一時期、弊管理人のタイムラインでやたら推されていたこの本。
こんなのが手に入るなんていい時代だねえ。
■佐藤岳志『メタ倫理学入門』勁草書房、2017年。
倫理学の分類
規範倫理学:どうすべきか。功利主義、義務論、徳倫理学……
応用倫理学:具体的な場面でどうすべきか。情報倫理、生命倫理……
メタ倫理学:規範倫理学の前提を考える
メタ倫理学で問われること
・真理をめぐる問題
(1)倫理の問題に答えはあるか
(2)倫理的な事柄は普遍的か
・倫理、判断、行為をめぐる問題
(3)倫理的な判断とは何をすることか
(4)倫理的な判断は拘束力を持つか
・倫理に登場する概念をめぐる問題
(5)善、正しい、価値、理由……とは何か(メタメタ倫理)
【2】メタ倫理学の立場
・客観主義
―正しさは客体(私たちが見る相手側)にある。倫理は「発見」される
※ムーア『倫理学原理』:「善いもの」と「善さ」の区別 cf.赤いトマトとその赤さ
→その上で「善さ」について考える(メタ倫理学の創始)
→善は定義不能。そして客観的に存在する
○見る人によらない、普遍的な善を考えられる
○善の概念が安定する
○善に関する議論で「正解」「不正解」が言える。「可謬性」が導入できる
×一体誰が客観的善を把握できるのか?独断に陥らないか?(エイヤー)
・主観主義
―「善さ」は客観的性質ではない。見ている人の側が、倫理を「創出」する
―倫理的な真理は存在しない、絶対正しい答えはないと考える傾向がある
○現に人や文化によって倫理判断が異なることが説明しやすい
○「なぜ自分の判断が正しいと分かるか」に答えやすい(「私がそう思ったから」)
○倫理の源泉を神など「私たち」とかけ離れたものに求めなくてよい
×男尊女卑や奴隷制などを外部から批判できない
×犯罪者の独善を批難できない
×「私たち」を超えた倫理がないと、結局は力のある者の倫理がまかり通る
・いいとこ取り
―例えばヘアの「指令主義」……ただし「どっちつかず」の批判
・道徳的相対主義
―各々の社会が正しさを決めるルールを持ち、どれが優れているとはいえない
(1)事実レベルの相対主義
―現実問題として、社会ごとに道徳やそれに基づく行為は違っている
×表面的な違いの根源を探っていくと共通の規範が発見できる
(2)規範レベルの相対主義
―それぞれ違っている道徳をどれも尊重しなければならない
×事実として違っていることと、それを全部尊重すべきことは別問題
×実際に残酷な慣習を目にして「ひどい」と思っても耐えなきゃいけないのか?
×相対主義は絶対的に正しいか?というパラドックスに陥る
(3)メタレベルの相対主義
―相対主義も相対的である
×「相対主義も相対的」は絶対的か?
―相対主義は2階の主張として絶対的に主張してよい
×恣意的な区別ではないか?
―すべてではないが、いくつかの道徳的主張が相対的なのである
×相対的なものとそうでないものは説得的に分離できるか?
【3】倫理における真理をめぐる存在論・その1:非実在論
―道徳的事実や性質(道徳的真理)は存在しない(主観主義と相性が良い)
―例)人を殺すという行為の中に「悪さ」は存在しない
―認識論における非認知主義と親和的
(道徳判断は道徳的真理の認知に必ずしも基づかない)
・錯誤理論(マッキー)
―「道徳的性質や事実」は存在せず、その虚偽に基づいて行う判断はすべて誤り
※つまりマッキーは認知主義かつ非実在論
背理法(1)道徳が実在するなら誰にも同じように存在するはず、だが文化は多様
×人々の道徳は大枠では共通。無差別殺人の不許容など
背理法(2)他のものと全く違った有り様や、それを感受する特殊能力を要求するのが変
私たちを動機付けるのは外界の何かではなく、心の中の欲求や感情だけ(ヒューム主義)
×別に変じゃない。色や面白さなども外界に存在する(これは再反論も可)
×今は変に見えてるだけ(エーテルを想起)
・錯誤理論が正しいとすれば、どうする?
(1)道徳を全廃:魔女狩りなど、錯誤と独断に基づく悲劇を生まないよう
×でも全廃論者も「魔女狩りはよくない」という道徳判断使ってない?
×道徳ってあったほうが社会が安定しない?
(2)有用だから使う(道徳的虚構主義)―「サンタはいい子のところにしか来ない」など
(2-1)解釈的虚構主義:みんなウソだと知っているが利用している
×不正義に心から怒っているとき、本当に道徳はフィクションと思っているか?
(2-2)改革的虚構主義:みんなウソだと気付いてないので、気付いて利用すべき
×ウソだと分かったことに、そんなにコミットできるか?
(3)別に今うまくいってるのでこのまま行きましょう(保存主義)
×それってプロパガンダでは?みんなに隠し通せますかね?
×道徳ってそんなに軽くていいのか?
【4】倫理における真理をめぐる存在論・その2-1:実在論(自然主義)
―道徳的な性質や事実は心のありようから独立して実際にある
―道徳の問いに答えはある
(―が、「あるけど分からない」という不可知論は採りうる)
―道徳は全く奇妙でない形で存在する(自然主義)/奇妙だけど実在する(非自然主義)
・自然主義
―神、魂、オカルト的な超自然的なものに訴える必要がないという立場
―自然科学などで倫理は十分に説明できる。経験的に知りうる範囲に収まる
・素朴な自然主義(意味論的自然主義)
―善、悪、正義などは、実験や観察で知りうる何かの言い換えである
(例えば善=快、悪=苦痛、とする功利主義など)
○分かりやすい。身近なものの言い換えなので確認しやすい、人に伝えやすい
×自然主義的誤謬を犯している(ムーアの「開かれた問い」論法)
人は常に「快が増える」=「善」とは考えない(覚醒剤など)→開かれた問いである
※ムーアは善は定義不能だが、端的に存在すると考える(実在論)
・ムーアへの修正応答:還元主義的な自然主義
―ゾンビ。「ゾンビはAウイルスに感染した人である」的な説明
(1)本当は閉じた問いだが、私たちがまだ気付いていない(分析的還元主義)
―「善」の用例を集めて/機能を明らかにし/同じ機能の別の概念に置換する
―善の辞書的な説明を作ると、別の言葉xに置換可能になる
―つまり、「善」の中に最初から置換可能な概念が入っていると考える
×善と別の言葉xが置換可能になる理由が分からない(特に理由はない?)
×どれくらい用例を集めたらいいか分からない(成熟した使用者に聞けばよい?)
(2)特殊な仕方で閉じている(総合的還元主義)
―道徳的/自然的性質は、同一物の違う内容を指す(明けの明星/宵の明星)
―経験的な探究(科学)などを通じて、どんどん閉じさせていくことができる
×結びつく理由がわからない(「たまたま」で納得は得られるか?)
○ただし、探究→定義の提案→修正、という方法としての魅力がある
・非還元主義的な自然主義
―道徳的性質は、特定の自然的性質を意味しない。そこに還元されない
(1)エルフ。人間とは違う種族が共存している
(2)悪霊。人間に取り憑くことで実態を得ている
―コーネルリアリズム:仮説→対抗仮説の棄却→検証
素粒子のように見えないものでも、あると仮定すると物事がうまく説明できるとする
○開かれた問い論法に対しても、経験的探究で問いを閉じることが可能と反論可能
×本当にそうなのかは怪しい。いつまでも問いは閉じないかもしれない
×自然的でないものが実在するというのは中途半端。悪霊がいるというようなもの
×道徳の眼鏡で見ているから見えるのでは?(でも、科学も理論を背景にしている)
・自然主義全体への批判
×誰にも共通の実在を示そうとしていながら、相対主義に陥ってしまう
(道徳的な実在と自然的な実在の結びつきの理由、必然性がどうにも示せない)
×自然的な事実は私たちを直接動機付けられない
・それらの折衷
【5】倫理における真理をめぐる存在論・その2-2:実在論(非自然主義)
―道徳は独特な形ではあるが、個々人の心から離れて実在する(パーフィットら)
・神命説:神がそれを命じたから正しい(信じるか信じないかに関係なく実在する)
○道徳の権威性、規範性、行為指導性を与えられる
×エウテュプロン問題
神が命じたから正しい→人間の道徳観に反した命令(皆殺しなど)を処理できない
正しいから神が命じた→神の他に正しさの根拠があることになってしまう
×神の意志が人に分かるのか?(検証不能性)
・直観主義:善は善としか言いようがない(ムーア、プリチャード、ロス)
→その後継としての強固な実在論:誰の意志からも独立な規範的真理がある
(真理は構築されるのではなく、発見される)
○日常的な道徳観に合う。道徳は好みの問題ではない
・理由の実在論:実在するのは「善」ではなく「理由」である
→規範性は権威ではなく「あることをする理由がある」ということ(行為のガイド)である
○私自身の信念を離れた理由が実在すると道徳が安定する←奇妙でない
×道徳の特別さを損なう
×「価値はないが理由はある」(脅された時など)場合、価値を理由に置き換えられない
【6】第3の立場
・準実在論(ブラックバーン):道徳的事実や性質は実在する「とみなされている」
投影説:<ヒューム。価値観を投影してものを見ている。宝石に見いだす価値など
○高階の道徳(≒その文化での相場観)を投影するので安定が得られる
×道徳のリアルさが損なわれないか?
×人助けは善い→誰かを助けると判断する、であって、その逆ではないのでは?
×価値の細やかさを態度(肯定的/否定的)で説明し尽くせるか?
・感受性理論(マクダウェル、ウィギンズら)
波長×色覚=色、のように、状況×受け手の道徳感覚(徳)=道徳、と考える
×事実と価値の区別をどうする
×適切な道徳感覚って何だと考えると説明が循環してしまう(それでいいとの応答も)
×これってただの非実在論では
・手続き的実在論(コースガードら)
道徳は(法のように)適切な成立手続きを経て存在し始める。構成主義
カント以来の伝統的倫理学を継承
×手続き的に正しくても実質的な内容がおかしい道徳はどうする?
×エウテュプロン問題→理性に期待するのみ
×適正な手続きは誰がどうやって決めるのか?→反省的均衡で
・静寂主義:そもそも実在とか問題じゃない。そういう議論はいらない
実際に下される道徳判断はどういうもので、それがどう問題を解決するのかが大切
≒プラグマティズム
×実在と動機付け、道徳的態度はつながっているのでは?
×といいつつ、強固な実在論を誤りとする存在論にコミットしてない?
【7】道徳的な問いに答えるとはどういうことか(1)非認知主義・表出主義
自分の感情を表し、相手の態度や行動を変える
→道徳的事実の認知を必要としない
道徳は自分たちの中から生み出され、自分たち自身を導く
道徳判断が持つ独特な感情的色合いを説明できる
行動のため背中を押す機能を説明できる
・表現型情緒主義:エイヤー。道徳判断は分析、総合どちらでもない
「!」などと同じ。真偽が問えない
○記述主義が「これが真理」と押しつけてくる嘘くささを回避できる
×道徳判断をめぐる対話が成立しない。意見の不一致を説明できない
×道徳に安定性がない
×フレーゲ=ギーチ問題(pp.219-221)
→20世紀前半のもの。現在ではあまり擁護されない
・説得型情緒主義:スティーブンソン。道徳判断は相手を説得するため
ある程度合理的な理由を必要とする
ある程度(説得の目的を持つことが前提だが)記述的な面をもつ
いずれにしても普遍的なことを言っているのではない
×でも結局「Aはこう考える」「Bはそう考えない」が並立するだけでは?
×使う理由は恣意的、場当たり的なもので安定性はないのでは?
×フレーゲ=ギーチ問題
・指令主義:ヘア。勧めであり指令である
勧め+道徳判断に関する記述(共同体に共有された道徳原理)=「Xはよい」
道徳判断は普遍化可能であるべきである
→ぎりぎりまで客観性を高めようとした立場
×安定性は?
×現実的に道徳判断は指令として使われていない?(無視しうる)
×言葉の使われ方より道徳そのものに注目すべきでは?
・規範表出主義:ギバード。私たちが受け入れている規範を表出している
ある感情+その感情を肯定できるという規範に照らした判断=道徳判断
規範:広い視野から見た得失、ゆるい直観主義、一貫性
○安定性が高まる。道徳的態度の多様性が説明しやすい。客観的
×フレーゲ=ギーチ問題
×融合問題:「道徳的にはまずいが面白い本」は「面白い」の修正を迫るか?
【8】道徳的な問いに答えるとはどういうことか(2)認知主義・記述主義
道徳に関わる事実や真理を認知し、それを記述する
道徳は世界に実在し、それが見えれば私たちは自らそれを目指す
認知→信念形成→判断。事実判断「Xは甘い」も道徳判断「Xはよい」も変わらない
×では、事実判断から動機付けはどうやって形成されるのか?
動機付けの内在主義:道徳判断は動機付けの力をもつ
動機付けの外在主義:道徳判断は動機付けの力をもたない
「よいと分かっていても実行しない」場合があることを重視する
一方、「われわれは道徳的によいことをしたい欲求を持っている」とは考える
→外在主義が正しいといえば、動機付けをどうやってもつか説明する必要はない
・ヒューム主義
道徳判断そのものが動機づけないとしても、信念形成の時に動機づけは可能
、に対して、「欲求が動機付けを行う」とする。信念と欲求の分離
【9】道徳的な問いはなぜ必要なのか、なぜ道徳的でなければならないのか
・道徳的とはどういうことか
狭い道徳:他人にかかわる。ウソをつかない、優しくするなど
広い道徳:自分の生き方(本書はこちらをとる)
道徳的によく振る舞う必要などない、という立場
・ニヒリズム
強者を搾取するために弱者が作り上げたのが道徳で、破壊されるべき(ニーチェ)
×といいつつ、自分は新しい道徳を提案してないか?
・非実在論
そもそも道徳は実在していない
×利用価値はあるとみる虚構主義も、全廃主義も、自分の説が「よい」と言ってない?
・科学主義
道徳は生存戦略として身につけてきた反応に過ぎない(暴露論証、debunking theory)
×howの話であって、「今この私が道徳に従う必要があるか」とは違う話では……
×決定論をとると、責任や非難、賞賛などが意味を失うのではないか
道徳的によく振る舞う理由はある、という立場
・道具的価値に基づくから(それをすると何かの価値を達成できるから)
協力により困難な課題が解決できる、ウソをつくと信頼を失う、など
×道徳はそれ自体で価値がないことになってしまう(得だから道徳的なのか?)
×最終的価値に価値を見いださない人は道徳的に振る舞う理由がなくなってしまう
・最終的価値に基づくから(それをすることが最終目標だから)
カント主義的理性主義
尊厳をもった存在であり続けるために自らに義務を課す
人はどうしても自分を反省し、何がよいかを考えてしまう(コースガード)
個々の人間を道具として使ってはならないとの道徳に制約される(ノージック)
新アリストテレス主義的理性主義
理性と道徳は切り離せず、理性的存在である以上、善を捨てられない(フット)
×善のハードル高すぎない?(赤信号無視など)
×理性で説明しすぎてない?(溺れる人を助ける判断時に理性を参照しているか)
×私たちの理性は道徳的に振る舞うものだ、というと悪との間で善の重みを問う
深刻さを無視することになってしまうのでは?
×説明が循環してないか?(道徳的に振る舞うのはそれが道徳的だからだ)
直観主義:そもそも理由などいらない(プリチャード)
まっとうな人はその時々、考えなくてもやるし、それでいい
×直観任せになると、判断が違う2者が議論にならない
×といって何かの基準を入れると、それが直観できる力=「理性」主義と同じ穴に
見方の倫理:従来の倫理学は行為や選択を重視しすぎ。「どう生きるか」を見ては?
道徳判断に迫られる場面に「至るまでの日々」を見るべし(マードック)
→私たちは選択の瞬間だけを生きているわけではない
道徳的善を追求することは、世界を正しく捉えることになる
と同時に、真なる善は私たちを引きつける cf.プラトン
×目下の問題に解決を与えられないのでは?
×相対主義に陥るのでは?