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2015年02月 アーカイブ

2015年02月17日

珉珉

赤坂某所で夕方の仕事がありまして。
冷たい雨の中、訪ねたのが「珉珉」。
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餃子が有名な老舗です。中はすすけた古い大衆中華料理屋。
五目チャーハンと餃子を頼みました。
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餃子が大変ジューシーでおいしい。
ここのポイントは、酢と胡椒だけのタレ(テーブルで店員さんが作ってくれます)。
これはいいアイディア。別のお店でもやろう。
チャーハンと、お願いすると出してくれるザーサイも合います。おなかいっぱい。
お会計は1290円です。値段は全然大衆的でないな。
増分費用効果比を勘案し、弊管理人は引き続き京都王将の餃子とチャーハンを愛用するであろう。

■上野修『スピノザの世界』講談社,2005年.

オーストラリア往復したけど、ほとんど手がつけられなかったのがこの本。今日は横浜―東京間の行き来があり、電車の中で読み進められるかな~と思っていたら、読み終えられました。

岩波文庫の『エチカ』は去年読んだのですが、誰かに解説してほしいという思いがずっとありました。それで本書を手に取りました。
この本は『エチカ』の入口に当たる『知性改善論』から一緒に走ってくれます。語り口は非常に初心者に気を遣ってくれていますが、それでも歯ごたえがあります。
それで分かったのは、去年読んだ段階では、ほとんど弊管理人には『エチカ』が読めてなかったということ!そしてこの親切な本も咀嚼しきれないまま過ぎてしまった感が強いです!がー!
いずれスピノザとこの本にはまた戻ってくる気がする。

2015年02月15日

みらいかん

台場の日本科学未来館に行ってきました。

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ちょっと仕事の内容に触れるので削除
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終了後、館内をちらっと見て帰りました。
超伝導(ピン留め効果)のデモをやってました。
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科学の展示を「面白く見せる」ってほんと難しいと思います。
理科の資料集に出ている場面を再現するだけでも勿論「おおお」ってなる(上記実験がそれ)し、その説明を分かりやすくしてもらうと「そうなんだ~」と思うけど、もう一段、何か「魅せる」要素がほしい。手品みたいな。動物園でいう「行動展示」を少しサーカスに近づけるような。
でも最近は面白い企画展もあって、お客さんは増えているようです。

そして、本当に必要(実用的)なのは「超伝導って何」「感染症って何」といった知識ではなくて「知識とはどういうもので、どうやって仮説を立て、調べ、『分かった』と判断するか」という方法に関する理解のほうだと思います。これを展示に組み込むのはさらに先の課題かもしれませんが。

* * *

遊びに行っちゃおうかなと思いましたが、帰宅してぐずぐずしているうちに夜半を迎えたので就寝。
今週はわりと早寝早起きで体調よかったです。

* * *

1月半ばの喉風邪~2月上旬の航空機移動による喉痛・鼻汁・下気道の違和感から花粉症にシームレスに移行した気がする(シームレスと言ってみたかっただけ)。

2015年02月11日

歴史とは何か

オーストラリア行は長旅だし、新書2冊くらい読めるかな~、と思って持っていきましたが、読み終わったのはこれのみでした。

■カー, E.H.『歴史とは何か』(清水幾太郎訳)岩波書店, 1962年.

ケンブリッジ大学で行われた講演の記録What is History?(1961)を訳したものです。日本の大学では歴史学の入門授業で文献として指定されるような基本書だったようですが、今でもそうなのかしら。

本は6章に分かれてます。

【1】「歴史的事実」、つまり歴史学の対象とするのに値するような事実というのは、過去に起こったことや古い文書が自発的に構成するようなものではない。歴史家が「これが歴史的事実だ」と判断することによって作り上げるものだ。
それでは、歴史の解釈は歴史家の数だけあってどれも正しい、というか正しいとか正しくないとかいう比較はできない、というような懐疑主義(弊管理人は「相対主義」と呼んだほうがいいような気がする)に陥ってしまう心配が生じるだろう。しかしそうではない。歴史家が「これだ」と思って行う事実の選定も、その解釈も、あくまで仮のものである。実際は事実の選定が解釈に、解釈が事実の選定に影響を及ぼし、妥当性がチェックされながら作業は進んでいく。
つまり「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」だといえる。(これがキーフレーズらしい)

【2】では、この「対話」を行っている「現在」とか「過去」というのは何のことなのか。英雄物語の主人公になるような個人なのか、それとも、集団や集団間の関係といった「時代」なのか。答えは後者である。
大原則として、個人は社会を離れて存在しない。キーパーソンになるような歴史上の人物でさえ、ある重要な事件を起こすには多数の賛同者を必要とする。さらに歴史的事件も、その人(たち)が意図や思想とは無関係の方向に転がって起きた例もある。歴史は英雄物語ではなく、社会の物語である。
もちろん、歴史を読み解く歴史家自身も歴史の中にいる。そのときどきの思想状況など環境にものの見方を規定されている。つまり、歴史という対話は個人vs個人ではなく、社会vs社会として行われていると見るべきだ。

【3】次に、歴史は科学なのかを考えてみたい。
18~19世紀の自然科学は、例外のない普遍的な法則を発見する営みとして見られていた。社会科学でも市場、賃金、人口の法則がそういうものとして発見されていたが、こういう考えはもう古びてしまった。ポアンカレが指摘するように、科学者が作る命題は「仮説」であって、後続の研究によって検証されることを免れない。命題→経験的事実による検証→命題の洗練、という作業はまさに対話であって、これは歴史学の仕事にも当てはまるだろう。しかし、歴史は科学とは違うのだ、という次のような反論もありそうだ。ポイントに分けて一つ一つ検討する。

(1)科学は一般、歴史は特殊を扱う――歴史的事実は確かにどれも1回限り起きたことという意味では特殊だが、それは科学の命題を作る経験的事実も同じで、どの地層、どの物質も同じではない。しかし同時に、やはり歴史も科学と同じように、特殊な対象たちに対して「戦争」「テロ」「国家」といった一般名詞を使う時点で一般化を志向している。

(2)歴史は何の教訓も与えない――上のような一般化は、すなわち事実Aから見出した教訓を事実Bに適用しようという営みである。民族自決を無視するのは危険だ、秘密文書を闇に葬ってしまうのは危険だ、といった原則は筆者の参加した平和会議にも活かされた。個別の事実たちを比較検討することによって、それらをさらに深く理解できるという効能もある。

(3)歴史は予見できない――確かに、出来事はさまざまな要因が複雑に絡み合った末に生じるので、ある国にいつ革命が起きるかを予見することは歴史学にはできない。しかし、こういう条件にある国は、革命が起きる蓋然性が高いという分析をし、その分析に基づいた行動を関係者に促すことはできる。その精度は自然科学と比肩すべきレベルにはないのは事実だが、原理的には同じだ。自然科学の命題も「実験室条件ではそうだ」ということ、あるいはモデルであって、いろんな攪乱要因がある現実の状況におかれた個別の事物が法則通りに振る舞うことを保証するものではない。

(4)歴史は人間が自分自身を観察しているので、どうしても主観的である――確かに、観察者とその観察対象が連続的に相互作用すること、その相互作用がどんどん変化することは、社会科学の著しい特徴と思われる。しかし近年、観察するものとされるものの厳格な区別は自然科学(特に物理学)でもだんだん揺らいできているようにも思える。

また、歴史家が過去の出来事に関して道徳的な判断をすべきかどうかについては、歴史の解釈には常に価値判断が入り込むため、そうした判断に巻き込まれる可能性はあることを知っておくべきだと考える。もちろんその価値判断も環境に規定されているわけだが。

いずれにせよ、「なぜ」と問い続ける態度と根本的な手続きにおいて、歴史は物理と変わるものではない。

【4】上のように、歴史家は「なぜ」と問い続けるものであり、偉大な歴史家や思想家は、新しい「なぜ」を提出するものである。では、「なぜ」に対してどうやって答えたらよいのだろうか。
ある事件が起きた原因を課題とする学生レポートなら、経済、政治、思想、個人的資質から見た原因を複数挙げ、次にそのリストを重要度に従って秩序づけるようなことが求められる。その重み付けは、ある原因が「その事件を起こすのにどれくらい貢献するか」といってもよい。また、他の類似事件も決定づけるような一般性の高さがあるかを考える必要もある。例えば、甲が飲酒運転して煙草を買いに出た乙をはねた事件では、乙がスモーカーであることより甲が飲酒運転したことのほうがより事故の原因として一般性が高いと考えればよい。
クレオパトラの鼻の高さという偶然の要素がアクチウムの戦闘の結果を決めたというような「歴史は偶然の連鎖」説への対処も同じで、そうした偶然は確かに原因を構成するけれども、他でも同様の事件を起こすような一般性=合理性を持った原因としての意味はない些末なものということになる。

【5】歴史は過去と現在の対話だ、と言った。しかしよく考えてみれば、現在というのは過去と未来の界面でしかない。過去の教訓は必然的に、未来への教訓ということを含んでいるのではないか。歴史は「未来」あるいは「進歩」をどう考えたらよいのだろうか。
斥けておくべきなのは、「歴史の目的は歴史の外(神)にある」という神秘主義と、「歴史に目的はない」という冷笑主義、それから「進歩には始まりと終わりがある」という考え方だ。そうではなく、過去の延長上にその都度現れるゴールに向けた不断の前進を進歩と呼びたい。ゴール=絶対者は唯一不変ではなく、もっとダイナミックなものなのだ。現在の自分を規定する環境、事実の取捨選択を可能にしている価値基準を意識すること=未来の視点に立とうとしてみること。未来を過と関係づけ、長いスパンで考えられる(「未来と過去の対話を行える」!)人こそが「より客観的な歴史家」といえるのかもしれない。

【6】略

古い本ですが、社会科学に初めて触れるときに(できれば高校生のうちに)読んでおくべき論点の詰まった、必読の本だったなあと思います。ちゃんと議論を追えたかどうかは分からないけど。

2015年02月10日

メルボルンで結婚式(下)

■7日

結婚式は16時から、フェアフィールド・アンフィシアターという野外劇場で開催です。
サザンクロス駅から電車でデニス駅まで参ります。
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車内はけっこうきれいでした。
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注意書きで目を引いたのは「不快な言動禁止(no offensive language or behaviour)」、「アルコール接種禁止」(夜の総武線快速は酒場のようだが……)、「落書き禁止」(窓はスクラッチ落書きでいっぱいですけど)。

30分ほど早く会場に着くと、16年前にはニュージーランド南部オタゴ地方のダニーデンという都市で小さなホテルをやっていた友人のご両親がもう来ていました。
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友人のフィアンセは「お父さんは絶対笑わない」と言ってましたが、弊管理人は満面の笑顔で懐かしがられました。結婚認めたとはいっても、心中複雑なんじゃないかな。

そう、今回は弊管理人友人=インド出身(聞いてないが恐らく永住権取得済み)でヒンドゥー、そのフィアンセ=オランダからの移民3世でカトリック、で同性婚という、結構ハードルの高そうなカップルです。いろいろ聞きたいことがあったので友人に聞きました。概略次のような内容。

―同性婚ってオーストラリアでできるの?
「法的には認められてない。認めてもいいんじゃない?という動きはあるけどまだまだ。州単位でいろいろ便宜を図ってくれることはある」

―同性婚の法的地位はヘテロ事実婚とは違うの?
「ヘテロ事実婚の場合は、実績があると認められれば、結婚してるのと同じ権利が与えられるけど、同性婚の場合はそうじゃないので」

―それで今やる意味って何?
「一緒にいるうちに家族っぽくなったから。あと、家を一緒に買ったこともあって、現在利用できる法律を利用して打てる手を打っておこうかなと。結婚式ではそういう法律文書の作成もやるんだよ」

―どういう内容?
「現状だと、お互いの身に何かあったときに医療記録にアクセスできないので、それを許諾するという文書を作る。あとは遺産相続をできるようにする。それから、これはあまり実質的な意味はないんだけどお互いパートナーですという地位を示しておく」

―そういう契約って当地ではみんなやってるの?
「実例をあんまり聞かないから分からないけど、やってるんじゃないかなあ。自分は法律でも学位をとってるので[註:彼は学部ではIT系の勉強をしたが、院で経営や法律を勉強して現在はコンサル]、そういうことができるならしておこうと思ったわけ」

―そもそもどうやって、いつ彼氏と知り合ったの?
「ネット。6年半前か。お互い最初はパートナーになるつもりで会っていたわけではなくて、それぞれ別の人と会ったりもしてたんだけど、そのうちにそういう関係が切れていって気がついたらいつも二人でいるようになった」

―あちら何してる人?
「出会ったときはコンサルの会社でデータマネジメント[註:ちょっと弊管理人の記憶曖昧]の仕事をしてたけど、いろいろストレスあったみたいで、今は大学に移って新規事業を立ち上げる前の評価支援みたいなことをやってる。定時で帰れていいみたいよ」

―それいいねえ。
「コンサルの会社って5000ドル余計に稼ぐために鬼のように働く人多いけど、自分はそういうのはいいかなって思ってお客が満足する範囲でわりと好きにやってる。もとはITの勉強してたけどあんまり今はその知識を使ってないし、経営の勉強始めても学校の選択科目は哲学とかフランス語とか取っちゃったりしてて、他の人に比べると専門性はあんまりないしねえ[註:この気の散り具合が弊管理人と気の合うところかなと思いました。弊管理人はもっとひどいんだけど]」

―プロポーズはどちらから?
「去年、自分から」

―相手と食い違うなー、というところはないの?
「自分は甘いもの大好きで、相手はそれほどでもないっていう以外は別に。スパイシーな食べ物?あちらは全然大丈夫」

―でもおたく、今でも許嫁婚が主流でしょ?えらいギャップだよね。ご家族[註:父=元経済学者、母=元文化人類学者、姉=外科医]は結婚に納得したわけ?
「重要なところ。けっこう前に一度『実は男が好きで』という話を親にしたら『ギャー!育て方が悪かったのか、どうしちゃったんだ、病院行くか』と騒ぎ出したのでいったんクローゼットに退却した。『あ、たぶんそのうち治るから~』とかごまかして」

―人類学者まで?(笑)
「家族のことになると別だね(笑)それでまずお姉ちゃんにカムアウトして、家族会議が開かれたみたい。その上でお姉ちゃんが『本人が来て話す時が来たな』と判断してこっちに連絡くれて、行って話した。その時にはゲイの生命予後、雇用など経済面での影響など、さまざまなデータを集めて検討したレポートが作製されていて(笑笑)、それほど問題はなさそうだという雰囲気になっていた。ただ『親戚が知ったらどうしよう』というのが懸念だったみたい」

―どうしたの、それ。
「その頃にはもう近い親戚は大体知ってた(笑)結局知らなかったのは両親だけということになって。で、お互いの両親に会ったりとかして、なんとか。向こうも結構大変だったみたいだけど」

―宗教的にも大変でしょ。
「こっちもそうだけど、あちらもカトリックだからねえ。でもいろいろ折衷させてみた」

式には親戚、友人200人くらいが集まったようです。(インドでやると郵便配達の人なんかまで、とにかくみんな呼ぶので「親の時は1000人集まったらしい」と友人は言ってました。あとでおとーさんに聞いたら「800人」と言ってましたけど)

まずカップルとご両親が手を繋いで入ってきます。
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両親と抱き合ったり、靴を脱いで跪いたりとそれぞれの流儀でごあいさつ。
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カトリックで重要な意味を持つという火(そうなんだっけ?)を中央の花壇に灯して囲んだり、歩き回ったり(弊管理人の場所が悪くてスピーカーが入ってしまった)
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お互いの家族の一員になることを示したネックレスをつける儀式。
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司会を務めるお友達が二人のなれそめとプロポーズの経緯を紹介し、カップルがそれぞれ相手への愛の言葉を贈ります。それから例の「病めるときも健やかなるときも」の確認。注意して聞いてたけど、両方ともhusbandでした(笑)そりゃそうか。

なんというか、お互いとその家族の結びつきと文化を尊重した、とてもtouchingないい式でした。
お相手側のお父さんが目頭をぬぐっていたのを見て、弊管理人はガラにもなくぐっと来ました。

あとは契約書を交わしておしまい。
気温33度くらい。ときどき雨がぽつぽつ当たりましたが、日が当たらない分、あまり暑くなくてよかったです。

さあて、Two Ton Maxに場所をかえて18~23時のレセプションです。
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こんな感じの、倉庫を転用した素敵なパーティ会場です。
入ったところには、ゲストとカップルとの思い出の写真が吊されていて、裏にメッセージが書けるようになっていました。
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その脇に、ご祝儀入れ。
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「もう文化が違うと何も分からないから率直に聞くけど、結婚式に呼ばれたら何をどれくらい持っていくものなの?」と予め聞いてしまってありました。
回答は、「お金が嬉しい。近隣の人はA$200-300、旅して来る人達はA$100-200、外国からはるばるの人達はもう相応の負担をして来るので受け取らないこともあるけど、くれる人はA$50-100」とのことでした。日本とそう変わらないね。弊管理人は水引を用意していて、あまり少なくても外装と不釣り合いなのでもうちょっと入れました。

ホスト側のダンス!
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それぞれの生い立ちをたどったビデオ、ご両親の結婚式の様子をうつした写真やビデオを上映。ご両親の挨拶があって乾杯のご発声、それから友人のお祝いの言葉があるのはどこの披露宴も同じですな。
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ただ、カップル二人とも(30代前半)、生まれたときからの記録がムービーであったのには驚いた。あの時代、そんなに8ミリとか持ってる人は多くなかったはず。
ビデオ上映は3回あって、映画の予告編のように作り込んだ二人の物語も。凝ってました。ブロークバック・マウンテンのカットが出てきて、この会にほとんど漂わせていなかった同性愛のテイストがほんと隠し味のように香ってきたというのも一興。いやまあお客には何組かいたけどさ。

インドで生まれ、ご両親が教鞭を執ったり調査をしたりする都合でパプアニューギニアに移住し、ニュージーランドで小学校から大学まで過ごし、オーストラリアで働く彼の結婚式には、国内やニュージーランドはもちろん、遠くはフランスやスウェーデンからもお友達が来ていました。
弊管理人の隣は同じ寮にいた日本人の女の子で、今は旦那さん(こちらも同じ寮に、弊管理人の前の年に交換で来ていた日本人)の仕事の都合でスイス在住。斜め向かいはマレーシア出身で今はパプアニューギニアでご商売をしている友人の幼なじみ。向かいはオーストラリアとメキシコのカップルで今年結婚予定。いろんなところにいろんな人生があるなあと思いました。

飲み食いしてみんなと挨拶して、深夜にホテルに戻りました。
いや、結婚式のご招待はもう欠席でいいやと思っていたのですが、こういうのが来るとは思わなかった。
国境を軽やかに飛び越え、しなやかに元気に生きている人達に圧倒されつつも、なんだかギリギリと目前のことばかり見ていた最近の生活を少し遠ざけることができてよかった。

次はいつ会えるでしょう。わかんないな。また16年後かもしれない。

■8-9日

さあて帰ります。
乾燥した機内にまた14時間閉じ込められるので、マスクやダウンジャケットや耳栓などを準備して乗り込みました。
空港バスが出ているサザンクロス駅の向かいにあるPHO24というお店でフォーをいただく。
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沁みる。アジアの味はやはりいい。

11時前にバスに乗り、クアラルンプール経由で成田、で帰宅できたのは翌9日の朝9時過ぎでした。
あー疲れた。

■メモ

・やはり旅はするべき
・しかし直行便があるなら直行便を使え
・現地に夜着いて、そのままホテルで寝て翌日から活動するほうが体にいいような気がするので深夜便を忌避する理由はないな
・機内では絶対休息は取れない
・耳栓は結構有効
・喉の乾燥対策はマスクでは無理、今後考える必要あり
・wifiは成田で借りていって大大大正解
・基本、バスに定時性を求めてはいけない
・JAL(帰りのKUL-NRTはコードシェアのJAL便だった)の機内はやはりよい。サービスや笑顔は過剰な気がするけど
・それにしても昨年の台湾といい、留学の1年と、留学に関連してその後得たものは非常に大きい
・回復期に食べたgrill'dのハンバーガー、おいしかった~
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・今回行けなかったところは次回の課題として:St.Kilda beach, Old ANZ bank (Queen st. and Collins st), National Gallery of VIC, Brighton beach, Bennet's lane でJazz

2015年02月09日

メルボルンで結婚式(上)

1999年に交換留学でニュージーランドの大学に1年滞在しました。
その時、同じ寮で最も仲良くなった友人(インド出身)が結婚するという案内状が来たのが昨年秋。
場所は現在、彼が住むオーストラリアはメルボルン。
あまり迷わず出席の返事をしました。

東京と現地の直行便はジェットスターのみですが、なんかねー、LCCで遠出っていうのがちょっとねー、荷物を預けたり機内食を食ったりとちょいちょいオプション料金になっていて結局結構高くなるよねー、とか思いながら迷っているうちに1月になってしまいました。
あ、やばいやばいと急いでHISで探して出てきたのがクアラルンプール経由のマレーシア航空でした。まあ去年2回もやらかしたので暫く安全でしょう、なんて思いながら決定。

先日の種子島出張が予想外の延長になったため、だいぶあたふたしながら準備をして(キャリーバッグも出発前日に買いに行った)出発しました。

■4日

朝5時に起きて6時に出発、いきなり電車を間違えつつも東京駅へ。
八重洲口の近くから成田まで1000円のバスに乗って空港に行きました。
車内のテレビで「イスラム国」がヨルダン空軍のパイロットを焼殺したとのニュースが流れて気分下がります。
ラッシュ前の時間帯で、しかもアウトバウンドなせいか、きっちり1時間で着きました。
東京西部から行くならこれが最も安くて便利かもしれない。
日中はちょっとバスは時間が読めないので怖いけど。

10時半のマレーシア航空機で脱出。
持ち込んだ本を読んでる間に、7時間余かけてクアラルンプールに到着します。
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なんかね、きれいだった。
空港の中に熱帯植物園みたいのがあって、そこを歩けるかと期待しましたが、クローズ中でした。残念。

バナナシェイク飲んで時間つぶします。
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RM20(=600円ちょい)。まあ空港価格ですわね。でもサイズがでかいし、ほんとにバナナ潰して作っていたようなので、まあいいかと。うまかったです。

3時間ほどの待ち時間でメルボルン行きに乗り換え。
途端に顔を隠した女性とか浅黒いお顔の男性とかが増えます。
マレーシアは文化のごた混ぜ具合に結構興味あるんですよね。今度は目的地として来たいです。
初めてマレーシア航空使いましたが、機内食は前評判に反して全然食えました。サービスも、べたべたしないが必要なことはどんどんやってくれる、ちょうどいい水準と思いました。

■5日

まあ当然ほとんど寝ないまま、朝7時にメルボルン空港着。
友人、車で迎えに来てくれました。
今日から休みを取ったとのこと。前日にフェイスブックで「連れてくとこリスト」を送ってきてくれていて、今日は一日つきあってくれるそうです。わーーい

まずは彼のおうちに。
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メルボルン中心部(CBD=Central Business District)のちょっと北側にある「ボヘミアンな地区」に買った平屋。築120年!!
このあたりは昔大きな工場があって、その労働者が住むような地区だそうです。古き良き時代のメルボルンの面影が残っているそうです。
でも中はさすが、きれい。
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リビング+1ベッドルームだが、ちょうど地区の景観委員会?の審査が通って、2階建てに改築できることになったという。「友達が来たときに泊められるしね」と。
でも下が粘土層なせいか、時間とともに壁にひびが入るんだよhahahaって。大丈夫か。

お茶をいただきながら、お互いに昔の写真なんかを見せっこしました。
10年ほど前に一度日本に遊びに来てちょっと遊んだのですが、ほとんど16年ぶりといっていいです。
しかし、1999年の1年間は本当に濃密に遊んだので、ブランクがあったとしてもお互いに全然普通に会話ができます。弊管理人は22歳、彼は飛び級しまくって大学に入ったところだったので16歳(!)

近所のベーカリーで「ラミントン」買って、半分こして食べました。
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そう、これ。オセアニアのお菓子です。スポンジの外側はチョコを塗り、ココナツがまぶしてあります。「オーストラリア人はオーストラリア発祥、ニュージーランド人はニュージーランド発祥だと言う」というのが友人の解説でしたが、あとでウィキペディア見たら「オーストラリア発祥」と書いてありました。しかし検索していると「ラミントンはニュージーランド発祥だった」との研究論文に行き当たり……
まあなんかカステラみたいなお菓子ですが、ちゃんとしたところで買うとちゃんとおいしい。ニュージーランドにいたときはスーパーで買った出来合いのやつを食っただけで、なんか別にうまくもないスポンジとの認識でしたが。

このあたりはグラフィティが建物限定で合法化されているとのこと。
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落書きする人とされる人の攻防戦の結果の妥協策だそうです。

さて、CBDから南下して、モーニントン半島に足を延ばします。

大きな地図で見る
Google Mapsで地図を見ていて思いましたが、日本でいうと都心から千葉・内房に行くのと同じ動きですね。距離的にも近いし、週末の海水浴スポットとして人気なところも一緒かも。
雰囲気はこんな感じ。
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ちょういい天気です。真夏ですが、たぶん30度ないくらい。風は南風で涼しい日でした。

おすすめのお店 Dromana Fish Supply でフィッシュアンドチップスを。
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テイクアウトして、すぐ前の浜辺の四阿で食べますよ。
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あー、来たなー、って思う。
チップスつまみながら16年分の話をしました。

浜辺を散歩しました。
Bathing Boxが並んでいます。
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「ビクトリアン・モラリティ」の産物だと上記リンクに書いてあるところをみると、人前で肌を露出せずに海水浴を楽しむための施設ということかな。現在は一つ一つにオーナーがいて、増改築やペイントが厳しく制限されているそうです。ちょっと覗いてみましたが、タオルや浮き輪を収納したガレージみたいに使われていました。もちろん浜辺にテントを張るように、その中で休んだりすることも可能です。
それにしても紫外線紫外線言ってるわりに焼くよね、ここの人達。
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ど平日の昼なので人はまばらですが、トップシーズンなので週末は結構混むそうです。

遠景ばかりでアレですが、アーサーズ・シートという300mくらいの丘からの眺望も最高でした。
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ただ、ここは中腹にあるルックアウトです。5年ほど前、頂上に展望台を作ったものの、その前にある木がどんどん育ってしまい、現在はそこからは何も見えないそうです(笑)木を切るより展望を諦めてしまうあたり、オーストラリアっぽい。

道端にはいくつもワイナリーがあります。
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葡萄棚を作らないんですね。へー。弊管理人の実家では亡くなったじいちゃん(元高校で農業の先生)が葡萄を作っていましたが、グリッドの天井を作ってたけど。
薔薇が植えてあるのは、葡萄と薔薇に共通の伝染病をいち早く検出するためだそうです。まず列のはしっこに植えてある薔薇に変調が起きるので分かるということですね。

午後4時前には市内に戻って、街ブラしました。
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メルボルンは4度目くらいのはずですが、ちゃんと探検するのは初めてです。
古い時代に首都だったこともあって、聖堂も博物館もある。でもなんか惹かれずに、これまでは素通りか1泊くらいで通り過ぎていたのですが、それはどうもこの街が旅行者よりも居住者にとって楽しくできているからではないかと今回案内してもらって思いました。

「インドは人生がほとんど路上で展開されるけど、ここメルボルンはほとんどが裏路地や屋上。通りにあんまり人がいないで、みんな何かしら隠れてるね」とは彼の評。
では、ストリートから路地に入ってみましょう。
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落書きいっぱいの建物に囲まれて、昼間から飲んでる人達発見。

暗くて怪しい感じのビルの屋上に行ってみましょう。
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やっぱり飲んでる人達発見。Rooftop Bar & Cinema というカフェでした。
ここメルボルンでは屋内が全面禁煙になってしまったため、スモーカーたちが喫煙場所を求めてここに流れ着いたそうです。DJブースもあってなかなかいい休み所。
では冬はどうするのか?なんか地下に潜るらしいのですが、地下は喫煙できるのかな??聞き忘れた。anyway people are hiding だそうで。

州立図書館。
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近くに大学が三つあるそうで、勉強してる人いっぱいいました。
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外ではチェスの対局と、野次馬。

路地に入ると、おいしそうなカフェがいっぱい。
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次の日ですが、Dinkum Piesでミートパイをいただきました。
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Famous Steakと書いてありますが、そぼろです。
うんまい!A$5.50=550円。現地の食べ物としてはかなり安いと思う。

それにしても、現在は1オーストラリアドルがだいたい100円ですが、弊管理人が留学していた頃は65円前後でした。現在のレートでいくと、セブンイレブンのオレンジジュースボトル300円、サンドイッチ500円。イタリアンレストランで食べるパスタ2500円、電車初乗り200円。まあ大都市だからというのもあるかもしれないけど、結構ものが高い国になったなあと思います。為替の問題もあるし、着実に経済成長して物価も上がってるように感じます。ちょうど前回来た時のちょっと前くらいからずっとデフレだった日本は、いつのまにか先進工業国の中では物価の安い国になっているのではないか?と思いました。

閑話休題、この都市の南(現在発展中)と北(昔からの地区)を分断する、ヤラ川。
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人々は橋の下にも隠れてます。
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飲むね、しかし。
まあこれだけ気候がよかったら飲むか。

88階の展望台から南のほうを望みます。
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きれいやね。やっぱり住んで住みやすい街だという気がする。メルボルンを含むビクトリア州自体、かなりコンパクトにできていて、都市や集落が散らばって存在するオーストラリアの他の地域に比べてインフラのコストが節約できているとのこと。

中心部は、もともと二つあった車線の一つを潰して駐車レーンにし、さらに路面電車のレーンを拡幅するなどして周到にマイカーの乗り入れを避けさせるようになっています。当初は不満も出たようですが、結局は中心部の渋滞や汚染が緩和して好評だとのこと。わかる。路面電車(近場、本数が多いので便利)、鉄道(速い、遠出用)、バスの路線が張り巡らされていて便利そう。

友人のフィアンセと合流して3人で夕飯、夜9時前に別れたときに、ようやく夕焼けを見ました。
引き回してくれてありがとおおお。

■6日

で、翌日は疲れが出たのか発熱して、一日ホテルで伏せってました。
結婚式前日に、遠方から来た人達用のカジュアル・ディナーが企画されていたのですが、体が動かず欠席することにしました。
体温計がなかったので正確には分かりませんが、夜半に来たピークの辛さからすると38度台後半以上あったと思います。数字を見たら折れていた可能性があるのでこれでよかったか。
「ちょっとやばいかなー」と思って街中で買っておいたJ&Jの風邪薬を投入しながら寝まくって、何とか押さえ込みました。
あんまり薬って飲みたくないんですが、今回はちょっとスケジュールもあるので。

長くなったのでつづく。

2015年02月02日

種子島仕事終了

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やっとおわた。

でもって、現地を14時半に出て、レンタカーと高速船とバスと飛行機と電車を乗り継いで帰宅できたのが23時半。
もう体力が残っていないので、以下の読み終わった本は要約などせず掲示だけ(あとで追記するかも、しないかも)。でもどっちもいい本でしたよ。

■シーナ・アイエンガー『選択の科学』文藝春秋、2014年。

■池内恵『イスラーム国の衝撃』文藝春秋、2015年。

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