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2007年04月 アーカイブ

2007年04月30日

岬の湯しゃこたん

会社の同期が札幌の職場に転勤してくることになり、引っ越しも終わったというので一緒に出掛けることに。
行き先はずっと行ってみたかった「岬の湯しゃこたん」。積丹半島の突端、神威岬の近くにある積丹町営の温泉です。札幌からは車でR5を2時間とちょっと。

写真撮れる状況ではなかったのでお風呂の様子はサイトを見ていただければと思いますが、天気に恵まれたこともあり、とにかく素晴らしい眺望でした。
150度の視界に広がる”シャコタン・ブルー”の日本海と、さいはて感いっぱいの神威岬。到着した18:10ごろから30分は日没ショーです。天頂が深い青色に変わりながら、杏のような夕陽が水平線に沈んでいく様子は溜息ものでした。

お湯は源泉の温度を下げて循環させてますが、ぬるめの設定なのでゆっくり入れます。施設も清潔でよい。

建物を出ると、春を迎えた原生林の向こうに、まだ真っ白に雪をかぶった積丹岳が見えていて、こちらも気に入りました。

2007年04月22日

思考の用語辞典

■中山元『思考の用語辞典』ちくま学芸文庫、2007年。

100の(主に西洋)哲学・思想用語について4-5ページほどの解説を加えてます。語源をギリシアに求め、そこから啓蒙の時代、20世紀哲学と展開。まるでブログに書いているような軽い文体で分かりやすく説明されてます。
もっとも、これはこの本が悪いのではなく総花的な本の宿命だと思うのですが、これで何かが分かった感じはあまりせず、粉ジュースのような、「なんだか哲学っぽい味」のような読後感。語源辞典およびブックガイドとして読むのがよろしいかと思います。

初版本当時(2000年)に書いたまえがきには100の用語のどこから読んでもいい、と書いてあるが、文庫版のあとがきには最初から読んで欲しいとある。著者の筆致の変遷が理由だそうですが、私の場合はばらばらに読み進めていたら最後にはどこを読んでないかわからなくなったので、やっぱり最初から読むべきです、これは。

資本主義から市民主義へ

■岩井克人+三浦雅士『資本主義から市民主義へ』新書館、2006年。

岩井克人へのインタビュー。同じ著者の『貨幣論』『会社はこれからどうなるのか』『会社はだれのものか』まで読んだ気になれちゃうお得なご本でして。

(1)言語・法・貨幣はいずれも神・宗教・労働といった超越や根拠をもたない社会的実在で(2)だからこそ何かの拍子で崩壊しかねないシステムでもある(特に貨幣=資本主義)。(3)その可能性を最小化するために法や貨幣に回収しきれない信任とか倫理=市民社会が要請される。

というようなことだと思うんですが、(A)言語によって作られる市民社会って、やっぱり法や貨幣と同じように自壊の危険は孕んでるんじゃないかしらんとか(B)市民社会って超越じゃないのかしらん、とかいう疑問は残り……(たぶん読み込み不足

といっても、この本の価値は言語・法・貨幣ってそもそもなんなんですか、ということをつらつら考える部分にあると思いますので、提言より考察を楽しむ感じで読むといいんじゃないかな。

2007年04月16日

闘う君の唄を

......闘わない奴等が笑うだろう

で、その闘わないで笑ってる奴等はいかにして救われるのか。

と、最近ダメダメな自分などは思うのですが、悪人正機説のアップデートはそう簡単にできそうになく、このエントリーは問題提起に終わるのであった。

あ、ちなみに中島みゆきさんの歌は好きです。

丸駒温泉

070416marukoma.jpg
土日出勤だったので今日は休みってことにして寝坊。
でも起きたら部屋が寒い。暖まりたい……
というわけで札幌から車で1時間、支笏湖畔の丸駒温泉に行ってまいりました。

ここが面白いのは、岩に囲まれ、支笏湖と直結した露天風呂。湖面の上下によって風呂の水位も上下するとのことです。今日は60-70センチ程度と低めでしたが、季節などによって100-140センチくらいになることもあるんだとか。
お湯は温めで、空を見ながらぼーっとゆっくり浸かっていられるのがいいですね。
写真に写り込んでいる枝は桜だそうで、5月も半ば近くになると花見しながら湯浴みもできるんでしょう。またその季節に来てみようかな。

露天風呂はもうひとつ「展望露天風呂」というのがあり、こちらはお湯の温度は普通。硫黄の匂いがむっと立ち上ってくる湯船によりかかって、湖の向こうに風不死岳(フップシダケ、1103m)を眺めながらゆっくりできます。

日帰り入浴は10-15時だそうですが、知らずに15時ちょっと過ぎても入れてくれました。えらい。好き。

2007年04月12日

Warum?

―なぜに?
ロベルト・シューマンの「幻想小曲集」みっつめの曲のタイトルですけども、本題とは関係ないっす。

***

なぜに?why?
は人事を超え出てしまう危険な言葉だ。と、朝は吹雪だったのに昼過ぎには春の日差しになっていて、職場でがっつり落ち込んだあとやさぐれた気持ちで自転車に乗ってウチに帰る途中に、思った。

いかに?how?
はテクニックとか、せいぜい世界の構成について説明を求める、とても実利的な問いかけなのだけれども、なぜに?は突き詰めていくと存在の意味とか、人事を超えた意思とか、そんな変なものに行き着いてしまいかねない。もっと始末の悪い場合にはどこにも行き着かない。
なぜに?は自分自身から相当遠いところへの呼びかけで、それが無限に遠いとき、なぜに?は単なる感嘆詞になる。

癌の手術を終え、麻酔の眠りから目を覚ました家族が「なんでこんなことになっちゃったんだろうねえ」と問い、
10代の終わりから心身症に囚われている家族が「なんでいつまでも体調悪いんだろう」と問うていたのを思い出した。
回答を求めているのではない。問わずにいられない問いだが、たぶんその問いは問う先には届かない(あるいは何もない)ことは、わかっているはずだ。

今日はなんとなく、自分も「なぜに?」と頭の中で呟いていた。「なぜに○○なのか?」の○○の部分は空白。
あ、そうだ。なぜに?は呟いたときには既に手遅れになっているというのも特徴だべな。

夜更けのガーリックライス

070412garlic.jpg
昨日の夜更けに、テレビで鉄板焼きの店が出ていてガーリックライスが超うまそうだったので、今日チャレンジ。
基本的に醤油とニンニクと肉があれば大丈夫でしょう、ということでこの夜更けに24時間営業のスーパーから肉を安く仕入れてガーリックライス。冷蔵庫にあったタマネギとピーマンも入れてしまった。

S&Bの、ミルがついてる瓶詰め黒胡椒(300円くらい)を使い始めてから、がぜん料理が美味しくなったので今回も肉と焼き飯にたっぷり。あとはニンニクを最初から強火で炒めないことだけがポイントだと思います。

鉄板焼きのお高い店ではニンニク醤油や揚げニンニクを使ってもっと香ばしく作るはず。自作はなお研究の余地ありという感じ。

2007年04月10日

お月さんが見てる

96年に書いた原風景の続編みたいなもんですが。

***

中学2年の冬だったと思う。定期テストで理科がむちゃくちゃ難しかった。
平均点もかなり低かったが、僕の点数も(何点かは忘れたが)散々だった。

ほかの学校でそういうことが普通だったのかは知らないが、通っていた中学ではテストを返されたあと、採点に不満があったり間違いがあれば教科担任のところに行って交渉したり間違いを指摘して点数を上げてもらうことができた。精々2、3点のことだが、そこは世界の狭い田舎の中学生なので、それなりに頑張って交渉したりもしたものだった。

で、その散々だった理科のテスト。答案用紙の返却が済んでざわつく教室の後ろのほうで、僕は思い余って間違った答えを消しゴムで消し、正しい答えをこっそり書き込んで教科担任のところに持ち込んだ。
担任はにやりと笑って数点を足し、「よかったね」と言った。どきりとした。

一通りの解説を終えたあと、担任は少し時間をとって、「ずっと前に担当した子」のエピソードを紹介した。
かいつまんで言えば、わりと学校の成績がよくて、先生たちもこの子は上位の高校に合格するだろうと思っていた子が、入試本番で全く点が取れず不合格になった。よくよく事情を聞いてみると、ほとんどのテストでカンニングをし、その場しのぎの高得点を積み重ねてしまっていたのだという話。
教室の後ろの席でそれを聞きながら、教壇に視線を向けられないでいた。「その子」は僕だ。わかっていた。

今振り返れば、コドモのちょっとした出来心を寓話でたしなめたということだろう。答案の改ざんについてはお咎めはなかったし、僕も別に他のテストでずるをしたことはなかった。自分がもし担任の立場でも、答案を全てコピーでもしていなければ証拠を突きつけるのは難しいから、呼び出して叱ったりはせずに、同じように遠回しな「わかるだろ」的な注意をしたかもしれない。

が、その2、3点のためにケチな不正をした14歳の自分はそのとき、ものすごい羞恥心を味わった。世界から嘲笑されたような気分になっていた。

***

で、まあその後、反省してちゃんと勉強して高校大学と無事に進学できましたとさ、という話、ではない。

この経験は今にして思えば、自分自身の中に遅まきながら「倫理の種」を植え付けたんだと思う。
それは、まあなんかちょっとアレな倫理だけども「不正は大抵バレる」ということだ。今でもそう思っている。だからウソは極力つかない。つくときは結構準備と覚悟してつく(でもまあバレるw)。

(1)まあ他人にはバレないだろう、で不正ばっかやっている人
(2)常に神様に見られている、と不正をしない人
の両極端があるとすると、自分は真ん中よりけっこう(2)寄りのところにいるのかなあ、と思う。

これらの両極端は「やっていいことといけないこと」の基準が(1)自分の外(=他人の目)にあるか(2)自分の中(=神様の目)にあるか、というふたつの質的に違う倫理のありかたのようにも見えるけど、でも結局根っこは「バレると痛い目にあうので、それは避けたい」という人間の自然な性向につながっていて、あとは不正ってどんだけバレるものだろうか、というリスク認識の量的な違いがあるだけのような気がしている。

全く不正をしないというのは無理にしても、(2)のほうに近づいていくには、神様により近い役目をしてくれる目ざとい大人とか友人がいてくれることが必要なんだよな。

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