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2006年01月27日
『リヴァイアサン』
■長尾龍一『リヴァイアサン―近代国家の思想と歴史』講談社学術文庫、1994年。
第1部は国家論史、第2部はホッブズ、ケルゼン、シュミットの読解。
「近代国家」だなんて便宜的に作り出した概念にすぎない、というのを忘れて、まるで意志をもって実在するかのように扱って自明視し、自国のことばかり考えていてはダメ。かつてその中の住民にとっては「世界そのもの」と同じ意味だった「帝国」はもうなくなっちゃったけど、それにかわる「国連」を強化して平和を達成しませうよ……というのが著者の主張だと思うんですけども。
そのへんの主張は「はじめに」「おわりに」あたりに書いてありまして、サンドイッチの中身の部分は発表済み論文のアンソロジーなので、それは「ふーん」「へええ」と勉強するつもりで読めばよさそう。
あと、神なき時代に倫理は命令=力を失い、計算合理性だけが残る、みたいな状況は別に21世紀に発見しなくてもホッブズの時代には既に陳腐化していたのね。あーあ
投稿者 b-men : 11:32 | コメント (0) | トラックバック
2006年01月23日
TOEFL(2) 戦闘態勢?
受験申し込んでしまいました。
前回書いたように、以前はほんとに面倒くさくて時間もかかった申し込みの手続きですが、今回は電話で一発です。先方に口頭でカード情報を伝えるのはちょっと抵抗あったけど、まあそれはそれ…
3月半ばに設定したので、これからひと月ちょいで試験準備。むかーし買った参考書2冊はもうどっかに行ってしまったので、アマゾンのマーケットプレイスで何冊か安く仕入れました。予備校に通うほどせっぱ詰まっていないので自習です。間に合うかな?
投稿者 b-men : 23:02 | コメント (0) | トラックバック
2006年01月18日
TOEFL
英語圏に留学する際にそのスコアを求められることの多いTOEFL。
自分ももう8年も前になりますが交換留学のプログラムに応募するためにTOEFLを受けたことがあります。「聴く・読む・書く」を試すテストですが、当時は高校で習った読み書きで点数を稼ぎ、苦手の聴解で足を引っ張るというパターン。二度受けて、一度目は560点、二度目が580点くらいだったはず(満点は677点)。
前回受けたときには日本語の解説サイトなんていいものはなかったので、大学の生協で配っているBulletin=パンフレットをうんうん言いながら読んで受験料を振り込み、会場に行ってへとへとになるまでテストを受ける、というのが唯一の流れでした。
で、いまはといえば。
・便利なことに日本語でTOEFLの公式情報を流すサイトがあり、
・年6回くらいしかなかった受験日程が、Computer Based Testという、紙ではなくコンピューターで行うテストの導入によって毎週平日になり、
・何週間も前にやっていた申し込みも、カード払いで受験日の3日前でよくなるなど
大きな変貌を遂げていたんですね。
いまのところ留学する意欲も必要もないんですけど、たまには勉強するべぇと再受験を考えてまして、今日はそのスタートとしてPowerPrepという、TOEFL主催元のETSという団体でオンライン配布している無料のサンプルをダウンロードして、ひととおりやってみました。
…できねえの(T_T
特に聴解。留学前と同じレベルになっちゃってました。うおおおちょっと頑張るかなぁ!
投稿者 b-men : 21:35 | コメント (0) | トラックバック
2006年01月15日
このところのNAXOS
■Ravel / Chopin / Saint-Saens: Anthology for the Left Hand (FL23080-1)
↓の曲集を聴いてたら「そうだ、左手の曲集…」となった安直さ。
■Scriabin: Etudes (8.553070)
わかりやすい曲ばかり好きな自分ですが、不思議とキチガイになってからのスクリアビンは聴けます。
(1.22)
■Bargiel: Suite, Op.31 / Fantasies, Opp.5 and 12 (8.223606)
バルギール。シューマンの親戚で影響も受けているとのこと。確かに(劣化)コピーみたいです。
■Avshalomoff: Piano Concerto / Symphony No.2 / Elegy (8.225035)
アヴシャルモフという人を知らなかったのですが、革命期のロシアからアメリカに渡る途中に中国に立ち寄ったらハマっちゃって、そのまま第二次大戦明けまで30年も居着いてしまった人なんだそうです。
中国の旋律を西洋クラシカルの作曲技法と融合させる、と言われると期待も膨らみますが、畢竟、欧米と中国の合作映画のサントラ。このCDに関しては特に驚きはありません。
■British Tuba Concertos (8.557754)
吹奏楽はマーチだけやってれば、と思ったのは自分の音楽体験が貧困だからです。すみません。でも思った。
■山田耕筰:序曲ニ長調/交響曲ヘ長調「かちどきと平和」/交響曲「暗い扉」/交響詩「曼陀羅の華」 (8.555350)
自分は「日本のクラシック黎明期によく書けました」というくらいの感想しか抱かなかったんですが…
(1.20)
■Brahms: Piano Sonata No.3 / Schumann: Piano Sonata No.2 (8.553236)
なぜか2曲ともキチガイのにほひがしてよい。ブラームスの第3とシューマンの第1楽章が特に…
■Brahms: Cello Sonatas, Opp.38, 78 and 99 (FL23167)
■Grechaninov: Piano Trios Nos.1 and 2 (8.223416)
グレチャニノフって初めて聞きました。ラフマニノフの同時代人でモスクワ音楽院に学んだあと、ロシアを出てパリ、米国で活動した人だそうです。このCDのトリオは、…まあ普通。ポップな感じのラフマニノフに比べて古風。
(1.15)
投稿者 b-men : 16:11 | コメント (0) | トラックバック
まる3年
さっきまで忘れてたけど、命日。おせんこあげました。外は早春のように暖かくて晴れてます。
3年前の今日、郷里ではボタン雪がこんこんと降っていて、朝のうちに病室にいた自分が「すごい雪!」と言葉をかけると、言葉はなかったけれど窓のほうに目をやって「まあ」みたいに口をあけて反応してみせたのがほとんど最後のコミュニケーション。
この時間(午後3時半まえ)には呼吸と脈が止まって、代わって病室にいた父親から「俺だ」とだけ聞き取れる電話がスーパーで夕飯の買い物していた自分のもとにかかってきたんだった。自分の生から全ての意味が脱落した日だったなあ。
あの世だとか霊魂だとかは、証拠や体験がないので信じていませんが、反証する材料もないので否定もしてません。一言でいうと「よくわからん」あるいは「それほど興味ない」というレベル。
万一あった場合に備えて線香をあげてみるとか、部屋でオナニーするときは写真立てを後ろ向きにしてみるとか、そういうわけのわかんない対策はとってますが(笑)
投稿者 b-men : 15:09 | コメント (2) | トラックバック
2006年01月14日
『「責任」ってなに?』
■大庭健『「責任」ってなに?』講談社現代新書、2005年。
「あのときには、ああしかできなかった」と弁明することで責任を回避しようとすることができるのかを、倫理学(と、分析哲学)の手法で検討した本。そういう問いを押し出した時点で責任の回避は「できない」って答えなのがバレバレですが。
ミソの部分は「『役割を果たしているだけの自分』と『そんな状況に追い込まれなければひどいことなんかしなかったはずの、ほんとうの自分』を切り離すことはできないの、周りに流されてやっちゃったアンタもやっぱり他でもないアンタその人です」ということ。(自分なら「もし『役割を果たしているだけの自分』ってのが本当の自分と違うなら、わかりました、本当の自分とやらは免責しましょう、ただし『役割を果たしているだけの自分』さんにはきっちり責任とってもらいますからどうぞ分離して突き出して下さいな」と言うかな)
組織の歯車として粛々とユダヤ人の虐殺を遂行したというアイヒマンの責任をどう考えるかというのは、普遍につながる問題として個人的に抱えていました。ひとつの見方を教えてもらった気がします。
ついでに紹介すると、本ではこのミソの部分に至るまでに、けっこういろんな興味深いトピックを扱っています。
・そもそも「責任(をとる)」って何を意味してるのか(一人の自律した人間として他者とのコミュニケーションを行うこと?)
・自分の意志でやったんだから責任とりなさいよと言われても、「意志」なんてものは環境に対する脳の生体反応なんだから虚構なんです、よって責任なんか取れません、というへそ曲がりにどう応答するか
・ひとつの結果がいろいろな原因から成り立っているけど、それでも、責任は発生するのか
などなど。
最後に戦争責任とか、現代日本の企業社会や学校(いじめ)などを論じていますが、これはまあ余技レベル。基礎倫理に軸足を置きながら応用倫理・事例分析もやってみる、という基本姿勢(?)には共感できます。逆をやったほかの本は「わがまま社会分析」に終わっちゃったのが多い気がするので…
投稿者 b-men : 19:40 | コメント (0) | トラックバック
2006年01月11日
今週のNAXOS
■Piano Transcriptions for Four Hands (Anadis 7152)
4手のためのピアノ編曲集、といいつつシューベルトの幻想曲D.940なんて原曲じゃんw
■Ives: Three Quarter-Tone Pieces / Five Take-Offs / Hallowe'en / Sunrise (8.559194)
アイヴズの歌曲、室内楽、ピアノデュオ。
子供のいたずらのように聞こえつつ実はちゃんと計算された音の配列だけどそれが特に心地よいわけでもないという…
(1.11)
投稿者 b-men : 21:04 | コメント (0) | トラックバック
『国家の自縛』
■佐藤優『国家の自縛』産経新聞出版、2005年。
[読み手に不親切な感想]
1990年代までに、ポストモダンが「おまえ自身はどうなんじゃい」という問いかけをとうとう自分自身にまで向けて焼け野原になっちゃった後、残ったのは「情報→分析→対処」がいかにうまく遂行できるか、という「戦略」「ゲーム」だったのかしらん、と素人はぼんやり思った。
[んで、この本について]
産経の元モスクワ特派員による、ムネヲ事件で逮捕されたロシア屋の外交官さんへのインタビュー。
話題は専門のロシア外交からネオコン、北朝鮮、中韓など周辺にも広がっていきますが、単なる外交の裏舞台の暴露本ではないし、時事放談でもない。(1)個別の事実、(2)それを可能にした歴史・地理的条件、(3)それを抽象化した思想文化、の3層を高速で行き来しながら組み立てる外交論(それと表裏一体の国家論)。
当たり前のことかもしれませんが、こういう3層構造は外交の構造でもあり、外交に携わってきた佐藤氏のアタマの構造でもあるんでしょうね(余談だけど、本を出すなどの言論活動をすることそのものにもまたインテリジェンスとしての"語られない目的"があるんじゃないかな)。ここにはウエットな感情論や紋切り型は入り込む余地がない。特に産経側インタビュアーの「靖国」「歴史教科書」「反日」に関する質問への回答にそれが現れているように見えました。
個別の議論が妥当かどうかはよくわからないので「へぇ」と言いつつ読むのみですが、3層それぞれの勉強って大事やね、ということくらいは分かった、つもり。
投稿者 b-men : 11:30 | コメント (0) | トラックバック
2006年01月04日
読むのは、これから。
自分へのお年玉として本をむやみに購入。
■大澤真幸『美はなぜ乱調にあるのか―社会学的考察』青土社、2005年。
■長尾龍一『リヴァイアサン―近代国家の思想と歴史』講談社学術文庫、2004年。
■東浩紀『波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由』青土社、2005年。
■フレデリック・ドラヴィエ『目でみる筋力トレーニングの解剖学』大修館書店、2002年。
■大庭健『「責任」ってなに?』講談社現代新書、2005年。
ラインナップ見るとうすっぺら人間っぷりがばれますか。
あ、言うまでもないですか。
読むのは、これから。面白いといいなあ。
投稿者 b-men : 23:57 | コメント (0) | トラックバック
2006年01月03日
『匂いのエロティシズム』
■鈴木隆『匂いのエロティシズム』集英社新書、2002年。
イマイチ。
オリジナリティがあるのは「匂い」について本格的な研究がないという問題提起くらいかしら。進化論とか持ち出して匂いとエロスの関係の始源を辿ろうとしつつ、「ではないだろうか」「否定はできないだろう」みたいな"非科学的言辞"を溢れさせるのはどうよ。
あとラバーとかのフェティシズムへの共感がないのにこういうものについて語ろうとするのにも無理があると思う。
タイトルにエロがつく本は読む前の期待が高まっちゃって余計落胆が大きいですな。教訓としましょう(笑
投稿者 b-men : 00:16 | コメント (0) | トラックバック
2006年01月02日
今週のNAXOS
■Rachmaninov: Symphony No.1 / Caprice Bohemien (8.50806)
ほかにブラームスの交響曲も聴いたけど、はあ、ふーんというくらい。
(1.6)
■Lenni-Kalle Taipale Trio: Nothing to Hide (86035-2)
ジャズ。フィンランドのバンドだそうです。
■Leclerc: Fratata (AN28830)
女声ヴォーカル。特には…
■Chopin / Schumann: Piano Concertos (Cortot, 1934-1935) (8.110612)
コルトーのピアコン。ミスタッチとか拍子とかあんまり細かいこと気にせずに世界を作っちゃうところが独特。同時代のピアニストを聞き慣れてるとやっぱりちょっと違和感ありますね。
(1.2)
投稿者 b-men : 22:40 | コメント (0) | トラックバック
2006年01月01日
年末年始と霧散
南関東で根のない定住生活が始まって10年目。年に3、4日しか体験しないものだから山間の故郷の冬は年々厳しく感じられます。昼間でも氷点を超えない外に出ると、服の上からでも冷たい空気が浸潤してくる。
圧雪が敷いた急な上り坂に注意深くクルマを走らせながら父の実家をまわると、80過ぎても農業をやっている祖父母が居間で正月の餅の準備をしてました。離れて住む伯父が「年寄りはテレビの字幕が見づらいら」と送ってきた巨大な液晶テレビが、古民家の居間に鎮座している、そのギャップがおかしい。外では刺すように冷たい空気の中に輪切りの大根が干してあります。
つきたての餅と、自家製の干し柿を持たせてもらって辞しました。「嫁は来んのか」と祖父。ひ孫の顔、見たいよねえ。”適齢期”まっただ中だし。
母方の実家=うちの本家(父親が養子なので)では85歳の祖母がひとりで暮らしていて、ときどき伯母が付き添っています。昔は12月31日の「お歳取り」には祖父母とうちの一家4人、伯母といとこの8人が集まって賑々しくご飯を食べたものですが、今年は5人。
家族が増えるのを期待してか、「彼女はいないの」と聞かれます。うん、おらんねえ、と返事。父は「そのうちここに帰ってくるんらか」と呟きました。そんな気がするねえ、と答えました。うん、本当にそんな気がした。
***
年末年始は暖かい部屋の中で、久しぶりの親戚ととりとめもない話をするだけの平和な何日間を過ごしました。
そんななかのある瞬間に、ひゅっと「今、ここ」の視点から退いて来し方行く末の長い時間のなかに着地すると、これから新しいメンバーは増えず、既存のメンバーが老いていく一方のこの家族親戚の未来が見通せてしまってなんともいえない気分になります。
年末の日記に書いたのは、「今、ここ」が辛いときにその視点から退いて長い時間のなかに自分を置いてしまうと悲しい思いが霧散するということでしたが、今度は逆に「今、ここ」が平和でもふとその視点から退いて長い時間のなかに自分を置いてしまうとcozyな楽しい思いが霧散するという…
さて、もう何年したらこの家に戻ってくるんでしょう。そろそろそんな計画をアタマの片隅に置いておく時期なのかな。いやまだか。