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バンダバーグ(Bun

バンダバーグ(Bundaberg)で日本人の気さくな人たちと一緒にダイビング(綴りを考えたらダイヴィングになるんだろうが、ダイヴィングと書くとすごくスノッブな感じがしたので「ビ」になってます)をした5日間はとても楽しかった。オーストラリアの一人旅は、最初から一人だったから寂しさは全然なかった。コースを終えてから行ったファンダイブ、レディ・マスグレイヴ島(Lady Musgrave Is.)の素晴らしい珊瑚礁の海で見た夢のような風景を思い出しながら、バンダバーグを夜行バスで発ったときも、「それじゃまたねー」という気持ちで次の土地へ向かっていたと思う。一晩をバスの中で明かして、朝が来てもまだバスは走っていた。窓によりかかってぼうっと外を眺めながら「ももいろ珊瑚が手をふっていたなあ」とふと思ったとき『およげ!たいやきくん』の歌詞が蘇ってきた。

毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ。…人を一定の型に嵌め込み、整形しようとする力の働きを、ワッフル工場に例えたオークランド大哲学科の先生がいた。人間の「型」はすでに用意された出来合いの型、まだどろどろの生地はそれに抗うことはできない。型=社会化によって「ぼくら」はその時その場所のパラダイムにあわせて形作られる。けれど確かに「ぼくら」は「嫌になっちゃ」っているのだ。そしてある朝、「ぼく」は反抗を試みる。人間の整形をつかさどる「店のおじさん」とケンカして海に逃げ込むのだ。「店のおじさん」は、たとえば父的な権力だ。その意味で、「たいやきくん」と「店のおじさん」の闘争はたとえば世代間闘争、またかれらの性に注目するならば父と息子の葛藤を想起させる(フロイトとかラカンを連想した)。整形されたたいやきの群集の中から逸脱を試みるのにはそれ相応の思い切りが必要だろう。「ぼく」はそれをやった。仲間の羨望と嫉妬のまなざし・あるいは無関心、そんなものを無意味化するまったく新しい世界、海!歌詞では(個人?としての)「たいやきくん」という逸脱者を外界に見送る仲間は描写されず、もっぱら「たいやきくん」の上気が描かれている。「ももいろ珊瑚」は、異世界からのまれびとを手を振って迎える。珍しいことではないのだろう。珊瑚には珊瑚の日常がある、まれびとも数が増えれば珍しくもない。「たいやきくん」個人?としての人生?(←しつこい)最大級のイベントも、珊瑚の視点から見たならば「よく見る流れ者」の概念を構成するいち要素に矮小化されてしまう。
旧い世界の重荷、残滓を「おなかのアンコ」として自らの中に感じとりながらも「たいやきくん」は新しい世界を満喫する。「毎日毎日楽しいことばかり」だ。整形され、清潔で秩序立った旧世界を飛び出したのだから、当然それなりの代償は支払わなければならない。「難破船がぼくの住処さ」とうたう「たいやきくん」の姿は、バックパッカーズ(一晩1000円程度で泊まれる安宿)の古ぼけたベッドに素性も知らない他の旅行者たちとともに体を横たえる旅行者に重なる。また、「ときどきサメにいじめられ」ても逃げるしかないなど、新世界の暗い側面は結局そこが日常を離れたパラダイスなどではなく、ひとつの日常の果てに広がるもうひとつの日常でしかないこと、しかもその新しい日常における浮浪者としての自分のよるべなさを示唆しているといえよう。
新しい世界に来たころの熱狂が過ぎ去ると、違和感が「たいやきくん」を襲う。かれにとって結局、新世界は肌に合わないのだ。「塩水ばかりじゃふやけてしまう」という叫びは、そのことへの気づきが生み出した焦りに裏打ちされていたはずだ。自分は新しい世界で長くはもたない。定住を経験した者にとって流浪する生活は一生続けられるものではない、ということを感じたのだろう。そんな心の不安を感じた矢先に、旧世界からの「釣り針」がたらされる。「釣り針」のここでの意義は両義的であって、心の不安を増幅させて旧世界に引き戻そうという罠であると同時に、主観的にはこれはひとつの救済でもありうる。旅から帰り、もとの世界で職を得て定住するという、鉄板の上で焼かれていたころ嫌で仕方がなかったライフコースが今再び長い流浪の果てに提示された。今、かれは釣り針に引っ掛けられながら悲哀を感じているだろうか。そうとは限らない。吊り上げるのはまたも男性、「おじさん」である。旧世界での日常性が回帰する。「たいやきくん」は食べられる。あろうことか「うまそうに」!完全にたいやきとしての本性を回復した「たいやきくん」はその遣る瀬無いまでに固定された運命を終える、もっと正確には「全う」してしまう。
おきまりの生、型どおりの生への反発、今みずからが置かれている世界への不満、それが人をして長い旅に向かわしめる。しかしそれは新天地の発見ではない、流浪の果ての帰還。リスクを冒し、膨大なエネルギーを使ってまで達成した日常からの逸脱は、もともと自分が乗っていた生のレールの(やむなき)肯定として帰結する。「逃げても君は戻ってくる」、外部に決して出られない、回帰を運命づけられているのだと、この詞は「たいやきくん」に宣告しているのである。世代間闘争はそれ自体で「まったく新しい世代」を創造し得るだろうか。オイデュプスコンプレックス、あるいは「象徴」のステージで子は「父的原理」を拒否することができるだろうか。ワーキング・ホリデーとは何か。

…とか考えているうちにバスはマッカイ(Mackay)に着いた。朝飯を食べるための短いストップだ。ドライブインでチキンサンドイッチを求め、前の晩、別れ際にバスのドアステップで5日間を一緒に過ごした人たちから手渡されたコーラのボトルを抱えて壁際の席に着く。安いコーヒーの香りと同乗の旅行者の話し声が無表情なコンクリート造りのドライブインにこもる。また一人かあ、と思った。 (991224)

[ニュージーランドでの留学を終えて、隣国オーストラリアを旅行してたとき考えたこと。実は「たいやきくん」発表当時にずいぶんこういうことは言われていたそうです。それはそうとレディ・マスグレイヴの海はきれいだった……―2006/6/29]

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1999年12月24日 00:00に投稿されたエントリーのページです。

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