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2018年04月 アーカイブ

2018年04月29日

建築とカレー

若者につきあってもらい、森美術館で始まった「建築の日本展」行ってきました。
連休のわりには混んでなかったです。
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行きたいところがいっぱい増えました。特に会津さざえ堂/江之浦測候所/牧野富太郎記念館/旧閑谷学校/弥山展望台あたり。
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日が暮れてお腹が空いたので、西新宿のコチンニヴァースにお邪魔します。
われわれが入った後のお客さんは満席で断られていました。運が良かった~
ランチ以来、何年かぶり。今回はいろいろ頼んでみました。
おつまみとして頼んだタマネギのかき揚げからしてスパイス効いてていろんな味がする。
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チキンのビリヤニもうまあああ
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ほうれん草のチャーハン、ラムとなすのカレー、フィッシュカレー(ココナッツ入ってる)、全部悶絶。
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おなかいっぱいで帰りました。

* * *

連休開始の28,29日はよく晴れて暖かい2日間でした。
フィンランドから帰ってきたら花粉が収まっていたので久しぶりに布団を干しました。
洗濯物も乾く乾く。
気温も初夏っぽかった(ただし夜間は涼しい)ので、半パンを履きました。

2018年04月28日

ヘルシンキ出張

たぶん最後の海外出張でヘルシンキに行ってきました。
4日間のやや弾丸で、ほんとヘルシンキだけ。フィンランドはいいとこっぽい感じがしたので、また観光で行くかもしんない。とりあえず仕事に直接関係しないことだけ以下に。

フィンエアーを使いました。機内食はわりとおいしかったです。A350-900はうるさくないし座り心地もいい。何より直行便(行き9:30、帰り8:30くらい)が楽だな、ほんと。
空港から中央駅は電車で30分です。
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駅前は広々してます。午後3時でこの光の加減で、日没は午後9時くらいでした。
気温は6度。冬のコートを1枚羽織れば、汗もかかずちょうど歩き回りやすいくらいの気候です。船のスケジュールとか観光施設のオープン時間などを見るに、一応4月までは「冬期」らしい。
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なんかちょっと町並みが「東」っぽい感じがするのは気のせいかな。
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訪れるまで超うろ覚えだった地図。サンクトペテルブルクこんな近いの!

街はトラムやバスなど公共交通網が発達していて便利に動けます。Google Mapsを使えばどこにでも行けるし、停車場には「あと何分で何番のバスが来るよ」といった表示が出ており、日本よりぶらぶらしやすい。
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鉄道も含め、ときどき検札が乗ってきて、有効な乗車券を持ってないと罰金というドイツでも見たスタイルです。たまたま出くわさなかったけど。
チャーターしたバスに乗って動いてる途中、ガイドさんが「さあこれが渋滞ですよ!」と指さしたのが信号待ちの列だったりしたくらい車も歩行者も混んでなかったです。ただしスパイクタイヤをはいた車が走ってたり、港近くでは大型車がぶんぶん行き交っていたりで空気は相応に汚い感じがしました。

ホテルは駅から徒歩6,7分のところにあるGLO Hotelというところ。いいお部屋でした。
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さらに歩いて5,6分で大聖堂。1852年築。
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福音ルター派なせいか、中は質素ですね。
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写真だと分かりづらいですが、大聖堂は結構高いところにたっていて、階段には何人かが腰掛けてぼーっとしてます。現地の人に言わせると「やっと春がきたので日が照ってるうちは日光になるべく当たろうとしている」というのですが、どこまで本当か。
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* * *

今回お供をしていただく本は、ものっすごタイムリーに出たこちらの中公新書。

■石野裕子『物語フィンランドの歴史』中央公論新社,2017年.

【スウェーデン統治まで】
・いまフィンランドになっている地域には、8世紀ごろには西のスウェーデンからの入植が始まり、東からはノヴゴロド公国のスラヴ系民族が入植
・9~11世紀頃、ヨーロッパを荒らし回ったヴァイキングだったという証拠はないが、後に北欧諸国の連帯の文脈の中でフィンランドの祖先もヴァイキングもやってたことになったらしい(面白い)
・もともと自然信仰など土着宗教が根付いていた地域だが、11世紀にはローマ教会の北方十字軍が入ってキリスト教化。13世紀にはカトリック文化の影響下に
・十字軍はスウェーデンから遠征しており、ノヴゴロドがいる東への勢力拡大を図った。1323年にパハキナサーリ条約で国境画定。ここでフィンランド地方(ただし今の南西部だけ。内陸は荒れ地、北はもともとフィンランドと見なされていない)が正式にスウェーデン統治下に入る
・ここから500年以上、スウェーデンが統治。スウェーデン語が公用語に。主体は農民
・1700年からスウェーデンとロシアが戦った大北方戦争で踏み荒らされるなど、フィンランドはスウェーデンとロシアの争いの間に置かれる
・一方、16世紀に宗教改革でスウェーデンがプロテスタント(ルター派)に改宗すると、フィンランド住民もプロテスタントに改宗、聖書のフィンランド語訳が進行。1640年にはアカデミーができて知識人が育っていき、「フィンランド人」の出自や言語など「民族性」の自覚が進んだ

【ロシアへ】
・ナポレオンによるイギリスに対する大陸封鎖令への協力(ロシア)、非協力(スウェーデン)をめぐって両国が戦った「フィンランド戦争」の結果、1809年からフィンランドは「北欧」から切り離され、ロシア帝国の統治下に入る
・フィンランドは一定の自治が認められる。アレクサンドル1世は議会や議員、貴族の地位を保証し、信教の自由も認め、ルター派からロシア正教への強制改宗をしなかった。フィンランドは「大公国」となり、ロシアと異なる政治制度を持ったまま帝国に組み込まれた。スウェーデンからロシアへの移行で大きな混乱はなかった
・首都は1812年、西側にあるスウェーデンの影響力を弱めるため、もとのオーボからより東のヘルシンキに移転。サンクトペテルブルクを模した都市計画が策定された
・1848年の「諸国民の春」ではフィンランドにナショナリズムは生まれなかったが、ロシア側は警戒して検閲を導入・強化

* * *

と、ここで気になるのが、大聖堂の前にある「元老院広場」に立つおじさんの像。
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港が近いせいか海鳥に蹂躙されてますが、アレクサンドル2世です。
「中世から第2次世界大戦までフィンランドをさんざん踏み荒らし、戦後もガンガン内政干渉してきたロシアの皇帝がなんで街の真ん中に立っているのかスゲー不思議」と仕事で一緒になった英国の人がフィンランドの人に聞きまくっていましたが、「なんか結構自治権とか認めてくれたりしたしね」というお答えでした。ロシアで農奴解放(1861年)を進め、フィンランドでも自治の拡大や職業の自由を認めた彼は別枠、らしいです。

クリミア戦争の後にロシア皇帝がフィンランドの政治の安定を図るために身分制議会を定期的に開くようになると、フィンランド語を公用語とし、「農民文化」をアイデンティティとする「フェンノマン(フィンランド人気質)」というグループが生まれたとのこと。
そういや、この間読んだ『ホモ・ルーデンス』によく出てきていた叙事詩『カレワラ』はロンルートが口承詩を採集して編集したものですが、成立したのは1835年。そこから1880年代にかけて盛り上がった民族ロマン主義運動「カレリアニズム」に参加した音楽家がシベリウスですね。
(関係ないけどそこらの公園にフィンランドカラーの青や白の花が咲いてました)
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とはいえ、スウェーデン統治時代から貴族や知識階級が使っていたのはスウェーデン語(フィンランド語使用の推進者もスウェーデン語話者だった。ちなみにずっと時代は下るが、ムーミンもスウェーデン語で書かれている)で、今でもスウェーデン語が第2公用語になっています。標識にはフィンランド語とスウェーデン語が併記されています。
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ちなみに上のやつの意味は「券売機」(多分パーキングチケットの)。この単語はまだ結構似ているが、「フィンランド語とスウェーデン語ってそんな似てるんでしたっけ」って現地の人に聞いたら「全っ然違う」と。
モイモイ言ってるの(moiはhi、moimoiだとbyeらしい)かわいーなーと思いながら見てました。
あと、英語はスウェーデンのほうがちょっとうまい気がするけど、十分お上手でした。
ただ、おそらくoccasionとかchanceみたいな意味でpossibilityっていう単語を使う人が結構多くて気になった。フィンランド語でpossibilityを外来語として使ってたりとかするんだろうか。

余談、「フィンランド人はシャイだというがそう思うか」と前に出てきた英国人がフィンランド外務省の人に詰め寄っており「本当だ」との回答を得ていました。バス停で待ってる人たちがすっごくパーソナルスペースを広くとってるという話を聞いていたものの、実際そこまでではなかった気がする。ただし屋根のあるところからは確かにびろーんとはみ出てました。人と人の間隔は言われてみれば広かったかも。

* * *

一方、こちらの赤いのは1868年に建てられたロシア正教会のウスペンスキー寺院。
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中は派手。
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行きの飛行機で隣になった観光のおばさんが「前にヘルシンキにツアーで行ったときには赤い教会だけしか見られなかった」と言っていました。確かにどっちかだけ、だったらこっちかな。
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ちょっと高いところに上ると、いろんな方向に煙突が見えます。
フィンランドの工業化が進んだのは1860年代からで、製材に加えて製紙工業が盛んになりました。サンクトペテルブルクとの鉄道もつながり、輸出が盛んになったそう。

* * *

・そんでまた歴史の話になりますが、ロシアは1871年に統一したドイツを警戒し、防衛の体制固めをする過程でフィンランドのロシア化を図ります。独自の郵便制度をロシアの制度に統合し、ロシア語の地位向上や役人へのロシア人登用などを推進しました
・ロシア帝国はその後、日露戦争での敗北、国内での反乱などで疲弊し、フィンランド政体の回復や議会改革の要求を呑みます。1907年には初の女性「被」選挙権も実現します
・ただしロシア皇帝の権限はまだ強く残っており、皇帝による議会の解散も続発。ロシアへの一体化をさらに進めます。対して芸術は反ロシア化が進み、1889年には「フィンランディア」が初演。そういえばこちら↓、自分へのお土産、ウォッカ「フィンランディア」(ちっちゃい瓶)
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ついでに、シベリウスといえば、なんかよくわかんないモニュメントがあってインド人や中国人と思われる観光客がわらわらいたシベリウス公園にも行きました。
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閑話休題、
・ロシア革命が起こると、フィンランドは独立を宣言。「民族自決権」を綱領に掲げたボリシェヴィキ政権の承認も取り付けます。うまいなー。レーニンはフィンランドも革命やって社会主義に転んでくれると思っていたので認めたということもあるそうですが
・しかし、このあと格差を背景に、政府軍の「白衛隊」と革命を目指す「赤衛隊」に分かれた内戦が始まってしまいます
・1918年にやっとこ内戦が終わり、共和国ができます。当初は国の統一感を出すためドイツから国王を迎えようとしたら、第1次大戦でドイツが負けて計画が頓挫したとのこと。ふええ
・ちなみに日本との国交樹立は1919年(来年が100周年)
・「国民の家」(国家=家)という思想を背景に、福祉国家化に踏み出したのが1930年代(北欧としては後発だそうですが)
・内戦後の国の統一のため、フィンランド語の第1言語化運動も起きました。1937年にはヘルシンキ大学の行政言語がフィンランド語となります。ただしスウェーデン語も保護することに

・第2次大戦では、ドイツと不可侵条約を結んだもののドイツを信用していなかったソ連が、守りを固めるための領土交換などを求めてフィンランドに交渉を持ちかけますが、フィンランド側は中立政策をとっていた上、ソ連の意図を読み違えて決裂させ、結果としてソ連との戦争に入ってしまいます
・戦争はいったん休戦。そのあとドイツが北欧にまで進出すると、ドイツ軍の領土通過を認めるかわりにドイツからの武器調達や通商が盛んになるなど関係が深まっていきます。ドイツ軍のソ連侵攻に際してはフィンランドは中立を表明するものの、領土的な野心もあってドイツ軍に協力。結局、スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗すると一挙に旗色が悪くなり、厳しい休戦協定を結んで第2次大戦の終結を迎えました
・休戦協定でフィンランドはロシアに6億米ドル相当の賠償金を払うことになりましたが、ロシア側がおおかたを「鉄工品でくれ」と要求したことで、造船業などフィンランドの工業化が進みました
・また戦争責任裁判がフィンランド国内で行われ、戦時中の大統領や閣僚らが被告になりましたが、国内的には「でもしょうがなかったよね~」的な同情を集め、ドイツ占領下に置かれた他の北欧諸国と違って1人の死刑宣告も出ずに終結、戦争の”清算”を終えることになりました

・戦後はもう大国間の争いに巻き込まれるのは勘弁、ということで中立の道を行くことを決めます。ただしその中立は、ソ連とのつながりを保ちながら、西側からは「東の国」と見られることを回避するなど、微妙なバランスをとるという形でした
・この方は内戦時の白衛隊指揮から第2次大戦中のソ連との休戦交渉まで、危なくなると呼ばれて仕事をさせられたマンネルヘイムさんです。
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・ケッコネン大統領は、フルシチョフとの個人的な親しさをサウナでの会談などで築き、裏で外交を進めるという手法から「サウナ外交」と揶揄されたこともあるそうです

* * *

で、サウナ。連れて行っていただきました。街からちょっと外れたところにあるLöyly(蒸気って意味らしい)というところ。
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普通のサウナもありますが、フィンランド東部でメジャーだという「スモークサウナ」が体験できました。中真っ黒。ひとしきり温まったら、建物の背後にある海に浸かります。
弊管理人はえいやと飛び込みましたが、別に飛び込む必要はなく、設えられたはしごを使ってゆっくり浸ればよかったみたい。バルト海は冷たくて、手足を水にぎゅーっと握られるよう。船から落ちた人が死ぬ訳がわかりました。これほんとに健康にいいのかなあ。

サウナは出産の場所であり、食物の乾燥場所でもあり、亡くなった人の遺体を清める場所だとのことで、フィンランド人はサウナで生まれ、サウナから旅立つのだなと。海にも浸かったと言ったら「これでqualifiedだね」と言われたので、なんかそういう大事な場所なんでしょう。留学中に同じ寮にいたフィジーの子たちから「カヴァ」という白い汁を勧められて飲んだら妙に仲良くなれたのを思い出しました。多分違う話だけど。

サウナにレストランが併設されていて、海を見ながら食事ができます。
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おもくそピントがずれつつパーチの揚げ物。メシマズな国だと言われているらしいけど、ちゃんとしたところはちゃんとおいしかった。
他日、テウラスタモTeurastamoっていう施設で食べたバイキングのランチ。
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やっぱミートボールなのね。これもうまかったです。
昔、薬局だった建物を改装したカレリアCarelia Brasserie。
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3プレートランチなど。
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しかし最終日にはやはりエビチャーハン(意図しない大盛り)を食べてしまった。
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* * *

あとは岩に囲まれたテンペリアウキオ教会を見ました。
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かっちょいいヘルシンキ大学の図書館にも侵入。
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本棚は大部分が英語でした。550万人の国だとそりゃそうか。
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これ玄関入ったところです。上がってみるとオーバルの吹き抜けの周囲が勉強机になってました。
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この変な建物は礼拝所。騒がしい広場から一歩入ると、中は静かでした。
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新興住宅街にはでっかい鳥がいた。
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建設費の1%をアートに使う決まりがあるそう。必要かね、それ。
ちなみに、同じ区画に低所得の人が入る賃貸アパートと、高所得の人が買うマンションを混ぜて建てているということです。そうすると小学校とかで自然にいろんな階層の子が混ざる。いいね。
といいつつ、福祉国家でベーシックインカムも入れてみたような国で、カップを持った物乞いのおばさんが点々といたのはなぜだ(聞き忘れた。国籍ないと恩恵に与れないとかそういうことなのかも)。
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ムーミンショップの入ったショッピングセンターはご多分に漏れず吹き抜け。
そこはかとなく漂うヨーカドーな感じ。
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寿司屋、いろんなとこにありました。お互い魚食う人たちだからかね。
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マキッ&ウラマキッ。paritは「ペア」なので握り2巻の値段なんでしょうな。

最後に、空港のトイレ。左が男で右が女なんですけど。
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仕事中、赤ちゃんの服の色の話をしていたら「ジェンダーニュートラルカラーを導入している」というようなことを言っていて、進んでるねえと思ったものです。しかしトイレがこれじゃ迷うだろう。男女で区切るなら色も分けようよ。
あと海外では毎度のことだが小便器の位置が高い。チンコをほぼ水平に保つ必要がありました。

おしまい。
帰国便が成田に朝着で、ほとんど寝てないところから夜まで仕事したら2度ほど落ちました。

2018年04月22日

ダンデライオン

この土日は夏日。空が真っ青でしたが、あまり動き回る気も起きず、クリーニングに出していたセーターを取ってきたり、ジムに行ったり、お酒を飲んだりと、結局いつもの週末。
日曜はさばみりん、納豆、野菜炒め、昆布の佃煮で昼ご飯にしたところ、何かバタ臭いものが食べたくなり、お茶を求めて蔵前に出掛けました。
ダンデライオン・チョコレート。
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ブラウニーと冷アメリカン。とてもいい香り。チョコ屋だしなと期待してなかったコーシーも意外とよく合いました。しかし1食になるくらい重かったです。量的には6割でよかった。ホットチョコレートは思いとどまって正解。
買うならすぐ。座って食べるのも、待ったとしても回転は速い印象です。
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スメタナの「我が祖国」を聞き終わるまで歩いてから地下鉄で帰ろうと思ったら、余裕で上野まで歩いてしまいました。

* * *

30歳になる前くらいから、あまり臭くない酒としてウォッカを好んで飲んでいました。が、このところ体が辛くなることが多く、焼酎のお茶割りへの退却を進めています。(つまりキープボトルを焼酎に切り替えていくということ)
これ多分、体力の低下だけでなく、睡眠不足の日とぶつかることが多いせいかなと思います。何時に寝ても7時過ぎに目が覚めるので、日付が変わらないうちに布団に入ると体調がいいのですが、うっかり1時を回る日が結構あります。よくない。

* * *

■藤原晴彦『だましのテクニックの進化―昆虫の擬態の不思議』オーム社、2015年.
■藤原晴彦『似せてだます擬態の不思議な世界』化学同人、2007年.

擬態にもいろんなタイプがあって、防御のための擬態もあれば、攻撃のための擬態もある。
防御のための擬態の中にも、毒を持たないチョウが毒を持ったチョウに擬態するやり方があったり、毒を持ったチョウ同士が互いを似せて「危険性を知らない鳥に食べられるという、ある程度避けられないリスク」を分散させるやり方もある。

タコやヒラメみたいに環境に反応して機敏に擬態できるものもいれば、模様が最初からプログラムされていて、変更は進化によるしかないものもある。

表皮の細胞一つ一つが色素を作ったり作らなかったりしながら、ドット絵のように模様を作り上げる。擬態ってファッションみたいなもんだろうと軽視しがちですが、動物の発生が3次元のデザインだとすれば、体表の模様は2次元のデザイン。「何をどこに配置するか」を決め、指示を下す精鋭デザイナー集団が染色体上のどこかに隠れている。考えてみれば生物にとってごく基本的、かつ不思議なシステムです。

その秘密はDNAに書き込まれているはず。ということでダーウィン、ウォレス、ベイツから150年、遺伝情報の解読や分析技術が発達してきた今、ようやくそれに迫れるようになりつつあるらしい。研究対象が再現不能なために「疑似科学」と言われてきた進化論が「科学」になる過程でもあるのだとか。

2018年04月19日

魚真など

昨年秋に1ヶ月ほど一緒に仕事をした3人で飲みました。銀座の「魚真」。
そこそこリーズナブルで魚介類がおいしかったです。
出色、あら煮100円。
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かに!
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えびって頭とったり皮剥いたりしないで食べるものなんだって。まじ?
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* * *

会社に入って17年ちょい、夏ごろには仕事の一線から退くことになりそうです。
正直、ずっと「向かない」と思っていたし、3年同じことをやってるとダレるような性格なので、寂しさとか全くないのですけど。
私生活を充実させる方法でも考えよっと。
ただ当面は、余計な出張を入れたり、他人が考えた余計な仕事が降ってきたりしているため、忙しいです。

2018年04月18日

ルーデンス

前にアマゾンでお古の文庫を買ったら随分汚いのが来て、捨てたことがありまして。
そしたら今般、講談社学術文庫で出た。折角ですしということで。

80年前の文章ですが、民族、言語、宗教を股にかけて「遊び」の諸相が描き出されていて、結構楽しく読みました。しかしその後、この本がどう読まれてきたのかは誰かに教えてほしい。
あと、訳者解説はカイヨワに結構厳しかったので、『遊びと人間』の解説も読まないといけない気がする。まあ多分そのうち。

■ヨハン・ホイジンガ(里見元一郎訳)『ホモ・ルーデンス―文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』講談社, 2018年.

人間の文化は遊びにおいて、遊びとして、成立し、発展した。

【遊びはこういうもの】
・遊びは文化現象である
・遊びは「余計なもの」である
・遊びは自由な=命令されていない、大らかな行為である。自由に使える時間の中で行われる
・遊びは生活上の必要から離れた、仮構の世界で行われるものである

・遊びは時間的に限定される(始めと終わりが明確にある)
・遊びは空間的に限定される(遊び場というのが設定される)

・遊びは規則を持っており、無視することは許されない
・遊びで人は何らかの役割を担う
・遊ぶ人は自分が遊んでいることを知っている(自覚的に規則と役割を引き受けている)
・それでも遊んでいる人はその役割に「なりきる」ことが求められる

・遊びは闘技的、対立的、競技的、党派生成的な性質を持つ。勝つことが肝心である
・勝ちたい、良いところを見せびらかしたいというのが社会的な遊びの原動力である
・不確定性をはらんだ遊びに勝つことは、神からの善や幸福の保証を意味する
・文化を豊かにするような遊びには、高揚感や没頭=真剣さが必要である

・遊びの共同体は遊びが終わってからも持続する(遊びが共同体を維持する)
・遊びは神話、祭礼儀式、神聖な行為の根っこにある。起きてほしいことを遊びとして「演じる」
・遊びはスポーツの根っこにもある
・遊びはたとえば次のようなところにも現れる:株の取引のような経済活動、訴訟(規則に縛られた言葉のゲーム。エスキモーは太鼓や歌で行う)、戦争(飾り立てた騎士道、礼節のゲーム)、知恵比べ(世界の秩序に直結した知=魔力を競い合うゲーム)、詩作(精神のゲーム、祝宴における叙事詩の暗誦、連歌も想起せよ)、哲学(レトリックの見せびらかし合いゲームを遊んだソフィスト、対立構図に立つプラトンの対話篇、学問論争)、ファッション(見せびらかしのゲーム)

・遊びの要素として、秩序、緊張、動き、楽しさ、無我夢中、が挙げられる
・「遊び」という言葉は、ゲルマン諸言語において真剣な闘技を、アラビア語やヨーロッパ諸言語において楽器の演奏を、ゲルマン諸言語や北米先住民の言葉で愛欲を表す言葉でもある

【遊びはこういうものではない】
・遊びは生物学的機能(生物学的に何かに役に立つから遊ぶ)ではない
・遊びの反対は「真面目」である(が、遊びは「真剣」に遊ばれる)
・祭祀的、儀式的、祝祭的性格がはがれ落ちた近代の遊びは機能不全といえる
・たとえばスポーツのように体系化、組織化、訓練が進むにつれ、遊びはその純粋さを失っていく
・社会的だった遊びが個人的なものになっていくと、遊びらしさはそがれていく
・ピュエリリズム。ユーモアに対する感情の欠如、言葉に激しやすいこと、グループ以外の人に対する極端な嫌疑と不寛容、賞賛に付け批難に付け見境なく誇張すること、自己愛や使命感におもねる幻想にとりつかれやすいことなどの幼児的特徴(ファシズム批判)

……というような対比を頭に入れて読むと、本書で紹介される古今東西の膨大な「遊び」事例が整理されるかと思います。

今の語感でいうと、「遊び」は「ゲーム」という言葉のイメージとかなり近いと思う。
そんで多分こういうことだろうなと考えた:

第1に、文化、政治、外交などの中で、遊びの要素の増減はあっても、必然的に人は遊んでしまうのだということ。何かを探究しているうちに本来の目的を外れてオタク的な凝り方をしてしまったり、実利的なことを話し合っていたはずの議論がいつのまにか弁論大会みたいになってしまったりする、そのさなかに「あっ今、遊んでる!」と遊びを発見できるだろう、この本を読んでおくと。

第2に、遊びは「真面目」(遊びの欠如)と「頽廃」(遊びの過剰)という両極端の間の中庸なのだということ。遊びが何でないかについてはあまり(明瞭に)語られていないが、図式的にはそう思っておけばよさそうではある。

第3に、遊びは実用性、日常性、秩序、自然=必然性の「外側」なるものの気配を人間が感じ取る契機だということ。しかし、遊びは時間的・空間的に限られたものなので、必ず人間は「内側」に戻ってくる。それでも出掛ける前と同じところには着地しない、それによって世界が展開するのだということ。

そして、文化の駆動因である遊びが力を失うと、停滞、硬直化、腐敗が起きるということ。

2018年04月09日

京都DE花見(2)

日曜は原谷苑でお花見です。44人!!
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ちょうど去年と同じ4月第2週。去年は主催者が「ちょっと早かったなー」と悔しがっていて、いやでも相当きれいですよ?と思ったものでしたが、ちょうどしだれ桜が満開を迎えた今年は圧巻でした。
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「泉仙」のお弁当。赤いのは梅の甘露煮の天ぷらです。おっかない京都人のおにいさまが「やっぱり泉仙さんはええな」と言っていたので相当うまいのでしょう。いや実際うまかったですけど。
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「最近は独立して始めはった料亭が、味も安定せんうちから東京の方とかの予約で埋まってしもて、いろいろ教えてくれるおじさんが入れなくなってねえ」。聞いてみると、新しい料亭の主人が修行した料亭に通っている「物事のわかる」お客さんが食べに行って、皿の使い方、素材の使い方などにいろいろ駄目出ししながらよくなっていくのだそうですが、そういうシステムが近年働かなくなりつつあるということらしい。
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そのお兄さんの著書をもとにした「イケズ講座」もその場で始まりました。
本当にコーヒーを勧められているときは「コーヒーでええか」だが、さっさと出て行って他でコーヒーでも飲め、というイケズは「コーヒーでも飲まはりますか」だそう。こわ!とも思いますが、曰く「イケズはちょっとうまいこと言ったくらいのもの。むしろ言われたら仲間として認められたと喜んでよい」とのことでした。ほんとかなあ
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で、その怖いお兄さんおすすめの御室桜を見に仁和寺に転戦しました。
来たことあったかな。いや全く覚えてないけど、きれいでした。
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ちなみに「御室桜」もイケズ用語だそうです。根元近くから枝分かれしていて樹高が低いため「花(鼻)が低い」の意。
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さらに余計なことですが、「平野神社の桜みたい」も褒めてるようでけなしてるそうです。染井吉野の名所なのになぜ?それは、北野天満宮を越えたところにあるので、「北野を越えた」→「きたのおこえた」→「汚のう肥えた」だそうです。ブルブル
一般論として、イケズは「褒めれば褒めるほど落としている」と解すればいいらしい。イギリスでinterestingと言われたら「クソつまんね」という意味、フランスでpas malは相当気に入ったという意味というのに似ているとのこと。
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寝殿・書院はいちいちフォトジェニックでしたとさ。
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夕飯は四条河原町「東華菜館」で中華です。
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これ何の建物かなあと思いながらみんな通り過ぎてますよね。
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前菜、春巻、鶏の唐揚げ、エビの塩炒めが出色。他もいちいちうまかったです。腹一杯まで食ってビールと紹興酒飲んで5000円ちょっとと意外にリーズナブル。
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稼働しているエレベーターとしては国内最古だという。ほんと?
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新幹線の時間があるのでここで皆さんと別れて京都駅に向かいました。
朝、大阪を出る前に駅で買った「ダニエル」のカヌレをつまみながら帰りました。
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いやあ今年も楽しかった。京都出身のオーガナイザー氏に感謝。

京都DE花見(1)

昨年参加した京都の花見に今年も寄せていただくことができました。
土曜は新幹線を京都で降りて、京都駅の東側に出てみました。
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ちょうどお昼の時間帯だったので、崇仁地区の木村食堂で「すじうどん」460円。
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牛すじ肉がいっぱい入っていて、おつゆもしっかりした味でした。地元のお客さん?がいっぱい。鍋焼きうどんがよく出てたかな。

道路を渡ったところにあるのが「柳原銀行記念資料館」。柳原銀行は、同和地区の中に地元の人たちの手によって設立された銀行です。
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1871年に身分制が廃止されると、雪駄製造などの地場産業の勢いまで失われてしまい、さらに松方デフレが追い打ちをかける形で貧困が広がっていた。そこで町内産業の育成を図るため、ここにあった柳原町の町長を務めた明石民蔵や町内の資産家が同和地区内にこの銀行を設立したのが1899年。
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1910年代には預金額が現在の貨幣価値で50億円くらいまで拡大したものの、大口の焦げ付き、町内商工業の不振もあって停滞期に入ってしまいます。そこで、被差別部落の地位向上を図る「融和運動」のつてをたどって融資先を町外にも広げることを決め、柳原銀行は増資をして1920年に「山城銀行」として再出発します。
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しかし関東大震災とその後の不況、さらに昭和恐慌のあおりで1927年に破産となりました。
建物はその後、商店や借家として使われていましたが、1986年、国道の拡幅工事の計画が持ち上がったのをきっかけに保存運動が起き、1997年に資料館となりました。
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柳原尋常小学校の校歌が展示されています。
2番は「土地生産の名高さは 皮革ベルト 花緒向掛 下駄表 雪駄雪沓 靴鞄 軍用輸出 その額は 幾十万に 上るなり」。雪駄?と思ったのですが、竹の皮の草履の裏に革を張ったものが雪駄なんですね。なるほど。
柳原小学校は1873年に創立されました。「自主的改善運動」の機運の中で、町を盛り立てるには教育で旧習を洗い流し、人物を輩出することが必要だと考えられたとのこと。しかし当初の就学率は3割ほど。20世紀初頭になっても約1000人いた学齢期の子どものうち、学校に行っていたのは半分、卒業となるとその4分の1と状況は厳しかった。それでも校舎建設には頼母子講で出た利益を拠出するなど、教育は町全体の関心事だったようです。
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全く知らなかったものの言われてみればなるほどと思ったのは、身分解放令が出ても、被差別階級だった人たちが各地の祭礼への参加や神輿を担ぐことを拒否され、騒擾や訴訟が頻発していたこと。京都でも、弊管理人の出身の長野でもそういうことがあったと説明されていました。
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元禄14年(1701)の地図。橋の下手に「穢多村」という文字が見えます。死んだ牛馬の処理場があったらしい。
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都市のスラムを描いた55分の自主制作映画「東九条」(1969)も見ることができます。「パッチギ!」も同時代・同地区が舞台なんですね(そういえば在日コリアンの話は祟仁ではあまりフィーチャーされてないように思った)。「東九条」のほうは音声トラックが長らく失われていたのが、最近になって発見されたんだって。状態が悪く聴けるようにはなっていませんでしたが、うまく復刻されるのを期待します。

資料館のパンフに出ていた「祟仁歴史マップ」を見ながら町を歩いてみましたが、多くがフェンスに囲まれた空き地になっていて、古い家屋がぽつぽつと建っている状態でした。東七条中部水平社創立場所、全国水平社の仮本部跡などは見つけられず。「国民研究会」の設立会場というのもあり、これ何?と思ったら富裕層が組織した反水平社の団体だったみたい。
あと京都の米騒動発祥の地である交番というのもマップに載っています。米騒動とどんな関係が?と思っていたら「米騒動は、部落大衆の部落民的自覚と階級的覚醒をおおきくうみだしていったことはあきらかでした」という記述に行き当たりました。
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このあたりは2020年から2023年にかけて京都市立芸術大学が移転してくるということで、昼飯をいただいた市営住宅がごっそりなくなり、柳原銀行の周囲も資料館を残してほとんどが大学施設に置き換わってしまうようです。
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屋台村のような「コミュニティスペース」というのがあって、ちょうどプロレスをやっていたようでした。
「崇仁発信実行委員会」という団体が出している冊子もいただいてきました。
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部落差別を織り込みながら街の魅力を発信するというのは独特なんじゃないかな。他の地区では既にどこがどうだったかは見えなくなっていると思うのですが。と、いうことを中心にして、分からないことがどんどん増えていく散歩でした。しかし付箋はついた。これからさまざまな文章に目がとまるようになるでしょう。

で、京都から大阪行きのJRに乗りまして、山崎駅で降ります。
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山の中腹にあるアサヒビール大山崎山荘美術館。大正〜昭和期の実業家、加賀正太郎の別荘だったそう。まあ特に面白い展示があるわけではないが(でも何も知らないで行ったら「睡蓮」が何点かあってびっくりした)、さっきまで見ていたものとの格差にくらくらします。
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大衆の暮らしを睥睨しながら食べるケーキセットは950円。
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なんか安藤忠雄の建物が繋がっちゃってて何が何やら。
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ついでにサントリー山崎工場も覗いてきました。
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原酒。すっごい香り。

阪急に乗り換えて梅田へ。
グランフロントの「カンテグランデ」で海老カレーを食べましたが、なんてことなかったので写真はなし。
南森町の「弄堂」で焼き小龍包をテイクアウトしてホテルで食べました。
これは結構うまかった。
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ちょっとだけ飲酒して23時過ぎに就寝。
日曜に続きます。

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