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2014年07月 アーカイブ

2014年07月29日

IVO

新宿三丁目、「IVO ホームズパスタ」。
きょうは月に1回の新宿夜仕事の日でした。

シンプルな、ガーリックと唐辛子のトマトソースが食べたくて。
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Addictive!!

2014年07月23日

新記

四谷三丁目駅すぐ、香港麺 新記。
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ちょっと香港気分でして。
ランチ、850円でつみれ麺+叉焼丼(麺は汁ありとなしが選べて、丼もいろいろ種類があります)。
いい。多分現地よりうまい、と思っておく。

珍しく昼間に四谷で仕事があったため、昨年末以来の新記訪問となりました。
このあと銀座、内幸町と転戦して会社に戻って、さらに二つほど予定をこなしました。
もっとも、本当に忙しい時というのは外に出ません。大体の用事を電話で済ませてしまうので。よくないことなんですけど。

* * *

昨日だったか、梅雨、明けました。
今年の夏は短そうな気がする、なんとなく。

2014年07月21日

溺れる/救われる

■レーヴィ, P. 『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳)朝日新聞出版,2014年.

アウシュヴィッツから生還し、その後40年余を生き続けて1987年に自殺したプリーモ・レーヴィが死の前年に出版した本です。日本では2000年に翻訳が出て、今般選書に入りました。
ラーゲル(強制収容所)の記憶と、時代を下るとともに現れる記憶の歪み、そして人々の認知の歪みに向き合い、その体験をいくつかの主題に結実させ、それをエピソードとともに差し出した。誰にも、いつの時代にも起こり得ることとして。

ユダヤ人を抹殺するとともに、その記録と記憶を抹殺しようとしていたさなかでも、完璧にそれを遂行することはできていなかった。とすれば、同時代のドイツにラーゲルの実態が広く共有されなかったのは、SSだけではなく、目と耳と口を塞いだ多くの一般人の責任でもある。戦後40年の間に、その事実は振り返ることが可能になる程度に蓄積したが、同時に直接の経験者は次々と世を去り、共有された記憶もまた砂のようにこぼれ落ちていく。(序文)

虐待者の記憶は時間が経つほどに構築される。命令された、仕方なかった。そして被虐待者の記憶も時間とともに薄れ、あいまいになる。それどころか、事が起きている最中にも認知は曲がる―「戦争はもうすぐ終わる」「ポーランドのパルチザンが収容所を解放し始めている」(1 虐待の記憶)

ラーゲルに存在したのは迫害者と犠牲者の単純な分割ではなかった。そこには「灰色の領域」があった。到着したばかりの「新入り」を殴るのは古参の仲間=生き残るために特権を求め、それを得た囚人=当局への協力者で、ラーゲルの中には複雑な構造があった。それは全体主義社会の縮図だった。その極北が「特別部隊(ゾンダーコマンドス)」として選抜されたユダヤ人を中心とする囚人たちで、十分な食事を与えるかわりに死体の髪を切り、金歯を抜き、荷物をより分け、死体を焼く任務を遂行した。しかしその秘密を外に持ち出さないよう、彼ら自身も数ヶ月のうちに殺された。任務を分有しながら犠牲者となる、灰色の領域の住人。彼らが置かれた状態こそが真正の「命令による強制の状態」であり、ナチが法廷で主張した「命令された」という言辞のぬるさをあぶり出すのだ。ポーランドはウーチのゲットーで議長として君臨し、ドイツに取り入り、やはりガス室に消えたハイム・ルムコフスキもまた灰色の領域の人だった。しかし「自らのもろい部分を権力に絡め取られることはない」と確信することなど、私たちのうちの誰にできるのだろうか?(2 灰色の領域)

戦争の終わり、隷属状態からの解放。しかし、それが苦痛からの解放となるとは限らない。生き残った中には「恥辱感」を抱いた人がいた。収容所の中では動物のように暮らしており、動物は自殺をしなかった。生きることに忙しかった。しかし解放後には耐え難い反省の時期が訪れた。命と引き替えにではあったが、できたはずの抵抗をせず、仲間との連帯を放棄し、自分の生存に集中した。誰かの犠牲と引き替えに今、生きているのかもしれない。不可逆的に消耗した「回教徒(ムーゼルマン)」という隠語で呼ばれた人たちも、抵抗の闘士も、生き残って語るべき人たちこそが帰ってこなかった。(3 恥辱)

収容所には、ドイツ語を知らないイタリアのユダヤ人がいた。ドイツ語で発せられるSSの命令が理解できない、生きる糧をどうやって得たらいいか分からない、殴られないように知っておくべき規則を理解できない。したがって、どこから危険が降ってくるかも予測できない。意思疎通ができないことは、生命維持にとってはマイナスに働いた。隠語、イディッシュ語、ゲーテのとは違った卑俗なドイツ語が飛び交い、収容所ごとに言葉の体系ができていた。収容所と別の収容所の間は隔てられ、群島のようだった。そして、その外にいる家族や祖国からは切り離されていた。既にそれらが存在しない人もいた。(4 意思疎通)

侵略や戦争といった目的達成のための暴力と違う、「無益な暴力」が収容所を支配していた。老人、病人を問わず詰め込み、水も便所も供給しないまま行われた鉄道移送。人間から尊厳を奪い、獣に変身させる排泄の強制や禁止、剃毛、スプーンを使わずスープを「なめさせる」こと、病人や死人までも整列させて行う点呼、入れ墨、科学的に意味のない人体実験。できるだけ大きな苦痛と卑しめを伴った死を強制する。その遺灰や遺髪は産業利用に供される。(5 無益な暴力)

「理解しようとするな」というラーゲルの教えと、理解しようとする教養の齟齬。信仰を持つ者の強靱さと、ラーゲルの邪悪さを目の当たりにして無信仰を強めた著者および哲学者のジャン・アメリー。(6 アウシュヴィッツの知識人)

アウシュヴィッツを生き延び、そのことを語る者に、いつも問いかけられること。
「なぜ脱走しなかったのですか」――しかし戦争捕虜と違って、寒さと飢えと病気と暴力によって体力を奪われ、灰色の領域の住人たちや一人の逃亡で引き起こされる混乱を恐れた同輩たちからの監視の中にあり、脱走して匿われる場所もないのに?
「なぜ反乱を起こさなかったのですか」――実際に反乱は起き、そしてほとんど成功しなかった。また、多くの人たちは究極的な抑圧の中で消耗しきっており、反乱を起こすことができなかった。
「なぜラーゲルに連れてこられるような事態になる前に逃げなかったのですか」――当時のヨーロッパは現在と違い、外国は遠いところであり、移住には費用やつてが必要だった。そしてヨーロッパのユダヤ主義は定住的で、家庭的な道徳律を持っていた。何より、不安な推測は現実になるまでできないものである。今だって核爆弾と第三次世界大戦の危機はないといえるだろうか。なぜ影響の及ばなそうな南太平洋の国々にあらかじめ私たちは逃げ出さないのだろうか?(7 ステレオタイプ)

1947年に出版した『アウシュヴィッツは終わらない』のドイツ語訳に対して、40通ほどの手紙が寄せられた。命令されたから仕方なく従った、一部の指導者が引き起こしたことだ。しかし、その政権は投票によって選ばれており、「鬼畜なやつら」と「騙されたわれわれ」の区別はできない。迫害を実行したのは「悪い教育」を受けただけの普通の人々だった。そして暴力はその後も常に世界のここかしこにある。何世代かを経て、マイナーチェンジを施したアドルフ・ヒトラーが現れる可能性はある。警戒は続けなければならない。(8 ドイツ人からの手紙、結論)

* * *

■町田康『パンク侍、斬られて候』角川書店,2006年.

職場の人に貸してもらった本。
風刺と見ることもできるけど、そんなことは気にせず酸鼻などんちゃん騒ぎを楽しめばいいんだと思う!

* * *

最近の買い物、二つ。

(1)ソニーのノイズキャンセリングイヤホン、MDR-NWBT20N。
2年ほど使った先代が断線したので買いました。通勤電車に地下部分があるので、ノイズキャンセリング機能は必須なのです。Bluetoothを搭載していて、しかも手許で再生/停止、早送り/巻き戻しができるので、iPodをカバンの中に入れたままにできるのが、使ってみて気付いた大変便利な点です。

(2)東京西川の敷き布団AIR 01。
いつからか覚えてないくらい昔から使っていた敷き布団を何となく取り替えたくなって、どうせならということで、ちょっと高いやつを買ってみました。
ウレタンでできてます。なんかぼこぼこ山がいっぱいついてるスポンジの上に寝てる感じ。ネットの口コミでは[腰痛が治った」「途中で起きなくなった」など絶賛が相次いでいますが、そういえば弊管理人はもともとそんなに運動器や睡眠に問題を抱えていたわけではないので、あまり実感はないかも。
それより今は体が慣れようとしている段階と感じます。ウレタンの臭いも気になるといえば気になる。評価はもうちょっと経ってからかなあ。

* * *

3連休は真ん中の日に働いてしまい、連休ではなくなりました。
その内容についてはいろいろ言いたいこともありますが、言ってもしょうがないので沈黙。
それより、そろそろ夏休みのことを考えるのだ。

2014年07月08日

ガルブレイス

■中村達也『ガルブレイスを読む』岩波書店,2012年.

ヴェブレン、ガルブレイス、サミュエルソン、制度派、新古典派総合。ミクロもマクロも知らない、そもそも経済専攻でない大学2年の冬にうっかり取った授業では、教授の研究室で同級生二人とコーヒーをいただきながら(そういえば当時はコーヒーもほとんど飲んだことがなかった)英語文献を読むという恐ろしいシチュエーションになってしまい、しかもほとんど消化しないまま、よくわかんない言葉を覚えて終わったのが思い出です。

その覚えたうちの一人、ガルブレイスの『ゆたかな社会』はしばしば耳にするので気になってはいましたが、そのものをいきなり手に取るのはちょっと躊躇われました。もうとにかく経済って分からない。普段は原典を読んでから解説、がよい順番なのですけれど、全くなじみのない分野はまず解説、これもまたセオリーだと思ってます。

本書は1983年の一般向けセミナーをまとめて88年に出版された本を改訂・補筆し、2012年に岩波現代文庫に入ったもの。1950年代から90年代までの主要な著書を一つ一つ分かりやすい言葉で解説しながら、ガルブレイスの思想の年代記を作り上げています。それによればガルブレイスという人は、一生かけてオリジナルな一つの体系を組み立てたというよりは、その時々の主流の経済学と社会通念を批判し、鋭い洞察力と豊かな引用、風刺を駆使して来るべき時代の予言をしてみせる、異端の経済学者だったらしい。

『アメリカの資本主義』(1952年)のキーワードは「拮抗力」です。普通の考えでは、多数の小さな企業が参加する競争的市場が成立していれば、「神の見えざる手」=自然の調整機能が働いて万事うまくいく。その例外事態である大企業による独占を防ぐための独禁政策が必要とされるわけです。
しかし、ガルブレイスは大企業には固有の存在価値があるという。複雑・高度化した20世紀の科学技術を使って革新を起こすためには、巨大な元手の蓄積が必要になります。企業の大規模化は、技術革新の原動力として肯定的な意味を持っているのです。
では、大企業の好き勝手は放置されるかというと、そうでもない。実際に起きていることは1社の独占ではなく、数社による寡占状態で、そこには競争があります。ある企業から見て上流にある原料業界でも、下流にある小売業界でも、同じように力のある少数の企業が競争していれば、業界の内に対しても外に対しても、1社だけが傍若無人に振る舞えないようにする「拮抗力」が働きます。巨大企業の中に生じる巨大労働組合もまた、そうした拮抗力の源となります。政府がすべきことは、独禁政策によって技術革新の担い手である巨大企業を排除するのではなく、拮抗力を支援するような政策を実行することなのだといいます。
逆に、拮抗力をキャンセルしてしまうような力がインフレにはある。そして、その懸念はこの出版以降、実際のものとなります。

次の『ゆたかな社会』(初版1958年、69年、76年、84年、98年に改訂)は、アメリカが持続的な経済成長モードに入った時期に書かれました。成長を礼賛するのではなくて、成長が必然的に生む病理に焦点を当てることで、貧困を前提にする従来の経済学にアンチを唱えた本といえそうです。
まず、それ以前の経済にあった「古い病」として、「物質的貧困」「不平等」「経済危機」を挙げます。これを克服するのが最大の課題だったのですが、成長の時代に入るといずれも緩和されます。しかし、新たに「依存効果」「慢性的インフレ」「社会的バランスの喪失」という三つの病が現れます。
「依存効果」というのは、大企業が大量生産と並行して広告・宣伝を通じて大量消費を促し、消費者が消費に依存する状態。「慢性的インフレ」は、戦時や革命下ではなく、ものが豊富にある平時の世の中で緩やかにインフレが続く状態。「社会的バランスの喪失」は、私的な財やサービスの充実に比べて、公共インフラの整備が立ち後れていることを指しています。それぞれに対策を打ち出していますが、特に「依存効果」への対策として、大量消費にブレーキをかける売上税の導入とともに、雇用創出のための生産拡大を牽制しようとベーシックインカムの導入を提案しているのが目を引きます。

『新しい産業国家』(1967年、71年、78年)では、経済の主役となった大企業の振る舞いをクローズアップしました。
大企業を中心とした経済体制を象徴する言葉が「計画化」です。ここでも重要な背景となるのが技術の高度化・複雑化です。製品の企画段階から世に出るまでに長い時間と専門的な知識を要するようになり、生産設備にも大きな投資が避けられない。必然的に組織は巨大化し、あるキャラの立った個人の独裁ではなく、高水準の教育を受けたさまざまな分野の専門家集団(テクノストラクチュア)による支配体制を採用し、軍産複合体に見られるように政府との結びつきを強め、依存効果を通じて消費者をコントロールし、消費者に商品の選択の自由を残しながら、選択肢の幅を支配することもできるようになります。消費者主権に立った新古典派とは対極の見方です。
さらに、調達にまつわる不確実性を減らすため原材料を供給する会社をグループに取り込み、価格変動のリスクを避けようと大量・長期の契約を結んで調達を行うようになります(航空会社が燃料を随分先の分まで押さえるようなものかな)。
また、テクノストラクチュアを駆り立てる動機も前時代とは変わります。強制されて、あるいは金銭目的で動くというよりは、組織内での一体感を得たり、逆に組織を自分の思うとおりに動かしてやろうという欲求。これを加味して大企業の動態を理解する必要が出てきたといいます。

オイルショックの1973年に出版された『経済学と公共目的』は、『新しい産業国家』では注目されなかった中小企業も分析の中に含め「で、どうすればいいのか」を考えた本といえます。経済成長が分配の問題をうまく解消してくれていた時代が終わり、「どう分けるか」を初めとしたさまざまな課題が浮上しつつありました。
大企業の「計画化体制」(市場を支配する体制)と対比されるのが、中小企業が構成する「市場体制」(市場で決まった価格を受け入れて経営する企業たちの体制)です。ここでしかできないことは、農業のように非定型的で一極集中しづらい生産、床屋のようなサービスの生産、そして美しい一品もののような芸術的価値の生産です。こうした生産が将来重要になるだろうといいます。
しかし、現状としては計画化体制と市場体制の格差は広がっている。そこで、政府は大企業と癒着するのではなく、逆にそのガバナンスに手を突っ込み、公共的な方向へ引っ張っていくべきだとします。例えば環境問題への対応、例えばインフレ対策。そして住宅、教育、福祉政策に力を入れること。

最後にテーマになるのが『権力の解剖』(1983年)です。ケインズ的な政策が60年代のような有効性を失い、市場の力を頼むサッチャー、レーガン政権ができた時代です。しかし、競争的な市場なら自動的な調整機構が働くので権力が登場する余地は少ないのですが、現実は寡占市場です。誰かが支配し、誰かに力を及ぼしています。権力を考える必要が出てきます。
権力の類型として、強靱な・あるいはカリスマ的なリーダーによる「威嚇権力(脅し)」、財力を背景にした「報償権力(見返り)」、そして組織が操る「条件付け権力」を置きます。最後のは現代を特徴づける「自覚しないまま従ってしまう権力」で、広告・宣伝や教育によって浸透します。そして、それぞれの権力には対抗する権力が生まれますが、それがうまくバランスするとは限らないという、やや悲観的なビジョンを持っているようです。

なるほど、どの本もはっと目を見開かせるキャッチフレーズに満ちています。主流や定説の中でぼやーんとしてしまった頭を覚醒させる言葉、それを概観させてくれます。技術決定論ぽい経済観も興味深かったです。とても魅力的な解説ですが、よくできすぎていて原著に手を付ける意欲が多少そがれますかね……

* * *

先週は日帰り神戸、のはずが、半分予想していた通り東京に帰れなくなり、とりあえず大阪まで戻って投宿、6時前に起きて翌日9時から普通に東京に出勤するという疲れる出張をしてしまいました。

三宮の「トゥーストゥース・ガーデンレストラン」で腹ごしらえに食ったクレープ。
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んまかったー
次はメシ食いたい。

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