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2016年03月26日

ニコマコス倫理学(下)

■アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』(渡辺邦夫, 立花幸司訳)光文社,2016年.

浮き世にあって、いつか朽ちる肉体を持った人間が、善とか幸福とかを達成することはできるのか。できるのだ、とアリストテレスは考えたらしい。友達について、愛について、そして快楽について――永遠で普遍的な知識ではない、「だいたいそうなる」という程度の頼りない(?)法則性に満ちた世界の中で考えていく。ところが最後にさらっと「でも観想的生活が最高なんよ」と宣告される、そのショック!

は、おいといて。

下巻でもやっぱり思いましたが、この本はインスピレーションの宝庫です。よくある「これだけ昔によく考えたよね」というだけの感想にはとどまらないものがあります。
例えば「中間性」が徳だという考え方は、遺伝子が必ずブレーキとアクセルの組み合わせで働きながら生体をちょうどいい塩梅に保っていることを思い起こさせますし、さまざまな技能を持った人たちの間で「交換」が実現するためのメディアとして貨幣の存在理由を説明する様子は、『時間の比較社会学』でさまざまな暦を持つ共同体の交流を可能にする共通の時間のものさしを導入した、と考えたネタ元では?と思ったりもします。「公正な分け方」には「応分」と「等分」があらあな、という提案はセンが知らなかったはずはないよね、とも。近年の脳研究の進展で、その存在がどんどんやせ細っている「自由意思」の最後の砦は「欲求に背けること」だと言われるけれども、それがまさに「人柄の徳」の一つである「抑制」ですよね。そしてなにより、19世紀を待つまでもなく、極めてプラグマティックだと思う。

快苦って、友達って、そして国ってなんなんだ、と身の回りのものを切り刻み、分類し、そして別のものとつなげたくなる著者の傾向は、不遜ながら弊管理人も分け持っている気がします。多分そのために最後まで楽しく読んでいけたのだと思う。

以下、自分メモ。

【第6巻】
・超過でも不足でもない「中間性」をもたらす、正しい分別(ロゴス)とは何か。それを検討する
・徳(アレテー)には「人柄の徳」と「知的な徳」があった。人柄は前に述べたので、今回は知的な徳を検討

・その前に、魂について
・魂には、「分別を持つ部分」と、「分別を持たない部分」がある
・分別を持つ部分は、さらに「ほかのあり方を許容しない部分=学問的に知る部分」と「ほかのあり方を許容する部分=信念的な部分、推理して知る部分」がある。それぞれについて最善の性向が何かを把握する必要がある
・選択があって行為が起きる
・選択の始まりには、欲求と、それを実現しようとする分別の働きがある

・魂が真理を把握するのに使う性向には「技術」「学問的知識」「思慮深さ」「知恵」「知性」がある
・「学問的知識(エピステーメー)」は、ほかのあり方を許容しない。必然で永遠。演繹。教え、学ぶことができる
・「知性(ヌース)」は、ほかのあり方を許容する。学問的知識の出発点となる原理にかかわる
・「知恵(ソフィア)」は、「原理」と「原理から導かれた事柄」をどちらも知っていること。完全な学問的知識
・「技術(テクネー)」は、ほかのあり方を許容する物事=「制作」と「行為」のうち、制作にかかわる性向
・「思慮深さ(フロネーシス)」は、善く生きるための、「行為」を目的とする性向。それ自体が一つの徳でもある
・思慮深さは、人間的な事柄にかかわる。普遍だけでなく個別性も認識する

・思慮深さについて
・国(ポリス)にかかわる思慮深さのうち、統括的なもの=立法術、個別的なもの=政治学
・個人あるいは自分にかかわる思慮深さというのもある
・思慮深さと知性は対照的なものである。思慮深さは最終的なもの、知性は原理にかかわる。若者は数学者=知恵のある人にはなれるが、思慮深い人にはなれない。個別的なものは経験から知られるから

・「考え深さ」(思案の力が優れていること)について
・学問的知識ではない。学問的知識は思案を要求しないから
・勘の良さでもない。勘は推論を伴わないから
・判断でもない。判断は現実との対応関係で真偽が確定するが、思案は推理に基づく発見だから
・そこで、考え深さとは、「思考過程の正しさ」「優れた仕方で思案すること」のことではないか?
・思考過程=到達すべきもの、到達すべき仕方、思考にかける時間が適切であること
・考え深さは、思慮深さが設定した目的に到達するために有益な、思案のスタイルのことだと思われる

・「物わかりのよさ」について
・思慮深さに似ているが、違うものである
・思慮深さは「指令的」なもの=何をなすべきかにかかわる。物わかりのよさは単に「判別的」なもの

・「察しのよさ」(グノーメー。洞察、相手の心がわかる力)について
・「物わかりのよさ」とともに自然に身に付くもの。年齢を重ねるにつれてつくもの
・思慮深い人は、察しのよさや物わかりのよさも備えている

・思慮深さと知恵をめぐる、いくつかの難問
・知恵は何が幸せかを教えてくれないのではないか?(知恵の無関係性の難問)
・思慮深さは何で必要なのなのか?(思慮深さの無用性の難問)←すでに善い人には必要ないが、善い人に「なる」ために必要である。でも、健康のためには医者に従えばいいように、自分で習得する必要はないのでは?
・思慮深さは知恵に劣るのに、なぜ思慮深さが知恵を支配するのか?(逆転の難問)

・回答
・「頭のよさ」について
・設定された目標を達成する能力。ただし目標が悪ければ「ずる賢さ」になる
・つまり、頭のよさは、思慮深さの必要条件ではあるが、思慮深さそのものではない
・善い目的は、善い人でなければ見えない。従って、善い人でなければ思慮深い人にはなれない
※ソフィスト批判
・生まれ持った自然の性向に任せず、知性が身に付けば、行為に違いが出てくる
・徳(アレテー)とは、「正しい分別(ロゴス)=思慮深さを伴う性向」といえる
・思慮深さは知恵を支配しない。知恵「のために」指令する(?)

【第7巻】欲望の問題
・忌避すべき人柄として「悪徳」「抑制のなさ」「獣性」がある
・「悪徳」の反対は「徳」、「抑制のなさ」の反対は「抑制」だが、「獣性」の反対は何?
・それは(スパルタ人がよく言うような)「神的な徳」であろう

・「抑制のなさ」について
・「抑制のない人」は、自らの行為が劣悪だと知りながら、感情に引きずられてそれを為す。でも後悔するので、癒やしようはある。「不正」「劣悪」ではあっても、選択に基づいて悪をなす「悪徳」ではない
・「抑制のある人」は、自らの劣悪な欲望を分別(ロゴス)で抑える
※ただし、自らの信念にじっと留まり、説得を受け入れない「頑固者」や、身体的快楽を必要以下にしか感じない人など、一見、抑制のある人に見えてしまう人がいることに注意
・「節制の人」は、過剰な欲望をそもそも抱かない
・「放埒な人」は、目の前の快楽をいつも追究すべきと考えて、選択の上でそうしている。後悔しないので、癒やしがたい。悪徳である
※「快をもたらすものを知っている」と「それを欲望する」と「その通り行動する」ことにギャップがある

・「獣的な性向」について
・獣的な性向は、人肉食、生肉食などのほか、無思慮、臆病、苛立ち…
・病的な性向は、病気、狂気、習慣(幼少期の性的暴行など)から生じるもの。髪を引きちぎる、爪を噛む、男性同性愛、てんかん、分別のない蛮族…
・これらは「抑制」とは関係ない。従って、「悪い」とはいえないが、「恐ろしい」ものではある

・「激情」と「欲望」について
・激情は、分別の声をある程度までは聞くが、聞き間違い。せっかちで最後まで聞かない。猪突猛進
・欲望は、分別に従っていない。不正である
・「企みをする人」はさらに不正である(激情は企んでいない。企む人は獣性より一層悪いことをする)

・快楽主義について
・快楽は悪い/善い快楽と悪い快楽がある/快楽は善いが最高善ではない―という立場がある
・誰しも快楽を追求しているが、みんなが同じ快楽を追求しているわけではない
・子どもや獣の快楽は、欲望と苦痛を伴う身体的な快楽。これが超過すると放埒になる
・思慮深い人は、そういう快楽をめぐる苦痛がないことを追求する
・節制の人は、こういう快楽を避けている(が、節制にふさわしい快楽というのもある)
・逆に、苦痛は限定抜きに避けるべきものである
・高尚な快楽は最高善とみなしうる

【第8巻】愛(フィリア)について
・愛は徳を伴うものである
・友人、親子、動物の中にもある。特に人間という種族の中にある
・愛は国をひとつに結び合わせる。協調も似たもの。立法家はこれを目指し、内乱を避ける
・愛の理由は三つある:(1)善い(2)快い(3)有用である
・友人とは、互いに意識的に好意を持ち、相手の善を願いあう存在
・無生物は愛の対象にならない。愛し返してこないから
・「快い」と「有用」は付帯的な愛である。快さや有用さを提供しなくなれば愛せなくなるから
・完全な愛とは、善い人々の間=徳の点で似ている人々の間に成立する持続的な愛である
・愛は性向に似ている。互いに相手と自分の善を願っている。双務的である。ともに日々を過ごす
・「恋(エロース)」は世話をする人が相手を見る喜びと、世話をされる喜び。双方は似てないし、美がなくなれば消える
・国同士の友好は「有益」だからである
・「優越性に基づく愛」もある。父→息子、年長→年少など。友人のように等分ではなく、比例的な関係
・愛は、愛されることのうちではなく、愛すること=徳のうちにある

・愛は共同性に伴う。ポリスは利益共同体、宗教団体や会食会は快楽の共同体、など
・国家体制/共同性/愛、の類比
(1)王政=最良。これの堕落形態(支配者のための政治)が僭主政/父―息子/優越性に基づく愛
(2)優秀者支配制。これの堕落形態は寡頭制/夫婦関係/徳に基づく愛
(3)財産査定制。これの堕落形態は民主制/兄弟・仲間関係/等しさに基づく愛
・善と快楽に基づく愛は不平を生みにくいが、有用さに基づく愛では生まれる。貪欲さが背景にあるから
・優越性に基づく愛も諍いを招くことがある。財貨や徳を与えられたら名誉をお返しするなどで釣り合わせる必要あり
【第9巻】愛(フィリアについて、続き)
・共同体の愛では、異なった価値の交換のための共通の尺度として「通貨」が使われる
・不平は「これをこれだけ与えた」と「これがこれだけ欲しかった」の齟齬から生じる
・お返しは、できるだけのものでやればよいが、得る側にその査定権があると考えてよかろう

・有用性や快楽に基づいた愛は、有用性や快楽がなくなると消滅する
・善に基づいた愛は、相手が不良になったら即解消とはいかず、善に転じるよう援助すべきである
・それでも救済できない時に、人は離れていく

・「友人関係」は「自分自身への愛(自己愛)」でもある
・友人には、(1)善(2)生存(3)同じ価値観を持つこと(4)苦楽をともにすること、のどれかが望まれる
・高潔な人(=欲望を知性で制御できる人)の場合、これは自分自身に望むことでもある
・逆に、劣悪な人は愛される要素を持っていないので、自分さえ愛することができない
・「好意」は愛そのものではなく、愛より時間的に手前に位置する
・見た目=一目惚れでも好意は抱くが、好意の交換という正義を欠いているから
・「協和」も愛の特徴に見える。共通の善と思われること、方針を選択して事をなすこと(国単位でも)
・高潔な人同士は共通の土台を持ち、協和できる。劣悪な人は自分だけが多く取ろうとしてできない
・愛は自分や相手の存在と、それが行動を通じて生み出したものが対象になる

・では、幸福な人に友人は必要か?
・答:優れた友人が必要。友人は外的な善の中で最大のもので、自分が為す善の受け取り先である
・また、善い人が、その友人である善い人を知覚することは自然本性的に望ましい(し、自分を省みるより、自分の映し鏡としての友人を見るほうがやりやすい)
・ともに生きることで、徳の鍛錬にもなる
・その数は少数でよい。そんなに多くの人と親密になることはできない(「へつらい」に堕する危険)

【第10巻】
・快楽論
・人も動物も快を選択し苦を避けるが、では快楽は善だろうか?―従来説の検討
・快楽は悪である苦痛の反対なので善という考え方がある→快楽「も」悪かもよ?そもそもこれらはセットなのか?
・快楽はそれ以上の理由(~のための快楽)にはならないので善という考え方もある
・快楽は善を増幅させる(善の一種である)という考えもある→快楽は最高善ではない
・→善から不良まで、ソースに応じたいろんな種類の快楽がある

・アリストテレス自身の快楽論
・快楽は運動や生成といった「完成までの過程を持つもの」ではなく、「その瞬間に完成するもの、それ自身が全体であるようなもの」である
・知覚の働きは対象に向かう活動で、最善の対象が完全なものとなる。その時が最も快い
・快楽はこうした活動を「完成させるもの」(活動のしめくくりに感じられる付随物)である

・もろもろの快楽は種類が異なる。知覚の活動も、その原因も多様で、それと結びついているから
・快楽は別の快楽に影響を受けやすい(演劇を見ていても役者が下手だと食うほうに集中してしまう)
・活動に応じて、高潔な快楽と劣悪な快楽がある。人によっても受け取り方が違う
・が、優れた人に快楽と感じられるものは実際に快楽であるといってよい
・つまり、完全で至福な人の活動で生まれるものが、人間の持つべき快楽である
・これで徳、愛、快楽についてはおしまい

・幸福論の概略
・幸福は性向ではない(第1巻5章、8章)
・幸福はそれ自体で自足した(他への踏み台にならないような)活動であり、人生の目的である
・幸福は、徳に基づく行為といえる
・権力者の「遊び」もそういうものに見えるが、権力者をまねする必要はない。要は高潔かどうかだ
・ということで、遊びは幸福でなく、休息に似たものである

・最も善い活動=幸福とは、「観想的な活動」(理論的に考える活動=知恵の徳に基づく活動=哲学)である
善いポイント。
(1)知性はわれわれに内在するもののうち最善のもので、知性が思考の対象にするものは最善の認識対象だから
(2)この活動は最も持続的だから
(3)最も快いから
(4)一人でも資源がなくてもできるから
(5)別の目的に奉仕するものではないという幸福の条件を満たしているから
(6)戦争とか政治とかのための忙しい諸活動で得た「余暇」で行う余裕のある活動だから
・この活動は人間的な懸案を超えた神的な部分を宿しているので、日常生活より優れている

・そのほかの徳に基づく生活は人間的で、二次的なものである
・それは人柄の徳=身体や感情に基づいた徳。一方、知性の徳は身体から切り離される
・完全な幸福=観想的な活動=神的。なぜなら神は行為も制作もせず、観想するものだから
・人は神の似像を宿しうる。ゆえに知恵ある人は、神に最も愛される
・ただ同時に、肉体を持っているので「外的な善」も必要とする

・善き人はどうやってできるか?自然?習慣?教示?
→あらかじめ習慣で素地を作ってある人こそ、教示や言葉(ロゴス)が根付く
→若いうちにそういう素養をつけるには、法による縛りが必要。大人にも実践させる法が必要
・法は(公共的な)ロゴスであるので、強制力を持っている
・公共的な配慮の形成には、普遍的な知識が必要。これがあって初めて個別の問題を解決できる
・善き人を作るには立法の知識が必要。ではどうやったらよい法が作れるのか?
→といって『政治学』に続く……

2016年03月16日

歓迎

京橋にて午後いちの仕事だったので、早番を早めに抜けて「歓迎(ホアンヨン)」でランチしました。
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蒲田に本店がある餃子のお店。皮モチモチ系。ニンニクを使ってないそうです。
使ってあるほうが弊管理人好みですが、それでも結構おいしかったです。
それより、セットになってたそぼろご飯がとても中国っぽくて良い。
(写真はピントがずれていたので割愛)

* * *

長めのスパンでやる仕事もまあぼちぼちやりつつ、誰かがやらねばならない細かい仕事を結構な数こなしてきたと思うのですが、先週末に「細かい仕事はいいから、心に残ることをしなよ」と言われ、俄然やる気がなくなりました。じゃあやりませんよ。でも誰かがやらなならんのと違いますか。

* * *

職場に咳テロリストが増えて、ますます環境が悪いです。

* * *

といった諸々と疲れもあり、今日はうっかり16時に仕事を切り上げて家に帰って寝てしまいました。

2016年03月06日

アトリエコータ

スイーツ男(もはや「男子」という風体ではない)2人で神楽坂の「アトリエコータ」へ。
カウンターに着くと、コータ氏?が目の前でオーダーの品を作ってくれます。
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燃えてまんねん。
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見ての通り、造りは荒々しい。
モンブランとカシスって合うのな、という発見がありました。
1200円。見学代込みということなら腑に落ちる。食べログ3.78が妥当かは知らない。

* * *

先般、去年から残ってた米をやっと消費し終え、この土日は新しく買った米を炊いて食べました。
うめーーーー(泣
お米大好き。お代わりしてしまった。

* * *

とかやりつつ、土日とも働きました。

* * *

なんで今まで自覚がなかったんだろうと思うが、弊管理人は牡蠣と鶏白湯ラーメンが大好きらしいです。

2016年03月04日

名古屋とお弔い

日帰り名古屋出張でお相手をしていただいたのは、弊管理人よりいっこ下の研究者さん。
あちらの専門の話だからなのかもしれないけど、的確にこちらの聞きたいことに答えてくれるなあと感心しながらお話してました。先日の高齢大御所氏はあまり深まらなかったのとはだいぶ違って、短時間だけど来てよかった感のあるお仕事になりました。

で、名古屋駅の「味仙」で台湾ラーメン。
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うまい!
けどかっら!!

* * *

祖父のお弔いに行ってきました。
納棺師に来てもらったらしく、顔はずいぶんきれいにしてありました。
1月に見た姿とも変わっておらず、お疲れ様でしたという感じ。
父は祖父が亡くなる2日前に病院に顔を見に行ったそうですが、普通に会話してたそうです。
去年の5月に入院したのは肺炎だと思っていたら、心臓だったらしい。死因も心不全とのことですが、それは単に心臓が止まったというだけで、要は何かの病気というよりは体力が尽きましたということなのでしょう。
あと、93歳だと思っていたら94歳でした。

軽トラで散々走ったであろう天竜川への道を、黒い車で下っていく。
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焼き場で1時間。ばあちゃんが「こんな粉になっちまった」と呟いたのが辛かった。
ちなみに1981年に曾祖母が亡くなったときは土葬でした。幼稚園を休んで葬式に行った4歳の弊管理人は、大人たちが畑の一角にある墓地まで棺桶を担いでいくのを見たのを覚えています。

祖父は旧陸軍の少年飛行兵だったそうです。
「大酒飲み」「優秀」までは知ってたけど、「ユニーク」という評はお葬式で初めて聞いた。おもろいところは見たことがなかったが、ちょっと独特という意味なのかもしれん。
あと、従軍慰安婦について思うところを書いた文書が残っていると聞かされました。内容は「要は当時は何でもありだった」というようなものらしいのだけど、ばあちゃんが「そんなもん公表するもんじゃねえ」と言って丸めて離れに放り込んであるそうなので、そのうち漁らねばなるまい。何かとものを書く性格は祖父、父、そして弊管理人に伝わっている気がする。

ところで、お葬式で弟さんに初めて会ったけど、こちらは海軍で特攻隊だったんだって。
8月11日に出撃して死ぬ予定だったが、上官の田英夫が「様子がおかしいからちょっと待て」といって止めたまま終戦を迎えて生き残ったとのこと。ある程度のレベルまで終戦が近いことを知ってたんでしょうか。
その他、名前だけは知っている人たちをたくさん見ました。
周囲は高齢者ばかり。弊管理人は最後に「お店をたたむ役」を果たすことになりそうです。
健康に気をつけないと。

2016年03月03日

ニコマコス倫理学(上)

■アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』(渡辺邦夫, 立花幸司訳)光文社,2015年.

光文社古典新訳文庫の『リヴァイアサン』は2014年末に1巻が出てから一向に2巻が出ないので、先に上下巻が刊行されたこちらに手を付けてしまいました。

よい政治の礎となる「よい人」を作るのは若年からの習慣であり、「よい大人」はよいことをなす傾向がある。よい行いも悪い行いも自発的になされ、それが責任を発生させるということ。「よい」とはTPOを踏まえつつ極端に走らず適度であること、みたいなお話。二千何百年前によくこれだけギチギチと考えたねっていう感心とともに楽しく読めるので、上巻だけで500ページと長い本だけどこれはちゃんと通読すべきだと思った。

・「知ってるだけではだめ、やれないとだめ」という徹底した行動志向
・「子ども」をものの数と見てない感じw
・経験と論理と、例示や背理法などさまざまな角度から行う議論
・責任、正義、行為や記述といった西洋哲学のトピックやがぎっしり詰まってる
・過失、計画性なき故意、計画的犯行、みたいな現代使われてる刑罰の区別みたいのがもうある
というあたりが印象的でした。

以下、自分用メモ。下巻はこれから読む。

【第1巻】
・何か他の目的のための手段になるようなものではない、最高の善について考えたい
・で、それは政治学の扱う問題である
・その結論に求められる厳密さは、数学ほどかっちりしたものではなく、「大抵そうなる」くらいのもの

・人間が実現しうる最もよいものは「幸福」だが、その中身が何かは議論のあるところ
・幸福とは快楽のこと?名誉のこと?徳(アレテー)のこと?いずれも違うように思える
・「名誉」は他人に認めてもらう必要があるが、それには徳が必要なので、本質的ではない
・「徳」も完璧ではない。持っていても役立てないこともあるし、不幸が襲うこともある
・「富(カネ)」も、それを使って他の何かを得るためのものなので、最高善ではない

・では、プラトンにならって「善のイデア」が最高、とすべきか?
・でもそれって人間が手に入れられないもので、そういう話をしたいんじゃない
・あくまで「人間がなしうる、獲得しうる善」のことを追究したい

・「善」というのは、行為や選択の「目的」になるようなもの
・人が行うあらゆることの目的になるもの、それを最高善と言っていいと思う
・その最高善とは、「幸福」じゃないだろうか
・その「幸福」は、すべての人間に共通な機能を特定した上で、その開花した形だと考えてみたい
・それは「分別(ロゴス)を持っていること」で、それがちゃんと発揮されている状態である
・つまり幸福とは「徳(アレテー)を伴った魂の活動」だといえる
・ざくっとはそういうこと。詳細は今後、詰めていこう

・ところで、幸福は習得できるものだろうか、運任せなのだろうか
・幸福は「活動」にかかわるものである以上、運任せというのはいかにも違うようだ
・政治学の目的も、いかによい市民をつくるかを考えることにある
・一過性ではなく、持続的に徳に基づいて行動する人の人生は最も安定するはずだ
・そこに不運が訪れることもあるが、それで全体的な幸福が転覆するわけではない

・次に、幸福をもたらす「分別(ロゴス)」は魂のどこで働くのかを考えてみたい
・まず、植物とも共通な「栄養を摂取する(生命活動を維持する)」に関わる部分は除外する
・それ以外の欲求部分で、分別に従えるかどうかが、抑制のある人とない人を分けるようだ
・分別に従えない人でも、分別によって説得できる余地はあることにも注意しておく
・ロゴスといっても、数学者に見られるロゴスと、他人の助言を聞き入れるようなロゴスがある
・これに対応し、徳(アレテー)にも、知恵や思慮などに関する「知的な徳」と温和や節制などに関する「人柄の徳」があるようだ

【第2巻】
・「知的な徳」は教示によって生まれ、伸びていく。「人柄の徳」は習慣によって生まれる
・年少からの習慣によって、正しい行為に快を覚え、正しいことをなす人になる
・まぐれや人から言われてできるのではなく、自分で正しい行為を「正しいから」選び、攪乱要因にも耐えつつ、行えることが条件である
・つまり知っているだけではだめ。行為を伴わないと魂を優れた性向に導けない

・徳は、魂の中に現れる「感情」「能力」「性向」のうちの「性向」であるように思われる
・「感情」は怒り、欲望など。「能力」は感情を持つための身体的能力のこと
・「性向」はもっと長期的な傾向のこと。それを元に個別具体的な選択が行われるようなもの
・また徳(卓越性)とは「中間性」のこと。極端に寄らず、過不足ないこと。そして達成するのは難しい

【第3巻】
・徳がかかわる「行為」の構造について考える
・行為は、「自発的なもの」と「意に反したもの」に分けられる。賞賛/非難されるのは「自発的行為」
・「意に反した行為」は「強制されたもの」、「無知によるもの」に分けられる
・「強制された行為」は「物理的強制(船が風に流されたなど)」と「状況に迫られたもの」に分割可能
・ただし「状況に~(船が嵐に遭って積み荷を捨てるなど)」は自発性もまじっている
・「無知による意に反した行為」(≒うっかり)は、後悔を伴う。後悔しないのは「自発的な人ではない」とする
・というわけで、「自発的な行為」は、事情を理解した上で、その人が起点となって行う行為のこと
・徳も悪徳も自発的なものである
・「自発的な行為」は「ロゴスと思考に基づいた選択」を包含している
・(イコールではない。子どもや動物は自発的だが選択していない)

第3巻第6章以降しばらくは、個別の徳について取り上げる。
・「勇気」は恐れと自信の大きさの中間。美しい死(戦死)を恐れない人
・「勇気ある人」は臆病と向こう見ずの中間。恐ろしいものを適切に恐れる。自殺は逃避だから×
・「節制」は身体の快楽に関わる。食欲と性欲の過剰は「放埒」で、動物と共通
【第4巻】
・「気前よさ」は財貨に関わる。しかるべき相手に財貨を与えること。浪費とさもしさは×
・「物惜しみのなさ」は特に大きなスケールの出費に関わる。美のための出費。物惜しみと俗悪は×
・「志の高さ」は自分の大きさを知っていること。これが最善の人。うわべだけと卑屈は×
・ちなみに、自分の小ささを知っているのは「分をわきまえた節度の人」
・「温和な人」はしかるべき時にだけ怒る人。怒りっぽいのも全く怒らないのも×
・「篤実な人」は社交における中間性。必要な時には友人に意見する。へつらうのも口やかましいのも×
・自分をより大きくも小さくも見せない=「ふり」をしない無名の徳
・「機知に富んだ人」はおしゃべりの中間性。冗談のかけあいができる。低俗も野暮も×

【第5巻】
・正義について
・正義の徳とは、正しいことを望み、為す性向のこと
・正しい人とは、法を守る人、公平な人
・正義の徳は完全な徳。他の徳を包含していて、かつ自分にも他人にも使える
・ただし、同じ「正義」という言葉だが、全てを包含する正義と、包含されている部分的な正義がある(ややこしい)
・部分的な正義(つまり包含されているほうの正義)には「配分的正義」と「矯正的正義」がある
・配分的正義は、等しい者が等しく持ち、等しくない者は等しくなく持つこと。比例関係に従った配分
・矯正的正義は、当事者をそれぞれ等しく扱い、等しく(真ん中で)分けること
・また、これらの正義とまた違ったものとして、応報=交換(的正義)というものが考えられる
・履き物職人がサンダルと、大工が家を作って、それらを交換する場合など、多様な人の「共同」にあたっての均等化の原理
・そこで発明されるのが貨幣。貨幣は異なるプロダクトを通約し、交換可能にする

・ポリスにおける正しさには、取り決めにおける正しさ(法的な正しさ)と、自然本性的な正しさがある
・法的な正しさは共同体によって変わるが、自然本性的な正しさはどこでも同じものである

・不正には3類型がある
(1)無知ゆえの「過失=うっかり」。投げて渡そうとしたらぶつけてしまったような場合
(2)意図的だが計画性がない「不正行為」。かっとして殴るなど
(3)選択の上で行う「不正の悪徳による不正行為」

・「衡平さ」と「正しさ」の関係について
・「正しさ」には法的な正しさと、法で実現しきれない正しさを実現する「衡平」がある
・つまり、法という一般論で救えない個別事例、法の定めが明らかでない事案に対処するのが「衡平」
・高潔な人は、「衡平」にかかわり、実際に為す人のことである

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