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ウズベキスタン(7終)

【8/30】

サマルカンドからタシケントに移動し、夜に帰国の途につきます。
未体験ゾーン、モーニングコールが4:30。
お弁当(パン、ジュース、ヨーグルト、水。リンゴは食べきれないまま持って帰ってまだうちの台所にあります)を受け取ってバスに乗り込み、サマルカンドの鉄道駅に行きました。
鉄道駅も荷物のセキュリティチェックがある。そういう国。
駅舎は素敵なステンドグラスがある重厚長大なソ連様式。
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駅での写真撮影が許可されたのも、つい今年からだそうです。
プラットフォームは広い。
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ブハラ発タシケント行きの新幹線的なやつ、アフラシャブ号に乗りますよ。
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どこ製かな?中国?ロシア?とみんなで推測しましたが分からず。
だいたい時速160kmくらい、最高で210kmちょっと出ていたと思います。
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ちなみに画面左のお兄さんが笑っているのは、弊管理人の頭上にあるモニターでやってるコメディを見ているためと思われます。
右のちょっと寝てる女性が、この旅じゅうずっと日本語でウズベキスタンを紹介しまくってくれた超優秀&豪腕ガイドさんです。最終日、朝から咳が出て具合悪そうでした。東部の山の中の出身で、タシケントの国立東洋学大(うろ覚え。確かそう)を出て埼玉の国際交流基金に来て論文を書いたそう。
車内ではお茶とパンが配られます。飛行機みたい。
スタッフを撮影しようとしたら制止されましたが、まあ撮るよね。
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ティムールが戦争に行くときに集合場所にしていた峠「ティムール・ゲート」を通り過ぎ、「8:15ごろ通ります」と言われていたシルダリア川を定刻通り通過(つまりかなり正確に運行しているのだ。えらい)すると、タシケントの街に入ります。名前は13世紀ごろついて、「石の街」という意味。
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午後10時のフライトまでがっつり観光。

まずは日本人墓地のある墓地。
これはまだ日本人墓地ではありません。現地の方々のやつ。
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故人の顔が墓石に彫ってあるのはソ連式なんだって。月のマークがついてるムスリムの方々のも一部そうなってました。ガイドさん(イスラム教徒)に「イスラム教では墓地に幽霊は出るんですか?」と聞いたが分からなかった。逆に「なんで日本では出るの?」と聞かれてそういえばなんでかなと。
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こちらが日本人墓地。抑留者の遺体を埋葬した初代墓守から数えて今はお孫さん=3代目。とてもきれいにされてます。
実は弊管理人の祖父(1912-2003)もシベリア抑留者なのですが、シベリアからウズベキスタンに移送されていたことを旅行直前に家族から聞かされました。
当然というか、シベリアに比べればマイルドな気候で、劇場建設などの労働現場では周辺住民からの差し入れもあったりして、死亡率はシベリアより低かったとのこと。

モスクのトイレをお借りしました。お清め部屋もきれいね。
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タシケントの街には白人が格段に多いと感じます。
スムを使い切るため、コルズィンカ(かご)というスーパーに立ち寄りました。
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これは菓子パン職人のおにいさん。
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結局なんだかんだ合わせて、この旅では7000円くらいしか使わなかった。
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こちらは歴史博物館。
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中に入るとカリモフより一言。
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土地と個人を結びつける分かりやすい国民統合のメッセージ。多文化・多民族が存在する現実と、国家の安定の折り合いをつけようとすると多分こうなる。
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古代風の柱と、美しい国。絵はちょっとアンズの花の季節の長野っぽかったりする。
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当然ながら石器時代から始まって近現代に至るわけですけど、これだけくるくると民族も人種も違う支配者が入れ替わってきたウズベキスタンの歴史って一体何?どこから始まるの?と台湾の故宮博物院を見たときのようなことを思いました。

『60章』のコラムを見ると、「ウズベキスタンではウズベク人が人口の80%を占めている。しかしながら、ウズベキスタンにはその昔「ウズベク」と呼ばれる人々は住んでいなかったのである」と書かれていて何何何?となります。その答えは次のようなこと。

人間集団の名前としての「ウズベク」は14世紀後半のことを書いたティムール朝の史書に出てきて、それは現在のカザフスタン西部にいた遊牧集団のことだったそう。彼らはチンギス・ハンの長子ジョチを君主(ハン)に戴いてカザフ草原に勢力を拡大。1500年にはティムール朝の首都サマルカンドを征服し、もう一つの中心都市ヘラートも攻略してティムール朝を滅亡させる。このときの遊牧ウズベクの移住者は推定24~36万人。その後も流入は継続します。

ちょっと時代を遡ると、もともとこの辺りには8世紀にイスラム勢力が入ってからペルシア語が使われていましたが、そのあとカラハン朝(10世紀)の時代にテュルク族が流入。支配者の言葉だったテュルク語も普及していました。このあとモンゴル侵入を経て、ティムール朝の時代にもペルシア語とテュルク語が併存。テュルク語系の遊牧ウズベクの移住はさらなるテュルク語化が進む要因となったということです。つまり、テュルク語を喋る人たちは遊牧ウズベク以前にもいた。

さて、ロシア革命後の1924年に民族・共和国境界画定によって、「そこにいたテュルク語を母語とする人たち」が「ウズベク民族」とされ、ウズベク民族が多数派の地域がウズベク共和国になった。そしてそこで使われている言葉が「ウズベク語」になった。(ペルシア語の地域はタジク共和国になり、言葉は「タジク語」になった。ガイドさんはタジク語を聞いても「なんとなく分かる」そうです)(pp.77-79)

つまり、「ウズベク民族」は少なくとも、昔からいたテュルク語話者と、ティムール朝時代の最後に入ってきたテュルク語話者の遊牧ウズベクが混ざっていて、しかも現代になって創出されたものだと。遊牧ウズベクに滅ぼされたティムール朝の始祖が英雄になっちゃって主要都市に銅像が建っているのものもわけがわからないが、むしろ「ぐちゃぐちゃだから何をシンボルにしてもいい」のかもしれません。
ティムール朝の人気も、滅亡後だいぶたった18世紀の経済衰退期に始まったが、ソヴィエト政権下では民衆重視・為政者否定の中でティムールの地位は低下し、ソ連崩壊後にやっと復権する、という浮き沈みがあったとのことです。

テレビの発明もウズベキスタンですからね、という展示。
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あと、スターリン時代のことはやはり相当恨んでいる印象。
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1920年代のソヴィエト政権はイスラムの「後進性」を廃して一夫多妻をやめさせ、女性のヴェールを脱がせ、イマームを逮捕し、ラテン文字を使わせ、民族知識人を抑圧。スターリン体制ではコルホーズ導入、富農の追放、棉モノカルチャーと「赤い植民地」化、大テロルによるウズベク共産党や知識人の大量粛清による文化の継続性喪失、戦時中の朝鮮系ロシア人の沿海州からの大量移送など、いろいろひどかったらしい。

しかし「ウズベク人がソヴィエト政権を支持し受益者となったり、時には同胞の抑圧に手を貸す加害者の立場にもあったという問題に触れることは、ペレストロイカ期と比べてむしろ困難になっている」(『60章』pp.100-105)。『イェルサレムのアイヒマン』を思い出します。

うちのじいちゃんも建設作業させられたらしい、ナヴォイ劇場。
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周りはドングリの木がいっぱい。実を少し拾って帰ってきました。

そういえばここまで、たびたび名物と聞いていたプロフ(ピラフ)食べてないなーと思っていたら、お昼がそれでした。
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ものっすごい大皿で出てきて4人くらいで取り分けます。上に載ってるのは牛肉、丸いのは馬。よく知ってる人に言わせると「かなり上品なプロフで、もっと悪いやつは油でギットギト」とのことです。
おいしかったのでかなり頑張って食べましたが、それでも半分以上残った。
みんなそこはかなり呵責を感じるところで、しかし「残飯は牛のエサになるから食品のゴミというものは出ない(ついでに、それゆえ駅のゴミ箱などに紙ゴミと残飯を一緒に入れると怒られる。気をつけろ)」というガイドさんの説明を信じて忘れることにしました。
あと、こちらはラグマンといううどん。沖縄そばみたいな麺です。
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朝が早かったこともあって、このあと弊管理人は日本庭園を夢うつつで歩き、バスの中で意識喪失します。
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花が咲いてますね、くらいしか覚えてない。

しかしおかげで、チョルスー・バザールを見る頃には復活して元気になりました。
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文房具(新学期を前にしてかなり賑わっていた)、スパイス、雑貨、乳製品など細かく区画が分かれていましたが、やはり肉が壮観です。温まった生ラムのような匂いが充満してます。
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では地下鉄に乗りましょう。青いトークンを改札口に投入してホームに入ります。
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説明が丁寧。
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無骨な車両です。
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中は東京の地下鉄より広い感じ。日本人は乗るとまだまだ異物感を醸す。
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人が来るとすぐにシートが譲られます。
地下鉄駅ごとにコンセプトが違う装飾がされていて、それらがとてもきれい。
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ティムール朝の政治家・詩人ナヴァーイーのレリーフとったらセキュリティ機器も入っちゃったい。まあいいか。
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しかもこれも今年になって撮影解禁になったというのがまた。
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さて、この駅を出ると最後の観光地です。
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大統領府のある広場、かつてレーニン像があったラスボス感のある場所には子どもを抱く母親の像があります。第二次大戦中に疎開してきたロシアの子たちを受け入れたウズベキスタンの象徴。上にある地球儀にはウズベキスタンだけが彫られているとか。
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マックもスタバもない、しかし各所の撮影規制を緩めたミルジヨーエフ(←外務省表記を調べたらこうだった)新大統領のウズベキスタンはこれから観光に対して開かれていき、変貌していくのでしょうか。あるいは、やはり国をある程度閉じておくことにメリットを感じていて、少なくとも経済は引き続き中で完結しようとするのか。

空港に向かう前、最後の晩餐。
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いや、それにしても今回、パック旅行でよかった。そして楽。プロが全部やってくれるというのは楽。金額だけ見れば決して安くないけど、自分でアレンジしたとしても、同じ内容でこれより安くできない気はする。

パック旅行の客層も面白かった。

会社で結構いいところまでいってリタイアした風の亭主関白系ご夫婦3組(うち2組はビジネスクラス)、パックで世界を回っているらしい値切り魔のおばさん、「イタリアやフランスみたいに沢山の箇所を自分で回りたい時は自分で組むか、専門の旅行者でコースを作ってもらう」という旅慣れたおかーさん(添乗員さんも持ってなかった爪切りをお借りしました。こういうものを旅に持ってくるのも旅慣れてる感じ)、写真とりまくり一人旅おじさま、イスラムに詳しい知識階級っぽい謎のおじさま、東欧駐在経験があり40年とかのスパンで仕事で何回か訪れたウズベキスタンの最近の様子を見に来ようと思ったが、妻に先立たれ、友達を誘ったけど来てくれなかったため一人旅になってしまった元国際協力系?おじさま。
あと、厚かましいお嬢さんがそのまま年を取った感じの暗いところでフラッシュ撮影しまくる痛いおばさんは集団の不安定化リスクとみていたが、結果そこまで顕在化しなかった。誰だか忘れましたが「パックに慣れると抜けられなくなる」との金言もいただきました。

旦那も娘も婿殿もついてきてくれないマダムなどはピンでこういうのに参加しているうちに同じ境遇の仲間を見つけて、次の旅には連れ立って出掛けるらしい。

タシケント22時発、寝たり起きたりしているうちに7時間ちょっとで成田に着きました。
タジキスタンから同じ便で来て、右も左も分からないのにクルーズのため横浜港に行きたい(しかもドクターというわりに英語もほとんどできない!!!)という無謀なおばさん2人に捕まり、いろいろ書いて教えたりリムジンバスに乗っけたりしているうちに、旅の間ずっとメモをとっていたメモ帳をどこかでなくしました。
29日分まではPCに打ち込んであったので、失われたのはこのエントリー分だけで助かった。カメラのSDカードが一瞬不穏だったこともあり、バックアップ大事大事。

いやあ楽しかった。誰か連れていけばよかった。おしまい。

(9月8日記)

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2018年08月31日 23:59に投稿されたエントリーのページです。

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