■スピノザ, B.『エチカ(上)(下)』(畠中尚志訳)岩波書店,1951年.
始めに置いた定義と公理に基づいて証明を重ね、神と精神の本質、そして倫理に至ろうという試み。1675年ごろには完成していたとされています。
全体は5部構成。
第1部ではまず、「神、すなわち自然」であること(汎神論)を導きます。
神は「永遠・無限の属性」が無限に集まってできており、あらゆるものの原因かつ唯一のもの、つまり「全体そのもの」だという。
自然の中にある何であっても神やその属性のある一様態といえ、それらはすべて「必然的=予定されたもの」なのだとする。逆に言うと、「偶然なもの」というのは存在しない。偶然と思えるものがあったとしても、それは、それについてわれわれがよく知らないからそう思えているだけなのだ。
つまり、自然には「原因」と「法則」があるだけで、「目的」というものはない(目的があるように見えたとしても、人間がそういう偏見を持っているというだけのこと)。人間も当然その一部なので、「自由」などというものはないことになります。
第2部では、身体と精神が人間という一つのものが持つ二つの側面だということを述べます。
第3部は、人間の感情についてのパート。喜び(自分がより大なる完全性へ向かっていることの自覚)、悲しみ(自分がより小なる完全性へ向かっていることの自覚)、欲望(自己保存への衝動)、という三つの要素のブレンドと状況との関係によって、希望、恐怖、好意、憤慨、ねたみ、謙遜、後悔といったさまざまな感情ができているということを証明していきます。
そして第4部から、ようやくエチカ(倫理学)の本筋に入ります。
人間は、身体の外側にあるいろいろなものから受ける刺激によって感情を喚起されますが、スピノザはそれを「受動的である」と表現します。移ろいやすい環境に自分の存在が支配されている状態、それはつまり「隷属的」なのだと否定的に評価します。
それに対して、妥当な観念や理性に基づく行動は「能動的」であるとして称揚します。人間はそれを通じて神(つまり自然)への認識や愛を深めるわけで、その活動こそが(意味づけをしなおされた)「自由」であり、辿り着いた認識が永遠・絶対の「善」ということになる。
それにしても、その理性はどういう作用をするんでしょうか?それは何より、各人が自身に内在する法則に従って自身の存在を維持しながら、より大なる完全性を目指すということです。
しかし、自分一人で遂行することはできません。外部(特に他人)の力を得なければならない。そこで理想的には、各人が「みんなの共通の利益」を目指すようになるだろうということが導かれる。各人が自分の利益のために行動するということが、全体のために行動するということと等しくなるということです。エゴイズムの総和として実現する、相互扶助や社会的な紐帯。さらに、そうした扶助をシステマティックに実現する手段として国家が有用であること、国家の法律に従うことが人をより自由にするということも帰結します。
しかし人間はどう頑張っても、ある程度は感情に翻弄され、他人との間に相互扶助ではなく対立的な関係を築いてしまいがちです。また「憐れみ」のような感情に従い、結果としては相互扶助が成立することもあるかもしれませんが、やはりそれでは不安定で、誤りさえ含みうる、頼りのない秩序に過ぎません。
では、どうやって感情を制御し、理性によるグリップを効かせていくのか。それを検討したのが最後の第5部です。その鍵は、人間自身と、人間を取り巻く自然を一歩一歩理解していくこと。それに基づいて、自分が何に従って行動しているかを知りながら行動すること。そうした営みが喜びや幸福をもたらすと主張する。またその喜びの源泉は神なので、そういう知的活動に勤しみ、神に関する認識を増していこうというドライブ、それが即ち「神に対する知的愛」なのだという。楽なことではないが、それが生成し滅びる運命にある人間の肉体の有限性を超えた、精神の永遠さへと至る営みなのです。たぶん。
始めにも書きましたが、証明問題を次々と解いていくような体裁の本です。副題も「幾何学的秩序によって証明された」です。しかし読んでいくとところどころ飛躍や無理があって、それこそ「幾何学的に証明された」というのはちょっとなあ……と感じずにはいられません。
それでも、この形式に対するこだわりは、読む側に強い印象を与えます。現存するあらゆる手を使っても直接観察することができない素粒子の性質を、手持ちの知識と数学を駆使しながら追い詰めていく理論物理の情熱を思わせます。そこから生活実感に反する知識が得られたとしても、「だって、計算していったら出てきちゃった結果だもん」と確信とともに主張することができるのも、こうした手法の利点かもしれない。
ところが、経験的な手法では追いつかない対象を捕まえるために用いた手法が、かえって神なしでも自然科学はできる、というメッセージを発しているようにも見えます。(自然に目的はない、というのは進化論を予言していますよね……)
スピノザは「無神論」だと非難されたこともあったようですが、確かに神が自然そのもの、全体そのものであって、そこに外部がないなら、それを神と呼ぶなら呼べばいいが、呼ばなくても別にいいですもんね。冷徹に、ひたすら分析するという態度を通じて国家の必要性も言えてしまったし、倫理的な生活とはどんなものなのかも描けてしまった(少なくとも著者の中ではちゃんとしたつながりを持って)。それならそれで、と言っているように聞こえたら、そりゃ怒る人は怒るわな、と思います。そのへんの議論は全くフォローしてないので解説書でも読まないといかんのですが。
『エチカ』は学生のころからずっと読まなと思っていた本。忘れ物回収プロジェクトの一環で読みました。ついでにこのあと、ちょうど先月に新しい訳が出たばかりの『神学・政治論』に進みたい感じが結構しますが、ちょっと優先すべき買い置きの本があるのでいったん寄り道します。
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ところで先週末、1998年に出た『社会学文献事典』がおねだん4分の1くらいの縮刷版として再び発売されたというので弊管理人のTLが沸いていたため、いそいそと紀伊国屋に行ってめくってみました。
うーん手許にあると便利そうだけど、衝動買いするには衝動が足りないかなー、という感想。
独りぼっちで本を読む弊管理人が訳者解説などに期待するのは、内容のポイント、同じ著者が書いた関連文献との関係、当時その著者が戦った相手、現在に対して示唆するもの、を全てではなくていいのでできるだけカバーしてくれることです(余計なことですが、決して訳者や著者の苦労や身の上の話、楽屋ネタ、当該文献とは別に前提知識を必要とするような注釈、ではない)。それには文庫本で20~30ページは必要だと思っており、上記『事典』はちょっと食い足りないというか、使い道があまりはっきりイメージできなかった。ちょうど読んでいた『エチカ』の解説がかなり優秀だったことも響きました。
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灼熱だった先週末とうって変わって、梅雨入りしたこの週末はずっと肌寒い雨降りでした。
新宿南口から徒歩5分くらい、「風雲児」のラーメン。
列なしで座れてラッキー、と思った次の瞬間に店内を待ちの客が埋め尽くしました。
ラーメンはこってり目、でもしつこくない。中太麺も絶妙。うまい。並ばないなら食いたい。
あと、大将が妙に物腰柔らかいです。うるさい(元気のよすぎる)お店より好き。
ちなみに時々言わないといけない気がしますが、弊管理人はラーメンと天丼ばかり食べているわけではありません。
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夏になると体がショートスリープモードに入って、だいたい6時間くらいの睡眠で朝、目覚めてしまいます。おそらく今住んでいる部屋に開口部が多いので、日が昇ると部屋がそれなりに明るくなってしまうためであろうと思っています。
先週、掛け布団をやめて毛布一枚で寝るようになった頃から特にはっきりそうなっていて、それは例年通りなのですが、先週はなぜか午後5時くらいに30分くらいデスクで居眠りする日が続きました。
ちょっとした午睡は体にもいいようなので、今年の夏は早寝早起き午後ちょっとう睡眠、くらいで行ってみようかな。