◆ソール・クリプキ(黒崎宏訳)『ウィトゲンシュタインのパラドックス』筑摩書房、2022年
これね、本当は『哲学探究』を読んですぐアタックすべきだったのですが、怠けていました。なぜアメリカで読むことになったのかというと、気分?いや文庫で出たからか。なんでだっけ。
『探究』の「私的言語論」はそれまで言われていたように最後のほうで展開されていたのではなく、真ん中の138-242節で「規則に従うとはどういうことか」を扱いながら提示されたと読み(特に結論は202節に書いてある(p.16)のだという)、その部分をしつこく議論した本。原著は1982年。あまり前提知識を必要としない(実は)親切な本だが、込み入っていて根気が試されるということはあり、ミルクレープみたいにうっすい理解を重ねていくタイプの危うい弊管理人としてはまた読むとして、とりあえず、ほんととりあえず、のメモ。
そしてたまたまだが仕事でチョムスキーを扱うことになってしまい、「過去の有限の学習から得られた規則は将来の使用を決定できるか?」というウィトゲンシュタインの問題が、「限られた学習から無限の出力を可能にする言語の脳基盤って一体何だ?」という生成文法のお話にふんわり繋がる気がしつつ次の本に行くのでした。
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この本によく出てくる足し算の例示を「プラス/クワス」問題と言っておく。
「+(プラス)」を使った問題で「68+57は?」と言われると普通は「125」と答えるだろうが、懐疑論者に言わせると、ある人は「5」と答える。その人は、「x+y」のx,yが57より小さいときはプラスでいいが、大きい時はx+yは常に「5」である、という「クワス」という法則に従っていたという。その人は最初から「+(アディション)」をクワス(クワディション)として使っていたと言い張る。これまではx,yが57より小さかったので違いが顕在化していなかっただけだと。
訳者解説によると、こう。
規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから(『探究』201節)=有限個の事例からそれに妥当する唯一つの規則を読み取ることは不可能である=「規則読み取りの非一意性」(p.378、訳者解説)
われわれは計算規則を有限個の事例で習っている。同じく計算規則を有限個の事例で習った(「訓練」された)人が、全く違う規則を読み取ることも可能である。そして、その違った規則を読み取った人が誤っているということも言えないはずだ。=いかなる規則も、我々とは異なった仕方で把握されることが可能なのである=「規則把握の非一意性」(p.380、訳者解説)
すると、私が把握した規則Rは、本当は規則Rではなく規則Sなのかもしれない=「規則把握に関する懐疑論」(p.384、訳者解説)→計算結果の正しさには根拠/正当化がないことになる。規則「2n」などといっても何も表現しておらず、単にその名目の下で各人が行う具体的な計算に示されている
これでは規則というものの根拠がなくなってしまう。どのようにも言い抜けられるから。こういう懐疑的パラドックスに対してどう応答できるか?
この本では、『探究』の構成を3分割してこんなふうに捉えます。第1のパートは、前にウィトゲンシュタインが書いた『論理哲学論考』を自分で否定する部分。「私はプラスに従っているつもりだ」という内面に訴える解決に意味がないことを言う。
「それゆえ私は『探究』に、以下のような大まかな構造を与えようと思う。(…)第1節から第137節まででウィトゲンシュタインは、『論考』の言語理論について、予備的な論駁を与、そして、それに代わるべきものとしての新しい言語像を、大まかに描いている。…比較的明らかでないのは、第二の側面である。第二。懐疑的パラドックスは、『探究』の根本問題である。そしてもしウィトゲンシュタインが正しいならば、有意味な平叙文は事実に対応していなくてはならないのだ、という自然な前提に囚われている限り、我々はそのパラドックスを解く手掛は得られないのである。…意味している、とか、意図している、とかを誰かに認める命題は、それ自体無意味である、という結論――懐疑的パラドックスの結論――を導かざるを得ないから。」(pp.192-193)
こういう言い方もある。
「ウィトゲンシュタインにとって重要な問題は、私の現在の心の状態は、未来において私がなすべき事を決定するとは思われない、という事である。たとえ私は(今)、「プラス」という語に対応して頭の中にある或るものが、未来における如何なる新しい二つの数に対しても、ある一定の答えを与えるのだ、と感じているとしても、事実は、私の頭の中にある何ものも、そのような事はしないのである。」(p.143)
次がキモになる第2のパート。
「『探究』の第138節から第242節までにおいてウィトゲンシュタインは、懐疑的問題とそれの解決を取り扱っている。これらの諸節――『探究』の中心をなしている諸節――が、この本での主要な関心事であったのである。…ウィトゲンシュタインは、或る人が「これこれの事を意味している」とか、或る人の今の或る語の適用は彼が過去において「意味していた」事と「一致」している、とかいう言明を、或る条件の下で許す「言語ゲーム」の、我々の生活における有用な役割を見出しているのである。そして、結局、その役割とか、そのような条件とかは、共同体への言及を含むことになるのである。したがってそのような言明は、その人だけ孤立して考えられた一人の人間には、適用できない。かくして、既に述べたように、ウィトゲンシュタインは「私的言語」を第202節の段階で拒否しているのである。」(pp.195-196)
共同体がプレイする「言語ゲーム」による説明。
こういう説明も。
「アディションの概念をマスターしたと認められる人は、誰であれ、十分多くの問題――特に簡単な問題――において、彼が与えた個々の答えが共同体が与える答えと一致した時、(そして一致しないとしても、もし、彼の「間違った」答えが、「68+57」に対して「5」を与えるような、突飛な間違いではなく、たとえ「計算間違い」をしたとしても、我々と同じやり方をしていると思われた時、)その時はじめて共同体によって、アディションの概念をマスターしたと判断されるのである。そしてそのようなテストに合格した人は、アディションが出来る人としてその共同体に受け入れられ、また、その他の十分多くの場合において同様なテストに合格した人は、言語の一般水準の使い手として、かつ、その共同体の一員として、受け入れられるのである。違った答えを出す人は、訂正され、そして、(通常は子どもについてであるが)アディションの概念を把握していない、と言われる。もっとも、非常に多くの点において訂正不可能なほど共同体からずれている人は、その共同体の生活に、そしてその共同体におけるコミュニケーションに、参加することが出来ないことになるだけである。」(p.226)
まとめた部分もある。
私的言語論の要約(pp.262-263)
(1)我々の言語は、「痛み」「プラス」「赤」といった概念を著し、それを一度把握するとそれから先の全ての適用が決まると考えがちだ。しかし本当は、ある時に心の中にあるものが何であろうと、それを私が今後、別様に解釈することは自由である(「プラス」を「クワス」と解釈することはできてしまう)。これは未来は過去によって決定されるということに対するヒュームの懐疑と類似している
(2)パラドックスは、ヒュームの懐疑的解決によってのみ解決されうる。それは(i)彼はある与えられた規則に従っているという定言的言明と(ii)『もし彼がしかじかの規則に従っているならば、彼はこの場合かくかくの行動をせねばならない』という仮言的言明――これらが話の中にどうにゅうされる状況と、生活の中で果たす役割、有用性を見ないといけない
(3)個人の傾性は、その人が全く規則に従っていなくても、あるいは間違ったことをしていても確信を伴って存在できてしまう。ので、個人を共同体から分離して考察するのは適切ではない。(ii)の正当性が言えなくなる
(4)個人が共同体の中にいることを考慮に入れると、(i)(ii)の役割が明確になる
(5)(4)で述べたことがうまくいくというのは、生(なま)の経験的事実に基づく。(1)の懐疑論を踏まえると「私たちはみな同じ概念を共有している」からうまくいく、という説明ができなくなってしまうため
(6)ウィトゲンシュタインは、規則に従っている個人について語ることは全て、共同体の一員としての個人について語ることであることを示した、と思っている
この点ヒュームに明らかに似ているという指摘。
「…ウィトゲンシュタインもヒュームも、過去と未来を結ぶある種の結合に関する疑いに基づいて、ある懐疑的パラドックスを展開しているのである。ウィトゲンシュタインは、過去において「意図していたこと」あるいは「意味していたこと」と現在の実践の間の結合を、問題にしている。例えば、「プラス」に関して過去において私が「意図していたこと」と「68+57=125」という計算についての私の現在の計算の間の結合を、である。ヒュームは、相互に関連している他の二つの結合を、問題にしている。一つは因果的結合であり、それによって過去の事象は未来の事象を必然的なものにすると言われている。他の一つは、過去から未来への帰納的、推論的結合である。」(p.158)
訳者の説明はこういうことかな。
このパラドックスの解決は、「確かに論理的にはそうだが、現実の生活では無意味だ」と示すことであった。規則が行為の仕方を決定できないことをそのまま認めてしまっても現実的には不都合はない=「懐疑的解決」(p.391、訳者解説)。単にみんなの答えが一致するということ(一致が正しさの根拠だという共同体説と混同しないこと。各人がそれぞれ信念に従ってした計算の結果、みんなが結果的に一致する)=ヒューム懐疑論(必然的結合→恒常的連接)を論理や数学にまで徹底した人としてのウィトゲンシュタイン。事象の説明は不可能になり、ただ記述と予測のみになる。
もう一つ訳者解説。
私的言語は他人に理解することが論理的にできない言語(『探究』243節)としている。これは「規則の私的モデルprivate model」ともいえ、ウィトゲンシュタインはこれを否定する。私的モデルは、ある人が与えられた規則に従っているということは、その従っている人に関する事実によってのみ分析されるべきという考え方である。これを否定するのが、その人が共同体の一員であるということだ。もし我々が、ある島で人々と離れて暮らしているロビンソン・クルーソーが規則に従っているというなら、我々はクルーソーを我々の共同体に迎え入れ、我々の基準を適用しているということ。彼がある規則に従っているといい得るのは、我々の共同体の各成員に適用される規則に従っていると認められた時であって、それを言うのは共同体である。ただし、「プラス」で意味する関数の値は、言語共同体の誰もが答えとするであろう値だ、という真理条件の理論のことではない。(p.269)
68+57の答えは、共同体の成員のほとんどが125と答えるときだ、ということではない。自動的に計算し、共同体ははずれた計算を正すことができ、はずれは実際はまれだということ=言明可能性条件の理論。
ちょっと脇だが、「傾性」に訴える解決を封じておく。
傾性論的解決=もし「68+57」の「+」がアディション(あの!足し算)を意味するなら、私は125と答えるだろう、という記述的な解決。しかし問題は記述ではなく規範(125と答えるべき)である。で、これはそもそもの「5」ではなく「125」と答えることに何の正当性もないのではないかという懐疑論への解決として的外れである(「べきである」根拠を示せてない?)(pp.96-97)
第3のパートは追加説明といってもいいのだろうか。
「『探究』の第243節に続く諸節――「私的言語論」と一般に呼ばれている諸節――は、第138節から第242節の諸節において引き出された、言語に関する一般的結論を、感覚の問題に適用する事を扱っている。」(p.196)こういう言語ゲーム論にそぐわないように見えるのが(1)数学と(2)感覚、あるいは心的イメージなので、これは反例にならないということを説得しようとしたと思われる。(2)感覚や心的イメージはこの節で扱い、(1)数学は『数学の基礎に関する考察』などで扱っている。
ところで、私的言語と内面のことで書かれた注釈がちょっと面白かったので抜き出しておきます。
「…『探究』の前の方ではウィトゲンシュタインは、意味している、とか、理解している、という事を、内的にして質的な状態であると考える伝統的な見方を、排斥している。しかし後には彼は、リースが言うように、それでは、古典的な見方をあまりにも機械的な見方によって置き換えてしまう、という危険を冒しているのではないか、という事に悩まされていたように見える。もっとも彼はたしかに依然として、ある質的経験が、ある意味を持って語を使用するという事を構成しているのである、という如何なる考えをも排斥しているが。しからば、我々と全く同様に語を操る「意味盲」の人はあり得るのか。そして、もしあり得るとすれば、我々は、彼は我々と同様に言語をマスターしている、と言うであろうあ。この第二の問題に対するこの本の本文で与えられている表向きの答えは「イエス」である。しかしおそらく、ほんとの答えは、『君が当該の事柄について色々と知っている以上、一体その外に何を欲しているのか、言ってくれ』というものであろう。この問題がウィトゲンシュタインにおいて完全に解消されたか否かは、明らかでない。」(pp.123-124)
生成AIの時代に「分かる」って何だろうねという問題、AIをロボットにつなげて感覚入力をすると何が起きるのかねという問題につながる気がする。これはまた。