超予測力
■フィリップ・テトロック, ダン・ガードナー(土方奈美訳)『超予測力―不確実な時代の先を読む10カ条』早川書房, 2018年.
ハウツー本ぽいタイトルでちょっと嫌だったのですけど、以前から社会現象の予測は可能か(ちょっと違うけど、社会科学に予測はなじまないのか)ということに興味があったので手に入れてみました。
上記の問題には一応、「社会は複雑だから予測は無理」ということで納得はしているものの、でもなんかそんな割り切っちゃっていいのかなあという思いがありました。
この本の著者らは、「セルビアは2011年中にEU加盟候補国になるか」「東シナ海で船舶同士の武力衝突によって死者が出るか」といった国際情勢に関するたくさんの予測を幅広いバックグラウンドを持ったボランティアにやってもらう研究プロジェクトを通じて、次のような発見をしたといいます。
・一般人どころか、機密文書を読むことができる「専門家」に比べてもさまざまな問題の行く末をよく予測できる非専門家(=超予測者)は存在する(ちなみに「集合知」は優秀だが、集団の中である時期に高い予測力を発揮した人が次の時期にもそうであるわけではない。超予測者は逆に、コンスタントに高い予測力を発揮する。これは運<能力である証しである)
・超予測者はものすごくIQが高いわけでも、高度な数学を駆使して予測しているわけでもない
・考える「流儀」や「性格」が予測の正確さを保証している
それの「流儀」や「性格」は次のようなものでした。
・問題がざっくりしていたら、検証可能な(=当たったか外れたかが明確になるように定義された)小問題群に分解して、データを利用できるものはし、なければ推測してパーセンテージを出す(フェルミ推定)
(・12年後のアメリカ大統領選など、先のことすぎる問題はどう頑張っても当てずっぽう以上の成績は出せないので、そういうものには注力しない。筆者らの研究では、予測の正確さは5年後を境に低下する)
・論理と心理、自分の立場と相手の立場など、異なる複数の視点からものを考える。順番としては、まず「外側の視点」つまり一般的にはどうか、という調査から始め、「内側の視点」つまりことこの問題についてはどうか、という調査に進む。人は内側の視点に引っ張られがちな(アンカリングが起こりやすい)ため。ガーナの大統領選に関する問題が出されると、それを「ガーナについて知る良い機会」ととらえるなど、知的好奇心が旺盛であることも有利に働く
・調査で情報が集まったら、仮説を支持する意見(たとえば「南アフリカはダライ・ラマにビザを交付する」)だけでなく、それが間違っている(「交付しない」)可能性を検討する
・「ある/ない/どちらともいえない」という石器時代の確率論はもちろん、「60%対40%」といった10%単位の予測でさえない、「57%か58%か」という細かな検討をする。実際そのほうが予測精度も上がる
・運命論を採用しない。すべてのことは確率的に起こる(他でもありえた)と考える
・いったん立てた予測を小まめに修正する。ただし重要な情報の過小評価、些細な情報の過大評価を避ける。ある情報が事態をどの程度揺るがすかを考えて予測の修正幅を決める(ベイジアン)
・「自分の見方」はたたき台に過ぎないと考え、固執しない
・粘り強い
・チームワークは、グループシンク(安易な全員一致)にもいがみ合いにもならず、不快にならないように反対意見を戦わせ、反論をあえて募りもする。このとき、チームは多様なほうがいい。クローンばかりだと意見が間違ったときにも極端化する
直感や分かりやすい説明に飛びつく思考(システム1)は非常事態の中で行う即断や経験に裏打ちされた言語化しにくい判断が必要な時に使えますが、予測に使うべきなのは熟考あるいは科学的慎重さ(システム2)のほうです。
医療や政策、安全保障の世界では、システム2に基づいて検証可能な予測をし、結果が良くても悪くても検証し、修正するというサイクルが欠かせない。20世紀になってようやくシステム2に基づく評価をルーティン化した医療に比べて、政治評論はまだまだじゃないですかね、という厳しい指摘がされています。
まあ「原理的に無理」とかいって捨てちゃわないで、いろんな人がいろんな機会にやってみたらいいんじゃないですかね、社会に関する予測。研ぎ澄まされていれば結構当たるらしいし。と、そんなことを思いました。
あと、どうでもいいですが、
訳者が「病理学者」と訳しているのはたぶんpathologistで、これはがんの確定診断をする人という文脈なので「病理医」が適当じゃないでしょうか。「マサチューセッツ州総合病院」も、そのあとにハーバード大学の話が出てくるのでMassachusetts General Hospitalのことでしょう。ハーバード大医学部の関連病院のMGHは「マサチューセッツ総合病院」という定訳があるからそっちを使ったほうがいいと思った。全体的には読みやすい日本語だし致命的ではないとしても、ちょっと粗っぽいかな。