日本では相当早足な自分が、ニュージーランドではそれほど早足と言われることもなく、時には歩いていて後ろから抜かされるという経験もした。股下が10cm違うとどれくらい影響が出るんだろうと久しぶりの三角関数など使って計算してみると、一歩あたり約4cmほどの違いが出るという結果になった。4cmというと大したことはなさそうだが、股下が10cm違うふたりが、同じリズムで一緒に歩いていると、10歩歩くうちに40cmの差ができるといえば、看過しかねる量であると思える。
人種間の差異といえばそのギャップは埋めがたいようだが、栄養状態の改善(あくまでカロリー摂取量という意味)された戦後日本では平均身長は伸びつづけている。食餌と背丈が相関するならば4cmの差を、少なくとも、縮めることはできるはずだ。しかしそのためにはコメと魚と野菜を食うスタイルを変えねばならない、肉を食わなければならない。旧来のスタイルの放棄と生活習慣病(「成人病」からのこの用語への転換は、左翼的に解釈すると、「あんたの」生活習慣のせいでなる病気だよ、と原因を「個人」に帰することで、「成人一般」が悩まされる病気であることに対する国のケア責任を回避するための、具体的には膨張する社会保険料対策のためのアリバイ作りであるということになる。ところでこの註は積極的に不要ではないだろうか)のリスクを負ってまで得たい足長のメリットとはなにか。
形式上にせよ人道的な意味からにせよ、必然的に差の出る歩幅は、短い人と長い人が「一緒に」歩くとき、一方が「待ち」一方が「待たれる」という関係を生むことになる。別の言葉でいえば、どちらか(あるいは両者)が歩幅を「調整」することになる。これを権力関係と読み換えると、一見「自分の歩幅に他人をあわさせている」短い人のほうが権力を所有しているようだが、そうではなく、かれは実は「待たれている」のであって、「歩幅の差」あるいは「待たれ時間」を長い人に対して負っている債務者なのである。「形式」とか「人道」は、そういう原理的に権力関係に巻き込まれる二者から独立した存在として、関係を中和させる。そうした独立した中和者が永続的に二者の上を傘のように覆っているならば、二者に内在する権力関係はそもそも問題にならない。しかし実際には「形式」とか「人道」は数々ある欺瞞の一形態にすぎず、均衡した日常という砂地に建った楼閣にすぎない。日常性の均衡の揺らぎに対して、「形式」や「人道」は余りにも脆い。
歩幅の差の解消によって示唆されるのは、この内在的な権力関係の無化である。大隈・尾崎といった大物政治家が白人との結婚を推奨し、日本人の人種改良を謳いあげた明治という時代は、「揺らぎ」が極めて切実な問題として指導者たちに現前していた時代なのではなかっただろうか。
では現代はどうか。白兵戦はもはや主流ではなかろうから、歩幅の差によって国境を4×n(cm)失う虞は現実的でない。車・飛行機・サイバースペース、身体の個別性を解消はしないが覆い隠す装置は至る所に設置されている。価値の多元化・差異の無価値化は、少なくとも観念の上では普遍性を達しつつある。いま、食生活の実体面を、先に述べたようなリスクを冒してまで変化させる理由はなんだろうか。なんでもいいが、ワタシは今、ササニシキとヒジキの煮物と秋刀魚の塩焼きが食べたい。(990916)
[留学中の文章。まわりはでっかい白人が多かった。短足への嘆息をやたら回りくどく書いてるのは照れみたいなもんでしょう―2006/6/29]