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2019年12月 アーカイブ

2019年12月31日

スキャン

引っ越し準備でクローゼットの荷物を整理しておりまして、中学~大学時代の荷物が段ボール2箱あったのを1箱に圧縮しました。どうやったかというと、ドキュメントスキャナで高校時代の絵日記(ノート10冊)、中高のころに入っていた/主宰していたアニメサークルの会誌などを一気に電子化しました。積むと1m近く。結構時間がかかりました。

それで気付いたのですが、中3のどこかで少し、また高2の初めくらいにもう一段、文章と絵が上手くなってます。
なんとなく文章は借り物感が少なくなるとともに、やたら難しい漢字を頑張って使わなくなります。絵は線の流れが制御され、「一枚絵」としての収まり=デザイン性みたいなものを意識するようになった様子。特に高2以降は線が極めて細かくなった。
字は高2段階で今の筆跡にかなり近くなっていました。ついでに成績もその頃から上がってた。どうもこの辺で大人に近づいたみたいです。

いずれにせよ、他人に見られてはいけないものばかりでした。
卒業文集がアレなのと合わせ、暴露を恐れて悪を為せない人生です。

* * *

そして本とCDを3箱分、ドナドナすることにしました。
前の引っ越しでも結構処分したんだけどな。
「本を捨ててはならん」というのが父の教えですが、「この本は時間の経過に耐えられない」というやつもあるんです。

* * *

レーザープリンタも捨てました。プリントはコンビニできれいにできるご時世。というか、そもそも仕事以外でプリントすることがほぼなくなった。カーシェアなんか典型的にそうですが「サービスを利用すればよく、所有するほどではない」ものになった。

* * *

持ち物のスリム化とは関係ありませんが、60Hz圏に引っ越すため、50Hz仕様だった1999年製の電子レンジをとうとう捨てまして、フラットテーブルかつヘルツフリーの新しい単機能レンジを仕入れました。快調。単機能なのはトースターを買ってオーブン機能が完全に必要なくなったため。

* * *

室内作業が多かったので、お若い友人と「赤坂うまや」でランチ。そのあとオーバーオールが買いたいという奇特な友人の付き添いでルミネエストに行きました。

2019年12月28日

カキとまとめ

「かつれつ四谷たけだ」
10-4月のカキバター定食。11:30に並んで一歩遅れたか、と思ったものの1時間で入れました。
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んも~~~めっちゃうまい。うまみが~~~
カニコロ追加、ご飯を大盛りにしてちょいがけカレー。こちらもああああああ
年末をカキで締めると幸せ度高いです。

* * *

いやまあこれから仕事なんですけど、とりあえず。

1月 友達3人での伊豆旅行よかった。しかしカメラにそばつゆぶっかけたの痛恨
2月 会津ほんとによかった。ご飯もお酒もおいしかった
3月 職場で怪メールが回ってわろた
4月 今年も京都・原谷苑のお花見に参加できた
5月 宮古島、大変休まった
6月 ちょっといい仲になった人と南房旅行(その後ブロックされた)
7月 喉いためた。なんか今年よく喉やった気がする
8月 函館行ったり日光の川で遊んだりした
9月 暗黒
10月 暗黒
11月 暗黒と転勤決定
12月 暗黒から抜けて宮崎旅行で喉が回復して肌の調子が良くなった

暗黒が長かったですが、それでも職場のサポートは厚く(手間が増えるだけの容喙もあったが)、アウトプットには特に文句もつかなかったようで、最後はふわりと着地できた感。
初夏にシベリアに行きたかったのにタイミングを失して行けなかったのが残念でした。
「これ読んでよかった」と印象に残る本があまりなかったのもちょっと。

SNSはほぼ見るだけにし、ミュートを駆使していらいらしてる人がなるべく視界に入らないようにしたのはよかった。
依然いらいらしてる人たちに関しては「ようやるね」と思いますが、それ以上踏み込んでも損した気分になるだけなので踏み込まない。そうしてるうちに気にもならなくなります。
リアルでも「この人やばい」という人とはなるべく距離を取り、味方してくれる人と仲良くするに限ります。やばい人は滑稽でもあるので思わず何か言ってしまいそうになるけれど、まあ結果いいことはないわな。万一冒険に出る時は、出るつもりで出ること。
まとめると基本、努めてご機嫌でいるのが健康の秘訣だと思いました。

あの人が定年、あの人は管理職になれるかどうかの瀬戸際の年齢、などと聞いては驚いていましたが、全然ヤングだと思っていた自分が40代も3年目になってるくらいなので、上はそりゃあもっと先がないわけだ。しかしおじさんだということは理解しつつ、ヤング気分が抜けないままもうしばらく行きそうな気配です。

* * *

弊管理人が2月に転勤になるという偉い人会議の報告を意外と多くの人が見たらしく(当人が見てないのに、というか人事ってそんな気になる?)、「壮行会を」的なお誘いをたくさんいただきました。
これまでは「別に会社かわるわけでもなし」くらいの感覚でいたのですが、「行く前に一杯」が重なるにつれて「えっこれってお別れなの?そうなの?」と思われてきました。できるだけお断りしていこうと思います。

* * *

■ジョージ・オーウェル(山形浩生訳)『動物農場』早川書房、2017年。

■石田英敬、東浩紀『新記号論』ゲンロン、2019年。

2019年12月21日

宮崎にマイル

心身と社会関係が損耗した仕事は12月第2週に終わることが確定していたので、11月半ばの時点で、中途半端に余っていたJALのマイルにイオンカードのポイントからちょっと足して「どこかにマイル」を買ってありました。行き先は宮崎。行かされないと行かない場所です。

結論からいうと、
・温泉4回入っておっそろしくニンニクが入ったラーメンとか食べてるうちに喉が治った
・宮崎は特段目指して行くところではないが行ってみると住みよさそうなところだった
・海岸線が長くてドライブがめちゃ気持ちよかった
・すごくリフレッシュできた

* * *

【1日目】
とりあえず社内の宮崎勤務経験者に「うまいよ」と言われた「グリル爛漫」でチキン南蛮を一発キメました。確かに柔らかくておいしかったです。
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車を借りて高原町に行ったらトトロがいた。後ろは高千穂峰。計画段階では登ることも考えましたが、やめました。
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湯之元温泉の炭酸泉はとても気持ちよかった。
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宮崎の中心街に投宿。
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辛麺食べました。卵とニラと、何より恐ろしい量のニンニクが入っていて、普段は臭くない弊管理人の屁が2日間にわたってすごい臭いになりました。でも弊管理人は、名古屋の辛いだけの台湾ラーメンと違ってこういう味のあるヌードルスープ大好きです。
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やたら神々推し。なんか巨大ではないけどしっかりした繁華街があるし、そのわりには街中でも空気おいしいし、人はいるけどぶつからない程度にまばらだし、で妙に「なじむわー」と思って人口を調べたら、弊管理人が幼稚園から高校まで住んでた某県庁所在地よりちょっと多い40万人でした。
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【2日目】
宮崎市に2泊して、3日間を西、南、北に使おうと思っていました。今日は南。レンタカーは1日借りて3300円(ゴールド免許割引で500円引いてもらってこうなった)。やっす。
青島神社。「鬼の洗濯板」と呼ばれる砂岩と泥岩の堆積したものが隆起してできた地形。
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このあたり、鬼の洗濯板がいっぱいあります。上から見るとこんな感じ。道の駅フェニックスです。
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フェニックスは多分これ。
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そういえばバスで空港を出るとヤシ並木で南国気分いっぱいですが、新婚旅行ブームというのがあったらしい1960年代に植えたもので、高くなって管理が大変になったので植え替えが進んでいるようです。
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次、岩窟の中にある鵜戸神宮。
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「運」と書かれた石を5個100円で買って、崖の下にある「亀岩」とかいう岩の縄で囲ってあるところに向かって投げ、そこに入ると願いが叶うというゲーム。
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男は左手で投げるんですけど、弊管理人は左利きなので抜群のコントロールを発揮し、1投目で入りました。願いを考えてなかったのでとりあえず「平穏無事」を願っておきました。ちなみに縄の中に入った石は縁起グッズとして300円で売られていました。がめついな。
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引きで見るとこんなとこ。
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気をよくして「港の駅めいつ」でカツオ定食、1500円。醤油と塩だれのカツオを自分で焼く。安くない?当然うまい。おなかいっぱいです。
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都井岬に行ったら野良馬がいっぱいいました。ここって自然保護に400円、灯台に登るのに200円、あとビジターセンターも有料、とちょいちょい集金しますね。
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海辺のドライブ、とても気持ちよかったです。
おやつの時間に油津でパンケーキ食ったらがっつり夕飯が食えない感じに。夜は宮崎市の繁華街に戻って「幸魚」で佐賀のお酒とアラカルトのお料理を注文してつまみました。焼きガキと、かき揚げ(写真)、あと穴子のフライ。お通しからして最&高。
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ホテルに帰りしな、肉巻きおにぎりを1個(330円)買って部屋で食べました。「かば焼きさん太郎」の匂いがしました。
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【3日目】
北へ行く日。神社2つとクルスの海、それぞれふーんと言いながら雑に観光。
これは馬ケ背です。柱状節理がきれい。
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高さがあるのですごい見応えあります。インバウンドさんが結構いました。
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帰りましょう。高速の川南PAで売ってた鯖寿司300円、めちゃうま。
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宮崎市に戻って極楽湯で温泉に浸かって空港に向かいました。
デトックスできた。ほわーっと暖かくて素敵なところでした。
高千穂峡は熊本から行った方が楽らしいので、また今度。

* * *

ついでに先週のこと。

経堂のガラムマサラでランチ、
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うまい。

そんでリニューアルした岡本太郎美術館を見て帰りました。

2019年12月14日

全生園

2月に大阪転勤になりまして、いまのうち東京で行っとくべきところに、

というわけではないのですけど、東村山にある国立療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)と、敷地内にある国立ハンセン病資料館に行ってきました。
ハンセン病の問題って視界の端でちらちら見えていただけでちゃんと勉強したことがなかったので、ガイドツアーがある日を狙って。以下、弊管理人の理解したストーリー。
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ハンセン病は「らい菌」という細菌による感染症で、末梢神経が障害されて汗が出なくなったり、手足の感覚がなくなったりする病気です。皮膚が冒されることもあります。

古くは日本書紀に「白癩(びゃくらい)」として登場します。進行すると体の変形を伴うためスティグマ性の強い病気で、仏罰、穢れ、血筋などさまざまな説明がされてきました。1897年にノルウェーの医師、ハンセンが細菌感染症であることを突き止め、「隔離が最適である」と提唱します。

それまで差別から放浪を強いられていた患者に対して「細菌学」と「文明国としての体面」から隔離措置が行われることになります。ただ、先駆けは宗教者による「救済」としての活動で、国立の療養所より早く私立の療養所ができています。それが1889年の静岡県・神山復生病院(こうやまふくせいびょういん)。多磨全生園は1909年、全生病院(こちらはなぜか「ぜんせい」と読むらしい)として設立されています。

1920年ごろからは感染症の脅威が煽られ、隔離も強化されます。患者・家族はあらゆる手段で治療をしようとし、遍路や民間療法も盛んに行われた。
1931年、癩予防法で全患者を療養所に集める施策(絶対隔離)が始まります。
1930年代には「らいの根絶」が目指され、密告で警察官や医者が患者の家を訪問し、近所に知れ渡るようになって療養所に行かざるを得なくなる、といったケースもあった。
太平洋戦争中には「健全」がモットーとなり、病者に対する風当たりがさらに強くなります。

一度入ると退所ができない終生隔離のため、療養所には社会生活に必要とされるさまざまな機能が集められます。本格的な映写機、消防、学校、神社。文芸や絵画に親しみ創作する人がおり、歌舞伎もやられていた。懲罰の権限が所長に与えられ、所内に通用する金券が発行されていました。つまり、設備が本格的になるほど、出られなさが際立つということ。
一方、療養所への定着が促進されるとして結婚は許容されましたが、子育てができない環境のため断種が行われます。
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1950年代になると、患者から癩予防法の改正運動が起こります。求めたのは患者に課された作業(労働)の廃止、患者同士ではなく職員による看護と介護、生活費の保障など。

しかし、1953年に癩予防法が改正されて「らい予防法」になり、退所規定のない強制隔離が定められます。

対照的に、当時は米国の占領下だった沖縄では世界のスタンダードに合わせ、1960年代、既に通院治療と軽快退所が可能になっていました。
もともと飛沫感染するものの感染力は弱い菌で、衛生状態が改善すると感染、発症そのものがなくなっていきます(最近の国内発症は年0~数人)。しかも1940年代に治療薬「プロミン」が登場し、治せる病気になっていたため、世界の趨勢は地域での療養に移行しつつあったのでした。※学芸員さんによると、現在は多剤併用療法によって耐性菌の問題も解消しているとのこと。

らい予防法の廃止は1996年まで待たなければなりません(このときの厚生大臣は菅直人)。2001年(小泉政権)には熊本地裁で争われていた「らい予防法」違憲訴訟で、「遅くとも1960年までに特別な疾患ではなくなっていた」とされ、原告が勝訴します。国は、国会議員の立法責任まで認めた判決には重大な問題があるとしながら、早期・前面解決を急ぐため控訴を断念します。2008年には、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」ができました。
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資料館の学芸員さんを捕まえて聞いたところ、いま、療養所の入所者の平均年齢は86歳。最も若い人の年代はうろ覚えでしたが多分60代だそうです。強制隔離が終わったのは公式には法律が廃止された1996年ですが、実際は1970年代くらいからは届けを出して買い物に行くなど、「外に出る」ということはしやすくなっていた。

もちろん軽快して外で生活する人もいるし、いったん出ても再入所する人もいる。その理由も「一度社会や家族と切れて入所していて、外に戻っても生活がままならない」「中に戻って運動をしていきたい」などいろいろとのこと。

展示にあったグラフを読むと、全国の入所者のピークは1955年ごろで、11000人くらい。で、それが今年の5月1日現在で1215人。多磨は160人くらいと言っていたかな。
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所内の道路には白線が引かれています(ただし上の写真は普通にセンターライン)。目が不自由になった人のガイドだそう。さらに、歩いていると鳥の声がスピーカーから流されているのに気付きます。これも「盲導鈴」という移動を助ける設備。

キリスト教会、日蓮宗や浄土真宗の施設が集まった一角もありました。かつては入所者はここで一生を終えることになっていたため、葬式をどの形式で出すかという問題があり、入所の際には宗派を聞いていたそうです。
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特に目に重い後遺症を持った人たちの親睦団体「盲人会」は、多磨では今年、99歳の方(会長さんと言っていたか)が亡くなって現在2人。

小高い築山「望郷の丘」、8メートルくらいか。昭和初期にできたらしい。ここに登って、戻れない故郷の方向を見たとのこと。
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もちろん現在進行形の問題ではあるのでしょうが、それでも「歴史」を見たという印象。
ただし、2009年の新型インフルエンザ、2014年のエボラ出血熱パニックなど、感染症に対する社会の恐怖感と反応はやっぱり変わっていないという気もします。
結局、新フルは感染力は強かったものの病原性はそれほどでもなかった。エボラの「致死率90%」は発生地の埋葬習慣や医療提供体制という社会的な要因が大きく、おそらく適切に治療した時の致死率はもっとずっと低いことが分かってきている。何より日本にも致死率30%とむちゃくちゃ高いSFTSというダニのウイルスがいるのに、あまりそちらは知られてない。それでも病気の「制圧」を掲げ、煽り、隔離し、消毒する。それは実際のリスクとはあまり関係のない「当座の安心」のための反応だったのではないか。

外(左)と中(右)を隔てる敷地境界の森はまだ深くて高かったです。
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群馬県にある「重監房資料館」と、岡山県の「長島愛生園」に行くのが次の目標かな。
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所内の食堂でカツカレーを頼みましたが、肉がぺらっぺらでした。

2019年12月11日

おわた

【6日】
喉、回復の兆し。咳によって疲労と恐らく荒れが進むので咳止めを飲むのがよいらしい。
【7日】
限局された違和感があるものの、かなり回復。痰を出すのにあまり力まないようにしている。

【8~9日】
声戻る。

【10日】
咳は残っている。

* * *

で、8月から弊管理人の心身および社会関係を蝕んできた仕事が、大きくこけることなく大体終わりました。
まあいろいろ勉強にはなったがよかったかというとよくはない。
緩やかだが明確にライフステージが変わっていくことを感じる後厄後半です。

* * *

■宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』新潮社、2019年。

久しぶりに会社の図書室的なところからかっさらってきた本。
見逃されがちな境界的な知的障害と非行との関連&どうすればいいかという話。著者は医療少年院での勤務経験のある精神科医で立命館大教授。

「少年院の非行少年の中にもいました。少年院で教官の先生から注意や指導を受けると、『僕は褒められて伸びるタイプなのに』と泣きながら言い訳をしたりする少年が。きっと親からそう言われてきたのでしょうが、その結果が少年院です。」(p.123)

「もしその受刑者の中の一人でも健全な納税者に変えられたなら、大きな経済効果があります。…いかに犯罪者を減らすことが日本の国力を上げるために重要か、お分かり頂けるかと思います。」(p。179)

など、ざわっとする表現が随所に。

2019年12月05日

現代美術史

咳とガラガラ声が遷延してます。久しぶりに咳で目が覚めた日があって、咳止めを飲んで寝るようになりました。
これは早めに抗生物質をキメるのがいいパターンだったかもしれない。

* * *

著者若いな-(1986年生まれ)。
若干羅列的な印象ですが、大量のキーワードを位置づけるにはよいと思う。

■山本浩貴『現代美術史』中央公論新社、2019年。

【はじめに】
・1960s コンセプチュアル・アート:作品の物質性(色、形、素材など)<思想性
・メディウムの多様化:
  1970s~のインスタレーション=配置した空間そのものが作品
  プロジェクション・マッピング
・プロセス:
  2000s~ アート・プロジェクト
・反ギャラリー/美術館
  1950s 美術館は芸術作品の「墓場」(アドルノ)
  1960s コマーシャリズムの横行←→前衛(フルクサスなど)
  2000s ソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA):公共空間での芸術実践

【前史】
・アーツ・アンド・クラフツ
 ラスキン&モリス@イギリス、19C後半
 工業化、資本主義への対抗としての伝統的な手仕事の復興、協働
・民芸
 柳宗悦、1920s~。アーツ・アンド・クラフツの影響
 ただしモリス商会のステンドグラスのような「美術的工芸」には批判的
 自然中心的「民衆的工芸」を対置する
 朝鮮の陶器や焼き物、台湾の竹細工や織物に関心、植民地主義への反発も
 ただし、朝鮮や沖縄の周縁化=オリエンタリズムも
・ダダ
 ツァラら@1910s~、ヨーロッパ
 破壊と否定、強烈さ、無意味、反科学的理性・反進歩史観
 「偶然性」の取り入れ
 →後継はシュルレアリスム(フロイトの影響)、レトリスム(言語の解体)
・マヴォ
 「戦前日本のダダ」、村山知義ら
 関東大震災後のバラックに装飾を施す「バラック・プロジェクト」、近代化批判

【欧米】
1960s~
・芸術の自立性・モダニズムへの反発
 フルクサス(マチューナス、1962)「何でもアート、誰でもアート」
 日常と芸術の壁を取り払う。オノ・ヨーコ、武満徹、一柳慧らも
 (←→天賦の才を持った芸術家による芸術という営為)
・ランド・アート
 グリーンバーグ:○アヴァンギャルドvs×キッチュ、フォーマリズム←→内容重視
 フリードのミニマリズム批判(鑑賞者による介入を求める不完全芸術として)
 ←これらは芸術の自立性を信奉していた
 ←→スミッソンの屋外彫刻など、場所を利用したサイト・スペシフィック・アート
・コンセプチュアル・アート
 美術制度批判、脱美術館(エリート主義、ブルジョワ文化批判)
・芸術労働者連合=芸術生産に対する正統な対価、両性の平等な表象
・パブリック・アート
 公共空間への芸術作品設置
 パブリック・プロジェクションなど
・ハプニング
 パフォーマンス、ゲリラ的展示など
 ←ポロック(アクション・ペイント)やケージ(イヴェント)の影響
・シチュアショニスト・インターナショナル
 芸術と政治の架橋
 「状況の構築」=反体制闘争を可能にする空間を都市に作り出す
 ドゥボール『スペクタクルの社会』(1967)の資本主義批判→五月革命へ
 「漂流」と「転用」

1990s~
・特定の名前を持った潮流が見つけにくくなる(メディウム、アプローチの多様化)
・リレーショナル・アート
 ブリオー『関係性の美学』
 鑑賞者の介入を求める作品。作品は見られるだけでなく社会性を創出する
・ソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)
 作品を通じた社会問題へのアプローチ
 ビショップ←シャンタル・ムフの闘技的多元主義
 参加型アート
・コミュニティ・アート
 集合的創造、特権的な芸術家=個人的創造性への懐疑
 アート・アクティビズム

【日本】
1960-80s
・前史:アンフォルメル絵画、読売アンデパンダン展、批評誌の創刊
・九州派
 地方発の前衛。俣野衛
・大阪の「具体美術協会」
 吉原治良
 芸術の脱神秘化、日常のモノへの回帰
 オリジナルとグローバル化
・名古屋発の「万博破壊共闘派」
 テクノロジー、近代的管理への批判
・ハイレッド・センター
 計画的反芸術
 赤瀬川原平→ネオダダ
 共同性志向
・もの派
 自然素材、日常素材の使用、ミニマルな加工で展示する
・美術家共闘会議
 美術権力(国立美術館など)、表現の中央集権(日展など)の粉砕
・ダムタイプ
 京都、領域横断的

1990s~
・「潮流」からアーティストの緩やかな集合体へ←ポストモダニズム
・シミュレーショニズム
 ボードリヤールの影響
 村上隆
 再現芸術
・アート・プロジェクト
 アート・フェスティバル
・3.11以降

【トランスナショナル】
・ブリティッシュ・ブラック・アート
・移民、女性、右傾化、黒人、帝国主義、在日コリアン、韓国、沖縄、台湾
・未来派とファシズム、ポール・ヴィリリオ『速度と政治』
・リーフェンシュタールとナチズム、ソンタグの批判
・戦争画

2019年12月02日

また喉

今年3回目、また喉をやりました。
今回は熱はなく、声が潰れ、倦怠感あり。
倦怠感は9月からずっとなので混ざっただけっぽい。

今回は自宅近くのクリニックで
・カロナール(解熱鎮痛)
・トラネキサム酸(消炎)
・アズノールといううがい薬
・トローチ
を出してもらいました。つまり、特異的な治療はないよっちゅうことか。
うがい薬、正直どうなのかねえという気はしていましたが、初めて出されたアズノールは意外にも良い感じです。声は戻ってこないけど痛みは一晩でだいぶ引きました。

あと、11月初めくらいにちんこの雁下のあたりに痼りみたいのができ、ギャアと言って泌尿器科に行ったら「前立腺炎でリンパが鬱滞しているのであろう」との見立てでセルニルトンという薬を出されました。「ずっと座りっぱなしだったり、自転車に長い時間乗ったりしてない?」はい前者です。たぶん総合的な体調悪化と相俟って現れた症状でありましょう。

薬、飲んでますがすこーしずつ良くなってます。2回目受診したら「1ヶ月分の薬を出しておくので、その間に良くなったらもう来なくていい」とのことでした。そして性病は検査で否定されました。まあそうだろう。

ということで薬漬けです。後厄も押し詰まって総決算でいろいろ来てると思うと納得も行くというもの(発想の転倒)。

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