今はもう歴史から消さ
今はもう歴史から消されようとしてる歌手が「好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたい」なんて歌っていましたが、これはなかなか言い得て妙かもしれません。
経験的な判断で物事を斬るときに、その判断を支える証拠をいくら積み重ねてもその判断が完全に正当化されないのに、その同じ判断を突き崩すのはただ一つの反例を挙げてしまえば足りるのです。「カラスは黒い」ということは、いくら黒いカラスを毎朝生け捕りにして「ハハハその通りじゃないか」と威張ってみても、いまだ捕まえられていないカラスが宇宙に存在している限り「絶対正しい」ということができないばかりでなく(捕まえられていないカラスに黒くないやつがいる可能性が排除できないから)、ある朝白いカラスが「アホー」とかいって現れた瞬間に「カラスは黒い」は反証されてしまい、棄却するか「ほとんどのカラスは黒い」みたいによりマイルドな形に変更をせざるを得ません。
(ところで、「カラスは黒いものとする」ということがカラスの定義の中に最初からあって、目の前のある対象がカラスかどうかを判断する材料になっている場合、「白いカラス」はありえないので「カラスは黒い」ということが絶対正しいことになりますが、これは続けて書いてみれば「カラスは黒い、なぜならカラスは黒いからだ」という意味なしの文になっていることがわかります。)
かくのごとく「否定」は強い。あの子のここが好き、ここも好き、ここも好き……と好きなポイントを重ねていってどんどん好きになっていっても、「でもあの子のここがダメじゃん」という第三者の横槍によってなんだかどっちらけた気分になったりします。人でも物でも同じことです。このときの対処には、実は二種類ありえます。「ダメじゃん」と言った第三者の言葉を否定する、というのがひとつ。白いカラスのときのように「あの子が好き」を棄却するか「あの子の『ダメじゃんと第三者に言われた部分』以外が好き」と修正を加える、というのがもうひとつ。このふたつの対処のうちどちらをとるか?それは経済性によって決定されます(「全体論」という考え方に拠っています)。
つまり、どのような対処の仕方に一番コストがかからないか?の判断です。もし「ダメじゃん」と言った第三者が、普段から人を見る目のある奴だと思っていた人間の場合、その「こいつは人を見る目がある奴だ」というのはそれ以前の多くの例に照らしてとった結論なので、たった一つの「あの子」に対する「ダメじゃん」という発言を優先して「こいつはやっぱり人を見る目がなかったんだ(だから「ダメじゃん」も信じる必要がないんだ)」という判断をするのには無理があります。一方、「ダメじゃん」とのたまった第三者が普段から考えの浅い奴であった場合には「こいつの『ダメじゃん』はあてにならん」という判断が無理なく成立し、「あの子が好き」の方を修正する必要がなくなります。
(カラスの場合に以上の二つの対処法をあてはめれば「カラスは黒い」を疑うか白いカラスを見てしまった自分の目を疑うかという選択をすることになるのですが、ほとんどの場合「自分の目を疑う」ということはあまり起こらないだろうと思って、簡便のために省きました)
では「あの子が好き」が少しも傷つけられずに保持され、気持ちよく「好き」を続けていくためには、何をしたらいいのでしょう。
上のパラグラフから、方策は明らかです。あらゆるコストを無視して「あの子に関する中傷はすべて見当外れである」ということです。つまり「ダメじゃん」と言う第三者が恋愛の達人であろうと人事部長であろうと中谷彰宏であろうと、その「ダメじゃん」を受け入れないことです。しかし、こういうコストの無視は不自然である、つまり、「コストの無視」という行動に人を駆り立てるための、隠された動機がなければなりません。それが「何があってもあの子が好き」という「決断」です。「決断」は論理的な帰結としてではなく、端的に感情的に行われる判断です。だから第三者の「ダメじゃん」は論理的な効果を持たない、意味として響かない(ただし「語気」などの非論理的な要素は別です)。これが「好きなものは好きと言える気持ち」。それは人生に「意味」を求めたり恋愛を「論理」で語ろうとするような人間には縁遠い境地なのかもしれません。
ありゃ?
(20001016)
[いやあ、マッキー見事に復活しました―2006/6/29]