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2006年07月 アーカイブ

2006年07月30日

○豚丼でけた。

060730butadon.jpg
帯広豚丼作ってみました。結論からいうと87点。予想以上に美味かった!
減点要因は、
・肉が薄かった(-7点)
・ちょっと酒の匂いが強かった(-2点)
・炭火焼きの風味が欲しかった(-4点)※ただしこれはフライパン焼きの限界かも

タレはこのように(一人分)↓
・醤油大さじ3
・砂糖大さじ1
・日本酒大さじ1
・はちみつ少々(オプション)
・オイスターソース1滴(オプション)
これを一煮立ち。

(1)肉をよく焼いて、タレを半分くらいかけてさらに少し焼く。
(2)ごはんに肉をのっけて、タレをちょこっとかけて、粉山椒かけて食う。

これだけ。
もともと鰻のかわりに、手に入りやすい豚肉(十勝地方は畜産が盛んだったためでしょう)に蒲焼きのタレをかけて食ったのが始まりとされているようです。そう考えると山椒をかける理由もわかりますな。
次はもうちょっと厚切りの肉(5ミリくらい?)で試してみたいと思います。

歯車の幸福

ここのところ知り合いが何人かフリーから被雇用者に戻っていく一方で、勤めをやめて大学に通うことを決めた知り合いもいます。

会社の歯車として、人に使われて、自分の意思を曲げながら、妥協しながら生きていくなんて嫌だ。苦労はあっても自由に、妥協せずに、自分の理想を実現したい。

ある意味紋切り型な、でもそれだけ誰もが感じる「自由への渇望」!
自分も美学に背いた仕事をやらなければならない時とか、そんなことをぼんやり感じることはありますが、やっぱり今の環境からは抜けがたい。

かえりみれば、
能力は平凡で、野望もなく、暇なときには来し方行く末の考えても仕方のない遠い問題をあれこれ思い悩んでしまう自分にとっては、適度に自分の時間を奪い取って=”暇つぶし”をさせてくれて、多少の失敗にもかかわらず収入を保証してくれる勤め人の生き方って、結構合ってると思う。

それに、こと日本でそういう「非-技能系」な勤め人になるなら、遅くとも25までに学校を終わって、そこから間髪入れずに企業体に入らないといけない。大学というのもそのためのカタパルトにすぎなくて、スキルアップ=自分の労働市場での価値を上げてくれる機関ではない(研究職に進む場合は別)。新聞広告を見る限り、中途採用の条件は「経験有」ばかりで「博士号(はおろか、○○における△年間の教育)」というのは見あたらない。卒業して得られる資格(技能、ではない)が職業に直結しないなら、会社を辞めて学校に戻るのはリスキーに過ぎると思う。

※そういうシステムをかえねばならんのだ、という議論も別途やってほしいけど。

あとフリーが「自由」とも限らないのであって……。プライベートと仕事を隔てる心理的な仕切りがないということは、起きてる間じゅう仕事になっちゃうこともある。それ自体が自由かもしれないけれど、商品を作って売る仕事をやっている場合は、発注側の思うままに自分の時間を捧げていると見ることもできるんじゃないか……

  * * *

最近に限らず「なんで会社員やってるの?」という問いかけには上のような答えをして、他の会社や業界にも、学校にも、フリーにも移行しないことの理由を説明します。

結局、独り立ちする才能と勇気のある人への尊敬とやっかみ、ですけどね。ワッハ

2006年07月22日

パロマ:私的まとめ

パロマの湯沸かし器事故の問題は、飛ばし記事や論点の拡散で結構わかりにくくなってきてると感じてます。自分も専門的知識はありませんが、報道などから得た情報をもとに、この問題をメモがわりにちょっとまとめておきたいと思います。

(1)不正改造による事故

ガス器具の動作の制御を行うコントロールボックスが壊れる
→器具が動かなくなる
→修理を依頼する[ユーザが自分でやったケースは現在のところ確認されていない]
→修理した人が、部品の換えを持っていないなどの理由で配線を換えて、コントロールボックスの動作が関係なく燃焼が起こせるようにする
→安全装置が動かないまま運転ができるようになる
→経年劣化でファンが弱ったり、排気口が詰まったり、風の吹き方が悪かったりして排気が戻ってくる
→不完全燃焼が起きる
→COが発生するが器具の動作は止まらない
→事故に至る

これらの機種は1980年、81年に発売されましたが、それまでの機種になかった安全対策が施されているということで当時の家庭用としては最先端の湯沸かし器だったようです。

バイメタルという2種類の金属の熱膨張率の違いを利用した安全装置を導入したわけですね。つまり室内から取り入れた空気を使って燃焼させ、排気を屋外に出すこの器具を使っていて、不具合で生じた熱い排気が逆流すると、排気筒の温度が通常より上がってしまう。
回路の途中に仕込んであるバイメタルは排気筒の中にあるので、そこの温度が上がるとぐにゃっと曲がって回路から離れる。そうすると電気が流れなくなり、ガスの弁が閉まって不完全燃焼が止まるというわけ。
こういうある意味単純な仕組みなので、使ってるところの温度とかバイメタルの位置などの条件によってはすぐに安全装置が働いて器具が動かなくなってしまいます。
もちろん安全装置が壊れた場合にも動かなくなりますけどね。

それで呼び出された修理担当者がもし安全装置を経由しない回路を作ってしまった=”不正改造”した場合。これはせっかくこの機種が売りにしていた安全性を無効にしてしまうことになります。

なんでそんな単純な安全装置を!今の時点から見れば思うかもしれません(今はバーナーの火の色をウォッチしていて、不完全燃焼で炎の色が青から赤にかわると反応するなどいろいろと進んだ安全対策がされているようです)。でも当時の視点にたってみれば、これはものすごく安全性を向上させた、いい器具だったということです。

また、この安全装置が壊れたとか不具合を起こした場合でも、結果は器具の燃焼ができない、というユーザにとっては安全な方向に事態が進むことになります。フェールセーフという考え方で、これはむしろ「安全装置が壊れたことで不完全燃焼が起こっても燃焼が続いてしまう」というような危険な設計とはまったく逆方向の、安全設計だといえます。

では、こういうのはそもそもリコールにならないのか?

排気ファンやガス弁の動作などをつかさどる(=安全にかかわる)コントロールボックス内の「はんだ割れ」が多発していたと指摘されていますが、これは「故障が多い」という品質管理の問題であって、回収するかどうかはメーカーの判断次第です。
上に書いたように故障が(それに対応しようと不正改造されない限り)ユーザを危険にさらすわけではないので、危険回避のために回収をしなければならないということにはならないようです。

だからこそパロマはあえて危険をもたらす「不正改造」を事故の元凶としたし、コントロールボックスの故障については交換や修理で対応していた。それ自体は正しいのではないでしょうか。

ただし、ここで全く落ち度がなかったというとそうでもないと思います。報道によれば発売から2年ほどで故障が相次いだようで、これは品質管理としてはまずい。さらに故障対応として不正改造が行われ、それがもとで事故が起こったケースを把握した時点ですぐに「一般ユーザに向けての広報」をするべきだった。修理を委託していた業者対象には周知をしていたようですが。
この不正改造は電気で動かしているコントロールパネルが無効にされてしまう改造なので、コンセントを抜いても燃焼が続くようであれば改造がされてしまっていることが見抜けるわけです。そういう簡単なチェック方法は、ユーザが事故発生を知って不安を抱けばすぐにできるし、やるであろう方法です。専用の相談窓口を作り、広告を出すことですることで業者の目の届かないところで行われていた改造も発見することができたはずです(結果的にそれが事故を起こさないまま買い換えられていたとしても)。

(2)不正改造がないのに事故が起きている場合

(2-1)使っているうちに生じる事故
使っているうちに室内に置いてある本体の吸気口が、台所で生じる油汚れ、ゴミや虫などによって目詰まりをしていれば、酸素が足りなくなって不完全燃焼を起こすでしょう。これは排気筒内の温度上昇とは全く関係ないので安全装置は働かないままCOが流れ出すケースです。
あるいは点火に失敗したのに気が付かず、ガスが流れ出していても危険は大きいかな。排気筒が外れかかったりしていても健康被害は出そう。
主には保守点検やユーザの使い方の問題ではないかなと思います。

(2-2)未知の欠陥があって生じる事故
パロマが「調査中」「不明」としているいくつかの事故の調査が進んでも、どうしても(1)や(2-1)にあてはまらないケースが出てしまうこと。今の時点ではこれが一番恐い。コントロールボックスなどの中に誰も気付かなかった欠陥があって、そのせいで事故が起きていた可能性。
でもこれまで警察も消防もパロマとともに鑑定・調査し、いくつかあった裁判でも見つからなかったので、可能性は低い気はします。

こうやって見ると、結局、この件で一番まずかったのは(1)で書いたとおり、広報不足。これはパロマと当時の通産省の責任でしょう。
事故が起きた80-00年代の、そのときどきの技術水準と、商品の安全に関する企業や消費者の意識。それを考え合わせて、そのときとしてはできることをしていたのか、そのときとしても甘く見ていたのか。これはもう少し調査が進まないとわからないことですし、そこまで行き着かないうちに下火になると思いますけど。

2006年07月14日

ふたつの体験から

ええと何から書こうか。

■まずな、把握してる限りで、このサイト読んでる人は、自分を除くとたぶん友人2人のみ。今日はその2人を意識しつつ(「2人宛て」じゃないんですねん)ちょっと繋がりつつ別の話2題を。

■二人のうち一人は社会科学系の研究者で、まえに一緒にお茶してるときに「研究(理論の追究)と実践(実際の行動の追究)の間で悩んでいる後輩に『どちらに向かうかは各人の距離感の問題だから』と諭した」というようなことを言っていて、ううむ名言であるなあといたく感心したのだった(※うろ覚えなので違ったらスマン、指摘して下さい)。

■社会のことを勉強していると、なんとなく実際に行動してる人が偉くて、いくら机の上で研究したり文章を発表したりしても何の役にも立たない(この間当選した、大学教員出身の滋賀県知事がゆってたねえ)というコンプレックスのような心境に陥りがちなんじゃないだろうか。

■でもまあ、これまで多くの人が言ってきたように、一歩引いてみれば理論と実践は相支え合っているので、あとはどちらにどれくらいの割合で足を突っ込むかを育ってきた環境とか体験とか体力とかの適性の差が決めるだけなんだろう。

■……という納得の仕方も、実践志向の強い人から見れば多分に思弁的すぎるかもしれない。「自分は理論志向だけど、実践にコンプレックスがある」という人の苦しみを緩和することはできるだろうけれど、「なんで社会運動やらないんだ」と言っちゃったりするような実践志向の人を説得できるものではないよね。(自分はもちろん、迷える人を何人か救えるだけで十分意義のある考え方だと思う)

▼さて「なんで○○しないんだ」という問いかけっていうのが曲者だ。現に自分に動機なり理由があって何かしているときに「なんで○○しているんだ」と聞かれれば、それに答えるのは結構簡単じゃないだろうか(なんで野球してるんだ、なんで絵を描いているんだ、なんでビールを飲むんだ)。

▼しかし自分が特に意識的に避けているわけでもないのにしていないことについて、その理由を聞かれると(なんで募金しないんだ、なんでサッカー見ないんだ、なんで連絡よこさないんだ)、その質問をはぐらかすのもあまりよくないシチュエーションでは結構回答するのに苦労するのね。

▼どうしてかと考えてみると、こういう質問に
(1)否定的な答え(募金したいとか思わないから、サッカー見ようとか思わないから、連絡しようとか思わないから)で返すと、これまでとりたててその対象に悪印象があってそうしてなかったわけではないのに、まるで何か悪印象を抱いていたかのような答え方になりがちで、相手をますますいきり立たせることになってしまうわけ。

(2)一方、肯定的な答えをしようと思うと(じゃあ募金するよ、じゃあサッカー見るよ、じゃあ連絡するよ)、なんだか不承不承な印象を与えてしまったり、あるいは結局自分がそれほどしたいとも思っていないことを、まるで自分が望んだかのようにしてやらされることになる。

▼こういう、いやーな質問がなぜいやーな質問なのか。一言でいえば「理由のないことの理由を答えろと迫っているから」なんだな。それに気付けば正しい回答はおのずと分かる。「理由はありません」。

▼そう答えると、当然考えられる反応のひとつとして、相手は自分自身が持っている理由(募金する理由、サッカーを見る理由、連絡がほしい理由)をとうとうと述べてそれを理解させようとするだろう。納得できるならそれでいいが、そうでない時はやはり「言ってることはわかりますが、共感できませんねえ」と言えばいい。自分が相手にぶつけるべき「理由」を持っていないなら、相手が開陳する「理由」に正面から立ち向かうのは結局、自分を欺くことになると思う。

▼もっとも、相手と顔つきあわせてる場面を切り抜けたら、ひとりで少し考える時間を持ってもいい。人間を相手にしているといろいろ余計な要素が入るから、ひとりで「問題」とだけ向き合ったほうがよく考えることができると思う。自分はその問題と正面から対峙して考えてみて、それを受け入れるだろうか?拒否するだろうか?それはどうして?と。

▼最近「○○は必要だと思う?」というある問いかけに対して、「(とりたてて考えたこともなかったので)必要とは思わない」と答えたところ、「必要とは思わない」と「不要だと思う」という二種類の否定を混同されてちょっと険悪になったことがあり、それをきっかけにしてこんなことを考えてみました。

2006年07月10日

釧路紀行

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紀行というか、日帰りなんですけど。
ちょっとした仕事のために朝6時に起きて、札幌駅から「スーパーおおぞら1号」で3時間50分。釧路に着く直前に相手方から電話があって「13時とお知らせしてありましたが11時になりましたので来て下さい」としれっと言うわけ。なんで公務員はこんな調子かな。

ムカッときて「ハァ?無理です」とだけ返答。電話口の相手はしばし絶句し「……ではお待ちしてます」と。
早昼食ってゆっくり仕事場に行こうと思っていたのにその計画も最初から狂うもんだから、もうすっかりやる気がなくなって、仕事は適当に済ませて、終わるやいなや全日空に電話。予約がとれて帰りは釧路から丘珠まで空路で40分です。釧路の滞在時間は4時間ちょっと。

初めてプロペラ機に乗りましたが、中型以上のジェットよりもだいぶスリルがありますやね。
飛行機が上昇していくときの背中を押される感じ。毎度のことですが何かジーンと来るものがある。なぜでしょう。

2006年07月08日

やめられないとまらない

札幌のまちなかはタクシーが多くて、まだ中心部で配車を頼んだことがありません。会社の前の道に出ると、もう流し素麺より簡単に流しタクシーがつかまる感じ。

台数規制しないといくらでも増えちゃって、全然淘汰されて適正台数にならないまま運転手の過密労働ばかり進行するという困った状況。
規制緩和してもうまいところに落ち着くとは限らないです。

まあ身近にいるので連想するのですけれど、メディアスクラム。
世間の耳目をひくニュースが起きると、ごちゃっと報道陣が殺到して大騒ぎになる→批判される→しかし収まらない。

 *  *  *

ポイントはこんなところでしょうか↓

(1)規制を外して自由に振る舞えるようになっても、過当競争になるせいで幸せ度が増えない/減る。タクシーや報道機関のように同じくらいのレベルの会社がいくつもあって競争を続けているとなかなか弱いところが淘汰されない。とくに報道や航空、ゼネコンがやっているような談合ができにくい業界(各社の規模がそんなに大きくない業界)ほどひどい競争になる。

(2)やりすぎは良くないとみんな分かってるけども、自分だけ引くと(その分だけ競争相手にやられるので)自分だけ損するので引けない。

(3)↑のような状況があるので、業界の自浄作用というのはまず働かない。自浄作用が働かないと外からの制約が復活したり新設されたりして浄化されることになる。たとえば……
・道路の使用許可が厳しくなって物理的に車を出せなくなるとか、
・国民的に評判が悪くなって取材がしにくくなったりメディア規制法ができたりするとか、
・新規参入の自由によってムチャしてでも過当競争の永続「という均衡」を破るスカイマークみたいなヤツが入ってくるとか、
・フツーに談合罪(あるいは競売入札妨害罪、贈・収賄罪など)で摘発されるとか。

(3)まで込みでやっと規制緩和イケイケ論が成り立つんだと思う。
(3)で挙げたような「外からの制約」にも、「役所が課す制約」と「民間(新しい競争相手やユーザー)」が課す制約が混ざってますけども、要はこれって「民間でできることは民間に」の前提である「何が民間でできるか」ということの見極めを、「規制緩和」というツールを使ってやってみようという試みだったのじゃないかしら。

違うかな。そのうち考えてみよう。

△豚丼@まむろ

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豚丼(ぶたどん)は帯広の名物で、彼の地には「ぱんちょう」という有名店があるんですが、札幌にも数は少ないながらお店はあるようです。

「まむろ」(中央区南7条西4丁目)に行ってみました。
並1160円(肉3.5枚)、豆腐なめこ汁と漬け物付き。結構いい値段じゃないですか?でもなかなかウマイ。味濃い目。ご飯がうまく炊けてました。しかし難点は料理そのものではなく、おしぼりが雑巾臭かったことです。

なんか自分で作ってみようと思わせる料理ですね、豚丼。たぶん肉は生姜焼き用よりもポークソテー用くらいの厚さがいい気がする。タレはみりん+醤油(+砂糖を入れるかどうかは要検討)が基本。まむろの粉山椒はいいアイディア。
課題は、家の調理器具でどうやって網焼きのカリカリ感を出すか。フライパンだとなかなか香ばしさとか難しそうだ。

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