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2015年05月 アーカイブ

2015年05月24日

らいむらいと

わざわざ出掛けていくほどではないのだけど、市ヶ谷で昼に終わる仕事があったので寄ってみました。
「らいむらいと」でチーズハンバーグ。
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週末の昼に予定していた会食の下見のつもりでした。
にんにくとバターの香りが際立つソースがとても印象的です。
しかしそのせいか、肉のことはあまり思い出せない。
(結局、ここに何か不満があったわけではありませんが、会食は別のところに行きました)

* * *

CDレシーバーの音がまた向上したような気がします。
ほんと?慣れただけ?
でも聞いてるのはほとんどがAMラジオ。

* * *

弊管理人はお風呂に入らないでいると、鉄板焼き屋に行ってきたようなおいしい匂いが体からしてくるらしいです。
ほんとか?

* * *

さる大御所との仕事があって、あちらが指定した時刻、あちらが指定した時間できっちり終えたのに、あとになって「ある不都合を思い出したので、アウトプットを半月以上待ってほしい」と連絡がきました。
その理由はここには書けないが、まあそれは無理筋ですねというもの。
「それで不都合が出たら恨みます」「以後の対応ができなくなるかもしれない」とも。

既に弊管理人は先日この担当を外れており、もう別におつきあいしていただかなくていいのですが、それを理由に一蹴するのも気が引けたので「上に話してみますが、確約はできません。それから、期日を指定したのはそちらなので私に落ち度はありません」と話して電話を切りました。

この土日は諸調整と先方の不利益をせめて小さくする方策をあれこれ考えるために出社し、それは自主的な出社だったのですが、弊管理人は結果、徐々に怒りをためつつあります。何でこんな不要な苦労をしておるのかと。
既にこの対応のため、金曜に是非行っておきたかった行事をぶっちすることになってしまいました。他のたまってる仕事をさばくパワーまで殺がれてはたまらないので、早急にこの件を終わりにしたいと思っています。

2015年05月17日

ガパオ&ソフト

かたじけなくもお誘いをいただき、3年ぶりに代々木のタイフェスに行ってきました。
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今年もすごい人。そしていいお天気。
ジャスミンタイのガパオは辛くておいしかった。

ついでに渋谷区役所近くの「白一」まで行って、ソフトクリームをいただきました。
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この不安定な構造物が倒れないかハラハラしながら撮ったら、ピントが思いっきり後ろにいってしまった(>_<
でもソフトはシャリシャリしてて、とてもうまかったです。
いろんな人を連れてまた行きたい。でもなかなか行かない地域なのが残念。

真っ昼間に外をずっと歩いてると右目から涙が出ます。
眼鏡はUVカットのはずなんだけど、眩しさのせいだろうか。サングラス使わなきゃかな。

2015年05月16日

わたしは

■鹿島茂他編著『シャルリ・エブド事件を考える』白水社,2015年.

1月にフランスで起きたシャルリ・エブド事件について、3月に出版されたこの冊子を寝床で数ページずつ読みながらからぐねぐね考えているうちに、5月になって米国でもパロディみたいな事件が起きました。
整理できてませんが、こういう時はクエスチョンを自分で立てて自分で答えるのがいいのかもしれない。
ということで、以下は弊管理人が考えたこと、バージョン1.0です。一応、思ったことに理由も付けるよう努めました。2、3の原則を膨らませているだけですが。
練習問題は絶えず世界から与えられているので、今後も考える叩き台にしようかなと思ってます。

* * *

―今般の出版社襲撃は許容されるか?

「成員を殺したり傷つけたりしちゃだめ(刑罰は除く)」というルールを共有している集団の中で起きたことなので当然許容されない。襲撃犯をとっつかまえて処罰する、という作業が国家に求められるだけの話。

―道義的に許容されるかどうかって話は?

テロの口実に使っただけなら、真意がどこにあるか分からないので道義的な面でどうかという検討ができない。ので、問題はルールに照らしてどうかという面だけから考えることになるんじゃないか。
その結果は上で言ったように「許容されない」。

―背景にはフランスのマイノリティが置かれた状況が……

マクロな状況は個別のケースの説明に使っちゃだめじゃない?どれくらいの影響を与えたかとか言えないでしょう。当の本人の生い立ちがひどいとかの情状があるなら、それを酌めばいいと思う。
ただ、個別のケースに触発されて何らかの社会問題の存在に思いを馳せるのはありだと思うけど。

―今回の話についての判断はそれで終わり、つうことかしら。

終わりじゃないかな。

―じゃあ仮にの話。犯人が本当に気分を害していたとしてそれは考慮されるべきか。もっというと「嫌なこと言われたら暴力ふるっていい」という考えはアリか。

それはナシ。一般に、言論に対して暴力で応じると言論が多様にならない。多様にならないといいアイディアが出てくる機会が少なくなる。(多様さを抑えてもハッピーが増すようなルールがあるとかなら要再検討だけど)
今回はありえないが、経済的な制裁とかの別の圧力もだめだと思う。相手がものを言うための力を殺ぐ点では変わらないから。

―嫌な思いをした人はどう抵抗すればよかった?

抵抗するなら「言論には言論」というのがルール、ということでさしあたりいいと思う。
「黙殺」という手もあるが、それが有効なのは嫌な思いをした側のほうが強い場合。あるいは言ってる側がごく少数で、言われてるほうが多数の場合。
ただちょっと余計なお世話だが、黙殺が有効でも、黙殺してるうちに相手がのさばって自分の立場を危うくする可能性があるので、誰も何も言わなければ自分で言ったほうがいいこともある。

―すごく大切にしている価値を言論でくさされた場合でも言論で抗議しなきゃだめなのかね。

言論の多様性という根本的な価値に照らすとやっぱりだめで、「あんたの言ってることは合理的でない/道徳的でない/美しくない(つまらない)」のいずれかを言うってもんなんでしょう。

―フランス人から日本人が出っ歯のサルとして描かれたとしても?

同じで、フランスの歴史や文化や国民をくさす下品な絵を返すか、オリエンタリズムがうんぬんとか言ってみるか、「凡庸ですね」と言ってみるとか、まあそんな。
ただ、日本人がどう描かれるかという話を離れるけど、英国の王族の名前を動物園のサルにつけてみた騒動というのがあったときに思ったのは、相手がどういうコンテクストでそういう表現をしたかは考える必要があるということ。理由は、単純に自分の価値体系だけを参照して判断を下していると、自分の価値体系がもっと原理的な水準で間違っていた場合に、その発見が遅れるから。
たとえば、表現の害を判断する原理には(1)表現した側に他者を貶める意思がある(2)表現された側が貶められたと感じる(3)一般的に通用する価値観に照らしてダメ―という3つがあって、(2)or(3)だけで十分とする厳格な姿勢と、(1)+[(2)or(3)]を必要とする緩めな姿勢があるとする。
表現した側のコンテクストを探ってみたら、表現した側の文化では許容される表現だったとか、悪意に当たらない表現であったとかならば、望ましくはないが「放っておく」という選択肢が浮上するかもしれない。悪意がないなら、継続的に表現された側を害する可能性は低まるから。
そんな忖度ゲームに乗る気はない、というのも一つの立場だが、その立場が支配する世界に生きていると、自分の側のうっかりも一発アウトになるので危なっかしい(自分のわがままだけが通るという世界は最初から想定してない、念のため)。人間をどういうものと考えるかで意見は分かれるが、賢い人だけの世界に生きているのでなければ、「相手のコンテクストも考える」はルールに入れておいたほうがいい。
悪意がないものを放置しているとハラスメント(表現する側に悪意がなかった”としても”成立する嫌がらせ)が改善されないという問題も生じうるので、(2)or(3)だけでアウトにする厳しい姿勢をもって「悪意がないのは分かるが嫌だ」と発信するという考え方もある。特に習慣化されている場合は害が継続する可能性が高いから。しかしちょっと後でも触れるけど、表現規制には慎重になる必要がある。「嫌だ」と思っている側が正しいとは限らないからというのがその理由。

―暴力その他の圧力で喋れなくするのは明らかにダメだとしても、がーっと何か言われて反論する気がそがれることだってあるんじゃない?それも多様性を損なうと思うけど。

あるでしょうね。「言われたら言い返せる鼻っ柱の強い個人になれ」というのは、かなり高い要求だと思う。
でもそれを理由にして何か言う自由を制限できるかなあ。できない気がする。
そういうアリーナに入場しない、というのはうまい手なんですよ。弊管理人もそういうふうに生きたい。けど、ニッチで息を潜めていても、息をしている限りは何かの拍子に見つかって矢を射かけられることはあるからね。
傾向として、声を出さない人の領域はどんどん声を出す人に侵されていくので、嫌であってもアリーナに出て行って頑張ったり備えたりする必要はあるんだろう。「頑張るべき」というのは弊管理人の好みには反するが、その好みは今のところ正当化できない。
自分で戦うのが無理なら鼻っ柱の強い代弁者に依頼するという手はあるが、資力(あるいは広い意味でのリソース)がなくて難しい場合もある。頼んでないのに勝手に代弁してくれる人も現れそうだが、そういうチャンスに頼るのはいかにも不安。
うまい解決法が思いつかない。

―結局、言論の内容に制約はないということ?

言論の自由を制限すると言論の多様さを損なうので原則としてはしないほうがいい。
でも、直接的で重大な影響を相手に及ぼすものはダメ、でいいと思う。
理由は、そういう侵害を相互に認めていると言論の自由というルールを支えている共同性が荒れてくるから。
ただし、制限は必要最小限であるべき。
それ以上細かい判断はケースバイケースになるしかない気がする。

―共同体の構成員以外は侵害していいのか?

いいも悪いもなく、やりたいならやれば?暴力で仕返しされるかもだけど、という話。
こちら側にも暴力を用意した上でやらないと危なっかしいなとは思うけど。
ただその人たちは、本当に共同体の外にいるのか、共同体に入り得ないのかはちゃんとチェックしたほうがいい。

―風刺画って方法はどうなの。いろんな国で問題になったけど。

風刺画も韜晦な小説もそうだけど、制作者がどんな思いを込めようが、読み取りにくい表現をすると、間違って読み取られる可能性が高くなる。それで読み取れないほうがバカ、という了解が通用する範囲はそう広くないと思う。
シャルリ・エブドの場合はそういうメディアを使った時点で、普遍性のあるメッセージを出そうというつもりはないなと思われるだろう。文化を超えて遠くに届く批評を目指すには、メディアの選択が変だった。分からせたいなら分かるように言うべき。コミュニケーションは発する側と受け取る側が両方で作るものだから。
でもそういう質の問題は「直接的で重大な影響」を及ぼすといえるか。いえないと思う。であれば規制の理由にはならない。
真面目で平明な評論ならよくて、挑発的で分かりにくい風刺はだめ、といいたいのではない。ただ聞く耳を持たれやすいものとそうでないものがある、という脇筋の話。

―制約の可否は誰が判断するの?

ルールを共有する「みんな」かな。全員にアンケートをしてもいいし、代表が話し合ってもいいけど、とにかく「みんな」の意思だとできるだけ多くの人が認められる何かの手続きを踏むこと。
そのとき、なんか言う側と言われる側の声の大きさ(なんか言われた場合の対抗手段)にバランスが取れているかを考慮すべきだろう。社会的な立場とか、拡散できる力とかがすごく不均衡な間柄で、強い側が弱い側に攻撃的なことを言う場合は、反論も同じくらいの力でできることが確保されているとの条件下でやる。
理由は、言論の多様さを担保するとともに、「直接的で重大な影響」があった場合に被害回復の機会を確保するため。「反論してるけど誰にも届かない」じゃ反論してないのと同じだし、「直接的で重大な影響」が弱い側に及んでるときに周りが気づけないのではまずい。
この理由でいくと、弱い側が強い側にいろいろ言うことは、ほとんど制限する理由がないことになる。しかし、「わたしは弱者」と名乗る側が本当は弱者ではなかった場合、不当に相手の言論を制限することになってしまうことには注意が必要。「誰が強いか/誰が弱いか」は当事者が決めるより「みんな」で決めるほうがマシかもしれない。
「誰が決めるか」の問題に戻ると、王様が一人でとか、世襲・学識で選ばれた「代表者」たちが決めるのは望ましくない。多くの人にそれなりの判断ができるための教育と、それなりの情報収集の手段が揃った世の中であればだが、「みんな」で話し合って決めたほうが少数の均質な背景を持った人達が気付かない点に気付く可能性が上がるし、納得もいく。

―それだと普通は多数決で決まるんだろうけど、「それでもやだ」と思っている少数の人がかわいそうじゃない?「誰かが『やだ』と言うものは、とにかく制限する」じゃだめ?

基本だめだろう。認めると言論の多様性が大きく損なわれる危険があるから。ある発言を封じるために「やだ」と言うようなことだって可能になってしまう。
ただ頭ごなしに「だめ」じゃなくて、その人が受けてるのは本当に「直接的で重大な影響」かどうか、吟味してみたほうがいい。もしその過程で「みんな」が間違ってる可能性が出てきたら、もう一回みんなで検討する。とっくり話し合ってみたけど、どうも基本的な立場が違うことが見えてきたら、しょうがないが「みんな」を優先させてもらう。
でも「みんな」側が不誠実な話し合いをする可能性もある。話の内容ではなく、話し合いの不誠実さを問題にして話し合う機会も作っておくとよい。
その話し合いについての話し合いが不誠実だったらこれも問題にして話し合ってもいいが、実務的にはその辺からルール設計で手を打つにもきりがなくなってくるので、反対者が地道に賛同者を集めて話し合いのルールを変更する運動を起こす方向にいくことになるかもしれない。
以上は、やはりルールを共有してる人達の間のこと。ルールの外にいる人とはやっぱり闘争になる。

―あなたはシャルリ?

それ、どういう意味?

2015年05月11日

レイジー

銀座の「レイジー」、前回はキャーキャー言いながら写真が撮れなかったので。
おいしかったものは次の通り。

パングラタン
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ゴルゴンゾーラを撒いて焼いた料理。これはシンプリシティの美だと思う。

フォアグラとポルチーニのリゾット
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一方、こちらは自分で再現できそうな気がしない凄味があります。
弊管理人および同行者はいずれも口に入れたまま「んー!!んー!!!」と叫んだ。

ほか、ニンニクと豚と野菜の炒め物、生ウニのオムレツやトマトの冷製パスタを頼みました。
それぞれおいしかったけど、「これ食ったことない!」という衝撃があったのは上の2品でした。

* * *

38歳になりました。

最近の実感としては:
・両こめかみのあたりにシミができておっさん度が増した
・連続して眠れる時間が6時間前後と短くなった
・遅く寝ても6~7時台にいったんは目が覚めるようになった
・忘れていたことを目の前に呈示されても「これを一度は知っていた」という確信を持てないことが時々ある
・半面、頭にかかった靄のおかげで来し方行く末のことを考える時間が減り、現在に傾注できるようになった
・手間を惜しまない、ということが段々できるようになってきた
・快便が続いている

* * *

4月の終わりに、ONKYOのCR-N765というCDレシーバーを買いました。

2001年発売のFR-X9という機種のCDトレーが暫く前から挙動不審で、それがとうとう開かなくなったためです。LANケーブルをつないでネットラジオを聴けるようになったので、クラシック専門のOTTAVAをかけっぱなしにしています。暫く離れていたクラシックにまた親しむようになりました。

週に1時間程度、予約録画してある番組を見るほかは、テレビを全く見ない生活が続いています。

買い換えた当初はなんとなく音がぼやっとしていて広がりがなく感じたため、スピーカーを買い換えようか迷っていましたが、数日すると輪郭がはっきりしてきました。慣れただけ?それとも使っていると何かが変わってくるのか?

2015年05月06日

連休食べたもの

法事後の会食に鯉が出てきました。
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亡祖父が好きだというのは聞いたことがありますが、祖母も好きなんだそうで。
内水面しかない県ですしね。すっごい久しぶり。
醤油と砂糖といろいろで、水を使わずに一気に強火で炊くのが味を染ませるコツだそうです。
作らないけど。

* * *

一杯飲みに訪れたなじみのお店で出てきたお通しが「がんも稲荷」。
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これいい。
(もういちどいう)これいい。
酢飯にゴマを入れる派と入れない派がいるようですが、弊管理人は圧倒的に入れる派です。
今回、ゴマを入れる判断をした作者にはこの一点において「来世で結婚できる気がする」と言っておきました。

2015年05月05日

夜と霧と法事

■フランクル, V.E.(池田香代子訳)『夜と霧 新版』みすず書房, 2002年.

ナチス強制収容所を体験した精神科医・心理学者の回想。著者はフロイトとアドラーの弟子なんだそうです。へーへー。

世紀転換期から20世紀中盤くらいまでの著作には「個人の心のダイナミズム」への関心が色濃く出ているものが特に多いのかなと思っています。外界と、インターフェイスとしての感覚器官と心に生じる像とかいったメカニカルな心の理論は昔からあったけれども、無意識の発見によって心はブラックボックスの度合いを深めたように見えます。その最大最悪のフィールドが収容所であり、その経験の読解に戦後のヨーロッパはほぼ全ての知力を費やしたのではないでしょうか。今なら経済合理性とか集団の行動パターンに力点を置いた分析がいっぱい出そうかなと思ったりして。

『夜と霧』は初版が1947年、この新版は1977年に出ています。初版を読んでいないので間違っているかも知れませんが、お仕事柄なのか、時間のせいなのか、ストレスマネジメントとしてそうなってしまったのか(多分これだと思うけど)、ルポルタージュというよりは、どこか体験を突き放した記述との印象を受けました。
しかしそれだけに、学校、職場、通勤電車を現代にも存在する「小さなアウシュヴィッツ」のように思い出しながら読むことが許されるように思えます。野蛮な消費行動だと非難されても、なお少し許されながら。

「ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ」(p.71)

東北を津波が襲ったあとに現地入りしたテレビ局のクルーがキャッキャ騒いでいたことがサイバースペースで批難されているのを見ましたが、たぶん弊管理人が行ったとしても、ものすごくテンション上げていっぱい意味のないことを周囲と喋りあったと思いますね。(→と書きながらそういえば、と日記を探ったら2011年3月14日にやっぱりそんなことを書いていた)

…凡庸なわたしたちには、ビスマルクのこんな警告があてはまった。 「人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう」 これは、こう言い換えられるだろう。 「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。(p.122)
…生きる目的を見いだせず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。(p.129)
自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。(p.134)

対照的に、のんべんだらりと過ぎていく日常という檻のない牢獄は、目的の喪失による離脱というフェイズを発生させない。

この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。(pp.144-145)

こうした区分に『イェルサレムのアイヒマン』(1963)が付けた大きな疑問符を、著者はどう受け取ったのでしょう。個性(フランクル)/環境(アレント)の区分もまたはっきりできなそうですが。

* * *

母と祖父の13回忌のため、ちょっと帰省していました。
無意味なお経、無意味な長時間の正座、無意味なばかりか事実関係がおかしい法話。
もうこういうの、いいんじゃないの。程度の差はあれ、たぶん一同そう思ったと思う。
「死んだらおしまい」と言っている父は毎日仏壇にご飯をあげている、そんな追想、追想じゃないな、同居の継続。そのほうが全然実質的なんだけど。

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