帰納法問題って、大体
帰納法問題って、大体こういうことなんだろうなあ、と突然思った。しかし差し迫った事例が今身の回りにあるわけではなく、ほんとに、「不図(ふと)」思っただけです。いまの釈明は「この物語はフィクションです」というテレビドラマの注意書きみたいなもの。いるんですよね、わけもなく自分のことだと思って怒鳴り込む人。というのも「不図」思っただけで(無限後退)
「今度こそ反省したから許して」「許さない。だって今までずっと反省したって同じことの繰り返しだもの」「もう繰り返さないから!」
「終末の時はいつ来るんですか、教祖様」「もうすぐぢゃ」「もうすぐっていつですか」「もうすぐといったらもうすぐぢゃ」
そこには帰納的な判断を許さない議論がある。クワスとかなんとか難しいことを引っ張り出すまでもなく、未来はどうしようもなく不確定だ。それで同じ過ちを繰り返す友人は謝罪を繰り返しながら一向に過つことをやめようとしない。だからもう絶交してしまったらいい。終末は来る来るといってまったく来ない。だからこの教祖を信じるのをやめたらいい。
しかし、上のような判断はすべてどのようにしてできているかというと、「現在」から「過去」を振り返る、という形でしかない。つまりそこに「未来」への言及はありえない。「過去と現在」の二つの時から、「未来」という時は、このようにして完全に分断されている。だから、帰納的(経験的)な「判断」と見えたものが含意しうるのは、「過去から今までがこうであった」ことだけであって、「未来はこうであろう」ではありえない。
まさにその一点によって、過ちを繰り返す友人と絶交することは、論理的に、できない。終末を語る宗教を否定することは、論理的に、できない。それを絶交したり否定したりするということは、論理の舞台から「えいやっ」と飛び降りた瞬間からしかありえない。
未来は不確定と書いたけれども、もっと正確に言えば、「未来という言葉が存在する」という以上の意味ではどこにも存在しない。だから「未来は…である」ということを言うことができない。また、未来の兆候をもとにして現在から未来を予測することはできない。それは、カーテンの裂け目から光が差しているのからカーテンの外側に月の存在を予想することは、そもそも月が存在しなければできないようなものだ。
このように信じているものから離反していくことは、論理的にできない。「未来の自分に不利益をもたらすからここで打ち止めにします」と言うことはできないし、言ったとしてもこれはそもそも意味をなさない。
現在から過去の意味付けができるとしても未来の予測が原理的にできないことをもう一度思い出してみると、ほんとうは、いつも過ちを犯す友人や終末を語る宗教を信じない論理的な理由がないだけではなく、それらを信じる理由さえもないのだ。なにしろ、「信じてくれよ」という頼りない言葉を吐く例の友人にせよ教祖にせよ、かれらはただ偶然、その友人(つまり自分自身だ)の改心を信じるとか終末を信じるとかの立場に立っちゃっただけなのだ。
未来に託して何かを信じたり/信じなかったりしようとする態度に対して、「どうして信じるのか/信じないのか」を問い、答えを出すのは穏健な行動だろう。それは既に起こったことにあと付け的に意味を与えることだからだ。しかし、「そう信じる/信じないことはよいことか/悪いことか」「信じる/信じないことによってこれからどうなるか」はアカデミズムの手続きを踏んでは答えを出すのが躊躇われるのではないか?
未来の予測を仰々しく発表することを臆面もなくできる人が少ないとすれば、それは多くの人に「わたしは予想屋ではない」という自負があるからでなく、未来のことを言うのがいかに不毛かについての知恵を持っているからなのかもしれない。
「論理の力を掘り崩すようなことを筋道立てて(論理的に?)語ろうとするのはぁ、ちょっと問題あるんじゃないですかぁ」……論理パターンの順列組み合わせで機械的な批判しか出せない奴は、賽の河原で石積みのパターンでも研究してなさい!
(20000624)
[よく覚えてませんが、いつまで経っても同じように困ったちゃんな友人に当てつけて書いたものだと思います。最後の叫びは学科の後輩にこういうこと言うヤツがいたから(笑)―2006/6/29]