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2014年09月 アーカイブ

2014年09月27日

非線形科学

■蔵本由紀『同期する世界』集英社,2014年.
■蔵本由紀『非線形科学』集英社, 2007年.
■蔵本由紀『新しい自然学―非線形科学の可能性』岩波書店,2003年.

ばらばらに動き始めたメトロノームが、不安定な台の振動を通して互いに歩調をそろえ、最後にはすべてが同じ動きになるという実験画像があります。一つ一つのリズムが相互作用し、マクロなレベルでのリズムを作り出す、集団同期と呼ばれる現象です。
こうした現象は生物にも無生物にも見られます。心臓の心筋細胞は、音頭を取るペースメーカー細胞の合図を受けて心拍を生みますが、この集団リズムが乱れると不整脈となり、AEDでリセットする必要が出てきます。また、ホタルの集団では個体が全体の光り方を見ながら周期を調整し、全体が一斉に明滅するようになります。同期現象を初めて報告した17世紀オランダの科学者ホイヘンスは、壁に取り付けた二つの振り子時計が必ず同じリズムになることを発見したのでした。

一見なんの関係もない自然現象の背後に、共通性が隠れている。そのことは、著者が1975年に作った式によって数理的に把握することが可能になりました。そのアイディアは、「リズム=周期的に継続する運動」の担い手を円運動する粒子に見立て、それらの相互作用を粒子同士の位置関係として表すというもの。いろいろな現象から本質以外の部分を取り除く「縮約」という作業を通じてモデルが作られました。現実から一歩離れる代わりに、現実を貫く共通性のレベルに視点を持っていけるというものです。

ものを分子に、原子に、そして素粒子に分解し、ミクロの世界を調べて、それを積み上げていけばマクロのことが分かる。そういう発想の科学とは違って、複雑なものを複雑なままに、五感で感じられるマクロなレベルをそのままに把握しようとします。それがマクロの世界を知るための方法だといいます。単語や音節のレベルを調べる言語学と、文章を調べる文学、個人の内面を調べる心理学と、集団の行動を調べる社会学など、調べるもののレベルが違えば適した説明の方法も違うようなものでしょうか。

これらリズムの担い手はいずれも、外部からエネルギーを取り入れ、内部で変換し、それを捨てることで同一性を保つ実体たちです。細胞とか組織とか生物は食って代謝して出しているし、メトロノームもぜんまいにためたエネルギーを取り出し、消費して散逸させています。そうした(生き物でないものを含めて)生き生きした実体が自己組織化を起こし、秩序を立ち上げる。イリヤ・プリゴジンの散逸構造論に着想を得た著者の研究が、力いっぱい平易に書かれています。(それでもかなり歯ごたえがあるんだけど。余談ですが、学生時代に読んだ現代思想の本に一瞬出てきたプリゴジンが何を言っていたのか、ようやく分かりました)

ちょっとした必要があって立て続けに3冊読みましたが、弊管理人的には、まずは『同期する世界』を入り口に、『非線形科学』へカオス、ゆらぎ、ネットワークも含めた見取り図を見に行くのがよいと思います。もっと知りたいと思ったら『新しい自然学』で著者の科学論・マニフェストを聞いてみるという感じか。

2014年09月26日

神学・政治論と、いろいろ

■スピノザ, B.『神学・政治論(上・下)』(吉田量彦訳)光文社, 2014年.

鷲田清一の新しい新書を読んでいたら、フランスのバカロレアの問題の一つに、『神学・政治論』の一節を注解せよというものがあった、と書いてありました。高校生が触れるような本を人生も折り返し近くなって手に取るおぢさんこと弊管理人。かなしい(笑)

人生、いつも思い通りならいいけれども、実際そううまくいくものではない。だから人は不運を恐れ、恐れから迷信にすがる。迷信は宗教というおべべを着せられて君主による統治の道具として利用される。しかしそんな統治は民衆を奴隷化し、誰もが持っている自由を真っ向から否定し、意見の相違を悪と決めつけ、紛争をいたずらに煽るようなものになるのではないのか?
そこで、自由の尊さと、さらに自由を認めても国の平和も道徳も損なわれないこと、そればかりか、自由を踏みにじれば平和も道徳も損なわれることを示そうとする。(序文)

著者はまず、聖書をまっさらな心で読み直すことを通じて、神学から哲学を引き離そうとする。これが前半の神学編ともいえる部分だ。

聖書には預言者による預言がたくさん出てくる。しかし、預言者は知的に優れた人というよりは道徳心が豊かな人であって、隣人愛や正義を語っているだけだ。その中核部分だけが信じるに値するのであって、それ以外の部分は、例えば神や聖霊の姿を老人と表現したり炎と形容したりと随分あやふやで、「神の○○」というのも吟味してみれば程度が甚だしいということの比喩に過ぎなかったりする。つまり預言は、預言者たちそれぞれの気質や理解力、さらには受け手・読み手の理解力に規定されつつ、預言者たちの想像力によって脚色された部分をかなり含んでいた。そうした記述は確実性の期待できるものではない(1章、2章)

また、ヘブライ人は神から選ばれ国を持たされたと言われるが、それはヘブライ人を律法に服従させるためのレトリックに過ぎなかった。神が特定の民族だけを選ぶということはない。モーセが受け取った律法も、ヘブライ人の国だけで通じるようなローカルなものに過ぎず、しかも国が存続した期間のみ縛る、限定的なものだったことが分かる。(3章)

そもそも幸福が約束されるのは、知性によって自然の一般法則(=神の法)に迫ることを通じてなのだが、聖書に書いてあるような歴史物語から神の法に迫れるわけではないし、神の法は儀礼とも特につながりはない。現に、キリスト教が禁じられている国でも、幸福に生きることはできる。日本を見ればよい。歴史物語だって、理解力に乏しい民衆向けの表現手段に過ぎない。
自然法則を超えるような事象=奇跡についても同じで、キャッチーさを狙っていろいろ盛っている記述を聖書から除いてみれば、特に奇跡の存在を証拠立てるようなものはない。というか、自然の一定不変の法則こそ神の法なのだから、それを破るようなものが存在できるはずがないのだ。(4、5、6章)

とすると、聖書というのは一体なんなんだろうか。神の言葉、幸福の源泉、救済への道が示されているというが、現実は神学者が自分の思いつきを他人に強制するためのダシになっているのではないか?それは間違った在り方だと思う。人は自由に宗教上のことを判断する権利を持っているはずだ。

そこで、以降では、聖書の物語を注意深く読み直してみる。(7章)
聖書各巻の歴史を書かれていることに基づいて検証すると、モーセ五書やサムエル記などはその時代よりずっと後の人でないと知らないことが書かれていることから、本人が書いたものとは言えない。そればかりか、ざっと2000年以上にわたって多くの作者が書いてきたことが分かってくる。さらに、どの書物を聖書に含めるか、含めないかは、おそらく律法に詳しい人たちの相談によって決められている。(8、9、10、11章)

こうした史料批判から言えることは、聖書は神から送られた手紙なのではなく、むしろ非常に人間的なプロセスで書かれていて、書かれたその時その場の読み手である一般の人達に分かってもらえるように、さまざまな言い回しや装飾が施されているということだ。神からのメッセージといえるのは、正義と愛と神への服従、この極度にシンプルで明白な指針だけだと思えばいい。まさにその一点において聖書は有用なものだといえる。
聖書に対するこんな態度は不敬だと指弾されるかもしれない。しかし、その指摘はかえって、神の言葉以外を崇める迷信に結びつきはしないだろうか?(12、13章)

聖書は、さまざまな宗派の人がいいように解釈し、さまざまな理解力の人が自分なりに理解してきた。ただし、それ自体は責められるべきことではない。問題なのは、たとえ相手がまともな信仰を持ち、隣人を愛する人であっても、自分と違う解釈をしたという理由だけで排撃しようという態度なのだ。
このように信仰は道徳の問題であって、真理の探究である哲学とは関係がない。(14章)
同時に、神から贈られた理性、つまり哲学するための道具を封印し、方便として書かれた歴史物語を盲信する理由もない。哲学する自由は神学も許容するところなのだ。(15章)

ここからは後半の政治論。
ここまでの議論を土台として、平和を実現するために自由がどれだけ大事かという話題を展開する。

まず、人は誰でも、自分を守り、自分のやりたいことをやる自然の権利を持っている。けれども、全員がそれを好き放題に行使していると、いつまでたっても世の中が落ち着かない。そこで、各人が理性に基づいてその権利を他人と持ち合い、他人を自分と同じように尊重する契約を結ぶことになる。こうして国や法が生まれ、個々人から権利を託された権力者が秩序を保障するのだ。
権力者の命令に従うといっても、個人が奴隷になることを意味しない。個人は自分の利益のために契約という行為をしたのであって、他者のために行為する奴隷とは別物だ。政体としては独裁制、寡頭制、神権政治などが考えられるが、特に民主制を採用することが自由への道だといえる。(16、17、18章)

そこでは、宗教を権力の傘の下に置いておくことが重要である。そもそも、宗教が持つ権利は、人々によって打ち立てられた権力から付与されているのだから、これは当然である。というか、神の直接統治など存在しない。神は永遠の真理そのものであって、手前勝手な法を押しつけるような存在ではないからだ。(19章)

また、支配者たちは、人の行動を法で規制することはできても、心の中にまで指図することはできない。自由に考え、発言することは自然な権利であり、誰もがついやってしまう癖のようなものであり、学問や技能の発展の礎であって、それを個々人から切り離すことは不可能だ。人々が全員、全く同じことを考えるということなど起こらないし、多様な意見を暴力的な政治によって抑えようとしても、それは支配者の権利を最初に生み出した契約を揺るがすだけである。もともと国は人の自由のために作られたのだから。
体制を安定して維持していくためには、自由に考え、自由に発言することをすべての人に認めるしかない。それが結論となる。(20章)

……という話だったはず。
日本語として読みやすく訳す工夫、なぜこの訳語を選んだのかを細かく注釈で示す誠実さ、そして該博な知識を動員して作り上げた名訳だと思います。着手は2010年だったそうです。大変お疲れ様、でも今後数十年にわたって参照されるはず。

1670年に匿名で出版され、4年後には発禁になってしまった本。その当時のスピノザとオランダを取り巻く状況と、当時この本が与えたインパクトについて触れた解説も、作品をそれが書かれた文脈の中に置いて見せ、当時と現代を架橋するという解説の役割を認識して書かれたもので、素晴らしかったです。

社会契約や自由のほか、自然科学を考える軸にもなりそう。これから何回も思い出すことになるでしょう。
無神論が完成するのは、ものを考えたり言ったりする時にいちいち神様に触れなくなった時なのだ。たぶん。

* * *

■ローレンス, B.『コーラン』(池内恵訳)ポプラ社, 2008年.

イスラム、そろそろ勉強しなきゃかなあと思っていました。それで「コーランでも読もうと思う」と会社の後輩に話したところ「コーランは通読するのには向いてないですよ」と教えてもらったため(なんつう会社だ)、まず、と手に取ったのがこれ。

ムハンマドからビン=ラディンまで、コーランの受容史を駆け抜けた。
面白かったのですが、ちゃんと消化するには、もう少し読書が必要。

読書記録の順番は前後しますが、エルサレム繋がりということで6月に上巻を買ったままにしていた『神学・政治論』に手を付ける気になった本だったというわけでして。

* * *

9月に入ってとんと日記を書いてなかったのは、忙しくて土日も出勤していたのと、土日は出勤後に酒に溺れて疲れて寝ちゃっていたためでした。

* * *

今期の放送大学は「社会心理学」の授業が面白かった。
名著を10冊紹介するシリーズ。
対ヘイトとかの背景知識としてオルポートの『偏見の心理』を読んでおいてもいいかなと思ったものの、絶版みたい。残念。関連した概説書はあるっぽい。立ち読みしてみる。

* * *

先日、ランチで浜松町の「鯛樹」に入りました。
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卵の入っただしに、鯛とわけぎと海苔をぶっこんで混ぜ、高級卵かけご飯にするのです!

2014年09月08日

北海道など

8月の終わりに遅めの夏休みをと思っていたら仕事が込んじゃって、結局できたのは2泊の北海道旅行。
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今回は前日に行くことを決めたので、お安いLCCバニラエアを使いました。

とりあえず札幌に出て、和食のお店に入ってうに豆腐。
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んで、新サンマ食いますよね。
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その後、現地友人と落ち合って超クラシカル喫茶「赤い館」で深夜のカツカレー(小)
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遠近法を加味しても奥のナポリタンと比較したサイズ感がおかしいと思いませんか。

翌日は白老町に向かいました。
札幌駅のバスターミナルから中央バスを利用し、室蘭本線に乗り継ぐはずが、平気で遅れて回復運転もしないので、乗り継ぐ駅を急遽変えて、JR竹浦駅までダッシュするはめに。くそが。
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で、白老駅まで行ってアイヌ民族博物館へ。
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古式舞踊。鶴の親御さんが子どもに羽ばたき方を教えてるんだって。
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ムックリ(竹製の民族楽器)
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オハウ定食をいただきました。オハウは野菜や魚を煮た汁。鮭うめーなー
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博物館はざっと見。この紋様好き。Tシャツほしい
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お宿は虎杖浜の民宿500マイル。
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この太平洋を望む露天風呂に入りたかったのだ。
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お茶菓子代わりに出てくる毛ガニw
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ご飯の豪華さでも知られたお宿です。
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たらこで有名な土地ですのでたらこ、いくら、お刺身にいかの陶板、たこのマリネ、えびとかにの入った玉子豆腐、ツブ貝、かに汁。まあ弊管理人はあまりナマモノを食べないのですが(笑)
夜は持ち込んだ仕事に勤しんでしまうという。

翌朝、チェックアウトしてぶらぶら。北海道っぽい町並みを楽しんで戻りました。
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北海道は2泊でもいいけど、ちょっと短いね。

* * *

この週末は土曜仕事→夜遊び→朝6時半までクラブ遊び的な何かと飲酒→日曜仕事→うっかり飲酒→月曜仕事をキューピーコーワゴールドアルファプラスのドーピングで乗り切りました。

最近悟ったことですが、休みの日というのはぐったりしていても回復しない。
徹底的に疲れて死と再生を経ると結構回復する。

刑場に引かれていく死刑囚には、道ばたの花がかつてなく美しく見えたという。
人生の有限さへの認識が「今・ここ」を輝かせるのだ。
夏から遊びすぎてるアラフォー(弊管理人)の心象風景w

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