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隷従への道

■フリードリヒ・ハイエク(村井章子訳)『隷従への道』日経BP社、2016年。

ウイルスとの戦い、という物騒で無理筋なフレーズが出てきたあたりで、この本に手を付けるのは「今かな」と思ってがつがつ読み始めました。「あっ安い新訳が出てる!」といって買ったはいいが、新書サイズとはいえ500ページ超と東京では通勤で持ち歩くには重くてかさばるために、本棚に置いたままになっていたのでした。しかしそのうちに「自由を売ってパンを買う」みたいなプーチンのロシア20周年(5月7日)が来て「むしろそっちだったかな」ってなった。

ドイツでナチ政権が誕生し、第二次世界大戦に入っていこうとする時期に着想され、戦後を展望する1944年に出版。進歩と繁栄をもたらした19世紀の古き良き自由主義が「時代遅れ」となり、計画経済が社会主義からファシズムに流れ、自由主義陣営でも戦時体制(つまり消費財と資本財から軍事物資へと生産が計画的に振り向けられ、消費財の生産縮小に伴うインフレ防止のため、物価凍結と配給という政府介入が行われる体制)の経済に移行した時代、確かに権力者にとってはコントロールがきいていいけど「でも戦後もそれやったらだめだからね」と英国民に警告を発するものです。

小規模で単純で見通しのきく時代ならともかく、複雑化した社会において計画経済を「ちゃんと回す」のは土台無理で、それをやろうとすると民主的なプロセスがすっ飛ばされ、「科学」を独占する専門家に(本当はできないのに)丸投げされ、個人の責任は蒸発し、無理な統治を淡々とこなせるクズが組織を上り詰め、成員に大して無差別に網をかける「法の一般性」は失われて特定グループが優遇されるという恣意的な統治になります。

「いや所詮経済だけの話でしょ」とはいかないのです。経済を政治や「価値観」の領域から切り離すことはできず、結局は計画経済を志向するとそのまま坂を滑り落ちて全体主義に行き着く危険が極めて大きくなります。

といって、じゃあ政府なんていらずに市場に全部お任せでいいかというとそれは全くそうではありません。労働環境、衛生、交通網の整備など「競争の土台」を整えることが政府の役割だと主張します。生存のための給付、今だったらベーシックインカムさえもひょっとして許容するかもな、と読んでて思いました。

とにかく「複雑な社会において全体をコントロールできるなんてのはフィクションだ」というのが根本的な思想で、必然的に「じゃあ科学者に任せよう」という幻想も切って捨てることになります(「ネイチャー」も槍玉に上がってます)。その代わりに、自律分散システムを走らせて、全体がたとえ「正解」には行き着かなかったとしても、そこそこいいところには落ち着く(アニーリングみたいですな)、それを目指すしかないんではないか、という考え方なのかもしれない。

最後にはその拡張版として、戦後の国際秩序として閉鎖的なブロック形成ではなく、個々の国の力を活かす「連邦制」、そして地域ごとにできた連邦制同士の連合のようなものを提案して終わります。

若者の驕慢みたいな集産主義思想に「眉唾眉唾」ってやる様子は、40代に入って順調に保守的になった弊管理人も共感するのですけど、しかしちょっと想定してる人間像が強いなとは思いました。あと、社会構造が個人に及ぼす影響を過小評価しているとも。暗い戦争の時代から戦後の世界を構想する立ち位置で、しかも徹底した二項対立の図式を描くスタイルからはしょうがないのかもしれないけど。

あとこれ。冒頭の序文に出てくる、アメリカでの本書の出版を断った編集長のコメント。
「この本がたいへんに骨を折って書かれたことはわかりますが、いかんせん余分なことが多すぎます。ここに書かれている内容は、半分の枚数で書けたでしょう」(p.32)

同じことが何度も出てきたり、セクションが変わると断絶した感じになっちゃったりして7章にさしかかったところでついて行けなくなり、メモを作りながら序章から再スタートしました(ただし読む速度は3倍に上がった)。そして最後のほうは若干だれました。でも訳文はとても読みやすくていいと思う。グッジョブ。

* *

「リベラル」という言葉は19世紀的&英国で使われている意味(いかなる特権も認めない)で使ったが、米国では政府の規制や管理を支持する立場に(左翼への批難の言葉として)使われるようになってしまった。
この本では、「社会主義というものは、大方の社会主義者が同意しない方法でしか実現し得ない」(P.101)ということを示そうとする。

【第1章】
・自由主義の下で発生する自生的秩序が進歩の原動力だった(が近頃評判が悪い)

「私たちは経済における自由を次々に放棄してきた。だがかつて経済の自由なしに個人の自由や政治の自由が存在したことはない。一九世紀の偉大な思想家、たとえばトクヴィルやアクトン卿が、社会主義は人を奴隷にすると警告したにもかかわらず、私たちは社会主義への道を着々と歩んできた」(p.139)

「今日では個人主義は悪い意味でとらえられ、利己主義や自分本位と結びつけられている。だが、社会主義を始めあらゆる形態の集産主義(collectivism)と対比して私たちが語る個人主義に、利己主義と結びつく必然性はない。[...]個人主義の本質的な特徴を一言で言うなら、人間としての個人の尊重だと言うことができよう。それは私的な領域においてはその人の考えや好みを至上と認めることであり、人間は生まれついての才能や好みを育てていくべきだと信じることでもある」(pp.140-141)

「[自由]主義の基本的な原則は、指図や規制をするに当たっては社会の自生的な力を最大限活用し、強制に頼るのは最小限に抑えること、これだけである」(p.145)

しかし、自由主義による進歩はペースが緩やかだったため、それによって富が増大したことを忘れて、次第に「古い原理」と見なされていく。それを克服するのは「全く新しい何かだ」と考えられ、個人主義の伝統が放棄されていく。そこでドイツでの社会主義の理論的発展と、英国の「時代遅れ」化が進むのだ、という危機感が表明される。

【第2章】
・集産主義、社会主義、共産主義、ファシズムは似ている

そもそも社会主義は誕生の場面では権威主義的だったはずだ。

「ここで何より驚かされるのは、はじめは自由に対する最大の脅威とみなされ、フランス革命の自由思想への反動として生まれたことが公然の事実だったその同じ社会主義が、いつの間にか自由の旗印の下に広く受け入れられるようになったことである。誕生したての社会主義があからさまに権威主義的であったことは、いまやほとんど忘れられている」(p.159)

しかし、ある時、「自由」という言葉をハイジャックする。これが受け入れを促進してしまうのである。

「政治的自由を追い求めた偉大な先人にとって、この言葉[=自由]が意味するのは圧制からの自由であり、他人による恣意的な権力行使からの自由であり、上位者の命令に従う以外の選択肢がないような束縛からの解放だった。だが新しい自由が約束するのは、貧困からの時湯であり、個人の選択の範囲を必然的に狭めるような外的条件の制約(…)からの解放だった。…この意味での自由が権力あるいは富の別名にすぎないことは、改めて言うまでもあるまい」(pp.161-162)

だが、イーストマン、フォークト、リップマンのように、共産主義の実際を見て、ファシズムとの親和性に気付いた人もいた。

「あの民主社会主義というここ数世代の壮大なユートピアは実現不能であるばかりか、実現しようとすれば、今日それを望んでいる人々でも受け入れがたいほど、めざすものとはちがう結果を生むにちないない。しかし多くの人は、社会主義とファシズムの関係を白日の下にさらけ出すまで、それを信じようとしないだろう」(p.171)

【第3章】
・「自由」はレッセ・フェールではない。競争が成立する条件づくりは国家の仕事である

(「自由」という言葉に続いて、)「社会主義」という言葉にも混乱がみられる。究極の目的は「社会主義や平等と保障の拡大」だというのだけれど、この目的のほかに、それを実現する「手段」のことを「社会主義」が意味することもある。その手段というのは、民間企業の廃止、生産手段の私有禁止、「計画経済」の導入である。「目的」のほうだけを見て信奉してしまうと、「手段」が孕むリスクを見逃すことになりかねない。

「計画」という言葉も曲者だ。政治や経済は先を見通すという意味で多かれ少なかれ「計画」的である。計画を否定するのは運命論者くらいだと考える向きもあるだろう。

しかし、「今日の計画主義者が要求するのは、単一の計画の下であらゆる経済活動を中央が指図することである。そしてその単一の計画では、特定の目的を特定の方法で達成するために、社会の資源を「意図的に管理運営」する方法を定めるという」(pp.181-182)

こんにち、計画主義者とその反対者の対立点は、「強制力を持つ者は、個人が知識や自主性を発揮する最良の枠組を定めて各人が最適な計画を立てられるような条件を整えることだけに専念すべきなのか。それおtも、そうした個人の資源を合理的に活用するためには、ある意図をもって作成された設計図に従って、個人のすべての活動を中央が組織し指導することが必要なのか、ということである」(p.182)――このうち、社会主義者が使う「計画」は後者の意味である。

といって、自由主義者が単純な「レッセ・フェール」を主張しているわけではない。「自由主義の主張は、人間の努力を調整する手段として競争原理をうまく活用しようということであって、物事をあるがままに放任しようということではない」(p.183)

つまり、競争原理が効果的に働くための法的枠組や、ある種の政府の介入は必要だし、競争の条件がうまく整わない場面では別の原理が必要だということも必要だとする。

「彼ら[=自由主義者]が競争をより優れた方法だと考えるのは、単に既知の方法の中で多くの場合に最も効率的だからというだけではない。当局による強制的あるいは恣意的な介入なしに相互の調整が出来る唯一の方法だという理由が大きい」(p.183)

有害物質の禁止、労働時間の制限、衛生環境の整備などは競争の維持と矛盾しない。その利益が社会的費用を上回るかどうかだけが問題になる。広範な公的サービスの提供も、それが競争を非効率するような設計でない限り、競争の維持と十分両立しうる。これまでは介入のデメリットばかりが強調されてきた。

また、「法制度をいくら整えても、競争原理や私有財産制が効果的に機能する条件を形成できない領域が、まちがいなく存在する」(p。186)

道路や道路標識などは一人一人にサービスの対価を払わせることができない。森林伐採、工場の煤煙などの影響を所有者だけに引き受けさせるとか、賠償と引き替えに受け入れた人たちだけに限定することはできない。こういうときは価格メカニズムを通じた調整とは別の原理が必要になってくる。

だが、こういう「競争がうまく機能するための法的枠組」の整備は進まず、競争を排除する方向に走ってしまっている。そして、独占化や組織化が進んだ分野では資本家と労働者がグルになり、消費者はその言いなりになるしかない。

【第4章】
・社会が複雑になるほど全体を管理できなくなる

計画の必然性を言うために動員された”根拠”は「技術革新の結果として競争の余地がなくなっていく。あとは大企業による独占か国家による統制かという選択だけだ」というものだが、データによる裏付けはない。

また、文明の高度化によって経済プロセスが複雑になり、全体像の把握が困難になるため、社会の混乱を避けるためには当局の調整が必要だとされる。

「だがこのような主張をするのは、競争原理を全然わかっていないからだ。競争というものは、比較的単純な状況に適しているのではなく、今日のように分業が進んで高度に複雑化した状況でこそ、調節を適切に行う唯一の方法となるのである」(p.204)

中央管理方式こそ複雑化に追いつかない。世の中にはいろんな価値観があって、それぞれの人が計画を志向しても、結局は衝突が起こるだけだ。計画経済は歴史の必然ではなく、意図してやらないと導けないものなのである。

【第5章】
・計画作成は民主的な手続きでは追いつかなくなり、専門家支配や独裁を招く

社会主義者の不満は、経済活動が無責任な個人の気まぐれや思いつきに委ねられているということだった。しかし、これこそが「自由」と「計画」を最も明確に分けるものなのだ。

「集産主義、共産主義、ファシズム等々は多種多様であり、社会を向かわせようとする目標の内容はそれぞれに異なる。だがいずれも、社会と資源すべてを単一の目標のために組織化することをめざし、各人の目的を重んじる自主自由な世界を否定する点で、自由主義や個人主義とは峻別される。全体主義という新しい言葉の真の意味において、あらゆる集産主義は全体主義である」(p.220)

個々人の多様な幸福を一つにまとめるような単一・完璧な価値基準が要請される。しかし文明の発展とともに「共通ルール」の領域は縮小してきている。逆に、未開の社会はすみずみまでルールと禁忌が支配している。「共通の価値基準」の導入はこうした流れに逆行するものである。

「重要なのは、一定範囲以上のことを把握したり、一定数以上の人々のニーズを順位付けしたりするのは、人間の手に余るという基本的な事実である」(p.223)

個人主義が依拠するのはこういう基本的な事実である。各人の意見が一致する場合に限って、それが「社会の目標」になる。国家がそれ以上の管理に乗り出せば、個人の自由を抑圧することになる。

計画社会で合意を調達しようとすると非常に数多くの合意を形成する必要があり、議会の仕事がオーバーフローする。全体が統合された総合計画は民主的に作るのには向かず、さまざまな目標を整合的にまとめ上げる作業(細部を詰める作業ではない!)は専門家の手に委ねられる。これは民主主義政体が力をどんどん放棄していくプロセスだといえる。そして、いつまでも計画ができあがらなければ独裁者を求めることになる。

【第6章】
・計画社会では法の支配(一般ルール)が蒸発し、恣意的な統治になる

自由な国では「法の支配」が守られている。政府のあらゆる行為があらかじめ定められ公表されたルールに縛られることである。これによって政府の振る舞いは恣意性を削がれて予測可能になり、個人はその予測に基づいて自分の行動を計画し、自由に目的や欲望を追求できる。

集産主義の計画当局にしてみると、法の支配は当局の権限を狭めることを意味する。豚を何頭飼うとかバスを何台走らせるといった個別の決定は自分を縛るルールから導いたり長期計画で決めたりできないので、そのときどき恣意的な決定をする。自由主義社会が道路標識を設置するところ、集産主義社会はどの道をどうやって通るべきかを指示するのだ。

経済活動において、個別具体的な状況に対応するには、その状況に実際置かれている個人が判断しなければならない。その場合、どう動くとどうなるかというルールがあらかじめ決められていなければならない。国家が計画を担えば担うほど、それは難しくなるし、裁判所や監督官庁の裁量に依存することになる。また、特定の倫理を個人に押し付け、それ以外を排除することにもなる。

「結局は『身分の支配』への逆行にほかならない」(p.254)

【第7章】
・経済「だけ」を他の部分から切り離して計画するのは無理で、必ず生活や価値全般に関して自由の侵害が起きる

計画が影響を及ぼすのは「経済だけ」で、ほかの自由は侵さないという主張にころっと行きがちだが、「お金」という目標は人生の他の価値から切り離せるという考えは間違っている。お金はそれ自体が目的なのではなく、お金の持つ「さまざまな選択ができる力」が好まれているのであって、それが代わりに名誉だ勲章だといったもので支払われたら選択の自由は失われてしまう。お金を管理されるということは、結局「生活のすべて」を管理されることを意味する。

「私たちが『単なる』経済の問題を軽蔑的に話すとき、念頭にあるのは自分にとっての限界部分のことだが、経済計画はそれだけに関与するわけはない。実際には、どこが限界部分なのかを決めることさえ、もはや個人には許されなくなる」(p.276)

計画経済下ではサービスの供給を誰から受けるかが選べない、つまり気に入らない供給者を切るということができなくなる。さらに当局が認めない価値の追求ができなくなる。

さらに、生産者としての自由(職業選択の自由)も失い、当人の希望とは関係なしに「適性」を判断する当局の手駒になるだろう。

「なるほど大方の計画論者は、新しい計画社会では職業選択の自由は細心の注意を払って維持され、むしろ増えるだろうと約束している。だが彼らは、できないことを約束しているのだ。計画を立てようと思ったら、産業や職業への参入を制限するか、雇用条件を規制しなければならない。あるいは両方を規制しなければならない。計画経済を実行した事例のほぼ全部で、いの一番に行われた規制の中にこれらが含まれていたことがわかっている」(p.281)

「あらゆる自由の大前提である経済的自由とは、社会主義者が約束する『経済的心配からの自由』ではない。この自由を実現するには、人々を困窮から解放すると同時に選択の権利を奪うほかない。しかし経済的自由とは、経済活動の自由であって、それは選択の権利とともに必然的に、権利行使のリスクと責任を伴う」(p.289)

【第8章】
・計画社会の公約は平等だが、それが全体に・ラディカルに実現することはない。そこに不満を持った下層ホワイトカラーをファシズムや国家社会主義にかっさらわれるのだ

いま迫られているのは、「誰が何をもらうかを一握りの人間の意志で決める制度」か「各人の能力と意欲、予測不能な要因の入り込む余地のある制度」かだという。機会不平等の是正は必要だが、競争の予測不能性を損なわないなどの条件付きでだ。自由社会の貧しい人(というp.296から数ページの競争礼賛はうーんと思う)

ともあれ、生産を計画に従ってやるだけだというが、分配に手を付けずに生産だけ計画するということはできない。自由の譲り渡しはslippery slopeだというのだろう。

「あらゆる経済現象は密接に相互依存しているため、計画をいったん始めたら、もうよしというところで止めるのはむずかしい。市場の自由な働きが一定限度を超えて妨げられたら、当局はすべてに管理の手を広げざるを得なくなる」(p.301)

国家は個人の位置付けにも手を伸ばすはずだ。

「どんな社会でも、必ず誰かしらは失業したり所得が減ったりしているものだが、それが当局の意図によるのではなく単に不運の結果であるほうが、自尊心は傷つかないだろう。それがどれほど辛いとしても、計画社会のほうがもっと悲惨である。ある特定の仕事に必要かどうかではなくて、そもそも使い物になる人間かどうか、どの程度やくにたつのかを誰かが決めることになるからだ」(p.302)

で、しかも当局は完全な平等ではなく「今よりは平等」を目指しているに過ぎない。金持ちからもっと搾り取れというだけで、それをどう分配するかということには答えない。

「旧社会主義が平等の公約とは裏腹に特定階級の権益だけを強化したことに、不満を募らせている人たちがいる。この連中を取り込むには、新しい階級社会を掲げて賛同者を集め、不満を抱えた階級にあからさまに特権を約束すればいい。要するに新種の社会主義が成功したのは、支持者への特権供与の公約を正当化できるよな理論つまりは世界観を示すことができたからだった」(p.319)

【第9章】
・自由より保証を求めるのは危険である

経済的保証には
(1)深刻な困窮から守るための限定的保証と
(2)各人にふさわしいとされる戸別所得保証=絶対的保証
がある。(1)は市場を補完し、(2)は市場を管理・破壊する。職業選択の自由とも相容れない。あるところからとって別のところに付けるだけで、付けてもらえるセクターが特権化し、それをぶんどるために自由を放棄することも厭わないと思うようになる。職業にも流行り廃りがあり、それを決めるのは誰かではなく賃金や報酬である。

【第10章】
・全体主義では構造的にクズが偉くなる

「さまざまな理由から、全体主義の最悪の要素はけっして偶然の副作用の結果ではなく、この思想から遅かれ早かれ必ず生まれるのだと断言できる。民主的な政治家であっても、ひとたび計画経済に乗り出したら、独裁的な権力を振るうか、計画自体を断念するか、どちらかしかない。動揺に、全体主義を指導する独裁者は、通常の倫理規範を無視するか、政権運営に失敗するか、どちらかを選ばざるを得なくなる」(pp.350-351)

「過去の社会改革者の多くが学んだ教訓からはっきり言えるのは、社会主義というものは、大方の社会主義者が同意しない方法でしか実現し得ない、ということである。古いタイプの社会主義政党は、民主的な理想を抱いていたために歯止めがかかっており、自分たちの使命を遂行するだけの冷酷さに欠けていた」(p.353)

単一の教義を奉じる強大な集団は、主に3つの理由から最低の人間で形成されやすい(!)
(1)教育水準が低く倫理的・知的水準が低いと、同じような意見を大多数が共有する
(2)従順で騙されやすい人は耳元でがなり立てられるとどんな価値観でも受け入れる
(3)人間は建設的なことよりも、敵に対する憎悪や地位の高い人に対する羨望といった非生産的なことで一致団結しやすい

集産主義は排他主義、国粋主義に走りやすい。複雑な世界に開くのは技術的に困難だ(限られた範囲でしか計画を立てられない)からだし、自国民と分かち合うならともかく富を他国民と分かち合おうと考えている集産主義者はいない(フェビアン協会やバーナード・ショーをみよ)。また、権力が目的化する。そして単一の計画が絶対の価値になると、個別の人々は倫理的判断をする余地がなくなり、非人道的なことでもやらざるを得なくなる。ころころ方針が変わっても変わり身早くそれについていかざるを得ない。それができる人が偉くなる。

【第11章】
・全体主義ではプロパガンダで単一の価値を個々人に内面化させる―「自由」という言葉の換骨奪胎、文化や芸術(特に抽象性の高い分野)への攻撃

「異なる知識や異なる意見をぶつけ合うこうしたやりとりがあるからこそ、思想は生命を保つ。ものの見方や考え方のちがいが存在することが、理性を育む社会的プロセスを支えている。このプロセスの結末が予見できないこと、何が思想をゆたかにし、何がそうでないかはわからないことが、大切なのだ。つまり知の進歩というものは、既存の知識でコントロールすることはできない。そんなことを試みれば、必ず進歩を妨げることになる」(p.396)

「集産主義思想は、理性を最上位に位置づけるところから始まったにもかかわらず、理性が育まれるプロセスを正しく理解していないがために、最後は理性を破壊してしまう。ここに、この思想の悲劇がある」(p.397)

【第12章】
・集産主義を主流の座に押し上げたのは社会主義陣営である

【第13章】
・カーが社会主義みたいなこと書いてる
・学者が社会を科学的に組織すべきだみたいなことを言ってる(個人の自由や歴史的偉業を排除できる独裁政権の支持者が科学者に多い)

【第14章】

「かつて人間は、人格を持たない力、陣地を越えた力に挫折感を味わいながらも従っていたものだが、いまやそうした力を憎み、抵抗するようになった。この抵抗は、より幅広い傾向の一部に過ぎない。それは、合理的に理解できないことには従わないという傾向である」(p.465)

しかし、環境が複雑化するにつれて、自分には理解できない要因で欲望や計画が阻まれる事態がしばしば起きるようになる。複雑な文明の中ではこういうものに適応していかなければならないが、分かりやすく攻撃しやすい単一要因に責めを帰すことをしたり、頭の良い人の決定に従う独裁体制に陥りがちだ。そうでない方向性とは市場の力に従うことである。

「物質的制約の下で選択を迫られたときに自分の行動を自分で決める自由。自分の良心に従って自分の責任で人生を決める責任。この二つがそろった環境でのみ倫理観ははぐくまれ、自由な意思決定の積み重ねによって日々試され、鍛えられていく。地位の上の人ではなく自分の良心に対する責任、強制によらない義務感、自分が大切にする価値のうちどれを犠牲にするかを自分で決め、その結果を受け入れる覚悟こそ、倫理の名に値するものの本質だと言える」(p.476)

【第15章】

戦後の国際秩序について、こう述べて「国際的な計画経済」を戒める。

「国家レベルの計画経済はさまざまな問題を引き起こすが、それを国際的にやろうとすれば、問題が一段と大きくなることは必定である」(p.494)

つまり、さまざまな民族が住む広大な地域を管理・計画しようとすれば、一国内でやるより全然ことは複雑になるし、しかもある国には鉄鋼業を割り当て、他の国に諦めさせる、そのために国民を貧しいままに留め置くことに納得など得られるだろうか、と問いかけるのだ。しかも国際的な計画経済の提唱者は自分が計画者になるつもりで言ってるだろうけど、そうじゃないだろう、しかもどんないい人がその仕事に就いたとしても、抵抗にあえばどうせ強権を発動させるはずだ。

それに対してハイエクが期待をかけるのが、中央集権や他国の主権侵害を防げる「連邦制」である。

「…連邦制は、国際法の理念を実現できる唯一の方法だと信じる。なるほど過去には国際行動のルールを国際法と呼んでいたが、これはひたすら願望を込めた呼び名に過ぎなかった。殺し合いをやめさせたいなら、殺し合いはやめましょうと言うだけでは不十分で、それを抑止する権力が必要である。これと同じで、強制力のない国際法に効果はない。国際機関の設立が進まないのは、近代国家が持つ事実上無制限の権力をすべてその機関に握られることを恐れるからだが、連邦制の下では権限分散が行われるので、そうはならない」(p.510)

ただし連邦制の実現の困難さについても自覚している。国際連盟の失敗についても言及している。連邦が世界大に拡大することで戦争を防ぐことは理想だが、それを一気に実現できると期待してはいない。

「世界規模に拡大しようとして失敗したことが、結局は国際連盟を弱体化させた。国際連盟がもっと小さくてもっと力を持っていたら、平和維持にもっと貢献できただろう。[…]たとえばイギリスと西欧諸国、そしてたぶんアメリカとの間には協力関係が成り立つにしても、全世界で、というのはまず不可能だ。「世界連邦」のように比較的緊密な国家連合を、たとえば西欧より広い地域で初めから発足させるのは現実的では内。限られた狭い地域から徐々に拡大していくことは、あるいは可能かもしれないが」(p.515)

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2020年05月11日 22:56に投稿されたエントリーのページです。

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