2005年10月27日
匿名と実名。報道をめぐる古くて新しい問題。
犯罪被害者対策で、内閣府が犯罪被害者等基本計画案(骨子)というのを作っていま議論が進んでいるところです。
このところ報道各社がこの中の「警察による被害者の実名/匿名発表について」の項目を削除するようキャンペーンを張っているんですね。
計画案には、警察発表については「個別具体的な案件ごとに適切な発表内容となるよう配慮していく」と書いてあります。これだけだとよく分からないんですが、要は「実名発表を原則とはしない」というふうに言えば分かりやすいでしょうか。
■背景:匿名/実名と取材現場の関係
警察の記者クラブに加盟している社には、事件や事故があると警察から紙媒体(手渡しだったりFAX送信だったりする)による発表があります。これには大体、発生場所、日時、当事者(加害者・被害者)の住所・氏名・年齢・職業と、出来事の概要が書いてありますが、本当にざっくりとしたことしか書いてないので、記者は紙を受け取ると警察に電話をしていろいろと質問して記事を書くわけです。
その結果、ちょっと複雑だとか猟奇的だとか色っぽいとか子供が関わるとかいったニュースが大きくなる要素が見つかって、現場に行って細かく情報を集める必要があることが分かると、記者は社やクラブを出て現場や関係者への聞き込みをすることになるんですね。
報道機関の立場からすると、匿名発表をされると、その人の名前はもちろん、住所や職業も伏せられることになるので(住所を発表するとせっかく名前を伏せても住宅地図や現場で割り出されるから)、まずこの聞き込みの作業が極めてやりにくくなる。
情報を一義的に管理するのが警察なので、偶然読者から情報提供があったとか、知り合い関係をたどって割り出せたとか、そういうことがないと、知り合いの警察官に頼んでヒントを貰ったりとか、面倒で不確実情報も混ざるような作業をやることになっちゃう。だから報道は匿名発表に反対するわけです。
一方で、どうしてそもそも実名発表に疑問が投げかけられたかといえば、名前をはじめとする個人情報を報道機関が一斉に知ることで取材が殺到し、ただでさえ犯罪によって精神的ショックを受けている人たちの家の前が中継車やカメラマンでごった返したり、人となりや「ガンクビ」(=顔写真)集めのために記者が近所で自分たちのことを聞いて回ったりといったひどい状況に追い込まれることが多いからでしょう。
計画案どおりに「匿名/実名の判断は警察がその都度判断する」ようになると、やはり匿名発表は増えるでしょう。報道に流す発表文を作るときに、警察はまず被害者に「あなたの名前を公表していいですか」と聞くことがルーティン化する。おそらく「いやです」と言う人がほとんどになる。そうすると「被害者の匿名希望により匿名発表とします」という判断をせざるをえなくなる。これを押し切って発表すると警察自身が被害者から責められることになって面倒だからですね。
■「匿名反対」の論理はやっぱり弱い
さて。
日本新聞協会は計画案に反対する意見書を出しました。以下転載。
犯罪被害者等基本計画案(骨子)に対する意見書警察による被害者の実名発表、匿名発表について、「個別具体的な案件ごとに適切な発表内容となるよう配慮していく」としている、Ⅱの第2の2「安全の確保」中の(2)のエ項に、日本新聞協会は反対し、削除を求める。被害者は実名で発表されなければならない、とわれわれは考えるからである。
実名のない被害者は、その存在さえ容易には確認できず、本人や周辺からの取材もできない。確認できない事柄を無責任に報道することはできない。われわれが実名発表を求める理由はここに尽きる。事件や事故を正確に、客観的に取材、検証し、報道するために、実名は欠かせないのである。
発表された被害者の実名をそのまま報道するかどうか、これはまたまったく別の問題である。被害者の安全にかかわる場合はもちろん、プライバシー侵害や何らかの二次被害のおそれがある場合は、当然、匿名で報道する。被害者から要望があれば被害者と誠実に話し合い、警察が被害者の声を仲介する場合は警察と真摯(しんし)に協議する。
被害者の実名は、この社会で現に起きた事実の核をなす情報である。それを国民に知らせるか知らせないか、警察に最終判断を任せていいのだろうか。われわれは、警察に限らず行政当局が、国民にかかわる情報を、随意にコントロールする社会に不安を覚える。
事件・事故の報道は、広く社会全体でその悲しみや怒りを共有し、社会が一体となって背景にある原因を考え、再発防止、根絶に向け取り組むために必要なものだと信じる。その使命を果たすために、報道に起因する諸問題については、報道機関が自主的、自律的に判断し、結果の責任もまた正面から引き受ける。われわれは、これまでもそうあろうと努めてきたし、今後もさらに努力を重ねたいと考えている。
犯罪被害者等基本計画は、被害者に対する主として行政の対応を網羅したものと、われわれは理解している。しかし、事件・事故の発表という行為は、一方にマスコミという当事者があり、行政だけでは完結しない。さらに、被害者対策と国民の知る権利という異なる公益にまたがる問題でもある。この項目が行政の犯罪被害者対策という文脈で一方的に取り上げられていることに、強い違和感がある。
実名・匿名発表については、これまでもわれわれは警察と何年にもわたり議論を重ねており、今後も協議を続けたいと考えている。この際、基本計画からはこの項目を削除し、そうした場に論議を委ねるよう求める。
しかしどうにも新聞協会の側に分が悪い。
まず「実名発表と実名報道は別。実名報道するかどうかは報道側に任せるべき」というんですが…
確かに実名発表と実名報道は別です。実名で報道機関に発表されても、報道機関が匿名で報道することは論理的にはあるでしょう。しかし、
(1)現状で報道機関の多くは実名報道を原則としているので、実名発表と実名報道は事実上ほぼイコールです。原則を外れる判断=匿名とする判断には相当の根拠付けがいりますが、原則に沿った判断=実名とする判断には熟考はいりません(だって原則なんだから)。報道機関の側としては「原則匿名」をまず掲げない限り「実名発表と実名報道は別」というのはちょっと詐欺くさい。
(1’)あと、上の意見書には「実名発表」と「実名報道」の間にある「実名に基づいた取材」自体が引き起こす迷惑(上で述べたような)というのに言及がないですね。
(2)そもそも報道に任せてきたことで弊害が出ているために、こんな項目が必要になっているのだから、報道機関側は「いや、自分たちを信じて任せろ」と言うだけでは何も主張したことにならない。
また、匿名では当事者へのアクセスが制限されてしまい、事実確認ができない。「確認できない事柄を無責任に報道することはできない」というんですが、一方で事件報道では被疑者の供述は警察が発表する”間接情報”を、弁護士に確認することなどほとんどないまま鵜呑みにして「容疑を認めているという」と書いたりしている、この不均衡がある以上、説得力はないですね。
実名がないと、「記事の事実性(=ほんとなんですよ、この話!という説得力)」が失せるというのもどうか。(そもそも「事実性」みたいな検証も反証もできない概念は使わないほうがいいと思う。けどまあそれは不問にしたとしても、)記事で大切なのは個人名なのか、それとも事件の流れを詳細に書くことなのか。性犯罪などは実名で報道するかわりに被害者に配慮してレイプの事実をものすごくぼかして書くのと、被害者に配慮して匿名にした上で鬼畜のような犯罪事実を書くのと、どっちが「事実性」とか「社会に対する訴求力」を保っているかを考えてみるといいと思う。
ずっと議論されてきたこの実名/匿名の問題ですが、確かに最近の各紙は、問題の残る取材・報道のあとは、有識者を入れて取材過程の検証をしたりといったことに紙面を割くなどだいぶ改善する姿勢を見せていますね。そんな流れの中で、今回の計画案で改善への努力を水の泡にされたくない、というのは分かります。が、逆にこういう計画案が出てきた時点で負けている、という見方もできるのかな。
全体として、今回新聞協会が出した意見書は、社員教育で記者たちの使命感を鼓舞するための内向きな論理ばかりが書いてあって、現状に不満を持っている一般の人たちを説得するような外向きの論理を全然提示していない印象を受けました。たぶん現場を離れた「編集幹部」たちは本気で「報道被害者」=会社秩序の外の人たちと向き合って、それでも実名報道がいいんだと説得する機会などほとんどないからなんじゃないかな。
「他社が報道してるのにどうしてうちはやらないんだ」的な横並び主義とか、「現場にニュース判断なんか求めてない。デスクが言ったことをちゃんとやれ」的なガチガチ上意下達型の組織をどうにかしないと、たとえ今回この項目が削除されたとしても、早晩同じことの繰り返しになるだろうと思います。
■でも「匿名」ではコストもかかることは承知しないと
さて一方で、百害あっても一利あったりもするのが報道。
システムを大きく変えるような大事故(日航機、福知山線事故など…)があったとき、その何周年などの節目で「人」に焦点を当てた記事を出し続けることで教訓を思い出させ続けるということは報道ができる貢献のひとつでしょう。
それから、警察や検察が被害者に不当な扱いをしたりした場合(長野の連続殺人で被害者家族が疑いをかけられたときなど…)に、警察や検察が隠したがるような事実を被害者から直接聞いて問題点をえぐり出すこともできるでしょう。
匿名発表が主流になれば、こうした被害者たちへのアクセスを前提とした記事というのは圧倒的に書きにくくなるわけだから、被害者たちが何か社会に対して投げかけたいことがあった時は、自らネットで発信したり、自分から報道機関に投書したりといった能動性を発揮しないといけないことになります。
報道機関から自分たちの領域に踏み込まれるリスクはカットできても、今度は自分たちから声を上げるというコストを引き受けざるを得ないことになる。匿名社会に必然的についてくるコストなんだと思います。気の強い人はそれでもそのコストを払うでしょう、しかしそうでない人の泣き寝入りも相当発生するでしょうが。
(「匿名社会」一般でも、名簿を作らないとか公的機関が照会に応じないとか、いろんな面倒=コストが増大するんですが、それは応用問題なので割愛…)
それでも匿名化の流れがいい、ということを社会の成員の多くが思うなら、もう報道機関は社会を啓蒙するとか説得するとかいう傲慢はやめて、一緒にその流れに乗ったほうがいいのかもしれない。
誰でもアクセスできるネット上の情報の蓄積が今はあって、ひとたび個人情報が報道で流れると、それがネットで晒されたり、あることないこと書かれて「こんな奴は被害に逢って当然」みたいなことを書かれたりする。公開された被害者の情報がさらに犯罪に利用される。そういう技術と社会の変容もよく考慮して議論を組み立てないとだめだろうなあ、と思います。
あーあ、長くてわけわかんなくなった…
投稿者 b-men : 2005年10月27日 00:53
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