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2005年10月03日

Nさん

会社のNさんが膵臓癌で亡くなりました。48歳。
何度か仕事上交差したことがあります。人によっては「細かい」だの「的はずれ」だのといった悪口も聞こえてきましたが、不思議と自分は嫌な思いをした記憶はなくて、むしろ新人のころには「お前のことは心配してない」と言われたり、褒めてもらったこともあった気がします。
今年の初めに海外の災害現場に出かけたときは、帰国報告の電話を会社にかけたらNさんが出て「いい仕事をありがとう」だなんて言われました。仕事で言葉を交わすことがあったにせよそんなことを言う人だと思っていなかったので、嬉しいより先に「おや?」と不思議に思いました。最晩期まで病気のことは隠して仕事をしていたということは今日知りました。全く正確なところはわかりませんが、このときには既に診断が出ていたんでしょうか?「なんかNさんがいい人になってましたよ」と周りの人に冗談めかして吹聴しながら、不自然な感じもしていたものです。

Nさんが(病気のことを隠しながら)7月に昇進したり、9月には仕事上の一大イベントを仕切ったりしていたことを自分は知っていたので、今日いきなり入ってきた訃報に、最初同姓の別人かと疑ったほどでした。
お互い会社のつきあいの中の、それも結構遠い関係だったのに、なぜか今日はNさんのことが何度かフラッシュバックする。前触れもなくぷつっと命が消えるという普段ない出来事に触発されて、久しぶりに「死」のことについて考えたからかもしれません。

癌。助かる確率は最近上がっているそうですが、あいかわらず耳にする訃報の多くがこの病気によるものであることに変わりはありません。
事故死のような「瞬間的な死」と違って、癌のように根治が困難な病気は、それが発覚した瞬間から「緩慢な死」が始まるといえないでしょうか。狼狽したり、道連れを求めたり、写真の整理を始めたり、いろんなところへ旅行したり、自分の半生を記録として残したり、いつも通り(いつも以上に)仕事をしたり。自分の生が有限であるという、当たり前のことなのに健康で生きているときには意識もしないことを自覚し、自分の行動様式を変化させるということが「緩慢な死」を生きることなんだと思います。
そう、たとえ病気になどかかっていなくても、ある普通の瞬間にふと、自分の生の有限さに思いを馳せることがあれば、それもまた「緩慢な死」を生きていることになる。だいたい誰しも生まれた瞬間から死に始めているわけだし。
ではその「緩慢な死」を意識したとき、自分はどう行動するのか?全く想像つきません。
そして明日はまた普通に仕事をするわけですが。

投稿者 b-men : 2005年10月03日 22:44

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