サバルタン
■スピヴァク,G.C.『サバルタンは語ることができるか』(上村忠男訳)みすず書房,1998年.
■モートン,S.『ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク』(本橋哲也訳)青土社,2005年.
5世紀にわたった植民地支配後の=ポストコロニアルな政治状況の下でも、第三世界の国々には依然としてジェンダー、人種、民族、宗教、階級に基づいた/しばしば横断した差別構造が温存されている。それは、植民者文化が現地エリートの中に受け継がれて命脈を保ちながら、解放後の軍政や開発独裁などを導いたからなのではないか。
ポストコロニアルな状況の中で抑圧された人たちを「サバルタン」と呼ぶことまではできるとして、それでは、第一世界の知識人がかれらの歴史を、生活をrepresent(代表/表象)することは可能か?可能ならばいかにして可能か?
第一世界が第三世界を他者として、自前の枠組みを使いながら読解を試みる。後進地域に残る人権侵害の悪しき慣習を告発し、是正し、現地女性を救済する。コロニアルな時代から続く、そうした独善的な発想と方法を漫然と用いるなら、第三世界のサバルタンは永遠に客体の立場に置かれ、自らを表現する道を閉ざされてしまう。仮にサバルタンが積極的な抵抗を試みたとしても、それは表象する力を持った支配階級のフィルタを通してしか表象されず、どのみちサバルタンは語ることができないまま、構造が維持・強化される。
そこでunlearnというプロセスが有効になるように思える。第一世界の知識人としての自分の位置を意識し、それをカッコに入れること。裏側から言うと、相手との距離を知り、その上で相手の具体性に学ぶという構えをとること。自分探しのために他人を読まないこと。
あるいは戦略的には、多様性を持った人たちの集団をひとまとめに呼ぶ(「インドの女性」など)ということを作業仮説として認め、当面の課題を解決するために使ったあとは「でもそうしたかれらも一枚岩ではないので」と潔く解体して次段階の差異に分け入っていくこと。
言葉と指示対象の結びつきが構造的に不安定であるというデリダを踏み台にして(踏み台にできるほどソリッドではないんだろうけど)、書かれているものを何が支えており、書かれていないのは何かを考え続けること。
ボケがいないと成立しないツッコミみたいな論理やな、という印象が支配しかけたが、ツッコミに開かれつつツッコミを織り込める限り織り込んだボケをやるのに利用することも可能そうだと思い直した。
しかし今や、問題は一国内のポストコロニアル状況から、全球的な差別構造に視点を移さなければならなくなっているらしい。第一世界が第三世界に繁栄の基礎を依存しながら、同時に抑圧し忘却している現状。
また、第一世界の内部に生じているサバルタン(例えば、先進国内でも災害に対して極端に脆弱な地域、グループがあること)という古い問題もある。
大学生だった1990年代終盤ににわかに耳に入り、そのあとあまり聞かなくなった『サバルタン』を、先日バトラー解説本を読んだ余勢でようやく読んだ。が、難しかった(複雑というより不親切という意味で)し、その訳者解説が食い足りなかったので解説本も買って読んだ。そのあと『サバルタン』の付箋を貼っておいたところに戻って拾い読みしたらそれなりに読めた。すごい。
内容は意外と去年から読んでいたナショナリズム方面の話と結びつきそうで興味深かった。ただ実のところ「女性」方面の話には知識人でも女性でもない弊管理人が踏み込んでみてもいいことは少なそうなので、手持ちの地図に「地雷原」と印を付けたうえでしばらく敬遠することにした。この後の旅の中でときどき反芻することになると思います。次は十数年前に買ったきり読んでないサイードに寄ってみるか、あるいは数百年戻るか。