選び取った離別ではあるけれども、けれどやはり離別は寂しさに満ちている。マンガ(具体的には神崎将臣の『KAZE』なんだけどその辺はまあいいや)みたいな世界を単純に描きながら空手部なんて大それた所に入部した2年半前、それからは手足や腰に怪我をしたり、下を向くと自分が流した汗の粒が水溜まりみたいになっていたり、大好きな先輩が卒部式の飲みの後早朝の新宿の地下街に消えていく姿を頭に焼き付けようとしたり、暗い代々木公園を走り抜けたり、昇段・昇級審査の重圧に押し潰されそうになったり、余り好きではない組手の練習を何週間も続けたり、型の同じ部分を延々と練習したり、練習のない月曜の夜に一人で運足の練習をしたりしながらなんとかここまできた、という感がある。今日、最後の行事を終えて片付けが終わってがらんとした道場をぼんやり眺めていたら、そこに1年・2年前の自分が出てきた。ライトに照らし出された体育館の端々に思い出が拭いがたく染み付いている。思い出すとなんだか一生懸命だったその時の自分が他人事のように羨ましくなってくる。そして今、中途で別の道に逸れていく自分を見詰める。離れるとなると途端に部が貴重に思えてくる気持ち、一方でやれることはやったという満足感。どちらが本物の自分だろうか。週3回の練習に色々な用事を犠牲にしながら参加していた頃には感じなかった、ふとした空白。それは確かにある。ぽっかりとした何かの寂寥感がある。空白は恐ろしい。そこに自分が吸い込まれてしまうような気がするから。そのとき、また「もうここまでにして何か別のことを始めよう」と思っていた自分は、それを振り切ってまた次の練習にひょっこり顔を出すのか。部とのつながりが切れるのが何だか勿体無くて練習にちょこちょこと顔を出すのか。けれど今日を境に、もう自分の存在は過去の中に緩慢に解消していくはずだ。そこには部の運営や試合で勝つことの重圧が無い代わりに日常的・永続的に緩やかに自らを衰えさせるよう運命付けられた立場「OB」がある。一生懸命だった自分を振り返るとき、そのきらきら輝くときを振り返る「今の」自分は輝いているか。「よくやったと思うよ」と優しい同輩が言う。そう、よくやった。自分でもそう思う。けれどそれは〈本当に〉そうか?今日の演武会は、準備運動から会場設営から、全てが最後のような気がしていた。前からしたかった留学だ。2年生に会う、1年生に会う、それは最後で寂しいかもしれないがそれ以上にやりたいことがある。今までを一緒に頑張り、これからを頑張る同輩をみながら、少し後ろめたさと後ろ髪を引かれる想いにかられた。そして今度正式に部に参加することがあるとすれば、それは寂しさに堪えかねての逃避としてではなく、自分が獲得した何か新しいオリジナルなものを引っさげてでありたいともまた思った。また会うだろうけど、とりあえず、ここまで。(981123)
[留学のため、学園祭での演武会を最後に部活を引退する日の日記。感傷的ですねえ。熱いですねえ。ちなみに「今度正式に部に参加すること」は結局ありませんでした。ゴーン ―2007/3/6]