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2006年11月18日

エスノメソドロジー

■ガーフィンケル、ハロルドほか『エスノメソドロジー―社会学的思考の解体』せりか書房、1987年。

もはや「ひと昔前」になんなんとする学生時代に、基本書として指定されながら読んでなかった本でございまして。そして今や本自体は「ふた昔前」のものになってしまいまして。

ま、いいんですけど。エスノメソドロジーというなんかよくわかんない方法論の論文集です。エスノメソドロジーとはなにかについては、編訳者があとがきに記しているので引用。

……要は、「あたりまえ」の領域には、私たちがふだん”実際におこなっているが見えていない、すなわち反省していないさまざまな問題がはらんだ推論や行為”がうずまいていることだ。それに対して、たとえば「会話」を詳細に記述し、「あたりまえ」の領域へ踏み込んでいく。こうした……”もう一つの現実”へ旅立つプロセス。これが”エスノメソドロジーすること”なのだ。

世の中でフツーに話されたり書かれたりしたものを元にして、当の話したり書いたりしている人たちが無意識に前提している考え方とか行動様式を明らかにし、さらにそれらを誰が、どういう力を使って動かしているかを明らかにしていくという営み。

自分なりの考えですが、それをやるには、話されたり書かれたものの中に留まって「それが何を意味しているのか」を考えるのではなく、逆に「そこでは話されていないことや書かれていないこと」を突き止めることが一つの方法になる気がする。「脱構築」の実践?

それから、こうした営みは、世界の解釈の仕方というのはいくつもあって、そのうちどれが「正しい」というのは神様が決める絶対的なものではなく、いろんな人たちの力関係に左右されるんだというメッセージも発していると思う。これは(誤解を恐れずにどどんと押し出せば)相対主義的あるいは文化人類学の教えでしょう。

そうして引き出してきた「そういう話し方や書き方をみんなにさせるような力」を摘出するとか、さまざまな手法で「<常識>を皮肉る」というのは社会学そのものだと思うんですけど、それがなぜサブタイトルにあるように「解体」なのかしら(僕らが見た90年代後半の社会学は解体を既に経た社会学だからか)。

と、いろいろ考えながら読んでみました。急ぎならあとがきだけつまみ食いでもいいと思うけど、個別の論文も結構楽しかった。

投稿者 b-men : 2006年11月18日 01:12

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コメント

まじレスするとですね、
Aってヘンだな!と気づくには、たしかにAバーの可能性が仮想的に視野に入るんですが、それと、「A対B(かつA>B)の脱構築」とは違うと思う。
「他でもありうるのに、でもなぜAでしかありえないのか」が問題であり、Aの外部のなさが問題とされる(そこから、Aの解体を叫ぶか否か、解体をどう遂行するか次の問題、というのが私の個人的見解)。

また、それともやや関係するけれど、
>いろんな人たちの力関係に左右されるんだというメッセージ
かどうかは、微妙。(エスノメソッドの外に、それを規定する社会構造のような外部を想定するかどうか、論者によって違うと思う)。
かつ、それと相対主義との間にはかなりの距離がある。

が、私は、厳格なエスノと狭義の言説分析(構築主義のほうではなく『言説分析の可能性』の人たちのほう)は回りまわって近いんちゃう?って言ったら、エスノ派の人に罵倒されたあるよ。ぶー。まだまだ何もわかっとりません。

投稿者 e : 2006年11月19日 23:54

マジレス多謝!ほんに生兵法&連想ゲーム的不用意な言葉遣はいかん。かつレスの意味もたぶん十分に分かってない(悲

>Aバー
「可能性として想定されるにすぎないもの」=「可能性として想定できるもの」って外部に入らないのか。

>力関係
確かに別もんとも見れるけど、収録してある論文見る限り、切り離せないと考えてるように読めた。
ちなみに「力」は意図的なもの/そうでないもの、個人的なもの/集団的なものも含めてイメージしてます。

>罵倒
この方法論は論じるのではなく実践するためにあるんじゃ!という神のお告げであろう(笑
ていうか上とも関わるけど、厳格なethnomethodologyってのがあるの?

投稿者 管理人 : 2006年11月20日 10:19

こっちもいつまで行っても生兵法・・・。だから違ってるかもよん。(てか、当該本の著者たちもそうかもしれないしw)

>外部
「仮想的に」というびみょーな書き方したのはそのためです。
でも、実はエスノの人はそこまで考えてないかもしれない。(そんなにまじめに読んだことないし。)

外部云々は、先述の本や、柿本昭人・嶋守さやか『社会の実存と存在――汝を傷つけた槍だけが汝の傷を癒す――』とかがしております。

>エスノ
ミクロ社会学の人たちのやってることは微妙に理解できんのです。ある地点まで行くと、自らの方法論を裏切って、説明に「社会構造」を持ち出してくるんですよ(実践的関心の強い人ほど)。単に視点の転換と割り切って途中からマクロの話してる人から、いい加減に視点を移す人、禁欲してミクロに終わる(それで?って言われる)人までいるような気がします。

投稿者 e : 2006年11月21日 00:50

>びみょーな書き方
そうだろうと思って上目遣いで確認したのら(キモイ

>えすの
したらミクロ社会学の言説分析やればいいのかもよー(爆
つうか冗談抜き、ツールは使ってナンボですから、使ってて必然的にマクロが割り込んじゃうならそれ込みで定式化できるんちゃうか。

投稿者 管理人 : 2006年11月21日 01:43

>使ってて必然的にマクロが割り込んじゃうならそれ込みで定式化できるんちゃうか。

はい。その通り。でも「必然的」がいつなのか、本当に必然なのか、もしかしらたマクロが割り込むことこそ必然的に排除せねばならないのか・・・という問題があるんだけどね。
ミクロマクロはどうでもいいが、言説と実体の話はたぶんD論の「串」。

投稿者 e : 2006年11月21日 02:20

おお、串が見えたすか~
(a)D論書けたも同然
(b)実存の深い森に迷い込んだ
いずれにせよめでたい(?)

投稿者 管理人 : 2006年11月21日 17:26

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