存立構造
■真木悠介、大澤真幸『現代社会の存立構造/『現代社会の存立構造』を読む』朝日出版社, 2014年.
弊管理人が生まれた1977年に筑摩書房から出版された真木悠介の『現代社会の存立構造』は、確か10年以上前に古本を入手したきり、手を付けずにいました。
どうしてだったかは覚えていませんが、周囲に「だいたいこんなことが書いてある」と教えてくれる人たちがいたことと、入手した本を開くと結構難しそうだったことが理由だったんじゃないかと思っています。
お弟子さんの大澤が今般、200ページの『存立構造』に150ページの解説をつけ、復刊に至りました。
この本でやっていることは『資本論』の読解なので、それを読むには予めマルクスにある程度親しんでいないといけない。しかし今は大学初年次くらいの学生にはなかなか求めがたいだろうから(大澤は大学に入って最初に読んだ本がこれと『気流の鳴る音』だったというけれど)、この本が何を言っているかを紹介する文章を付けておこう、という配慮。おかげさまで読もうって勇気が出ます。
- - -以下はむしろ大澤解説のメモ。
現代社会と、それを支える構造を知るために、まず歴史に戻って、自然―社会―個人という分節が生じたシーンを捉えてみる必要があるようです。
(1)もともとは自然に内在していた人間が自然を対象化して、
(対象化する)人間・対・(対象化される)自然
の関係ができる
農業をやるとかの労働をして、成果を得る
=〈労働を通しての享受〉=〈労働の回路〉
=〈外化をとおしての内化〉
←→木の実を拾って食べる。労働と享受が(時間的に)隔たっていない
(2)さらに、社会に内在していた個人が社会を対象化して、
(対象化する)個人・対・(対象化される)社会
の関係ができる
自分の持ち物を手放し、代わりに欲しいものを得る
=〈譲渡を通しての享受〉=〈交通の回路〉※交通は「交換を通じた」の略か
=〈外化をとおしての内化〉
←→自分で必要なものを作る
(1)を少し発展させてみます。
(1’)〈労働の回路〉から〈手段性の回路〉へ
=自然に働きかける、ための、「手段」(農具とか)の生産
その結果として:
・生産の増大と余剰生産物の出現の結果として、階級が分化する
・特定の必要があって生産していた生産手段が、逆に生活や消費の在り方を規定する
・分業が進む
・生活の目的が「生産活動」から遠く離れた「生産物」にシフトする
・その裏返しとして「生産物」への執着が高まり、生産せずに奪えたほうがよいとのドライブが生じる
この段階では、まだ労働の成果は労働した集団が持っている「本源的所有」の段階にとどまっています。次は、互いに見も知らない「私的所有する個人」たちによって構成される「市場」での物々交換へと進んでいきます。
(2’)〈交通の回路〉から〈他者性の回路〉へ
=顔の知れた小集団の中での交換関係(共同態)、を超えた、
親密でもない他者との交換関係(集合態=市民社会)
その結果として:
・他者との交換の結果、生活は多様で豊かになる。同時に、幸福を他者に依存することになる
・所有が、労働の結果できたものの「始原的所有」と、交換の結果得られる「終極的所有」に分かれる
・個人が、私人としての個人と、市場での能力で計られる個人に分かれる
・労働の意味が「終極的所有」に向けられ、労働そのものの意味が殺がれる
・その裏返しとして「終極的所有」への執着が高まり、労働せずに奪えたほうがよいとのドライブが生じる
自分の労働と結果の享受の間にいろんな媒介物がはさまって、享受がどんどん遠くに行くというプロセスが進行するにつれて、確かに物質的には豊かになります。しかし、働くということそのものに内在するはずの喜びもまた遠く抽象的なものになり、しかも喜びを託したはずの終極的所有も、作物をおじゃんにする天災だとか、労働の結果を買ってもらえないといった、自分のコントロールの及ばない要因によってできないかもしれないという不安定な立場に置かれます。収奪し収奪される関係の中に生きることにもなります。
労働の成果を享受できない、その状態が「疎外」。その反対に、労働してないのに誰かの成果を享受する、その状態を「収奪」と呼びます。支配者と被支配者、のような圧倒的な力関係を背景にするのではなくて、ほぼ同じくらいの強さの個人の間で展開される〈疎外―収奪〉関係が見られるのが「市場」だということです。
こうした乾いた関係が充満する市場では、各人は生産物やお金を媒介にしてつながっています。特に生産物の価値を表現する共通のモノサシとしてお金が交換されます。ここで本来は人間に使われるただの道具だったはずのお金が、その主従関係を逆転し、人間の価値を測るための、つまり価値の源泉としての神のような存在に化けてしまう「物神化」が起きます。
社会や市場がまるで、自分の外に存在しているように感じられるなら、自分に意味を与えられるのは自分です。自己神格化ともいえる状態です。でも、その自分は実際、生活に必要なものの供給を市場に頼るしかありません。そこに参入するとき、自分を意味づける能力は剥奪され、単に市場の求める能力として測られる部品のような存在になるでしょう(自己物象化)。お金の物神化と個人の自己神格化/自己物象化という現象はそれぞれが、相互に収奪し合う人間関係から生まれているといえそうです。
個人と個人が媒介的につながっている市民社会では、その媒介の総体がまるで、どの一人の人からも独立した一個の大きな主体のように立ち現れるといいます。モノを媒介する経済の分野でいえばそれはお金ですが、同じ現象がヒトを媒介する政治では国家、コトバを媒介するなら概念や科学、芸術などとして現れることができます。
それぞれが市民社会における「神」の三つの現れ方ともいえる。とすれば、これらは人を惹きつける力を持っているはずです。お金を、地位を、明晰さを求める人=「お金、地位、明晰さへの疎外」をされた人をまず生み出しますが、それにもかかわらず多くの人はこれらを得ることができない、つまりこれら「から疎外」されてしまいます。
「~への疎外」の中にあっても、得ることはできた「勝ち組」は幸福です。しかし、「~への疎外」に加えて「~からの疎外」を体験した「負け組」は不幸を感じる。現代社会の存立構造を問い返す機会はそこに発見されるのではないでしょうか?
- - -
なんというか、同じ著者の『時間の比較社会学』や『現代社会の理論』、お弟子さんの「第三者の審級」に至るまで、片っ端からこれの変奏なのではないかと思うような基底っぷりでした。早く読んどけって話ですが、でもやっぱり解説のアシスタンスがなければ読み通せなかったと思う。
■傳田光洋『皮膚は考える』岩波書店, 2005年.
皮膚は体から体液が漏れるのを防ぎ、外から病原体が入ってくるのを防ぐのですが、ただそれだけの包装紙ではないらしいという話。