私も背丈が背丈なので、通常ひとの頭頂部を見ることなんてあまりないわけですけれども、混雑してるお店で立ち飲みとかしてると、カウンターに就いてるお客さんの頭皮とかが目の前に来ちゃったりなんかしてしまうことがあるわけ。んで新鮮な光景ですもんで余計まじまじと見ちゃうわけ。
若くて別に現状ハゲてもいないけれど、頭皮とかじっと見てると将来のdisastreを予感させる頭ってあるのですよね。頭頂近くの毛の細さとか頭皮の妙な滑らかさとか。
<世界の秘密>。ガンの告知もそう、うっかり聞いてしまった友人の悪評もそう。当人はまだ知らないのに、この私は知っている「その人についてのこと」。その情報を当人の<世界>の中に送り込む(=教える)のか、送り込まないのか。ことの大小はあるけれども、非常にしばしば、私たちはこうした選択を強いられている。
「当人についての情報は当人のものだ(当人の所有物だ)」という考え方に囚われる限り、「知っているけれども教えない」という選択は、自分が手にしているものを本来の持ち主に返さないでいるような、なにか後ろめたい思いが伴う。たとえ「教えないほうが当人のため」だったとしても、後ろめたい思いからは逃れることはできない(なぜなら、それを知ることが当人のためかどうかは、その情報が当人の所有物かどうかとは別の問題だから)。逆に、自分についての情報が自分に知らされないということは、自分の財産が何か他人に握られているような心地悪さを呼び起こさないだろうか。
もっとも、当人の悪評くらいなら、まだその悪評の流出源と話し合って誤解を解くとか、当人自身が努力して人生を改善する余地はあるだろう。しかしガンだとかハゲだとか、当人の努力の余地が(時には限りなく)小さい場合はどうなのか。遺伝子診断の技術が発達・実用化されるなどして、自分の運命があらかじめ情報として把握できるようになった時点でもまだ、「当人の情報は当人のもの」と信じ続けることはできるだろうか?