなったか分かりません、初めてなので。

入ると日本橋がある。
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うわーなんかだだっ広くてスカスカ、と思ってテンションが下がりかけました。
しかし。
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人形、ジオラマ、「触ってみよう」コーナーなど、なかなかよくできてる。
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ミニチュアにおもくそ寄って撮影してみると、なんか本物っぽくなります。
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たのしい(笑)
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ガラスの床の下にある鹿鳴館で、ダンスパーティが始まります。
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近現代はちょっと駆け足に。2時間では見切れないくらいのボリュームでした。

妹を拾って、銚子へ直行しました。魚の直売所で父と妹はいろいろ買っていましたが、弊管理人は欲しいものは大概既に買ってあるので見るだけ。
お宿は犬吠埼観光ホテル。
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千葉勤務時代に、上司が「風呂のロケーションがすごくよかった」と言っていたのを覚えていて、ここにしました。部屋はこんな感じの二間続き。風呂も同じ眺望です。
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バルコニーに出ると、銚子の灯台も見えます。

晩飯はこんな感じ。このあとご飯とつみれ汁と、「トリュフ大根」という謎の料理が登場しました。
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おなかいっぱい。
また風呂に入って、21時過ぎには寝てしまいました。

翌日曜は朝風呂あびて朝飯食ってチェックアウト。ヒゲタ醤油を見学に行って
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成田で高速を降りて、新勝寺の参道にある「川豊」でうなぎを食いました。
食ってる横で次々と殺戮されていくうなぎが
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こうなって
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こうなる。
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父撮影中。血の争えない親子。
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夕方に帰ってきました。
父が定年になり、弊管理人も一応東京に落ち着き、家族で出掛けられるようになったというのとともに、何か決算的な時期に入ったということでないといいなあ、とちょっとざわざわしつつ楽しんだ機会でした。
妹もまあ楽しんだようではあり、よかった。
ゆるっと定例化するべかな。

2015年04月05日

桜とパスタと

毎年この時期に参加している、桜を見る集まり。
今年はちょっと気分が乗らなくて、会場の靖国神社まで行ったのですが、独り花見にしてしまいました。
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雨が降ってて寒い日でした。今年は3月末の週末が見頃で、今日はもう花もだいぶ終わりという感じ。
いつも顔合わせてるメンバーですし、何時間も会話するの、はっきり言って辛かったのです。
ちょっと花を見て、引き返す。

* * *

結局、LINEで「どうする?行く?」と弊管理人と同じように迷いながらやりとりしていた友人と合流して、パスタを食べに行きました。
以前ここでも書いたことのある、新宿三丁目の「IVO ホームズパスタ」。
前に他のお客が頼んでいておいしそうだった「温製グリーンサラダ」を一緒に頼んでみました。
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温かい野菜にガーリックバターのソースがかかっていて、とてもうまかった!幸せ。
休日の19時でしたが、いちど客が弊管理人と友人の1組だけになりました。
このお店はあまり広く知られて混み合ってほしくないんだけど、末永く存続はしてほしいです。

* * *

天候や疲れのせいもあるとはいえ、元気が出なかった理由はエイプリルフールに聞いてしまった別の友人のことにもある気がしています。

昨年切った悪性腫瘍が肺に転移してるのが見つかったそうです。
30代前半。条件は非常に厳しい。しかし統計は本人の運命を決定しません。
なんとか治ってほしい。それだけ。

現代政治理論(1)

■川崎修,杉田敦編『現代政治理論[新版]』有斐閣,2012年.

【2017年7月追記:続きはこちらにあります→(2)(3)(4終)

中古で購入。まだ5章を読んでる途中ですが、いろんなことが書いてありすぎて覚えらんない、メモとりながらじゃないとだめだーと思ったので、とりあえず1~4章分。

* * *

第1章 政治
・政治=国家や自治体という公権力の領域→「社会全般に見いだせるもの」へ(20世紀の政治学)
・R.ダール★「control, influence, power, authorityをかなりの程度含む人間関係の持続的なパターン」=2人いればそこに政治。日常的な「政治」の用法とも合致

・政治を特徴づける要素(1)権力とは?→仮置き「自分以外の行為者に、もともと意図していなかった行為をさせる能力」。社会における★対立の不可避性が権力を要請する
  =政治における「正解」のなさ
  =「変えられる」ということでもある
・政治を特徴づける要素(2)公共性とは?→「ある集団の構成員に共通に関係する秩序のあり方に関わる事柄」。意識されているとは限らない。こちらにも「公正さ」をめぐる対立の可能性
  H.アレント『人間の条件』:ポリスにおける多様な個人の相互行為。私的行為の調整ではない

・対立の不可避性:C.シュミット「友と敵」→C.ムフ「アゴーンの多元主義」=「われわれ」内の多様性が暴力を生まないためのルールの要請
・対立によって政治は顕在化する。決着すると再び隠れる


第2章 権力
・J.K.ガルブレイス:権力の分類:威嚇型(強制)、報償型(取引)、説得型(選好の変容)
・H.ラスウェル:権力の資源:富、知識、技能、尊敬、愛情、徳……
  J.ナイ「ソフトパワー」=他者の選好を形成する能力
  ただし、相手がそれを資源と認識しないと効力を発揮しない。★権力は「関係」

・権力に関する2つの見方(1)非対称的権力観、ゼロサム的権力観=意思の押しつけ(M.ウェーバー)
  ←抵抗の契機になりうるが、無力感を誘発する危険も
・権力に関する2つの見方(2)共同的権力観、非ゼロサム的権力観=説得による対立の解消
  (2-1)権力=集団の目標達成のため個人の義務遂行確保(T.パーソンズ『政治と社会構造』)
     (例:貨幣を成立させる力、警察への信用に基づいた協力)
  (2-2)権力=成員の自発的協力(アレント、社会契約説における国家の創出)
  ←成員の当事者意識を促すが、現状肯定に陥る危険も
*J.ハーバーマスの整理:非ゼロサムは創出や機能の説明、ゼロサムは行使や維持の説明

・正統性legitimacy=支配の「正しさ」
  ウェーバー「正統性の信仰」=服従者の内面からの支持。合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配。★被支配者が正しいと思ってくれることが必要→ダールに承継

・権力はどうすると見えるようになるか?:S.ルークスの整理
  1次元的権力観=誰の意見が通ったか(行動論的政治学)
  2次元的権力観=誰の意見が通ったか+あるトピックの争点化を阻んだのは誰か
  3次元的権力観=さらに、対立や対立の認識を説得により消滅させたのは誰か
・3次元的権力観になると、「当事者による対立の自覚」に注目していても権力は見えない
  →「客観的」に利害対立を判定する必要
  =「主意主義的権力観」から「構造としての権力」観へ
・構造としての権力:マルクス主義、M.フーコーの「規律権力」=自主性を通じた集団の統制。権力を行使する「誰か」はもういない。制度、知識、技術、既成事実が問題になる。国家だけでなく、社会にも主体化する権力の装置は存在する。では、自由はどこに?

・権力と自由:論点の素描
  (1)ゼロサム的権力観では「権力」と「自由」は対立関係
   非ゼロサム的権力観では「自由」の発現の結果、「権力」が現れる
  (2)人間は自由な主体か、構造に規定されているのか
  (3)権力分析→★秩序が変更可能であることを明らかにする
  (4)構造としての権力には「責任者」がいない。見出そうと無理をすると擬制を作り出してしまう


第3章 リベラリズムの展開
・リベラリズムはいろんな人が作り上げ、変容してきた歴史的構築物
・でも一応共通の特徴:個人の自由や自律性尊重する個人主義、絶対的権威や権力の拒絶

〈源流〉
・J.ロック。生命・自由・財産についての自然権を所有。侵害は自然法=神の法で禁止。市民の原初的合意で作られた政府、その役割は自然権の保護。信仰にも立ち入ってはいけない
・A.スミス。国家の役割は、分業と経済的自由がもたらした豊かな商業社会を外国の侵略、擾乱、無知な民衆から守ること=国防、司法、初等教育と公共事業。人民の利害は人民に調整させよ(見えざる手。そのほうがうまくいく)
・J.ベンサム。自然法や自然権はナンセンス、虚構。代わりに経験的原理=「功利の原理」。個人の幸福最大化の原理を社会に外挿→「最大多数の最大幸福」=多数者の同意。ただしスミスのように自動調節機構に任せてはいけない。みんなが賢いわけではないから。そこで法と刑罰で統制する→公益のための必要悪としての国家

〈ベンサム以降:人格の成長〉
・J.S.ミル=ベンサムの修正。幸福は量的増大とともに、能力と個性の発展という質的面も追求されるべき→多様性の許容、他者危害防止の原則。脅威は国家だけでなく、★抑圧的な多数派も→労働者階級の知的、道徳的な陶冶を通じて「自由」と「デモクラシー」の両立を図る
・T.H.グリーン。人格の成長という共通善(アリストテレス)は独りでできることではない。社会の成員たちの相互協力。国家はそれを保証するべきで、飲酒制限などの道徳的介入も容認する。理想主義的リベラリズム。

〈イギリスの長期不況:国家による放任から介入、集産主義へ〉
・H.スペンサー。社会有機体説→自然の流れに国家が介入してはならない→徹底した個人主義と放任(→現代アメリカのリバタリアニズムの思想的基礎の一つへ)
・スペンサー以後(1)フェビアン主義。貧富の分化は有機体としての社会の存在を脅かす→社会的連帯。土地や生産手段の国有化。ただし革命ではなく議会エリートによる政治を通じた改革。社会の効率的管理。ナショナルミニマム。ベンサムの方向性の一つの極限→社会主義、社会民主主義へ
・スペンサー以後(2)ニューリベラリズム。規律と生活条件の改善を通じた「倫理的調和」。人格発展のためには国家による条件整備が必要→課税と再分配→20世紀のリベラルな福祉国家へ

〈福祉国家と、福祉国家への批判〉
・ニューリベラリズム→J.M.ケインズ。利己的行動が公益につながるとの★根拠はない→「投資の社会化」。国家介入による消費と投資の誘発、完全雇用の実現。社会主義には行かずに自由放任を手放す。管理された資本主義によるリベラリズムの維持(効率化と自由の両立)。ケインズ型福祉国家
・F.A.ハイエクからの批判。全体主義は集産主義の帰結。包括的で単一の価値や完全な倫理規範などないのに、社会とその資源を単一の目的に向けて組織化しようとしており、独裁や生活の統制を招く。そもそも市場や自生的秩序の管理は不可能。★ただし自由放任の礼賛ではなく、秩序維持の方策としての最低限の社会保障は必要だとした→1980年代のサッチャー、レーガン、ネオリベへ


第4章 現代の自由論
〈二つの自由〉
・I.バーリン「積極的自由」「消極的自由」
・消極的自由=干渉の欠如としての自由。他人から妨害や強制をされずに、自分がやりたいことをやれるということ
→価値多元論。個人個人の活動を調整するためのルールは最小限に限定されるべき。ロック、ミル、トクヴィルの立場はこちら
・積極的自由=自己支配としての自由。自分が自分に対してルールを課す権力や権威となること。その資力や能力があること
→価値一元論に支えられた合理主義的教説と結びつくことで、「理性的な自己支配」が理想化される。さらに、それが非理性的と見なされた他人への「理性的な自己支配」の強制に転化する可能性

・E.フロム「~への自由」「~からの自由」。全体主義を象徴するのは「~への自由」だとしても、全体主義を招来するのは、前近代的な紐帯「からの自由」によって生じた孤独や不安ではないか

〈自立と自由〉
・E.カント。人間は自分の定めたルールに従う=自律的。動物は本能や物理法則に従う。
・C.テイラー
  積極的自由=行使概念=実際に使うこと。自律的選択を通じて道徳的な自分を表現する
  消極的自由=機会概念=行使の可能性があれば自由。実際するかどうかは問わない
テイラーが価値を認めるのは行使概念のほう。個人の道徳的な表現ができる=自由、その基礎になるのは共同体の道徳的伝統。逆に個人に恣意的な道徳の表現を許す消極的自由は、共同体を破壊する
→積極的自由vs.消極的自由
→コミュニタリアニズムvs.個人主義
→★道徳的に見て望ましいvs.合理的に見て望ましい

・共和主義的自由(N.マキアヴェリ~)=支配の欠如。他者に隷属していない状態。自治による市民的自由以上のものを志向していないので、消極的自由といえる。ただし、共同で権力を確立・維持するために市民参加は必須。この点は「国家からの自由」を志向するリベラリズムの存立条件にもなりそう。ただし、共和主義は「政治参加」に特権的地位を与える点で、価値多元的なリベラリズムと相容れない。また共和主義は、市民の理想に適合しない人(女性、貧民、少数民族など)を市民として認めない排他性を孕む危険がある

・C.マクファーソン。消極的自由→自由放任は貧困や失業など、自由の実現をかえって阻むような状態を招かないか?
→リベラルな福祉国家、あるいは「国家からの自由&国家による自由」の可能性(健康で文化的な最低限度の生活の保障)
批判(1)しかし、これは国家による財産権の侵害=古典的リベラリズムと対立する方向性ではないか
批判(2)健康な生活という理想は、フーコーの「生命権力」に繋がる?
・制限や禁止をする権力ではなく、方向付ける権力。健康で文化的な方向へ主体化する権力(パノプティコン)←規格化した生の様式から自分自身を引きはがして主体形成を行う、自己固有の「倫理」による対抗=「実存の美学」

2015年04月02日

味芳斎

ランチに御成門、味芳斎(みほうさい)。
会社からてくてく歩いていきましたが、晴れていると陽がまぶしい季節になってきました。

店内はリーマン多し。
茄子と挽肉の辛子煮、でしたっけ、880円。
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辛いけど辛いだけじゃない完成度を感じます。
食べログで3.60つくほどかというと疑問ですが、でもまた別のメニューを試したいと思います。

* * *

年度が明け、会社に新人のこぞお達がわらわら現れ、職場に見学にいらしたので、弊管理人はそれを避けて上階の資料室に身を隠しました。

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