96年に書いた原風景の続編みたいなもんですが。
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中学2年の冬だったと思う。定期テストで理科がむちゃくちゃ難しかった。
平均点もかなり低かったが、僕の点数も(何点かは忘れたが)散々だった。
ほかの学校でそういうことが普通だったのかは知らないが、通っていた中学ではテストを返されたあと、採点に不満があったり間違いがあれば教科担任のところに行って交渉したり間違いを指摘して点数を上げてもらうことができた。精々2、3点のことだが、そこは世界の狭い田舎の中学生なので、それなりに頑張って交渉したりもしたものだった。
で、その散々だった理科のテスト。答案用紙の返却が済んでざわつく教室の後ろのほうで、僕は思い余って間違った答えを消しゴムで消し、正しい答えをこっそり書き込んで教科担任のところに持ち込んだ。
担任はにやりと笑って数点を足し、「よかったね」と言った。どきりとした。
一通りの解説を終えたあと、担任は少し時間をとって、「ずっと前に担当した子」のエピソードを紹介した。
かいつまんで言えば、わりと学校の成績がよくて、先生たちもこの子は上位の高校に合格するだろうと思っていた子が、入試本番で全く点が取れず不合格になった。よくよく事情を聞いてみると、ほとんどのテストでカンニングをし、その場しのぎの高得点を積み重ねてしまっていたのだという話。
教室の後ろの席でそれを聞きながら、教壇に視線を向けられないでいた。「その子」は僕だ。わかっていた。
今振り返れば、コドモのちょっとした出来心を寓話でたしなめたということだろう。答案の改ざんについてはお咎めはなかったし、僕も別に他のテストでずるをしたことはなかった。自分がもし担任の立場でも、答案を全てコピーでもしていなければ証拠を突きつけるのは難しいから、呼び出して叱ったりはせずに、同じように遠回しな「わかるだろ」的な注意をしたかもしれない。
が、その2、3点のためにケチな不正をした14歳の自分はそのとき、ものすごい羞恥心を味わった。世界から嘲笑されたような気分になっていた。
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で、まあその後、反省してちゃんと勉強して高校大学と無事に進学できましたとさ、という話、ではない。
この経験は今にして思えば、自分自身の中に遅まきながら「倫理の種」を植え付けたんだと思う。
それは、まあなんかちょっとアレな倫理だけども「不正は大抵バレる」ということだ。今でもそう思っている。だからウソは極力つかない。つくときは結構準備と覚悟してつく(でもまあバレるw)。
(1)まあ他人にはバレないだろう、で不正ばっかやっている人
(2)常に神様に見られている、と不正をしない人
の両極端があるとすると、自分は真ん中よりけっこう(2)寄りのところにいるのかなあ、と思う。
これらの両極端は「やっていいことといけないこと」の基準が(1)自分の外(=他人の目)にあるか(2)自分の中(=神様の目)にあるか、というふたつの質的に違う倫理のありかたのようにも見えるけど、でも結局根っこは「バレると痛い目にあうので、それは避けたい」という人間の自然な性向につながっていて、あとは不正ってどんだけバレるものだろうか、というリスク認識の量的な違いがあるだけのような気がしている。
全く不正をしないというのは無理にしても、(2)のほうに近づいていくには、神様により近い役目をしてくれる目ざとい大人とか友人がいてくれることが必要なんだよな。