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歴史とは何か

オーストラリア行は長旅だし、新書2冊くらい読めるかな~、と思って持っていきましたが、読み終わったのはこれのみでした。

■カー, E.H.『歴史とは何か』(清水幾太郎訳)岩波書店, 1962年.

ケンブリッジ大学で行われた講演の記録What is History?(1961)を訳したものです。日本の大学では歴史学の入門授業で文献として指定されるような基本書だったようですが、今でもそうなのかしら。

本は6章に分かれてます。

【1】「歴史的事実」、つまり歴史学の対象とするのに値するような事実というのは、過去に起こったことや古い文書が自発的に構成するようなものではない。歴史家が「これが歴史的事実だ」と判断することによって作り上げるものだ。
それでは、歴史の解釈は歴史家の数だけあってどれも正しい、というか正しいとか正しくないとかいう比較はできない、というような懐疑主義(弊管理人は「相対主義」と呼んだほうがいいような気がする)に陥ってしまう心配が生じるだろう。しかしそうではない。歴史家が「これだ」と思って行う事実の選定も、その解釈も、あくまで仮のものである。実際は事実の選定が解釈に、解釈が事実の選定に影響を及ぼし、妥当性がチェックされながら作業は進んでいく。
つまり「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」だといえる。(これがキーフレーズらしい)

【2】では、この「対話」を行っている「現在」とか「過去」というのは何のことなのか。英雄物語の主人公になるような個人なのか、それとも、集団や集団間の関係といった「時代」なのか。答えは後者である。
大原則として、個人は社会を離れて存在しない。キーパーソンになるような歴史上の人物でさえ、ある重要な事件を起こすには多数の賛同者を必要とする。さらに歴史的事件も、その人(たち)が意図や思想とは無関係の方向に転がって起きた例もある。歴史は英雄物語ではなく、社会の物語である。
もちろん、歴史を読み解く歴史家自身も歴史の中にいる。そのときどきの思想状況など環境にものの見方を規定されている。つまり、歴史という対話は個人vs個人ではなく、社会vs社会として行われていると見るべきだ。

【3】次に、歴史は科学なのかを考えてみたい。
18~19世紀の自然科学は、例外のない普遍的な法則を発見する営みとして見られていた。社会科学でも市場、賃金、人口の法則がそういうものとして発見されていたが、こういう考えはもう古びてしまった。ポアンカレが指摘するように、科学者が作る命題は「仮説」であって、後続の研究によって検証されることを免れない。命題→経験的事実による検証→命題の洗練、という作業はまさに対話であって、これは歴史学の仕事にも当てはまるだろう。しかし、歴史は科学とは違うのだ、という次のような反論もありそうだ。ポイントに分けて一つ一つ検討する。

(1)科学は一般、歴史は特殊を扱う――歴史的事実は確かにどれも1回限り起きたことという意味では特殊だが、それは科学の命題を作る経験的事実も同じで、どの地層、どの物質も同じではない。しかし同時に、やはり歴史も科学と同じように、特殊な対象たちに対して「戦争」「テロ」「国家」といった一般名詞を使う時点で一般化を志向している。

(2)歴史は何の教訓も与えない――上のような一般化は、すなわち事実Aから見出した教訓を事実Bに適用しようという営みである。民族自決を無視するのは危険だ、秘密文書を闇に葬ってしまうのは危険だ、といった原則は筆者の参加した平和会議にも活かされた。個別の事実たちを比較検討することによって、それらをさらに深く理解できるという効能もある。

(3)歴史は予見できない――確かに、出来事はさまざまな要因が複雑に絡み合った末に生じるので、ある国にいつ革命が起きるかを予見することは歴史学にはできない。しかし、こういう条件にある国は、革命が起きる蓋然性が高いという分析をし、その分析に基づいた行動を関係者に促すことはできる。その精度は自然科学と比肩すべきレベルにはないのは事実だが、原理的には同じだ。自然科学の命題も「実験室条件ではそうだ」ということ、あるいはモデルであって、いろんな攪乱要因がある現実の状況におかれた個別の事物が法則通りに振る舞うことを保証するものではない。

(4)歴史は人間が自分自身を観察しているので、どうしても主観的である――確かに、観察者とその観察対象が連続的に相互作用すること、その相互作用がどんどん変化することは、社会科学の著しい特徴と思われる。しかし近年、観察するものとされるものの厳格な区別は自然科学(特に物理学)でもだんだん揺らいできているようにも思える。

また、歴史家が過去の出来事に関して道徳的な判断をすべきかどうかについては、歴史の解釈には常に価値判断が入り込むため、そうした判断に巻き込まれる可能性はあることを知っておくべきだと考える。もちろんその価値判断も環境に規定されているわけだが。

いずれにせよ、「なぜ」と問い続ける態度と根本的な手続きにおいて、歴史は物理と変わるものではない。

【4】上のように、歴史家は「なぜ」と問い続けるものであり、偉大な歴史家や思想家は、新しい「なぜ」を提出するものである。では、「なぜ」に対してどうやって答えたらよいのだろうか。
ある事件が起きた原因を課題とする学生レポートなら、経済、政治、思想、個人的資質から見た原因を複数挙げ、次にそのリストを重要度に従って秩序づけるようなことが求められる。その重み付けは、ある原因が「その事件を起こすのにどれくらい貢献するか」といってもよい。また、他の類似事件も決定づけるような一般性の高さがあるかを考える必要もある。例えば、甲が飲酒運転して煙草を買いに出た乙をはねた事件では、乙がスモーカーであることより甲が飲酒運転したことのほうがより事故の原因として一般性が高いと考えればよい。
クレオパトラの鼻の高さという偶然の要素がアクチウムの戦闘の結果を決めたというような「歴史は偶然の連鎖」説への対処も同じで、そうした偶然は確かに原因を構成するけれども、他でも同様の事件を起こすような一般性=合理性を持った原因としての意味はない些末なものということになる。

【5】歴史は過去と現在の対話だ、と言った。しかしよく考えてみれば、現在というのは過去と未来の界面でしかない。過去の教訓は必然的に、未来への教訓ということを含んでいるのではないか。歴史は「未来」あるいは「進歩」をどう考えたらよいのだろうか。
斥けておくべきなのは、「歴史の目的は歴史の外(神)にある」という神秘主義と、「歴史に目的はない」という冷笑主義、それから「進歩には始まりと終わりがある」という考え方だ。そうではなく、過去の延長上にその都度現れるゴールに向けた不断の前進を進歩と呼びたい。ゴール=絶対者は唯一不変ではなく、もっとダイナミックなものなのだ。現在の自分を規定する環境、事実の取捨選択を可能にしている価値基準を意識すること=未来の視点に立とうとしてみること。未来を過と関係づけ、長いスパンで考えられる(「未来と過去の対話を行える」!)人こそが「より客観的な歴史家」といえるのかもしれない。

【6】略

古い本ですが、社会科学に初めて触れるときに(できれば高校生のうちに)読んでおくべき論点の詰まった、必読の本だったなあと思います。ちゃんと議論を追えたかどうかは分からないけど。

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2015年02月11日 10:18に投稿されたエントリーのページです。

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