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2006年09月02日

高僧が斬る自殺

気の重い仕事を抜けて紀伊国屋に行くと、新書のコーナーにやけに「自殺」という言葉がタイトルに入ってる本が沢山並べてあってますます気が重くなった次第ですが。

それはいいとして、3年ほど前、ダライ・ラマが日本に来たときに仕事で面会したことを思い出しまして。まあ自分は握手してあいさつして、あとは聞いていただけですが、別の人が雑談の中で「日本では今、年に3万人もの人たちが自殺をしておりまして」と話すと、爺様はカッカッカと哄笑し「日本人は元気過ぎるのだなあ」とひと言、そして次の話題に移ってしまったのでした。

当時は、チベット紛争で夥しい人たちの死に接してきた爺様にとってはたいしたことではないのか、それとも別に輪廻のサイクルに乗っかって別のところで生まれ変わるからたいしたことではないのか、なんて思っていましたが、それは別に「元気である」こととは関係ない。今日は紀伊国屋の新書コーナーでなんでだろうかと考えてました。

自分の生に意味とか意義とかを見いださない人は敢えて生きる必要も感じないのでしょうが、それは裏返せば敢えて死ぬ必要も感じない、今生きているから生き続けるというエネルギーと振幅の小さい人なんだと思います。
反対に、生に執着があって、ことあるごとに意味や意義を追いながら生きている人は、その意義が失われたときに、まさにそれまで蓄えていた位置エネルギーの高さによって自死まで落下してしまうということなんじゃないでしょうか。

どっちが良いとか悪いとかではない、が。成長の時代の勢いをいま持て余している人だけじゃなくて、シニシズムのあとに来たベッタベタのイデオロギーを生きている人も危なくねえか、とか思うのであります。まあこれは余計なこと。

投稿者 b-men : 2006年09月02日 21:48

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