多様性がイイことです
多様性がイイことです。らしいです。多文化主義というのが、あくまで「文化」という単位を基本に置くとするなら、それを個人の多様性のレベルの議論と混同してはならないと思います。つまり、文化の多様性を言いながら、個人を画一的な価値に向けて揃えようとする文化を、「多様性を損なう」という理由を以って批判するのは一貫した態度ではないと思うんです。
「文化」という、あるようなないようなものをあるかのように扱う多「文化」主義をとる場合、不可避的に「文化」という一個の実在の内部は均質なものであると想定されなければなりません。なぜなら、一個の「文化」の中に二個の「なにか」があるなら、それは一個の文化ではなく二個の文化として同定されなければならないからです。一方で「均質」のあり方は何でもいい。ある文化を構成している個人たちはバラバラである、という(いささか逆説的な)共通性によってまとまっていてもいいし、またある文化を構成している個人たちは悉く指導者を崇拝しているという共通性によってまとまっていてもいいわけです。
ところで後者のような場合は、しばしば個人の抑圧(と見えるもの)の上に成り立っているように見えることがありますが、それが「抑圧的な文化」であるということで批判することは、「文化」の多様性を言う限りできないはずです。当の「抑圧的な文化」が他の文化に対して抑圧的なのでなく(それなら「文化」の多様性の確保のために当の文化を批判することは合理的でしょうが)、当の文化の内部に対して抑圧的なのであって、「文化の内部」の問題は「文化」あるいは「間文化」の問題とは関係ないのです。むしろ、リベラルな考え方をもつある強力な文化が「(内部に対して)抑圧的な文化」を批判し潰そうとするならば、それはむしろ文化の多様性を損なうことになります。
全体主義国家のマスゲームが、音楽などの芸術が、美しいかどうかの価値判断はともかく、ある特定の政治体制のもとでしか実現され得ないものであるならば(そうでない体制のもとで「足並み揃えて行進」ができない人々なんていくらでもいるでしょう)、それが体制の変化とともに消えてしまうのは寂しい気がします。体制とか国家とかいうと話が大きくなるけれど、二人以上の人間を含む集団ならどのような大きさの集団でも同じことが言えると思います。
じゃあ、文化のレベルではなくて、個人のレベルでの抑圧に対抗しましょう、というスローガンをかわりに掲げたらどうでしょう。そのスローガンは、果たして徹底した全体主義の文化(=個人は生まれたときからの教育によって体制に「喜んで」従うように仕向けられている文化)を批判することはできるでしょうか。そのような文化にある強い権力を見ることはできるとしても、そこにおいて喜んで体制順応している個人は果たして抑圧されているのか。あるいはそこにおける「個人の枠へのはめられ方」は、自由主義の文化における「個人の枠へのはめられ方」に比べてそんなにも強いといえるのか。
ソヴィエト=ロシアの音楽家たちが秀逸な作品を残したり、北朝鮮のマスゲームがそのとてつもない統一性によって見る者の驚きを喚起したり、ナチス=ドイツが映画においてある独特な身体の撮り方を産み出したりしているのを思い起こすにつけ、「その人たちは自由主義・個人主義の文化の中に置かれていても同じ芸術を生産したはずさ」という謂いは怪しく思えてきます。そして多様性を主張する思想の背景にいつもそれとなく収まっているあるローカルな「主義」の顔が、実はすべての人々に自分をモデルにしてほしくて仕方の無い、自己顕示欲過剰な表情に見えてきて仕方ありません。
(20000729)
[こんなようなことを書いた卒論は、結局一人であれこれ悩んでうわーってなって終わってしまいました。ものすごく稚拙なエッセイでしたけど、それまで考えていたことを整理するいい機会ではあったかな―2006/6/29]