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大学に入って2年間の教養課程を同じクラスで過ごした友人たちとフェイスブックで再びつながり、今日はそのキャンパスで花見。10数人集まり、全員と16年ぶりの再会となりました。この大学の学部には2つキャンパスがあって、ほとんどの人は学部の後半は別のキャンパスに通うのですが、弊管理人は最初のキャンパスに4年間居残ったため会う機会がなく、さらに留学で1年卒業が遅れたため卒業式でも会ってなかったのですね。
12時開始予定。でも12時ちょっと過ぎに着いた弊管理人が一番乗りという。想像通りでしたけど。
当時つきあっていたカップルがそのまま結婚してお子さんができていたり、イケメンの子がイケメンだったり、哲学を選んだ友人がいまだ落ち着いていなかったり、雰囲気が全く変わらないまま顔にシミができていたり、全体的に栄達を重ねている感じでもなかったり(いやそれぞれ優秀なんだけど、がつがつ出世を志向するタイプでもなかったように思いまして)と、意外性のなさに妙に納得しました。中間採点したらおおむね正答だった、みたいな?
今年の桜は開花が早く、花のピークは先週末だったものの、先週末まで仕事がたいへん込んでいたので、今日という日取りは参加しやすく助かりました。曇天で寒い中、持ち寄った梅酒やワインを飲んでいたらちょっとましに。あと、断熱材(あれだ、観光地なんかで冷凍の魚を買ったときに入れてもらう銀色のふかふかした袋みたいなやつ)を貸してもらって尻に敷くと効果絶大でした。
途中、警備員さんが回ってきて「キャンパス内はお酒は禁止です。学校なんですから」と注意し去っていきましたが、「彼はそう注意することが職務だから言っているだけなのである」と一同納得した上で粛々と宴を続けるあたり、大人になったなあとしみじみ思います(笑)
3時間ほど飲んで中座して野暮用、そして下北沢へ。普段はまず行かない場所です。花見の場所から近かったので今日なら寄れるかなと。
Cafe 般゜若 (←超打ちにくい)のカツカレー、1575円。
たっぷりのタマネギとスパイスで作ったスープ状のカレー。ひりひりと辛いわけではないものの、スパイスの存在感が結構際立ってます。スープカレーがダメな弊管理人も、これはいけました。細切りのカツもうまい。スプーンの上にごはん、カレー、カツという小世界を作って口に運びやすいという作業上の配慮がある気がした。
近くにあったら月1くらいで行くんですけどね。
夕方、新宿をうろついていたらおなかがすいてきました。
ちょっと重めでもいいかなーと思いついたのが、メトロ食堂街にある「つな八」の天丼。
わりといいお値段の店ですが、カウンター式のイートインコーナーではお好み天丼が900円とお手頃価格で食べられます。味はまあまあ。ごはん大盛り(無料)も頼んでしまいました。
この日記見ていると、弊管理人はカレーとラーメンと天丼ばっか食ってる人、という印象を持たれるかもしれませんが、そんなことはないつもりです。
でも……ひょっとしたら本当に一般の人に比べるとカレーやラーメンや天丼を食う頻度は高いのかもしれません。
独り暮らしを始めて17年になります。誰にも自分の生活を見張られていないのは気楽でいいのですが、それは同時に、間違いを正してくれる人がいないということでもありますね。
風呂に入ったときの体の洗い方に自分だけの癖のせいで、背中のある一部だけ全く手が届かないところが実はあり、そこが年々どんどん汚くなっていっている、なんて想像をしたことがあります。
そんな自分だけの些細な「平均からのずれ」が食生活や衛生管理など、独り暮らしのさまざまな場面で積み重なっていったとしたら、数十年それを続ける間にそのどれかが生命を脅かすようなモンスターに化けるかもしれない。
配偶者がいたり、親世代と暮らしていたり、親戚と暮らしていたりすると、そういう間違いはどこかで正される可能性が結構あると思います。その野菜は生で食べるとよくないとか、乾物でも早く食べないと実は小さな虫がわいてるとか、部屋のこの部分は気をつけて掃除しないと埃だらけになるとか。
独り暮らしは早死にする、なんてことをどこかで聞いたことがありますが、その一因はこういう「愚行がなかなか正されない暮らし方」にあったりして、などと天丼を食いながら思いました。
メトロ食堂街はほかにも独りメシに便利そうなお店がいっぱいありました!(反省してない)
新小岩、燈郎で汁なしあぶらそば。
うっかり「野菜多め」と言ったらキャベツともやしがフルヘッヘンド((c)某杉田氏)。
「にんにく普通」と言ったら消化管がにんにく臭で埋め尽くされた。
汁なしなんですけど、野菜の水かなんか知らないがどんぶりの底にずいぶんお水がたまってました。
日高屋の野菜たっぷりタンメンに代わる野菜摂取のソースに認定。野菜多すぎてだいぶ薄味になってたけど。
■岡村浩嗣『ジムに通う人の栄養学』講談社ブルーバックス、2013年。
・運動後、できるだけ早くメシを食え
・運動中のスポーツドリンク、いいよ
・ちゃんと食事していればプロテインは不要
・炭水化物も肉もちゃんと食べよう
・脂肪を落とすなら絶食より運動です
など、ストイックで辛いダイエットのイメージを覆す、けっこう革新的なメッセージが多いと見たがどうか。
あと、さすがブルーバックス。いろんな論文からデータを引っ張ってきて結論を導いていく姿勢が素敵。生理学的な説明も大変勉強になります。
■唯円(著)親鸞(述)川村湊(訳)『歎異抄』光文社古典新訳文庫、2009年。
「とにかく南無阿弥陀仏と唱えてりゃいいから」というシンプルな親鸞(浄土真宗)の教えも、時間が経つといろいろ曲がった解釈がされたり、藁人形叩きみたいのが出てきたりする。どうも誤解されてることも多いんで、師匠が言ってたことを分かりやすく書いておきますよ、という文章。唯円が本当にそう語ったかのように、京都弁でおもくそ砕けた調子の訳になっています。
最後には流罪目録というのがついていて、法然以下お弟子さんたち(親鸞含む)が弾圧を受けた際の処分が短く紹介されています。さらにその後に「教えを信じる機縁のない人にはむやみに読ませてはだめよ」との奥書がある(これは筆写した蓮如の文かな?)。教え+苦難の歴史+ある程度の閉鎖性が、教団を維持していくためのエッセンスつうことなんでしょうか。
いくら経典を勉強したって修行したって、しょせん人にできることなんてたかが知れてます。そんなことより、アミダさんが全員救ってくれるって言っているんだから、完全にそれに委ねてしまえばいい。そういう気になったときには既に救われることになってるんです。救われようとしてジタバタしない分、悪人のほうがまだそのゴールに近いともいえませんかね、という。
こういう、私というものを究極まで矮小化していく方向性が、現世の否定や無気力ではなく、かえって(浄土へ行くための戒律なんて意味ないからといって)肉も食う結婚もするというパワフルな欲求開放に向かってる感じが不思議だなあと思ったり、人事からいろんなものをはぎ取っていったその果てに神を見てしまったデカルトとの近さや遠さをもやもや考えたりしながら読みましたとさ。
月曜、火曜と2日間の京都出張でした。
英語の会議。最後の方はドタマが痛くなってくるという。
オアシスを求め、大阪友人に教えていただいたお店、知恩院の近くにある「Phoo's?」 ...cafeというカフェへ。仕事終わりで滑り込みました。19時までなんだそうで。
本来なら夕飯の時間帯ですが、帰りの新幹線をiPod Touchで予約しながら友人おすすめのワッフルを注文してしまいました。
ワッフル―アイス―ワッフル―アイスの構造物が、ベリーの熱々ソースにまみれています!好吃!まわりは女子ばかりですけど。かなりのボリュームです。げっふ
おばんざいセットなど食事系メニューもおいしそうだったので、次はメシだな。
夕飯は家に帰り着いた22時半過ぎ、セブンイレブンのなめこそばと冷奴、冷凍焼きおにぎりでおいしく済ませました。
今年に入ってしばらく関西出張が込んでいましたが、これで一区切りになると思います。
ていうか、そうしたい。いい季節の京都に遊びで来たい。
新幹線の中でパソコン睨みながら仕事すると、どっぷり疲れるんだよおおお
■ジョン・スチュアート・ミル(山岡洋一訳)『自由論』日経BP社、2011年。
14年ぶりくらいに読みました。
原理は単純で、
(1)個人は自分の行動が自分以外の人の利益に関係しない限り、社会に対して責任を負わない。社会がその行動を嫌うか是認できないとき、その人に助言や教示を与え、説得することができ、自分の幸福のために必要だと考えればその人を敬遠することができるが、それ以上の方法をとるのは正当だとはいえない。
(2)個人は他人の利益を損なう行動について社会に責任を負い、社会はみずからを守るために必要だと判断した場合、社会による制裁か法律による処罰をくだすことができる。
つまり他人に危害を加えなければない限り自由を保障されるべきだ(他者危害原則)ということのようです。
最初のほうの章では「思想・言論の自由」と「行動の自由」がそれぞれどうして必要なのかを検討しています。理由は、結局のところ、ぼくたちは全知全能ではなく、今ひろく信じられていることでさえ間違っているかもしれない(可謬主義)ので、反対論を気に入らないからといって封殺してしまうと、間違いを正されたり、両者の考えを止揚してよりよい考えに到達したりするチャンスを失ってしまうからです。たとえ今信じていることが合っていたとしても、反対論に触れることによって、自らの根拠を再認識し、知識の基盤を固められるから、やはり反対論をそもそも発言させないというのはよくない。
一見不愉快な行動についても、何が正しいかに関する知識を完全に持っている人などいないのだから、それが本当に悪いことなのかどうかはすぐに確定できない。その行動が他人に直接の危害が及ばないなら、周囲がしていいのはせいぜい「やめな」と説得し、だめだったらおつきあいをやめるところまでで、それ以上の制裁・処罰をするべきではないとも主張されています(愚行権、パターナリズム批判)。ただし、奴隷契約などを自発的に結んで「自由を手放す自由」は認められません。
他者危害原則にはいろんな限定がついています。
まず、分別のないガキに自由を保障せえという話ではないということ。何がよいことかを自分で考える力を身につけるため=大人になるために最低限必要な教育(ただし、特定の思想を植え付けるのではなく、方法論を教えるようなイメージ)を国が施して、修了試験を課すべきだとまで述べています。
また、自由を制限する理由となる他者危害は、かなり直接的な危害に限定されていることにも注目すべきだと思います。弊管理人など冗談で「あなたが息をしてると地球が温暖化して環境が壊れるから、息止めてもらえますか」なんて言ったことがあるのですが、こんなのは他者危害になりません(笑)。自由の制限を許すような「危害」の範囲を少しでも広げてしまうと、たやすく自由が無意味になってしまうからでしょう。
面白いのは、自由を制限しようとする役者として、政府だけでなく「世の中の多数派」も想定されている点です。自分や権威と違った考え方に不寛容な世間様が、いかに異端者に有形無形の圧力をかけて押し黙らせているかを苦々しく描いていますが、これは1850年代のイギリスの描写とはとても思えません。
このあたりは、著者がどういう社会が好ましいと思っているかにもつながっていると思います。結局、個人というのは孤立してあるものではなくて、時には権力を構成し、時には国に影響を及ぼす、そういう役割を持ったものだ。だからこそ、自由を保障することで個性を保護し、社会に多様性を持たせるべきで、その多様で活力ある個人たち、国を永続させる原動力になるのだと訴えているように思います。
また、国は必要以上の干渉を企図してはいけない。官僚機構を作るために国中の優秀な人をかき集めるようなことはしてはいけない。人材を集めすぎると行政をチェックする力のある人が外部に確保しなくなってしまい、そうなると人々があらゆることを行政にお任せし、国の活力が落ちてしまうから。このへんも含めて「時代や国が違っても似たようなことは起きるんだね」と思うこと多々でした。
具体的な問題について判断を下すにはちょっと物足りない大づかみな原則ですが、ここを一つの起点として後世のいろんな思想や制度が流れ出す、そういう水源地のような論文だったと思います。出版後に鬼籍には入られたのは残念ですが、訳者にブラボーを。
京都駅の東にあるラーメン店「本家 第一旭 たかばし本店」(というらしい)。
出張でございまして。
14時過ぎに入ったのに、中はお客さんでいっぱい。
お腹が空いていたので、特製800円をいただきます。
チャーシューと麺いっぱい、ということらしい。
スープは醤油味。ちょっと濃いめ、しかしとてもオーソドックスでおいしい。
ざくざくしたネギの歯触りがいいですね。
あと、店員の方の挨拶がとても元気です。
京都滞在時間は4時間半ほどでとんぼ返り。
結局、今日は体調が特に悪くありませんでした。
おそらく、確かにたまっていた疲れと「動きたくなーい」という気持ちが昨日の変調をもたらしていたのでしょう。もう1、2週間は体を労りながら過ごそうっと。
■内田樹、岡田斗司夫FREEex『評価と贈与の経済学』徳間書店、2013年。
月曜の出張にひっかけて、今日は朝から泊まりで遠出をする予定でした。
新幹線なので本を1冊仕入れていこう、と昨晩買ったのがこれ。
ところが今朝、東京駅まで行ったところで全身が怠くなり断念。
あげく、急に無理な感じになったのであたふたとiPod Touchで予約取り消しの作業をしているうちにEX-ICカードを紛失するという負のおまけつき。
がっくりしながら家に帰って、一日ほぼベッドの中で過ごしました。
うとうとしては眠り、目覚めてはこれを読み進めているうちに終わってしまいました。
2回前の日記から書いてますが、ここ10日ほどの体調不良はいったいなんだろう。
しじゅう頭にもやがかかった感じ。ちょっとがんばるとズキンズキンとくる頭痛。あと、げっぷが多い時があります。眠る時間も短めになった気がする。でもすっと起きられない。
熱はないし、血圧も普通。最近特別ハードな生活だったというわけでもない。
去年後半からの疲労が出たかなという疑いを強くしています。
第2の可能性は、かまってちゃんの不定愁訴ごっこ。
そっちだと単に面倒くさい人なので、ここで書くだけにしとこっと。
で、本の内容はお二人の対談です。
人柄が資本よねって話。
弊管理人の場合、これくらいのことなら日常的に教えてくれる大人たちが周囲にいるというのは幸せなのかもしれない(弊日記にもぽつぽつご登場してます)。