ヌルくてワケワカラン話なので読み飛ばして下さいw
(1)
大人になったということ。パターナリズムやいろいろな子ども用の制度による庇護から外に出されて、いろいろな種類の「致命的なこと」「取り返しのつかないこと」へのリスクに晒されるという事実。
(一般的にどうなのかということは全く分からないのでとりあえず思い付くままに)
途方もない金額の損。後遺障害が残るようなけがや不治の病。修復不能な人間関係、誰かの命を危険にさらしたり、逆に自分が殺されかけたり。二度と会えない人にかける言葉を間違えたり。さらにそうした諸々の危機に際して自動的に対処、先導してくれる機構=庇護がもはやないこと。
いろいろと小さな失敗はあるが、致命的なことにはならないものだという信仰を、前世紀の終わりごろまでは確かに持っていて、それは甘い幻想に過ぎないと言われるであろうことは承知しているが、しかし当時は本当にそう思っていた。
坂を上りきったときに初めて見わたせた風景があまりきれいでなかったとしても、しかし目前に道が続いていて、「歩き続けない理由がない」という理由がある以上は下り坂を思わず歩き続けてしまう。
(2)
位牌も遺骨も何もないが、部屋に母親の遺影と、その前に皿だけ置いていて、ときどきスズランの香りがする線香を焚いている。
2003年の初め―「あと1週間」との報せを受け、仕事を長く休んで実家に戻り、しかし手持ちぶさたで写真の整理などしていたとき、ふと見つけてスキャンしたもの。たしか葬式が終わってからプリンタで打ち出して、ヨドバシカメラで写真スタンドを買って入れたもの。上田市にある前山寺の石段に二人で立ったシーン。遺影として選んだときからなんかヘンだなと思っていた。しかしなんとなくだ。
先週のある日、今更・しかし突然その意味が頭に響いた。遺影に写っている二人は二人とも、もう死んだ人なのだ。ほんとうに今更な気づきですけどね。
死に向かう生はカウントダウンの時間を生きる(あと何年何月何日何時間何分何秒)。
死んだあとの時間は永遠にうつろに積み重なる(「その時」から何年何月何日何時間何分何秒)。
ちなみに父親が暮らす山あいの職員宿舎の部屋には、家族がまだ全員揃っていて一塊で、その直後に始まるどうしようもない瓦解なんか空想もしないころの家族写真が飾ってある。自分は密かに、あれも遺影の一種だと思っている。